2020年12月31日木曜日

コロナ禍の山歩き

 今年は何日、山に入ったろうか。1月が6日、2月が3日。2月には与那国島へ遊びに行ったから山行が減った。そして2月末には、新型コロナに関する緊急事態宣言が出されて、県外へ行くのは憚られるようになった。3月は日帰りの3日となり、4月7日を最後に6月9日まで2ヵ月間、山行が途絶えた。

 今年の山行日数は、32回、49日。20回の日帰り山行と12回、29日の泊をともなう山行であった。そのうち山の会の人たちと一緒の山行は、22回、31日に及ぶ。私の個人山行は11回、18日だったから、ま、山の会の皆さんにはよくつきあってもらったと思う。個人山行の1回には、現地の登山口に行ってみるといつも一緒に山に入るkw夫妻の車が止まっていた。出逢うために(たぶんこうだろうと思われる)コースの逆を辿って、うまく中間点の山中で一緒にお昼をとるのもあった。

 おおよそ週1回の山行をしていたことから考えると、4,5月の二月を除く山行日数としては、まずまずよく行ったといえよう。ならばコロナの影響は、さほどではなかったのかというと、そうでもない。

 同行する山の会の人たちが、格段に減った。何しろ公共交通機関をつかえないとなると、私とkwさんの車で行くしかない。同行する人がいれば最寄りの駅か浦和駅で待ち合わせて登山口に向かったが、それをしたのは3人だけ。あとの方々は、すっかり山から遠ざかったのではなかろうか。

 私は電車やバスを使わず、車で行くようになった。一番遠くまで行ったのは会津駒ケ岳登山口の檜枝岐村だったろうか。甲州市の瑞牆山のほうが遠かったろうか、それとも巻機山だったろうか。3時間半から4時間くらいの運転は、しかし、日帰りではないから、ゆったりと時間をとってムリをしないようにした。

 同行者が減ったことによる大きな変化は、山行計画段階からはじまった。これまでのように実施日と目的の山名を提示するのではなく、実施の週と目的の山名を提案する。それに同行を希望する方がいれば、その人たちと天気予報を参照しながら、実施日を決めるようにした。その結果、ほぼ晴れた日に山へ入れる。予報と違って雲の中を歩くようなこともないわけではなかったが、それまでのようにざんざん降る雨の中を上るようなことはなくなった。これはこれで、山の愉しみが倍加するようになったともいえる。

 それとともに、テント泊がはじまった。私は昔から使っていた一、二人用テントを引っ張り出してつかった。kwさん夫妻はテント用具一式を手に入れ、テント暮らしの第一歩からはじめた。山へ行くごとにキャンプ泊が進化していく。それは「泊」だけを機能的に考えていた私のテント泊観を変えるほどのちからがあり、それはそれで面白いものであった。kw夫妻はそのうち焚火をするようになり、11月の王岳山行を最後に、寒くなったのでテント泊を終了したのであった。山歩き以外に、キャンプを楽しむというアウトドア領域を開拓したともいえる。これは来年の山行の、行き先にも滞在の仕方にも影響を与えるように思う。

 山に登る前日に、登山口の近場でテントを張る。もしロングトレイルを歩くのであれば、帰着した日もテントに泊まる。そうすると、年をとっても登れる山の範囲がぐんと広がる。今年登った百名山は、5つか。巻機山、武尊山、瑞牆山、会津駒ケ岳、白砂山。どれも前日泊をした。会津駒と白砂山は下山後にもテントに泊まった。

 テント泊が面白いと思ったもうひとつは、テント場に椅子を設え、山を眺めながらワインを傾けてぼんやり過ごす楽しさと言おうか。ボーっとしている時間に身を委ねて、大自然に身を浸すのがこんなにも気持ちをくつろがせるものかと、身の裡の何かがほぐれていくのを感じたことだった。山が歩けなくても、こうやって過ごす時間てのがあるんだ。いつも目的をもって前へ進むという私のからだが身の奥にしつらえてしまっている感性を揺さぶるような体感であった。面白い。

 kw夫妻が付き合ってくれてずいぶん私の単独行は減ったが、いつもそうしていると私自身の山行センスが鈍るから、できるだけ週1のペースを崩さず、どこかしらの山へ行くようにしている。これまで登ったことのない山を選ぶようにするのだが、そうしてみると、まだまだ関東の近場にも登ったことのない山がずいぶんあることがわかった。また、「日本二百名山」とか「日本三百名山」とか「山梨百名山」「栃木百名山」「群馬百名山」などが選定されていることも分かる。

