2023年2月7日火曜日

まったく静かな里山

 先週の初山行から、まだ5日しか経っていない。だが明後日は気温が格段に下がる。今日は最高気温が14℃という。しかも「雨」は夜の話。となると行かざるべからず。アプローチに時間がかからないのは、関東平野の北、佐野市だが、三毳山はちょっと軽すぎる。先週の日和田山は「お試し」であった。腰痛もあったし、付き添いにも付いて貰った。2時間ほどのコースを4時間かけて歩いた。ようやく、でもあった。しかも帰って翌日、腰痛に悩まされた。腰ベルトをしていても、ストレッチの時間を無事に過ごすことが出来なかった。一番の原因は、気温が冷えたこととみて、今週の山行を考えた。

 もう10年以上も前になるが、寺久保山に挑戦したことがあった。「栃木の山」という本に紹介されていたルート。出流原弁天池に車を置いて歩き始め、医王寺から直登するルートが紹介されていた。だが医王寺の辺りでルートを見失い、概念図に従って沢沿いを直登した。道なき道を歩き灌木に摑まって木登りをして、ようやく正規ルートに登ったときには、もうヘトヘトであった。廃道になっていたのだろうか。

 今日は、その「栃木の山」の寺久保山ルートでは「サブルート」とされている雷電神社からのコースをたどることにした。ほぼ、稜線上を歩く。出流原弁天池に車を置き、歩き始める。9時38分。雷電神社の手前でちょっと上る道があり、広い駐車場にもなる広場がある。その一角に「寺久保山登山口」の古びた標識がある。

 登りはじめる。10時5分。しっかり踏まれた、しかし急な灌木の斜面がつづく。曇りのはずなのに日差しがある。沢を登ったときの四苦八苦を思うと、まるで天国のハイキング。医王寺のある東の谷は鬱蒼とした森に覆われて視野は閉ざされている。だが西側の、これから歩く稜線にぐるりを取り囲まれた盆地は、ビッシリとソーラーパネルが張り巡らされて、景観も何もあったもんじゃない。最近評判が悪いメガソーラーって,こういうのを言うのだろうか。無粋も無粋。結局今日一日、無粋を見ながら歩くことになった。

 初山行の時のような腰の不安定さは感じない。汗も掻かない。サブルートは御正道のようにしっかりとしていた。コースタイム1時間10分のところ、57分。まずまずのペース。十何年前にあった山頂の分岐表示は影も形もなかった。代わって、山頂を示す柱が立っている。古い標識もポツンと朽ちつつある。

 稜線をぐるりと回るルートへ進む。40m下がって30m上るようなアップダウンを何度か繰り返し、一箇所岩場もどきがあったが、難なく超えた。今回ルートの中間点、三叉路に11時39分に付く。これもほぼコースタイム。

 昼食にする。味噌汁を入れ、弁当を開く。カミサンがいつも探鳥や植物観察でもっているのと同じ。タケノコや煮豆、高野豆腐と椎茸の煮物、ブロッコリーとミニトマトが入っている。シジミの味噌汁が美味しい。後でコーヒーを淹れ、30分を過ごす。ヒガラが二羽ヒーヒーと鳴きながら飛び交っている。それよりも少し大きい小鳥が飛んでいったが、何かわからない。

 12時9分、出発。南の塩坂峠へ向かう。大きく下り、少し上る。25分というピークに、20分で着く。まったく急いでいるわけじゃないが、歩くだけの楽しみだから仕方がない。ということは、私にそれだけの元気が戻ってきたということか。ピークに「朝日山」と名称が記された木札が吊されている。

 そうか、今季十両で優勝した朝日山と同じだ。幕内に戻ってきたら、またこの山にでも来てやろうか。朝日山はご贔屓筋のひいきの引き倒しにあって、三段目まで転落した。気の毒と言えば気の毒、不用意と言えば不用意だったが、そんなことは親方が止めてやるものだ。相撲協会も杓子定規にコトを運ぶより、人情相撲ってのもあることを思い出させるような処分をしなさいよと、岡目八目の私は思っていた。

 塩坂峠はやはりコースタイムより少し早く着いた。ここから足利の方へ向かう道と分け、北関東道の塩坂トンネルの上を巻いて、「出流原弁天池→」の方へ降る。道は広くなっているが、落ち葉が積もり、石があったり滑りやすかったりと、足の置き場に戸惑う。

