2021年9月14日火曜日

やってみなけりゃ分からないこと

 先日、カミサンをさいたま新都心へ車で送っていくとき、一時停止違反をしてしまった。「えっ、止まったよ。」

 と私が言うと、その若い警察官は

「ええ、タクシーが来てたから止まったのは見てました。その前のところです。」

  と、100mほど前の、少しカーブして来る道との出合いの地点のことをいう。これまで何度も通っているが、気がつかなかった。

「あそこは止まれだったの?」

「ええ。そうです。」

 送り届けるカミサンの時間が迫っていたので、警察官のいうとおりに書類手続きを受け取り、罰金も支払った。後日、同じ道を通ることがあって、一時停止の看板があることを確認した。概ねまっすぐなこちらの通りをメインと思い込んでいたから、表示に気がつかなかったのだ。

 ところが、ひと月以上もたった頃、「臨時認知機能検査通知書」というのが送られてきて、県の中央部にある「運転免許センター」へ(指定の日時に)来て、検査を受けるようにと通知を受けた。イヤだけれど、やらざるを得ない。高齢者は、違反の罰金に加えて、こうした余分なチェックを受ける、罰則がある。

 それに、昨日(9/13)行ってきた。県の中央部、鴻巣市にある「免許センター」までの車の時間をネットで調べると、1時間2分とある。でも国道17号線の上尾の通過は、いつも混雑している。30分は余裕を見て、家を出発した。ところが朝ということもあって、交通渋滞は、上尾へ行くまでもずいぶんと続いていた。分岐のところで、センター到着予定時刻が、集合時刻を15分もオーバーしている。しかも、naviの案内は、上尾を通らず菖蒲町を通過する裏道を案内する。そちらの方へのトラックなどが渋滞気味に並んでいたので、上尾への道に切り替える。

 ところが案に相違して、こちらの方は、下り線ということもあるのか、スムーズに流れている。naviの予定時刻は、一般道は時速30kmで計算するようにして算出している。17号線は時速60kmで流れているから、順調に到着時刻が縮まり、10分前には到着できると表示された。やったあ。これで、間に合う

 ところが、主要道を外れてから、田んぼの中を案内する。そうしてついに、周りは全部田んぼというところで「目的地周辺です。案内を終了します」と、naviは終了宣言をしてしまった。おいおい、こりゃあ困るよ。

 近くで畑仕事をしていた人に聞く。戻ってローソンの角を右へ曲がれば分かると、教えてくれる。戻る。北の方に大きな建物が見える。あれだ、とそちらへ向かう。大きな駐車場に車を止めたときが、すでに集合時刻。受付は4階。エレベータで上がり、人がたくさんたむろする広いロビーを眺めると、机を置いておじいさんが片付けに入っている。私の姿を認めると名簿をチェックして、

「よかったよ。あと一分遅かったら、ここも片付けちゃったからね。ああ、急がなくていいよ。もう説明は始まっているけど、慌てなくていい。経費の750円を用意してね」

 といいながら、建物の奥へと案内する。そこで経費を納め、説明している会場へと向かう。中年の女の方が説明している。免許証を渡し、指定の席へ座る。時計を外し、ボールペンを出して説明の方へ集中する。ここからあとは、一年前とほぼ同じだ。

 すぐに検査に入り、30分足らずで検査は終了し、その採点とそれの発表とその後のことについて、私を案内したおじいさんが言葉を加えて、終了した。入室から終了まで1時間半。読みかけの本をあらかた読んだ。検査結果は、一年前と同じだった。

 そのおじいさんに、「この免許センターはいつ建ったの?」と尋ねる。昭和63年というから、32年も前のことだ。私の車はまだ購入して7年だから、いかに古いnaviデータでも、狂いが出るわけがない。じゃあどうしてなのか。疑問符を残したまま、帰途につき、順調に走ってお昼ちょっと過ぎに帰宅した。

 車の走行時間のこと、免許センターの位置のこと、naviの誤案内のこと、それもこれも、やってみなければ分からないことばかりだった。なんとか滑り込みセーフの態であったが、危うかった。昔のように、地図をきちんと見てどこを曲がると事前に確認していれば、問題なかったのにと、これまた反省をしている次第。やはり私自身が、変わってきたのかな。