 あるいはまた、行ってみると、ルートファインディングも含めて、そう簡単な山でないこともあった。地元では登る山として意識されていないのに、地元の名山のように喧伝されているのがあることも分かって、可笑しかった。

 こうしてみると、関東甲信越の山だけでも、まだたくさんの未踏峰があり、来年以降の登山に困ることはない。こちらの力が尽きてしまうことの方が先のようだから、しばらくはプランニングの愉しみもとっておける。

 ま、こんなところが今年の山を振り返って思うことでした。

2020年12月30日水曜日

年の瀬が押しつまるとは

 今年も明日でお仕舞い。30日なんだから、そうは思うが、なぜか今年は年が改まるという感触が湧かない。どうしてなのだろう。

 カミサンは「今年は孫たちが来ないからね」という。孫たちが来ないから、お接待や料理を考えたりしなくていい。お節だって年寄り二人分の酒の肴くらいがあればいいから、あとはお餅とお雑煮か。仕事をリタイアして18年ともなると、節季仕舞いのあわただしさもない。

 つまり、日常の変わらぬ日々が坦々とつらなり、明ければ1月1日という平凡な1日がはじまるだけ。そういう風に考えると、日常と非日常の端境にある心理的な移ろいというのが、あるかないかの違いだけになる。

 でも、ちょっと違うような気がする。

 年末の大掃除だってそうだ。お節だってそうだ。賀状だってそうだ。そもそも節季という区切りをつけるセンス自体が(歳末・正月だけを指すのではないが)、場面の転換を図って苦しい面倒なものごとをやり過ごし、気持ちを巻きなおして新たな場を迎える仕儀ではないか。仕儀という言葉自体も、区切りをつける儀式的な面持ちを言葉にしたものだ。ただ心もちの移ろいというにとどまらず、儀式的な言葉にすることによって、節季という区切りを外化して、そこへ心もちをあわせるせ生活習慣を築いてい来たのではなかったか。

 だから子細にみると、年を越す世の中の大きな社会習慣と、私たち自身の身に沁みこんだ歳末・新年という越年の感覚と、私自身が意識的にそれをどう受け止めているかということと、それら三層の絡み合いと移ろいとが、錯雑して今のわが身の裡に醸し出す感懐が「今年の年の瀬感覚」になっているのである。

 世の中の大きな社会習慣というのは、おおよそ12/29から1/3までは仕事はお休みであるとか、その間帰省するとか、初詣に出かけるとか、年始に行くとか、お屠蘇やお節やお年玉といったこととかの「行事」になる。だがそれらが社会習慣という外的なもののまんまであれば、ちょうど5月の大型連休と同じで、節季という感触には結びつかない。ということは、幾分かでも子どものころからの暮らし方によって、身に染みているものがあるのか。

 子どもの頃の歳末は慌ただしかった。家業が八百屋だったこともあって、大晦日は除夜の鐘を聴きながら店仕舞いをし、風呂に入り、ラジオの「紅白」や「ゆく年くる年」を聴いた猥雑な混沌の邪気を払って新しい年を迎えるって感覚が底流している。それが年の瀬というものであった。わりと儀式的な型を重んじていた母親の振る舞いもあって、お節やお屠蘇やお年玉は年を越す行事として受けとめる感覚は身に備わっていたが、物心つくころには、戦争と敗戦とその後の世の移ろいとを親や大人の無責任な振る舞いの結果として受け止めるようになってから、わが身から引きはがすようにして、外化していった。

 その、意識的に身につけた観念が、齢を取るにつれて、そう容易に分節化して分けられることではないと受け止めるようになって、身に沁みた儀式的行事を、素直にわがものとして認知するようになったといえようか。子や孫が生まれ、節季という切り換えを取り入れることによって、日々の暮らしを継続する活力に転じることも、無意識にしていたのだと、いま振り返って思う。ここで、社会的習慣とわが身に沁みついた儀式的行事とを分けて受け止めていたことになる。