 と、年配のご夫婦がお昼を摂っている。まさにこの落ち葉の片付けをしているのだそうだ。掻き集め、まとめてどこかへもっていくのだろうか。挨拶すると、いろいろとこの辺りの山の話しをしてくれた。私はソーラーパネルのことを訊ねる。稜線から見ると、元は畑であったか、緩やかな斜面に日差しを受けた土地がみえる。水の便さえ良ければ棚田にもなったろうにと思った。ご夫婦の説明だと、ゴルフ場だったそうだ。何でも日本で有数のゴルフ場経営会社の持ち物だったそうだが、台風でコースの一角が土砂崩れして使えなくなり、修復するよりもと、ソーラーパネルを張り巡らしたのだそうだ。う~ん、良いかどうか。無粋だと,相かわらず思う。寺久保山の周辺にも、まだオモシロイ山はあると紹介してくれた。十年以上前の医王寺からの廃道は、今は新規に上る道が作られているとも話してくれた。興味はあるが、無粋を目にして歩くのはいやだなあ。3月下旬にはヤシオツツジが、4月中頃からはツツジがきれい、是非見においで下さいとお誘いを受けた。足利市はハイキングルートの整備に年額60万円ほどを出しているという。それに引き換え佐野市の方は、まったく手当がないと(うれしそうに)ぼやいていた。

 熊野神社脇に降り立ち、自動車道を歩いて出流原弁天池の駐車場に戻った。14時9分着。歩き始めから4時間半。腰痛はまったく心配なかった。

2023年2月6日月曜日

ヒトの暮らしという入会地

 コロナ禍は、ヒトの世界には国境がなく、ひとつであることを実感させました。しかし人の知恵はそれに追いつかず、国民国家的な枠組みに固執し、チャイナ・ウイルスだの、アメリカの陰謀などと非難の応酬をするとか、先行的な台湾の施策を(国民国家的な枠組みに囚われて)封じ込めて排除するという姿をさらけ出しました。WWⅡの結果を結晶化した国連保健機関の国際体制はあったのに、それも政治的対立に巻き込まれて、お粗末な展開を見せています。

 台湾の取り組みは、ちょっとオモシロイ問題提起をしています。なぜ台湾が、感染症に対して敏速に対応できたのか。

(1)コロナ以前の感染症、SARS(2002年頃~)、MERS(2012年)に際して、中国によって(国際関係の防疫体制から)閉め出されていた台湾は、自ら防疫体制をつくるための研究に重点を置いていた。それが幸いして、COVID-19が世界に蔓延するより前にその危険性に気づきWHOに通告するとともに防疫体制を敷いた。

(2)島国であること、国の規模がコンパクトであることが、幸いしている。

(3)ITのネットワークが確立している。それを駆使するにたる製造業とソフトパワーがある。

(4)政府への信頼が(大陸との緊張が継続していることもあって)あった。

 日本との対比になるが、要は精神的にも文化的にも、(国際関係すら)独立性をきっちりと保っていることが、上記四点からも推察できる。むろんそれが政治的安定として、どれほど定着しているかは、その後の台湾情勢を見ていると流動的だとみえてくる。

 ウクライナの状況を見て、台湾の人たちがどれほど自国の行く末を懸念しているかわからない。だが私の身に感じられる危惧は、台湾がただ単なる「自律的経済圏」の浮沈というモンダイではないということである。現在中国の統治体制が強権的独裁であることもあって、台湾の自律性が脅かされることは、日本という国の独立性にかかわるだけでなく、日本列島に暮らす私たちの暮らしの自律性にも深く関わって脅威であるということだ。つまり台湾の浮沈は、国民国家の独立性の問題というよりも、ヒトの暮らしの自律性を脅かす(普遍的な)モンダイになったと言える。

 そう考えると、台湾がCOVID-19発生以降に取ってきた外交的な振る舞いは、まったく置かれている状況は異なるといえども、日本国家の参照点として、重要になる。軍事装備の(アメリカからの購入・援助)もさることながら、基本的に自律的に中国には敵しえない「自律的小国」が、どのようにして巨大な軍事的脅威から防衛を果たそうとするのか。そのために隣国であり、かつ社会的体制が似通った日本が、どのように援護できるのか。ただ単に、軍事的な対決構図だけで応戦体制を整えるというのではなく、知恵を振り絞って軍事力の発動を差し止める外交的な関わりの力を総動員する地点に来ていると思う。

 今メディアを通じて喧伝されている「台湾モンダイ」をめぐる日本政府の対応は、ほとんど軍事的な事態が発生したときにどうするかに限定されている。「状況適応的」と日本人の気質を分析する知見が過去に流行ったが、今のような状況になると、視野が狭窄されたようになって、目下の緊張的推移しか目に入らなくなる特性を、私たちはもっている。太平洋戦争直前の状況がそうであったことを、猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」が明らかにしている。半年はもつがそれ以上は敗北するという結論を、開戦前、昭和16年夏のシミュレーションで得ていながら、半年経って仲裁講和が入ることを期待していたり、戦争というのは(戦力だけではない)戦ってみなければわからないと、成り行きに期待した。そういう悪いクセをもっている。それをこそ教訓化して、国際関係が今のような状況になったとき、軍事的な対応関係でないところで、どれほどの力を使えるのか、思案の為所に立っている。