2021年9月13日月曜日

独りぼっちの不安

 昨日のつづき。「独りぼっちになる不安」とはなんだったんだろう。

 それまで何もかも親任せにしてきた「暮らしの基本」を自分で取り仕切らなくてはならないという「不安」を感じていたわけではなかった。賄い付きの下宿だったこともあるが、そうした日常的なことにさほどの価値を置いて、自分の暮らしをみていなかったからだ。じっさい、大学在学中、特別奨学金を受けていたのだが、どうやってそれを受け取っていたか、思い出せない。当時銀行に口座を持っていたわけではない。郵便局に定期的に受け取りに行っていた覚えもない。多分当時の大卒の初任給の6割くらいに相当する多額を、どうやって受け取っていたのか忘れてしまうほど、日常の「暮らし」に価値おいて受け止めてはいなかったとだけは言える。むしろ、田舎と都会の暮らし方の違いが圧倒的であった。

 お恥ずかしい話だが、公衆電話を掛けようとして、どうダイヤルを回したらいいかわからず、電話ボックスのドアを開けて、通りかかった人に電話番号を見せ、どう回したらいいか尋ねた覚えがある。電話番号の「×××-****」のダッシュがどこなのか分からなかったのだ。アメリカ映画を観ているとダイヤルが二つついていたのを使い分けると思っていたのに、それがない。田舎の電話は、ぐるぐると電話機の横についたハンドルを回すと交換手が出て、「何番をお願いします」というと、つないでくれるという旧式であった。あるいは、食堂に入ったとき、お皿にご飯も盛り付けた洋式にナイフとフォークが添えられていて、戸惑ったこともあった。そのときは一緒にそのお店に入った同学年の友人が、器用にフォークの背にご飯をのせて口へ運ぶのを真似はしたものの、文化的な落差にショックを受けた覚えがある。

 こうした文化的なショックは、その後いくつも体験することになるが、「独りぼっちになる不安」は、そうした文化的な落差に対応することへの不安も、混じっていたとも思える。学校では同じ教科を学び、同じ試験を受けはしたものの、過ごしている環境とか考えていること、用いる言葉の抽象性などは、ちょっと想像もつかないほどの落差を感じさせ衝撃的であった。それまで、それなりに本を多く読んできたという自負を持ってはいたが、そんなものはいかほどのものでもないと突きつけられたようであった。

 こうも言えようか。初めての山歩きのようなもの。おっかなびっくりでバランスをとり、難所を通過する。岩場にとりつきながら、ルートを探す。もし先行者が一人でもいれば、それについて行けばよい。前を歩く人が言ったところであれば、私もいけると見当をつけることはできる。その水先案内人がいないことの不安が、東京へ出てきたときに私が抱いた「独りぼっちになる不安」だったと言えるように思う。

 それはたぶん、その後の自律の動機となったし、ほかの人との違いを認知し、自分がそう感じたり考えたりしていないのは、なぜだろうと自問自答する最初のステップともなった。その「違和感」は、その後氷解するどころか、ますます大きくなり、後期高齢者になった未だに続く私のクセとなった。クセにまでなってみると、「独りぼっちになる」ことは何の不安もなく、むしろ当然となった。他人と対立し、口も利かなくなってついには断絶するということも、なんの苦もなくやってしまうようになった。

 そこまで考えてみると、「独りぼっちになる不安」というのは、それまで水先案内人とか先行者がいたりしたことの残響ではないか。とどのつまりヒトは独りで生きて行くものだと思うようになってから、「不安」が消えた。それがいつの頃からなのか、もう思い出せないが、そうした諦念は(悟りを開くように)一挙にやってきたのではなく、あれやこれやを経験していくことによって、緩やかに身にしみるようにかたちづくられてきたと思える。

2021年9月12日日曜日

仁慈の心と出撃拠点

 もう60年と半年も前のことになる。東京に出てきて、一人暮らしをする準備を、じつはことごとく長兄の世話になった。兄はその翌月から大阪の勤務になっていたから、彼の下宿をそのまま引き継ぐように私は移り住むことになった。下宿のあった北区西ヶ原四丁目へは、駒込の駅から染井通りを抜けて10分ちょっとだったろうか。東京外語大学の裏手に位置する住宅の立ち並ぶところにあった。下宿のおばさんは小学生の姪っ子の世話をしている気さくな方。兄は、部屋の掃除の仕方、水洗便所の使い方、食事のときの作法など、細々と教え、それらは私にとっては、岡山の片田舎と東京の文化の違いを乗り越えていかねばならないハードルのように感じられ、身が引き締まる思いがしたものであった。