 となると、子や孫が爺婆から離れ自律していくことによって、ふたたびわが身の生活習慣が転機を迎えているとみることができる。もちろん日常がいつもの日常であれば、盆と正月には子や孫が来るという「ふるさと」としての爺婆が現れるわけだが、新型コロナウィルスのせいで、それも適わない。

 つまり年寄り二人だけの年の瀬が押しつまり、年寄りだけの正月を迎えることが「儀式的」にどれほど保てるかにかかっていると思える。こうなると、節季は個人化される。新年というよりも生誕何十年という節目の方が重くなる。昔のように数え年で年齢を数えていたときは社会的習慣と個人的生活習慣とが符節を合わせて節季を迎えたのだが、満年齢で数えるようになると、個々人で違うから社会的習慣と食い違いが出てくる。

 そうなんだね。そうやって個別化され、人は個人という自己責任で生きていくことを当然化されるから、他人の振る舞いを社会的なモンダイとして考えようという気風が衰えてしまうのかもしれない。節季という、暮らしを分節化して「場」の転換を図って来たことがこの列島の近代化をわりとスムーズに欧米的なものに変えるベースになったと思う。それと同時に、社会的な紐帯を解きほぐしてしまって、私たちの暮らし方そのものを個別化するモチーフを育ててしまっているのかもしれない。

 まさに糾える縄のごとき「節季」の移ろいということができる。

2020年12月29日火曜日

ブログ閲覧回数

 このブログの閲覧数が、週ごとに送られてくる。毎日と毎週の閲覧数と、このブログサービスサイトの全ブログの中の閲覧順位とが記されている。閲覧数が何よと思っていた私は、おおむね1日200件くらいかと識る程度で放っておいた。何がきっかけだったか忘れたが、去年(2019年)から、週ごとのそれを記録するようにした。それが今年になって大きく変わり始めていることを感じた。私のブログの評判がよくなったとか、悪くなったということではない。ブログ全体にかかわる閲覧数が変わり始めていると気づいた。

 2019年の週の閲覧数は、最低815回~最高1795回、平均すると1422回であった。1日平均200回であった。いつだったか、半世紀以上の付き合いをしている(いまだにアナログ派を貫く)知人の物書きにそのことを話したら、(そんなに多いのか)と驚いていた。専門書を出版しても手堅く売れるのは300部、多くても700部ですよと話していたある出版社の編集者の言葉が思い出される。

 ところが今年は、最低441回、最高1648回、平均1002回、平均143回。3割減、格段に下がった。でもこれって、この私のブログの評判が落ちたんじゃないの、と評判を数でみる人は思うかもしれない。そうでないと気づいたのは、やはり毎週の閲覧数につけられた「閲覧順位」である。

 このサービスサイトの全ブログの数は、おおよそ300万件の少し手前を維持している。いつかNHKに務めていた知り合いが「ブログってたいてい2年半続けば終わるのよ」といっていたから、300万件のうち、すでに終わってしまったのが9割以上あってもおかしくない。どうして? 進化生物学の研究では、99・9%の種は絶滅してしまったというからだ。ブログもまた、別に生き残ることを第一目的に目指したわけでもなかろうから、成り行きと偶然性に揺さぶられてあえなく絶滅する羽目になっても不思議ではない。

 その順位でみると、2019年の最低815回の週は20906位、最高の1795回の週は20950位。平均すると24171位であった。数が多ければ順位が上がるというわけでもない。閲覧する人全体の数が(たぶん)影響するから、数が(私のブログ内では)最低でも、全体のブログ閲覧者数の順位は最高の数の時よりも上だったことになる。

 2020年はどうか。最低の441回のときは24824位、最高1948回の時は26111位、平均25769位。やはり昨年同様、最低の時の方が最高の時よりも閲覧順位は上にある。

 2019年の最高順位は17247位、そのときの閲覧数は1667回。2020年の最高閲覧順位は18295位、806回だった。閲覧数が半数になったのに、順位は1000番くらいしか落ちていない。つまり、2019年に較べて2020年のブログ閲覧者数が、がくんと減ったのである。

 どうしてだろう? 2019年以前のそれを見ていれば、もっと別の何かが分かったかもしれない。チャットやツイッターに移る人が多くなったからとも(トランプ政権のやり口を見ていて)思わないでもない。加えてコロナウィルス禍がやってきた。ブログの長文を読むほどみなさん気が長くはない。速戦即決、短文・見出し主義。長い文章は読んでいられない。ましてや論理を追うなどムツカシイことはまっぴらごめんというわけだ。