 つまり今こそ意識的に視野を広く取って、(国民国家という枠組みに縛られるとはいえ)国際関係の力比べを見て取る必要があるように思う。武力ばかりではない。戦闘に於ける戦略戦術ばかりでもない。国民国家的な枠組みさえ取っ払って、文化的な関わりや経済的なモノ・カネの交通、なによりヒトの往来と交流の堆積がどうであったかをつぶさに拾って、活かしていかねばならない。

 政府の「外交」もさることながら、必ずしもそれが主要道というわけではない。ひと度グローバリズムを体験してきた、文化と民間往来の蓄積がある。文化的な交流はナショナリティで二分するワケにはいかない。動態的平衡と生物学者なら名付けるだろうが、文化往来の絡みは双方の間(あわい)として独特の色合いを帯びて揺蕩っている。言葉を換えれば、入会地のような、ナショナリティを取り払って生活者として交流する特性を有している。台湾の人々の日本人に対する好感・好意が、大陸からやってきた国民党中国人の圧政に対する批判精神に由来するとはいえ、基本的に暮らしに起点を据えてヒトの有り様をみてとっていることが根柢にある。それを勘案すれば、ヒトの基本的な存在の感触が、ナショナリティを超えることを示していると読み替えることが出来る。

 COVID-19は、ヒトの暮らし次元に降りかかった大自然の脅威である。しかしそれへの対応は、今の世界が国民国家のナショナリティで分け隔てられている、その作法に遵って対応する閉鎖性を体現した。逆にそれによって、専門家による国際共同の取り組みはリモートでの研究と情報交換と共同開発によって世界がしっかりと手を結びあっていることも明らかにした。ヒトの暮らしは、ナショナリティに囚われた籠の鳥である。それによって大きく分断されていることも露わになった。

 COVID-19に対する優れた台湾の取り組みが、「中国」という政治的締め付けによって排除されたことは、現代世界が何によって疎外されているかを如実に示してみせた。あるいはまた、世界の最強国アメリカのトップがトランプというトンデモ大統領だった所為で、ナショナリティという怪物がますます威勢を得ることになって、大自然の脅威と真っ直ぐ向き合うことを阻んでしまった。ああ、ヒトの社会って、選挙という人民の目先の人気取りのために、意図的に敵をつくりだし、フェイクだファクトチェックだと何と愚かしい次元で(未だに)遣り取りしてるんだろう。

 ヒトの暮らしという基本点を押さえて、余計な装飾を剥ぎ取り、囚われた心を解き放って、もう一度最初から組み立て直すには、どうしたものだろうか。そういうモンダイを考えてみたい。

2023年2月5日日曜日

大きな脅威が小さい恐れを忘れさせる

  1年前、《TVではもう、「エンデミックはいつか」と遣り取りしている》とコロナウイルス感染のことを記している。エンデミックは「終息」という意味ではない。《endemic desease は風土病。つまりインフルエンザと同じ、普通の感染症というな扱いになることを指している》。だが実際には、去年の2月末に感染のピークがやってきた。さらに去年の9~10月に第七波のピークが来ている。そして今、第八波の到来かと思っていたら、(相対的には)緩やかに減少している。政府は全量把握を諦めてしまったらしい。まさかそれを正当化するためではあるまいが、5月の連休明けにはコロナの感染症をインフルエンザと同じ扱いに「格下げ」すると発表した。

 ま、もうとっくに政府は私たちを見限っている、対称的に私たちも政府の発表を当てにしていない。そういうこともあって、今の政府が何をしてくれるかに関心はない。ただ、依然として自助によるしかない。となると、庶民が自主的に判断できるだけのデータは出してよねと願っている。

 1年前の私は「交錯するオミクロン情報」で、《まるで戦場になりそうな幕末の京都や江戸の民の困惑と同じなのかも知れない》と比喩的に置かれている立場を解釈していた。その半月後に、比喩的どころか、文字通り第三次世界大戦に突入かと思うような、ロシアのウクライナ攻撃が始まった。

 コロナ禍を見る目、《力のある人たちには、たぶん、こちとらのことは眼中にないから、勝手に自分で見極めなければならない》と高をくくっているわけには行かなくなった。

 ウクライネへの攻撃は「こちとらのことは眼中にない」どころか、庶民の日常を破壊して戦意を挫き、インフラを攻撃して戦力を削ぎ落とす,明らかな攻撃目標になっている。自助もへったくれもない。ウクライナという国家に閉じ込められた庶民として、絶対的関係の元に、ロシアを向き合わねばならなくなった。