 二階の隣部屋には(兄と顔見知りの)外語大の4年生が住んでいて、シューベルトの冬の旅が一番のお好み。バッハやモーツァルトの音盤を掛けて聴かせてくれて、これもまた、文化の大きな違いを感じさせた暮らしの出発地であった。

 いや思い出したのは、下宿に落ち着き、兄が赴任地へ赴く3月の下旬。駒込駅まで見送りに行ったときのこと。

「じゃあ、元気でな」

 と、兄が手を上げて改札口へ向かおうとしたとき、なぜか突然目から涙があふれ出した。行きかけた兄は、引き返してきて私の肩をたたき、

「大丈夫だよ。心配ない。やっていけるよ」

 と、言葉を足して、改札口を通って振り返り、ふたたび別れの手を上げた。

 あのときに溢れてきた涙は、生まれて初めて「独りぼっちになる」ことへの不安だったのだと、いま思い返している。

 考えてみると、生まれてそれまでの18年間、いつも兄弟に囲まれていた。それは同時に、兄から弟への慈愛に満たされて、何の不安を抱くこともなく世間と向き合うことのできる私の出撃拠点でもあった。しかも、一度も慈愛を受けているという風に、我が身を対象化することなく、ごくごく自然なことのようにもたれかかって生きてきた。そうした自分の立ち位置が、兄に「じゃあ、元気でな」という言葉を掛けられた瞬間に、分かったのであった。引き返してきたときの兄の言葉は、その私の胸中の揺らぎを瞬時に見て取ったものだったろうが、そうか、あれこそが「慈愛」であったと今朝方の夢で思い出されたのであった。

 あのときの出撃拠点とは、田舎と東京との文化の違いに向き合う拠点であり、これから独りで学生生活を送る自律の足がかりであり、「大丈夫」というのは、それだけの生育歴を身につけてきているはず、狼狽えずにちゃんと向き合って行けという激励であった。それこそが、兄が弟に向けた「慈愛」。

 三男坊の私は普段、すぐ上の次兄にくっついて遊んでいた。次兄はいろいろと工夫をして遊びをこしらえ、年上の仲間たちの間に私を入れて、面倒を見てくれていた。兄の情景にいつも浮かぶのは、次兄。長兄は、もう一段上の世界に位置して、三男坊の私からみると手の届かない文化世界を生きているエリートに見えた。ことに高松から海を渡った玉野に移ってきて、方言の違いもあって学校で孤立してからは、私の文化の吸収先は、もっぱら二人の兄に依存しっぱなしであった。と同時に後に、それが世間と向き合う根拠地となったと、いまならば言える。

 その長兄が生まれて、ちょうど今日で、84年目。すでに故人となって7年になろうとしている。夢枕に立ったのか。

 大丈夫だよ、まだ、やっていってるよ。

2021年9月11日土曜日

二十年という歳月と身の記憶

 ニューヨークの貿易センタービルに飛行機が突入し崩落するのを観てから20年。あのとき私は「あ、これは戦争だ」と思った。どういうところに身を置いて、そう思っていたのかと、今振り返っている。

 印象的だったのは、団塊世代の数学教師が特撮映画でも観たように、大声ではしゃいでしゃべり回っていたことだ。そりゃあ、ちょっと違うだろうと私は、出来事の象徴性に身を寄せて白い目を剝いていた。出来事の象徴性というのは、上り調子のアメリカ経済の突出した象徴である貿易センタービルに、同様にアメリカのそれを象徴的するジャンボジェット機が二機も突入する。ハイジャック犯が自爆するというよりも、アメリカの誇る物的隆盛が自爆するという構図。

 その出来事の動的誘因となったテロリストたちが起点とした鬱屈は、見えていない。でも私はそれを感じていたと、今でも思う。なぜか。多分私の身の底に、1945年の空襲におびえながら逃げ惑う気分が刷り込まれているからだと、そのときよりさらに半世紀以上前の幼い我が身の体感を振り返っている。はしゃいでおしゃべりする数学教師と私とは、その身に刻んだ記憶が違う。私は、バブル時代の暮らしそのものになじめなかった。経済的な贅沢に、つねに居心地の悪さを感じ続けていた。