 もっともブログと言っても、このブログのようにだらだらと書き綴るエッセイよりは、写真を載せ、少し言葉を添えるオシャレなブログが多いから、一概にチャットやツイッターと比較はできない。スマホに切り換えた人が多くなったせいもあるかもしれない。

 さて、そういうわけで、閲覧数が減っているこのブログだが、週平均が1002という数、1日平均143という数は、ゴリラ研究者のいう一人当たり150人の知り合いが精一杯という数とおおむね符合する。閲覧数は、必ずしも目を通している人の数ではない。一人が何回か見ていることもあろう。とすると、閲覧数の半分の方々が読んでくれているとみても、ありがたいことだ。

 おかげさまで明日もまた、書き継ごうかという気持ちが途絶えずつづいている。

2020年12月28日月曜日

12月限定のジョーク

 鳥観から帰って来たカミサンが、こんなことを言う。

「自分の生まれた西暦年に今の自分の年齢を足すと、誰でも2020になるだって」

 えっ、と思って足し算をしてみると、たしかに2020になる。

「これって、今年だけのことなんだって。Oさんが言っていた」

 と、鳥友の名前を告げる。Oさんは変わった方。群れるのが好きではない。朝早く、と言っても私たちとも次元が違い、新聞配達と競うかのように車を運転して鳥観に出かけ、空が白み始めるころには「おっはぁ。こんな鳥いました」と、ほぼ毎日スマホに写真を送ってくるマニアックな方。

 ふ~んと聴きながしていたカミサンの話が、お昼頃に気になった。

 今年だけっていうが、どうして? 今度は何年になるんだろう、と。

 こういうのは計算すればわかるじゃないかと数式に変換する。生まれた年をXとする。年齢をAとする。今年の暦年をYとすると、X+A=Yとなる。さて、2020年だけとなると、A=a+bと2000年を境にして二つに分けるか・・・、とやっていて気づいた。

 何やってんだ、、バカな。そもそもY-X=Aを年齢というのではないか。等号の両サイドを入れ替えるだけで、X+A=Yとなる。ということは、今年だけでなくて、来年も再来年も、この話は通用する。

 と考えて、さらに気付いた。ただ、この話は、12月じゃなくては通じない。12月となると、この年の何月生まれの人も、満年齢になるから、生年と年齢を足すと暦年になる。もし途中の月だと、まだ誕生日の来ていない人はそうならないから、おや? 変だぞと、気付くというわけだ。

 カミサンにそのことを話して、

「Oさんに担がれたんだよ」

 と告げると、

「でも、今年だけだって言ってたよ」

 と笑いながら、そうだよねえ、年齢ってそうだよねえと感に堪えないような声を出した。

 どうしてこんな、単純なことに引っかかるか。たぶん元号で生年を記憶し、ふだん西暦に置き換えて「計算」したことがないからだ。私もそういう意味では、元号と西暦の二重の遣い方が身と頭との二重性と重なっている。そういうとき、こんな簡単なジョークに引っかかってしまうってことの証明のようなもの。

 特殊詐欺に騙されないようにと、連日のようなキャンペーンがTVから流れてなお、被害に遭う人が絶えないのは、この身と頭の乖離が気が付かないところで行われているからにちがいない。ま、特殊詐欺をジョークと同列に並べるのは、ジョークに失礼かもしれない。だが、そんなことが気になった昨日であった。

2020年12月26日土曜日

ここからもう一歩の跳躍を

 今日(12/26)の朝日新聞の佐伯啓思「コロナ禍で見えたものは」が指摘していることは、このところ私が感じ記述してきたことと重なって、もっともだと思いつつ読んだ。佐伯の論展開をかいつまんでみる。


(1)「不要不急」と「必要火急」とを対置してみる。生存の確保に必要なものだけで人がやっていけるわけではない。人の文化は「不要不急」なものに支えられている。

(2)ところが文化はいま、経済に従属している。芸術も科学もエンターテインメントも同じ経済原理で動いている。

(3)経済学は「希少性を処理する方法」の研究であったが、「無限の欲望」の肥大化に「不要不急」と「必要火急」との区別が見えなくなっている。

(4)人の生における大事なものを市場原理に任せておくだけでは見失われていく。

(5)と述べて、「いかなる生、いかなる社会を望ましいと考え、いかなる文化を残すかという価値をめぐる問い」を問う入口に立つ。そうして、「生の充実には、活動の適当なサイズがある」と「無限の欲望の」抑制をほのめかす。