 私たちは日本にいて、ウクライナの人々のことは対岸の火事とみているが、ロシアと国境を接している、ロシアに力を貸している北朝鮮や中国と間近に向き合っている。しかも台湾という、因縁浅からぬ独立生活圏と境を閲して、対岸の火事どころか、火の粉が飛んでくるのは避けられない地政学的位置にいる。コロナウイルスという自然の脅威よりも差し迫った隣国の脅威をひしひしと感じている。それもあって、オミクロン株の感染拡大のことは後景に退いた。身に感じる軽い痛みもより大きな痛みがおそえば、忘れられるという俚諺のごとしだ。ま、ウクライナはまだ遠い。対岸の火事だから,コロナウイルスを忘れたわけではないが、「隣は何をする人ぞ」と、いつも注意を傾けて警戒していなければならない事態の方が重く感じられて、コロナ禍はendemic deseaseになっている。

 ウクライナの人々に比べれば、オミクロン株の感染なんて、インフルエンザみたいなものだ、と。重症化する人の数や死亡者数はまったく減っていないが、高齢者が亡くなる分には順当というか、自然の摂理って感じもあってか、自分に直接かかわる人以外の死亡に切迫感はない。ただならぬ緊張の末期高齢者である私たちだけが、自助自重を肝に銘じて、ひたすら籠もるように暮らしているわけである。

《スリリングを意識的に味わえるという意味では、今の方が分がある。そう思って、何処に感染の境界線があるか、リミットの壁の上を歩いている》

 と居直るように高齢者であることを(赤ん坊に比して)「分がある」などと威張っていた。なんじゃい、それは、と1年後のワタシは思っている。その傍らで日々報道されるウクライナの戦争に触発されて、ワタシのもつ世界認識が改められいる。でもそれは、また明日に。

2023年2月4日土曜日

お話になる「お題」を探る

 このブログ(2023-01-26)の記事「私たちの終活」に記した「日本は未来だった、しかし今では過去にとらわれている/BBC東京特派員が振り返る BBC News -01/22/ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ、BBC東京特派員」を、3月seminarの「お題」にしようと考えた。seminarの常連にそれを送って、いろいろな意見を3月まで取り交わし、その延長上に「お題」を設定する。そうすると、ちょっとはseminarで取り交わす言葉の質も上がって、面白くなるんじゃないかと思ったわけ。

 次の二通が、返ってきた。

【返信1】keiさん

 BBC東京特派員のヘイズ氏のBBCニュースを次回セミナーの「お題」にすることに大賛成です。このように読みやすく面白い記事をどこから探し出したのか、そこにも関心があります(笑)。/この短い記事は、自分の30年は歴史の中で、どう位置づけられるのか、これからの30年間で日本は世界はどう変わるのかを考えさせられる記事でした。読みやすいいい文章ですね。/みなさまの感想はどうなのでしょうね。

【返信2】トキくん

 添付を読み始めましたが、冒頭の一文を読んだだけでこの馬鹿特派員はなにもわかっちゃいねぇと思いながら読みおえました。/税務上の償却で評価が下がるのは当たり前。それと資産価値は別物。日本は中古物件の市場が成熟していないけど売ればゼロにはならない。もちろん山の中の一軒家を買う人がいなければ価値はゼロかもしれないが、それは需要とのからみで価値が形成させるだけ。/我が国のことは我々が解決する。お前はお前の国のことを案ぜよ、が結論。/ストライキで市民が迷惑、王室はガタガタ、貧富の差は我が国どころではない。/いつも思うが所得を単純に比較するのは間違い。収支を比較して論ずべき。家計に占めるエンゲル係数とか、光熱費の比率とか、教育費の割合とか。というわけで、読み終えてあほくささが残るだけでした。

***

 う~ん、これをどう料理しようか。どう調理したら「お題」になるか。思案している。

 keiさんの返信は、いつもメンドクサイ文章を提供している私への皮肉も加わっている。東京特派員という視線ではあるが、1993年から30年間の時代を私たちと共有しているヘイズ記者の(日本人の不思議という)指摘を、我がこととしてとらえようと言う私の提案に同調している。

 ところがトキくんは、(日本人の不思議を問う)ヘイズ記者に言葉を送った「ある高名な学者」の指摘する「名家」を象徴している。

《(明治維新によっても、1945年の二度目の大転換に際しても)日本の「名家」はそのまま残った。圧倒的に男性中心のこの国の支配層は、日本は特別だという確信とナショナリズムに彩られている》