 こう言い換えることができようか。

 そこまで怨恨を募らせたテロリストたちのみている現実世界。そういうことを別世界の出来事としてのほほんと暮らしている私たちの日常との象徴的衝突。それでいいのかと我が身が我が身に反省を迫っている、と。その自問自答の視覚化されたのが、貿易センタービルの崩落ではないか。これは戦争だ、という直感は自分が自らの60年近い径庭(のもたらしたこと)へ仕掛けた戦争ではなかったか。

 二十年たった今、アフガンからの米軍の撤退という出来事を目にしている。アフガンにアメリカが介入するコトの始まりは、ソ連のアフガン侵攻にあった。そのソ連軍に抵抗する勢力の一つがタリバンであり、ロケット砲などの装備を(裏から手を回して)提供していたのがアメリカだったことは周知のことであった。そしてソ連が撤退し、アメリカの援助装備で力をつけたタリバンがアフガニスタンの主導権を握り、テロリストの巣窟となった。そして、アメリカへの攻撃である。まさしく、アメリカの所業がアメリカに戦争を仕掛ける象徴的な出来事となった。

 もちろんそれは単純に、アメリカの自業自得よと言って済ますことのできるモンダイではない。アメリカの暴力装置が全世界に配置されていることによって保たれてきた「平穏」というものに、全世界が依存してきた。世界はそのように絡み合っている。だから、イスラムのテロリストたちが考えるほど「敵/味方」が截然と分かたれているわけではなく、彼らの存在が抑圧し募らせている怨恨があることを、かれらもまた現実世界のこととして受け入れなくてはならないのだと思う。因果はめぐる風車、である。

 二十年経って振り返ってみると、物はすっかり復元している。記念碑的に置かれていても、それはコトを忘れてしまうヒトのクセに対する警告、あるいは忘れていいよという代替。めぐる因果の先に、逃げ惑うアフガンの人たち、飛び立つ米軍の輸送機にしがみついて振り落とされる姿が見える。貿易センタービルの中にいた人たち、ジャンボジェットの乗客であった人たちと重なっている。それこそを、忘れては困るよ。そう感じる。それを忘れると「戦争」さえなかったことになってしまう。私の人生の起点となった身の記憶が、違った意味で「戦争」を呼び起こしている。

2021年9月10日金曜日

季節のせいか復調の兆しか

 このところ気温が下がっている一昨日(9/8)は、雨も落ちず曇り空。東松山の国立武蔵丘陵森林公園へ出かけた。植物案内の師匠が同行。だが私はどのくらい歩けるかが主眼。4時間を目指している。もちろんゆっくりでないと草臥れる。植物案内というおまけがついていると、頭は素通りするが、テンポはのんびりになる。

 コロナ禍になって何度かここに足を運んでいるが、それでも全部のルートを歩いたわけではない。どこへ行こうと「抜け道あります」と具合がいいから、おおよその自分の位置を頭に描きながら、ついて歩く。師匠は、この森林公園を探鳥や植物観察のフィールドにしている。にもかかわらず、全体像が頭に入っていないのか、細かい自分の現在地が跳んでしまうのか、今どこにいてどちらへ向かっているかがわからなくなる。つまり、山歩きのGPSのような役割をする私の出番もあるというものだ。

 師匠は、気ままに歩く。これといって当てがあるわけでもないから、メインの舗装路ではなく草をかき分けるような踏み跡をたどるルートをとる。だから私も、初お目見えの道に踏み込むようになる。それは、面白い。何が面白いのだろう。初めて通るという感触なのか、どちらを見ても、昨日までの雨を吸った草と木がびっしりという環境なのか。でも暑くはない。半袖の私は、ちょっとしまったと思っている。蚊がいる。心得たもので、師匠は長袖。私は、つい公園という言葉にだまされて(そうではないことが分かっているはずなのに)、半袖にしてしまった。時々、ペチペチと腕をはたきながら、歩く。