 佐伯が文中で触れたジジェクの「物騒な」言葉(新型コロナウィルスによって、豪華客船のような猥雑な船とおさらばでき、ディズニーランドのような退屈なアミューズメントパークが大打撃を受けたことはよかった)の方が私には共感するところが大きいが、佐伯が控えめにというか、あいまいに言葉を濁していると思われるところが、気になった。

「無限の欲望」の抑制をほのめかすにとどめているのは、人の好奇心もまた、「欲望」であるからに違いない。そこに踏み込むと、経済学という肩書をもつ学者であった彼自身にも、他人事ではない。「価値をめぐる問い」を問うこととなると、百家争鳴に陥ることは目に見えている。たぶん彼は「コロナ禍で見えたもの」を為政者に問いたいと考えているのであろうが、そういう提言的な文脈ではない。「コロナ禍でみえた」感懐を綴っているだけという体裁だから、論議を交わす場が設定されていないとも言える。つまり、佐伯が「コロナ禍にみたもの」は(全く平場に身を置く私同様)現実政治過程に生かせるようなものではないということでもある。

 でも一つ、彼の立場にあれば踏み込めないこともあるまいにと私は思う。

 生存に必要なことだけが人の文化ではないというのは正論である。だが、「市場に依存しなければわれわれは生きてゆけない」のが、コロナ禍で断たれているのだとすると、まずwith-コロナ社会において生存に必要とされる要件だけでも(市場原理と別様の回路を通して)インフラとして整えよと言えば、為政者向けの提言として活きてくる。経済学の専門家としての彼の得意分野も生かされてくる。それを「文化」の次元を一緒に論じてしまったから、焦点が拡散してしまった。「不要不急」と「必要火急」とを対置させたのであれば、まず生存に必要火急のことがらをどうするかを論じ尽くし、それとは別個に「文化」としての不要不急へ言及するものではないのか。

「過剰が整理される恐慌」襲来と同じと言えば、ただ単なる経済現象としか受けとめられず、過剰なる人命が整理されると言ってしまうとジジェク以上に「物騒な」物言いになる。そう言いたいのではあるまい。

 とすると、市場に依存しなければならない現状からどのように離脱するのかを思案するのが、学者たるものの背負っている過大なのではなかろうか。ただ単に「価値を問う」というのでは正論過ぎて、そういう問いの立て方自体が、すでに時代遅れになってしまっているのではないか。それとも佐伯啓思は、すでに引退している気分なのだろうか。ならば私と、おんなじだ。世の中的には、もう用がない。

 せっかく共感して読みすすめたのに、そこからもう一歩の跳躍が読み取れなかった。残念。

2020年12月25日金曜日

義妣の生誕104年

 今日はクリスマス。子どもが小さかった頃はクリスマスよりも、イヴの方が忙しなかった。カミサンはケーキを作り、子どもたちは冬休みに入ったと喜んでいた。今は孫も爺婆と遊んではくれない齢になったから、イヴはなくなった。ケーキもなく、おでんで夕食を済ませた。コロナ禍かどうかも関係ない静かな一日という訳だ。

 12月25日は、信仰心の無い私にとっては、少し前から義母の誕生日であった。どうして?

 じつは、彼女が80歳の時にエジプトへ一緒に行った。ナイル川やピラミッドを見て回り、モーセが十戒を授かったというシナイ山にも登って元気であった。同時に好奇心も旺盛であった。ちょうど彼女の誕生日と重なってツアーの会社がささやかなお祝いを夕食の時に組んでくれて、じつは誕生日を知った。

 太平洋戦争のニューギニアで夫を亡くし、4人の子どもたちを育ててきた大正生まれ。10年前に94歳で亡くなった。高知のチベットと言われた僻地に暮らし、脳梗塞で倒れる直前までよく歩き、ゲートボールに興じ、翌月の旅行を楽しみにする活動的な年寄りであった。