 ここでいう「名家」とは、自己の存在に対する絶大な自信だ。その自信の根拠が「日本は特別だという確信とナショナリズム」というワケだ。keiさんもトキくんも、地方の工業都市にある私の中学の同窓生である。トキくんはたぶん、大企業の名を冠した鉱工業のエライさんとして転勤してきた親父の息子であった。そういう意味では「名家」に身を置いていた。高校生になるときに東京へ移り住み、トキくん自身、東大法学部を卒業して、やはり財閥のひとつを継ぐ商社に身を置いて世界を舞台に仕事をしてきたから、「名家」の誇りと自信を身の裡にもって生きてきたのは間違いないだろう。

 でもねえ、トキくんのペースで読むと、お題どころか、seminarのお話にならない。ちょっとここで、ヘイズ記者の文章の要点を記しておこう。

(1)1993年にヘイズさんが着任した頃「日本は未来だった」。

 そうみえた理由は、①豊かで裕福。平均寿命が世界最長、殺人事件の発生率は世界最低。政治的対立は少なく、パスポートは強力、世界最高の高速鉄道網をもつ。②大都市・東京が見事なほど清潔できちんとしている。③独自文化,ソフトパワーは素晴らしい。④自然が豊かで美しい。

(2)日本は過去にとらわれている。

 その理由。⑤もう何十年も経済の低迷に苦しんでいる。⑥人口の少子高齢化が進んでいる。⑦過去への頑なな執着が、変化を拒んでいる。⑧外部(外国人)への恐れ。

 ⑤に関してヘイズさんは、1993年に比していま格段に収入が落ちていることに触れている。これがトキくんには,カチンときたのかな。フローばかり見てないで、ストックを見ろよ、と「馬鹿特派員」呼ばわりをした。たしかに今、私たち年寄り世代がそれほど困った顔をしていないのは、バブルの遺産を食い潰しているからだ。つまりストックが、今の裕福を支えている。

 ヘイズさんは、バブル後に世界を襲ったグローバリズムという名のアメリカン・スタンダードの隆盛に、日本の産業構造の転換が追いついていかなかったことを感じているのであろう。この経済的な停滞がなぜ起こったのか。欧米の先進国は、しかし、それでもGDPを伸ばし,低成長とは言えそれなりの成長を着々と遂げてきた。その間に、中進国と言われていたBIRICSが追いつき追い越す勢いで成長を遂げ、一人あたりの国民所得で日本は韓国にも追い越されるようになった。どうして日本は、かくも低迷しているのか。これをひとつ、seminarの「お題」にしても良いかもしれない。

 その経済的な衰退にひとつの回答を与えているかにみえるのが、少子化と人口減少である。これには、日本の社会保障というシステムが、長期的に見ると明らかにみえていた時代の変化に対応しようとして来なかったことを示している。むろん社会的な産業と消費の高度化が進むのに少子化が伴うことは、ヨーロッパのケースで先行例がある。世界的な長寿国である日本であるから、年寄りが増え、相対的に少子化となることはみえていた。にもかかわらず、絶対的少子化と人口減少になったのは、なぜか。家族や社会保障のとらえ方が旧弊に過ぎたと一般的にいっても仕方がない。もう少し子細に分け入って、このモンダイを「お題」にしても良いかもしれない。

 人口減少を埋め合わせるのに、外国からの移民を受け容れる必要があると政府が問題提起したのは2000年であった。毎年60万人、一〇年間で600万人の移民受け入れを提言した答申を小渕内閣が発表した。しかしそれは、ほとんど紙切れ同然に扱われた。なぜそうなったのか。「我が国のことは我々が解決する。お前はお前の国のことを案ぜよ、が結論」というトキくんの放った罵声は、外国人に対する忌避感も、頑ななナショナリズムも見事に象徴している。なぜこういう罵声を浴びせるようになるのか。これも、「お題」になる。

 ヘイズさんが見立てる「絵はがきにしたいような」ふるさとの自然は、都会に住む私たち高齢者にとっても、美しく懐かしい。身に響く郷愁を誘い、なることならそのような自然のなかに身を置きたいと思う。だが、遠くにありて想うものという謂れの通り、そこへ移り住むことは至難の業である。だがヘイズさんが惜しむように、私たちにとっても惜しむ心持ちがありながら、なぜ、それが至難の業なのか。これも「お題」にして考えてもオモシロイとワタシは思う。

2023年2月3日金曜日

初山行

 これまで通りの(少しきつい)運動をするようにして・・・という医師のすすめに,大喜びで山へ行った。日和田山。日高の町の西端にある「奥武蔵の山」。最初、岩登りのゲレンデとして知り、後にあるいて奥武蔵縦走をしたこともある。400m足らずの山。体調チェックの軽い運動には適当と思い選んだ。カミサンにも付き添って貰う。