 前方を、鳥観の一脚望遠鏡を抱えた方が横切る。その人のあとへ、うんと距離を置いてついて行く。池や大きな水たまりや庭園風に設えた蓮池へ出る。「トンボ公園よ」と師匠はいう。ショウジョウトンボやシオカラトンボ、イトトンボが飛び回っている。と、アラサーの男が私のカメラを見て「撮ってくれ」といって、庭園中央に設えられた風通しのよいお休みどころに座って待つ。カメラのシャッターを押して「送ってあげるからメールアドレスを教えろ」というと、「スマホを手放してしまった。鶴ヶ島に住んでいる」とちょっとおぼつかない日本語で話す。「じゃあ今度、ここであったらね」と師匠が横から口を出す。師匠の脇には、先ほどの鳥観の望遠鏡男がいて、アオゲラはいるが、アカゲラは山へ帰って行ってると話している。あとで聞いたが、その鳥観男が「あまり相手にしない方がよい」と師匠に言ったという。話しかけて、お金をせびるようなことをしている、と。う~ん、彼の異国人も苦しいんだなと、チラリと思う。

 ジャコウアゲハが目の前を舞って、すぐにそれを忘れる。ウマノスズクサに卵を産み付ける、ほらこれよと教わるが、その脇の大きな葉とどこが違うか、分からない。関心がないから、目がとまらないのだと、我が身のふがいなさを知る。

 大きな池にかかる吊り橋を渡る。水気をたっぷり含んだ樹林を抜ける。これがガンクビソウ、こちらは仲間のヤブタバコと、歩きながら目にとまる草の名を次々と師匠は口にし、ときどき私はカメラに収めるが、そのうちふ~んと聞き流すようになって、門前の小僧からも降りてしまう。

 おや、もう2時間も歩いている。肩の強張りは、感じない。今日は調子がいいようだ。そろそろお昼にしようと、広い親水公園へ降りてゆく。テーブル付きのベンチが何十脚も置いてあるが、まばらに年寄りが腰掛けて食事にしている。貸し自転車の修理点検をしている若者が二人、向こうの方の動きを引き受けている。

 15分程でお弁当を済ませて、再び歩き出す。向こうの方で、キ~ッ、キ~ッと笛を吹くような声を出して、幼い子どもが抱き上げる親に逆らっている。2番目の孫がこういう声を出して泣いていたなと思い出す。師匠は「ああ、あの子は眠いのよ」と平然としている。池が広がる。そちらにお目当ての鳥がいるかどうか見に行こうと師匠の足が向く。私は、こちらを歩いたことがない。

 先ほどの奇声を発していた子が、父親にあやされて、まだ泣いている。「すみませんねえ。眠いんですよ」と親が恐縮して、私に声を掛ける。「いえいえ、たいへんですね」と言葉を返す。

 池に7羽くらいのカルガモが群れて泳いでいる。この夏前に生まれたご家族さまって感じ。おっ、カイツブリがいたと師匠が指をさす。イソシギがパタパタと細かく羽を動かしながら、右から左へ飛び木陰に入った。うしろから、とことこと駆け寄る足音がして振り向くと、先ほどの奇声の子が、ニコニコ笑いながら駆け寄ってくる。やあ、元気になったねと声を掛けると、後ろから来る父親の足の陰に身を隠す。

 行き止まりかと思った池の縁から、樹林の中の斜面を登る道があり、師匠は勝手知ったるところのように、上っていく。中央口近くのレストランに出る。以前この近くのベンチに座ってお昼を摂ったことがあった。ということは、引き返すルートに入っている。ま、いいか。それくらいの時間ではある。公園の向こう1/3ほどを残して、帰途についているが、それでもあと1時間半はかかるだろう。

 どこにいるのか分からないという師匠を、私が案内して、「野草園」へ向かう。秋の七草の案内をしているが、「晩夏の花」も何十種と見かけた。ナンバンギセルとかノハラアザミがきっちりした輪郭を見せて鮮やかであった。ヤマハギとかシラヤマギクが楚々として花開いている。ゴンズイ、ウメモドキ、ヨウシュウヤマゴボウなどの木の実も、まさしくたわわに実って、秋到来を告げている。カメラに収めたのが60種以上になる。これらも、師匠が口にするから耳を通るが、すぐに抜けてしまう。

 粘土質でぬれて滑りそうな斜面を用心して歩いたりしながら、車に戻ったのはほぼ2時。見込み通り、4時間の行動時間となった。肩のこりを感じない。涼しかったせいだろうか、それとも、我が身が回復の兆しを告げているのであろうか。