 8月の末、朝起きてこないので家人が部屋に行ったら、脳梗塞を起していたという。中心部の診療所に救急搬送された。だが何しろ山奥のこと、いつもならドクターヘリで高知市内へ運ばれ、入院手術となるのだが、動かさない方がよいという医師の診断で、その場で手当てを受けた。翌日に予定されていた「健康診断」のために夕方から水をとらなかったという。猛暑の一日であったから熱中症が引き金になったのだろうとカミサンの姉妹たちは推定していた。

 でもどうして義妣の生誕104歳と半端な数字なのか? じつは明治生まれの私の母が亡くなったのが104歳であったから、義母が生きていればと思い出したのであった。

 わがカミサンは「コロナ禍も知らず、長女が脳梗塞で倒れてリハビリ療養中であることも知らないで逝ったのは良かったかもね」と、坦々と振り返る。十年経ったせいもあろうが、この齢になると(母が)亡くなったことをあらためて悲しむ感性は沸いてこない。もう自分たちの番が来ている。ましてコロナのせいで死に目にも会えず、お骨になって帰ってくるというのでは、悲嘆の度合いが違う。「良かったかもね」というのは、残される自分の側にとって良かったという意味かもしれない。

 私たちの親の世代が、案外長生きなのは、戦後の経済成長と医療や衛生環境の充実とが貢献しているとは思う。だがそれ以上に、明治や大正生まれの人たちの生きてきた環境が、自ずと足腰を鍛えるように作用していたからではないかと思う。

 さきほどカミサンの故郷を高知の僻地と言った。そうと知ったのは結婚の承諾を得るために高知の梼原に足を運んだ昭和41年のこと。高知駅で乗り換えて須崎駅で鉄道を降りる。梼原行のバスに乗り4時間。くねくねとくねる道を走って山の峠を越える。「辞表峠」と呼ばれたとカミサンが話す。赴任する人が、まずこの峠を越えるときに辞表を提出すると笑っていたのを思い出す。でもその峠は、まだ半分ほどの入り口。さらにいくつもの山を越え梼原町の中心部に着く。そこでバス乗り換えて、さらに1時間。四万十川の上流の支流にあたる四万川という字の残る奥のバス停で降りる。ほらっ、あそこが家よというカミサンの声に励まされて歩きだす。バス停から30分もかかったかと思ったほどだ。まさに高知のチベットと呼ぶにふさわしい佇まいであった。むろん、チベットを知っていたわけではない。話に聴いていただけ。チベットを実際に訪ねたのは、定年退職してからであるから、そのときから40年ほど経っていた。

 いまはトンネルが抜け、舗装路が奥の奥まで通じている50kmだから、マイカーで須崎から1時間もあれば到着する。だが便利になった分だけ、意識して歩かないと、体は車社会に適応して歩けなくなってくる。つまり、大正生まれの義妣が元気であったのは、運転免許を持つわけでもなく、ひたすら自分の脚で歩いていたから。80歳でシナイ山に上り、エジプトへの旅に行けたのも、便利コンビニの社会の機能性に適応せずそれを利用するだけにして、身を処してきたからであったと、妣の世代の生き方を振り返っている。

 心すべし。便利コンビニとわが身の適応とを意識して峻別して、生きていけと。コロナ禍の中でも、この分別が意味を持つように思うのだが、それはまたあとで考えてみよう。

2020年12月24日木曜日

名無しの山、羽賀場山

 昨日(12/23)、たぶん今年最後の山へ出かけた。羽賀場山774m。栃木県の鹿沼市にある里山。里山というのは地元の人には庭のように慕われているが、全国区ではというか、山歩きを好む人たちの間ではさほど関心を払われない低山という意味で、私は用いている。栃木百名山の一つ。

 東北道を走り、鹿沼ICで降りて進む前方に雪をかぶった男体山がひときわ高く姿を現し、その右へ大真名子山、小真名子山、女峰山と、やはり雪で真っ白になった奥日光の連山が居並ぶ。ここ一週間の天気が、関東地方には乾季をもたらしてよく晴れて寒い日々となっているが、日本海側には強烈な寒気と大量の降雪をもたらしている。それを象徴するような(日本海側の)景色に、思わずため息が出る。冬がやって来た。