 ゆっくりと、8時半過ぎに家を出る。外環と関越を走り、圏央鶴ヶ島ICで降りてnaviに従って走る。巾着田のすぐ近くだ。地元農家の駐車場に止め、10時には歩き始めた。

 何組かの人たちが後から来て、先へ進む。皆さん勝手知ったるフィールドって感じ。散歩道なんだね。私はというと、何日か前から腰が不安定。ベルトを締めているとはいえ、落ち着かないから、腰が少し曲がったまんま、こわごわと登る。すぐにルートが「男坂」「女坂」と分かれる。上りに男坂、下りに女坂かなと言って道を分ける。男坂の所で、「←見晴台」「男坂↑」とさらに分かれる。見晴台に立ち寄ってから登ろうと,そちらへ向かう。後回しにするとメンドクサクなって通り過ぎてしまう。見晴台からは日高の町がよく見える。ここが関東平野から秩父山地が起ち上がる端境地だとわかる。

 男坂との分岐へ戻ると思っていたら、見晴台からの上り道もある。そちらへすすむ。間もなく男坂と合流し、目の前の大岩を中年の男性がクサリを使って登っている。その手前を上る踏み跡もあり、そちらへ回り込む。すぐに二の鳥居に出た。

 振り返ると、見晴台よりさらに広い範囲がみえる。西武ドームの屋根が光っている。新宿のビル群、さいたま新都心の林立ビルが際立つ。遠方は霞か雲か、ぼやけている。富士山がみえる。丹沢大山の特徴的な三角の形が東に少し離れて鎮座している。海から見るとこの特徴がランドマークになっていると船乗りの話を聞いたことがある。

 日和田山山頂は,そう遠くないところにあった。二の鳥居と違って北東方面が開けていて、平野にポツンと筑波山がかすんだ姿を浮かんでいるようだ。風が強い。先客が、ベンチを明けてくれようとしている。「いえ、座りませんから」と断ると、傍らの別のベンチに座っていた女性が「強いんですね」と口にする。う~んそういうことじゃないんだが、ま、いいか。

 ここじゃお昼は食べられないねと,風の強さを嫌って、カミサン。

 まだ、11時だよ、先へ行こう。    

 えっこの先へ行くんですか?(と、先ほどの女性が)

 物見山まで行ってきます。

 ホントに強いんだ。わたしはここまで(と、聞いてもいないのに応える)。

 日和田山から物見山への往復は、ほぼ地元のK夫妻にとっては散歩道だ。2時間ほどで歩いている。ご亭主のリョウイチさんは2時間20分かかると体調が落ちているとみている。いつもの日帰り山行なら私は5,6時間ほどを歩いていたから、往復2時間を「強い」と言われると笑うしかない。でも今が、そうなんだよね。リハビリ登山だ。

 高指山は測候所か何かの施設なのだろうかコンクリートの無愛想な建物があり、金網で囲まれた庭に名を刻んだ柱が立っている無粋な山頂であった。ただその下に広い芝地がありベンチが据えられている。山頂部の台地に風も遮られて日差しが暖かい。お昼にちょうど良い。25分掛けてお昼を済ませ、物見山への稜線を歩く。出発してすでに2時間経っている。

 物見山の標識とベンチがある地点に着く。地理院地図の山頂は,さらに東100mほどにあるので、そちらへ行ってみる。樹林のなか、三角点があった。山頂標識は、ない。前にも一度ここに来た覚えがあるが、はて山頂標識が移ったのか、前々から現在地だったのかわからない。今の地点は南方面が開けている。カミサンはここが渡りの鷹の観察地点だという。だがそれにしては見晴らしが利かない。それより少し南へ戻った地点の方に南西方面が大きく開けた草地がある。そこには「私有地ですので、立ち入らないで下さい」と看板が設けてある。ということは、ここに鷹の渡りを見る人が押し寄せるってことか。

 帰り路は山頂を経ずにトラバースする道をたどる。歩いているうちに腰が往路よりも伸びているように感じる。やはりパソコン前に座って過ごすのが、一番悪いのかもしれない。二の鳥居からの眺めは午前中より悪くなっている。女坂は緩やかな下り。急なところには階段が設えられていて、快適に進む。駐車場着14時。概ね4時間の行程。

 車の帰路も混むことなく順調に還った。車の速度、110km/hがこんなに早く感じるとは思わなかった。これってひょっとしたら、高齢化に伴う身の衰えと相関して、感じ方が変わってきているのかもしれないと思った。