2021年9月9日木曜日

「とき」の原点、重陽の節句

 今日は九月九日、重陽の節句。なぜ奇数を陽数といい、偶数を陰数といったのか私は知らない。旧暦が月齢を基準としていたことからすると、目で見て判別できる月齢こそが、「とき」を知る手がかりだった、目で見えるものを陽、見えないものを陰と考えたとみてとれる。でも太陽も、日々見えていたではないか。単に目に見えるかどうかではない。「とき」を刻むとは、目に見えないことが(後付けになるが、文字通り時々刻々)変化していること。一日という「とき」は太陽で見極められるが、ひと月という「とき」は太陽で見極められるだろうか。一年という「とき」は何によって見極めることができるか。次元の違う「とき」の指標を組み合わせることによって目視化するということは、その指標となること自体に「違い」が見て取れる必要がある。だから、月齢となった、と「とき」の原点に興味がそそられる。言うまでもなくそこでいう「違い」とは暮らし方に由来するものでなくてはならない。

 一日の「とき」は、太陽の動きが明白に示す。夜が来て、朝が来る。それを一日とするというのは、とらえやすい。同じ日々が経巡るなら、それだけで支障はないが、ひと月とか一年という、少し広い単位で「とき」の巡りをとらえようとすると、何を目に見える指標とするか。農業を生業とするか商業を営んで移動しているか、ノマドのように遊牧生活をしているかによって、目安にする事柄は違ってくる。

 太陽暦発祥の地とされるエジプトでは、ナイル川の氾濫を目安にしたらしい。そして、1年を365日と定めたのだが、微妙にずれが生じることに気づいた。天体の明るい星シリウスに着目すると、ずれを生む端数が分かり、「閏年」を用いて補正をした。さらに補正を精確にした太陽暦をローマ法王グレゴリウスが定めたというのが、現在用いられている太陽暦だ。

 他方、現在も太陰暦を用いているのは、サウジアラビア。これは、月の満ち欠けを目安としたことから、355日とされている。砂漠を旅するアラビアの商人たちは、灼熱の太陽よりも涼しい夜に移動する際に目にする月の満ち欠けを好ましく思っていたのかもしれない。太陽暦の365日+αと月齢の29.5日+βとのつじつまを合わせるというのは、地球の周りを公転する月と太陽の周りを公転する地球との、ずれを数値化して、計算式を考えていくことになる。世界がグローバル化したことによって、それが必要になった。その観察が目視によって行われていた人の力に、恐れを抱かないではいられない。

 いま私たちが知る「旧暦」というのは、東アジアで用いていた太陰暦。いまは「太陰太陽暦」と呼ばれ、「月の変化」と農業に必要な太陽の動きとを両方取り入れ、「閏月」をいれて太陽の動きとの間に生じる差を埋め合わせるようにしていた。紀元前1300年頃の中国の殷代ですでに採用されていたというから、日本には、おそらく中国(あるいは朝鮮)を通じて入ってきたものであろう。

 奇数を陽数といい、偶数を陰数と呼ぶのは陰陽五行説に由来すると思われる。なぜ、奇数が陽数で、偶数が陰数なのか。紀元前3000年頃に成立したとされる陰陽五行説に踏み込めば氷解するのかもしれないが、今私の関心の距離は、そこへ踏み込むまでには及ばない。

 ただ、陰/陽に関する好悪の判断は、陰陽五行説には含まれていないと、私のか細い陰陽五行説知識は訴えている。陰と陽、闇と光なども、二項対立するというよりは、相補的に世界を構成しているとみていた。あるいは五行説の「木・火・土・金・水」も、ある種の生態系を構成するように、相互牽制的であると同時に相互依存的であり、善し悪しを超えてそれらの連関によって世界が構成されているとみていたという「自然観」だと受け止めていた。

 だからそれらの二項が善悪二元論のように対立的に位置づけられた価値観は、ユダヤ教やキリスト教という絶対神に依る「自然観」が働き始めてからではないか。つまり、遙かに後世のもので、陰陽五行説のころには、今(日本の)私たちが抱いている、陽を良しとし、陰を悪しとする印象論的価値観はついていなかったのではないか。その片方(いまの時代に悪しとされることの実在)を視野に入れて受け入れる感性こそが、エコロジカルな視点を組み込んで原点に迫り、重陽の節句という移ろいに人生を重ねて言祝ぐ道筋をつけるように思うのだが、どうだろうか。

