2018年9月19日水曜日
何が何に立ち向かっているのか――おまえは誰か
監督・脚本:原田眞人『検察側の罪人』を観た。エンターテインメントを謳いながら、これだけのモンダイをぶち込んで展開してみせるかと思うほど、盛りだくさん。切りとり方によっていかようにも読み取ることのできる仕掛けに、世の中と人間をみる厚みに感心しながら、楽しんだ。と同時に、ああおもしろかった、で終わらない残渣が心裡に残る。それは、「罪人」というのが、じつはおまえではないのかと問うているように思えたからだ。
2018年9月17日月曜日
逸れる視線――見るということは見られるということである
東京都美術館に足を運んだ。院展。斯界の権威の象徴のような展覧会だが、一人お目当ての絵描きがいる。高橋俊子。いくつの方かはわからない。どんな経歴を持っているかもわからない。今年の4月に、三越本店で行われた春の院展の、彼女の作品『生きる』を見た。その印象を次のように綴っている。
2018年9月16日日曜日
環境に生かされる
北海道胆振東部地震からはや十日。停電がなくなったとはいえ、余震も続く落ち着かない日々に身を置く、古い友人に思いを馳せる。地震の後「見舞いメール」を送った。その後に、千葉在住の同窓のMさんから、次のようなメールが届いた。
2018年9月15日土曜日
わが身とリズムの全体主義
朝、ラジオ体操をする。軽いピアノに合わせてゆっくり体を動かしていると、緩やかにほぐれ、身体が伸びてくる。うん、心地よいと言ってよい。その時、ふと思ったのは、この、リズムに合わせて体を動かすというのは、全体主義ではないかということ。なんというか、周囲の人たちと共感し、身に降りかかるリズムに共振する。これが快感であるのは、人類がもつ「共感性」「共振性」の身体反応ではないのか。
2018年9月13日木曜日
里山を徘徊する
昨日は、山の会の「日和見山歩」。「比企の低山を歩く(2)」と題する軽登山というか、ハイキングの日。ここしばらく、家庭の都合や身体的な事情で山歩きに参加できなかった方々が集まり、さながら半年ぶりの同窓会のよう。チーフリーダーはokdさん。前回の「比企野低山歩き(1)」で道を踏み迷って思わぬところに下山したこともあって、名誉挽回の{2}と称していた。奥武蔵の比企地方。1000mに満たない山が秩父地方の流れを引き継ぐように峰を連ね、「外秩父」と呼称する地域だが、「低山歩き」は、さらに低い、標高300m前後の散歩道とあって、しばらく休んでいた人たちもリハビリ・ハイキングと軽く構えて顔を出した。
2018年9月9日日曜日
わが身が知らせる「自然」の屈曲点
今日は、菊の節句。でも、このところの、中四国大洪水、台風21号被害、北海道胆振地震の報道が相次ぎ、二十四節季の感覚も節句を祝う心もちも、すっかり消え失せている。気候、気象の変動は、報道があるかないかにかかわらず私たちの季節感覚に作用し、「何百年に一回」とか「過去に経験したことのない」という表現が、毎年、毎月起こるような出来事として私たちの身体に刻まれていっているような気がする。その受けとめている身体感覚を身の裡の方へ探索してみると、異常が常態化する転換点を超えたのではないか。そう思えてくる。
2018年9月8日土曜日
「世界」に認知してもらいたい「わたし」の怖さ
「ささらほうさら」の夏合宿で用意されていたが、(時間がなかったために)それをめぐって言葉の交わされることのなかった「資料」のひとつに、《「ファシズム」学生ら体験》という新聞記事があった。神戸・甲南大学の歴史社会学の田野教授が行った「特別授業」のドキュメント記事だ。2週にわたって行われた2回目、白シャツとジーンズという「制服」が指定され、笛に合わせて床を踏み鳴らし、教室での行進、敬礼して「ハイル、タノ!」と声を出す。キャンパス内に繰り出し、(演出のためにそこにいた)疑似カップルに、授業参加の学生たちがどう対応したか、その自身の行動をどう感じたか、などを取材して報道している。場を踏まえるごとに(疑似カップルを糾弾する)声は次第に大きくなり、逃げるカップルを追いかけるように、振る舞いも「本気度」を増している。参加した学生のリポート。
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