 そうだ、もう一つ記しておこう。風呂を上がってタニタの体重計に乗った。体内年齢は前日と変わらず「65歳」だったが、足腰年齢が「70歳」になった。昨年の誕生日に「75歳」となり、なんだ5年ごとに計測値が上がるのかと思ったのだったが、そこから若返った。計測数値が境界値にあって、ほんの少しの変化で行き来しているのかもしれない。となると、山歩きは,やはりつづけなくちゃあならない。そう思った。

2023年2月2日木曜日

私が知らないワタシ

 1年前(2022-02-01)の記事「2月になった」をみて、そうだ、2月になったと思った。ヘンなの。去年はコハクチョウの群れの一羽が首をもたげているのをみて「奴雁」という言葉を思い出し、庶民大衆に先駆けて警世の声を上げる知識人に触れた。若い頃は自分もその一人と思っていたし、それを矜持に本も読み、即物的な欲望・欲求ではなくモノゴトをより根源から考え,振る舞うことをより高貴なこととみていた。

 だが今は、どちらが気高いかわからない。どちらもわが身の感覚器官を通し、体験の肌身を通過させて、受けとるようにしているから、一概に決めつけるわけにはいかない。よほどの非道な振る舞いも、その人なりのワケがあってそうするほかなかったのだろうと受け止めて,考えるようになった。これって、「共感性が高い」というのだろうか。別にそのように振る舞う意図はないのだが、基本的にヒトの為すことはたいてい、我がことの身の裡に連なっていると思えるようになった。これは感官器官の情報集約の年の功と謂うべきか、耄(ほう)けはじめたと謂うべきか。

「……実はのほほんと運を天に任せて、なるようになる、なるようにしかならないと思って日々を過ごしているというワケ」

 と達観したようなことを口にしている。でも、「なるようになる、なるようにしかならない」という地点に、ようやく、流れ着くように着きましたよと言いたいのである。

 何かを発見し、悟りを開いてそう考えるようになったというのではない。懸命な思索の果てにそういう結論に達したというのでは、さらさら、ない。心身一如を心し、違和感をもったことを一つひとつ拾って、何だコレは? と思案する自問自答を繰り返し、積み重ねる。

 基本的にヒトを非難しない。非難したくなったら、オレは何を根拠にそのヒトに悪罵を投げつけようとしているのかと,まずわが身に問う。そうすると、たいていの非難は、わが身の感覚や感性、イメージや思いと齟齬を来していることに起因している。ではなぜオレは、コレに価値づけているのかと,自問は連なって続いてくる。そうやって思っていると、当初の非難の言葉は薄らぎ、どっちでも良くなり、忘れてしまう。あるいは、たぶんヤツはカクカクシカジカのレベルに彷徨っているから,あのような非道なことを口にして平然としているのだと、ワタシなりの「自然(じねん)」を繰り出して理解してしまう。そうすると、ひとつわがセカイが膨らみをもち、さらにその向こうにワカラナイ世界がちょっぴり顔を出す。ふ~ん、そうかと思う。かくしてきっかけになった憤懣はどうでも良くなって消えてしまう。

 ワタシがちゃらんぽらんだからだろうか。それとも、その先をきちんと詰めないのは、モノゴトを我がこととして考えていないからだろうか。そんな風に思うこともある。でもこの歳になって、我がこととして考えていないと言われても、どう応対して良いかワカラナイ。わたしの感性や感覚、思いをくぐらせて吐き出されている数々の言葉は、いまさら否定されても、いえそれは間違いなくワタシのものですというほかない。

 もちろんワタシは普遍的なことなど、これっぽっちも口にしていない。自慢じゃないが、普遍的なことなど、思考の俎上に上がった途端に胸中から揮発してしまっている。まさしく,いま、ココのこの事実がセカイのすべてとしての重みを持って現れている。それは真実じゃないよ、フェイクだよって言う方がいれば、どうしてそういうのかを聞いてみたい。そのワタシの実感するシンジツを、フェイクだという方の乗っかっている根拠が何であるか、聞き質した上で、なるほど、と私が知らないワタシを発見するかもしれない。それは、たぶん、この上なく昂奮する,刺激的な発見になるだろう。

2023年2月1日水曜日

原点に立ち返るというテツガク的視線

 コロナは「三密」にご用心というのは、都会地に人が密集することへの天の警鐘であった。為政者は決してそれを口にしないが、庶民はそう感じ、それに対処している。地方への移住が増えている。リモートで仕事が出来るというデジタル化を伴った働き方の変容も力になっているそうだ。

 地方の方はというと、子どもが都会へ出て暮らしはじめることもあって、人口減少というだけでなく限界集落を経て、廃村のようになっていっているから、移住は大歓迎のはず。通常ならそう思うが、30年日本に在住したBBC特派員は「外国人も、この土地に馴染んで貰わないと困る」という老人たちの発言に戸惑いを隠せない。どうしてなのか。