2021年9月8日水曜日

明晰と混沌の動態的システム

 コロナウィルスの感染拡大が高止まりとはいえ落ち着いているのに、重症者数は増え、自宅療養者数が相変わらずなのはどういうことか。「事態」は混沌としているように見える。今月のseminarを開催するかどうかを見極めようと、探っている。一つ、腑に落ちる解説をみつけた。

 PCR検査が追いつかないか、クラスターをチェックすることに熱心でなくなったというのである。つまり、保健所や行政機関を通じて検査されていた「上からのPCR検査」が消極的になり、発熱や呼吸困難など症状が出た人が診療所(クリニック)で診てもらって感染していることがわかる「下からのPCR検査」の数値がもっぱら公表されているのではないか、という。すなわち(検査をしない)、無症状の感染は拡大している。実態がつかめない。TVのコメンテータを務める専門家は、したがって、感染者数は減っているように見えるが、ほんの一週間後には再び増加に転じる可能性があるから、ワクチン接種を終えていても感染防止は怠りなくと呼びかける。

 そう受け止めていて、感じたこと。

(1)PCR検査が追いつかないということは、どこの報道機関も報じていない。クラスターが発生したかどうかは、ときどきニュースになるが、去年のようにそれを追いかけているのかそうではなくなったのかも、わからない。上からのPCR検査が減っているかどうかは不明だが、保健所の手が回らないということなら知っているから、腑に落ちる。

(2)下からのPCR検査によって判明した感染者かどうかは発表されないから、その数値が出ているのかどうかも、わからない。だが、無症状が多いとは聞いているから、症状が出た人がPCR検査を受けていて、そちらの数値が落ち着いてきているというのは、腑に落ちる。そう考えると、自宅療養者数がおおいのも、重症者数が増えているというのも得心がいく。

(3)上記のPCR検査や症状発生などの推移を専門家はつかんでいるだろうか。報道機関は、チェックしているだろうかと思う。専門家はそれを知っているから、公表数値が減っているからといって(感染拡大への)警戒を怠るなというのだろう。要は、行政機関を含めて、その数値を公表していれば、「事態」は判明する。それなのに、「ワクチン接種すれば感染拡大は防げる」という政府の考え方に反する数値が出るから、発表しないのか。そういうことは、これまでもそうだった。大いにありうると思う。

(4)コロナウィルスに対応するのに「自助」を組み込んでいるのであれば、庶民が自ら判断するに足る「情報の公開」が欠かせない。そういうことに対する「お上」の体制ができていない。それなのに「自助」を算入して「事態」収集に対応するのは、「寄らしむべし、知らしむべからず」体質が染みついているということだ。つまり「事態」の明晰でないところには、目に見えない(あるいは語られていない)要素が隠されている。そこへ踏み込まないでは、自助が起動しない。

(5)コロナウィルスの感染に対応する「事態」が明晰になるとは、私たちの暮らしのすべてが明らかになることだ。「自助」ばかりでなく、「共助」や「公助」がどの部分に担われて日々の暮らしが成り立っているか、普段は、漠然と思い描くだけでやり過ごしているが、感染を防ぐという非常事態となると、きっちりと明晰に判明させる必要が出てくる。そのときに、「自」と「共」と「公」がそれぞれに感知しなかったことも明らかにして「共有」する必要があるということだ。自宅療養というとき、一人暮らしか、連れ合いは病んでいないか、緊急時の連絡先はどこかなど、プライバシーに関わることも、「共」や「公」に通じておかねばならない。「共」や「公」の方も、持っている情報・方針などを「自」に周知する必要がある。それぞれの領域が、ある意味融通無碍に作動するには、情報の共有を通して「関係」を動態的につかんでいることが不可欠である。

 もう一つ付け加えておきたい。

 明晰であることを求めるのは、ヒトのクセだ。常にモノゴトが明晰になるわけではない。むしろ分かれば分かるほど、その先が混沌であることがはっきりしてきたりする。だから、「明晰」と腑に落ちた瞬間から、「混沌」が顔を出し、次の「明晰」へ向けて歩き始めなければならない。正体不明のコロナウィルスに立ち向かうには、こういう覚悟さえ共有する必要がある。その「共有」の動態的な社会・政治システムが民主主義だと思った。