 私は、カミサンの実家が高知県の山奥、四国山脈を挟んで愛媛県と境を接する標高800m、結婚した頃は「四国のチベット」と自嘲するような呼び方をするほどの辺境にあったから、限界集落の現実的進行を盆暮れの帰省とは言え、目にしてきた。

 それが今まで持ちこたえてきたのには、日本経済の高度成長と列島改造と高度消費社会への突入とその破綻という、私たちが人生で歩んできた社会の変貌と軌を一にする歩みがあったからである。カミサンの実家、高知県の檮原町の半世紀をざっと俯瞰してみると、1970年頃は約7000人だった人口は年々着実に減少し、今(2020年)は半減、3400人弱になっている。老齢人口と生産年齢人口を比べると1:0.9。支える人口の方が少ない。

 しかしこの間、交通アクセスは変わった。半世紀前には(高知駅から40分ほどの)最寄りの国鉄駅から檮原町の中心部まで、幾つもの峠を越えてバスで4時間かかった。そこからバスを乗り換えてさらに1時間、バス停から山道を歩いて30分というのが、初めて訪ねていったときの行程であった。それが今は最寄り駅から1時間である。トンネルを掘り、二車線の道路が中心部まで延びている。町の中心部から実家までも、半分ほどの時間で辿り着く。

 町の中心部は、隈研吾の建築した町の庁舎、図書館、道の駅、宿泊施設などなどで名が知られ、その一角だけは電柱も取り払われ整備されている。東京オリンピックに向けた国立競技場の建て替えで建築家の名を知られたこともあって、外からも多くの人が訪ねてくるという。これは、檮原産の木をふんだんに使った隈研吾の建築開眼の地と記されている。それら建築の一部は、すでに改築にまで話が進んでいるほどの年期を重ねている。その庁舎の前に建つ木造の歌舞伎場は,古くからの伝統芸能・檮原歌舞伎のために今も保持されてきている。僅かな財源から少しずつ捻り出して、半世紀を経てここまでやってきたとご苦労を感じさせる佇まいである。また、図書館の書架の並びは、驚くほどの目利きを感じさせる。何だこれだけの本があるなら、毎年夏を過ごす半年だけでもここに避暑にきて本を読んで過ごしても良いなあと思わせるほど、魅力的であった。

 TVの番組でも、活性化を取り戻そうという地方のいろいろな試みが紹介されている。住む人のいなくなった古民家を改築して、安く提供する。休耕地を借り上げて農業に就業する人たちを応援するネットワークをつくる。子育てを支援する事業を興し、若い人たちの移住を促進する。それらを支援する補助金を最大限活用して、財源を手繰り寄せる。映像で伝えられるのは、日常的なご苦労を省いたものも多いから、漫然とみていると、ユメのような新天地に思われるかもしれないが、そうはなかなかうまくいかない。

 だから他方で、地方へ移住してみたものの、農業や林業をうまくこなすことが出来ない、あるいは現地の人たちとうまくやっていけないという理由で、挫折する人たちも4割ほどいると報道されている。

 地方に暮らすというのは、ヒトの原点に戻って暮らしを立て直してみようという試みである。単なる転職ではない。どうして原点に? と言うか。移住には、子育ての環境や仕方も、食べていくのにも、dが移植する、出来合いのものを食すというのと違って、自前で育て調達し、調理するという変化も加わる。働くということも、サラリーマンではなく、何から何まで自分ではじめて、自分で始末をつけることになる。あれもこれも、根源から問い直そうという気分が,実は底流にある。それは現代社会批判とも言える内実を持ち、しかもそれは、自分自身の感覚や感性、思考などへの批判も同時に含み持つものとなる。だから、単に転職というよりは生き方を変える大転換を意味している。その覚悟なしで,ただ単に住む場所を変え、環境を変える程度に考えていると、ヒトとの悶着に出くわして,期待に反して頓挫することになる。

 果たして私たち老人は、そうしたことを若い人たちに伝えるようにしてきただろうか。目前のノウハウだけに関心を寄せ、根源的なヒトの営みを「外注」してきたのではなかったか。

 昨日のこの欄で紹介した映画『イニシェリン島の精霊』で記したような、人が暮らすプロセスには、ハレとケのバランス、平々凡々の日常と爆発するタマシイの発露、同じ所にとどまっていられないヒトのクセが、さまざまなモンダイを呼び起こす。そういうことも、どう対処してきたろうかと巡る。それを避けてはヒトは暮らしていけない。

「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」という絶対矛盾を身の裡に抱え込みながら、生きてきた航跡を振り返ってみないことには、「未来」を紡ぐことは出来ない。