 羽賀場山は地蔵岳や古峰ヶ原など前日光の山々の東側、関東平野との端境に展開している。鹿沼の市街地側からみると前日光や奥日光の山々の前衛になる。前衛の黒々とした山並みの向こう側から背を伸ばして顔を出すように白い奥日光の山々が聳えるのは、なかなかの壮観である。羽賀場山の山頂に上ればもっと見事に見えるのではなかろうか。今日の山への期待が膨らむ。

 大盧山長明寺はnaviに入っていない。住所を入れるが、精確な番地までは入力できない。ま、近くへ寄ればよかろうと考えていたが、一つの字が広いから、naviの「案内」が終了してから探すのにちょっと苦労する。お寺の下に来て羽賀場山の名の由来は「はかば」ではなかったかと思った。山への傾斜に沿って上に位置する長明寺の下の方には、たくさんのお墓が並んでいた。まるで裏の杉山をご神体にして墓守りをする気色が何となく立派に感じられる。

 車で境内への道を上って山門の裏手に入り込むと、ちょうど車を置くのに都合のよい広場がある。境内の隅を山の方へ入ったところで何やらユンボなどの大型重機が何台か入り込んで大掛かりな工事をしている。登山口を聴くと、その工事の進む前方を上ると指さす。礼を言い、車を止めるがと断ると、少し下へ降りた所の駐車場に置けという。一度引き返し、車を下へ動かすと建物の一階が車の置き場になっている。

 登りはじめる。たいへんな急斜面。キャタピラ付きのユンボが上るから広く凸凹している。上は砂防工事をしているようだ。道が二つに分かれている。入り込んだ右への道は行きどまり。戻っていると、作業員が重機とともに上ってきて、そっちじゃないよ、と左の道を指す。その先に小さな「羽賀場山→」の表示があると教えてくれた。広い作業道からはずれ、山の稜線を上る踏み跡があった。

 しかし踏み跡は、はっきりしていない。上る人が少ないのではなかろうか。谷の向こうに今日の目的の山、羽賀場山が見える。緑のこぶが三つ並ぶように盛り上がっている。なるほどこれが墓に見えるのかも、と思う。ただ植林作業の行われた後が段々になっていて傾斜も歩くのは容易。振り返ると麓の田畑と人家が、まるで隠里。高圧鉄塔が立ち並ぶ山が里を隠すように見える。そこからの高圧線を引き受ける第一鉄塔につく。20年前に発行された山と渓谷社の『栃木県の山』のコースタイムよりはちょっと早い。第二鉄塔を抜けるとすっかり杉林に入る。陽も差さない。約1時間で主稜線に乗り、羽賀場山への分岐710mに着く。やはりコースタイムより20分ほど早い。いいペースだし、疲れたという感じはない。

 そこからの稜線上が急な上りになる。握るこぶを作ったロープを張っている。足元には落ち葉が降り積もり、グリップが利かない。ロープが役に立つ。登っては下り、降っては上るをくり返す。20分余で羽賀場山に着いた。実はこの山名が国土地理院地図には記されていない。ただ標高だけが774.6mとあるだけ。山頂の標識には「羽賀場山774.5m栃木の山紀行」と記してある。ふと気づいた。この標高が地元の呼ぶ「羽賀場山」を「名無し」にしたのではないか、と。そういうシャレがわからねえかなあと国土地理院の地図製作者がジョークをかました、と。杉林に囲まれてまったく展望はない。

 先ほどの分岐に戻り、登ってきたのとは九十度違う東の方へ向かう。

 そうそう、この羽賀場山の登山ルートは地理院地図には記載されていない。山渓のガイドブックの略図を見て国土地理院地図の書きこみを見ながら歩いている。だから大体の見当をつけ、あとは踏み跡を見つけて歩いているのだが、落ち葉が降り積もり、踏み跡も定かではない。分岐からの稜線は広く、ところどころで二つ三つの支稜線に分かれているから、どちらへ踏み込むかは思案しなければならない。そのときスマホに入れたgeographicaの地図に打ち込んだ通過ポイントとGPSの表示する現在地点が絶大な威力を発揮する。おおよその方向を確認しては、それらしき踏み跡を探って踏み出す。こうして稜線の形と通過する等高線のポイントと向かう方向をチェックしながら暗くて広い杉林を、落ち葉を踏みしめてすすむ。これはこれでルートファインディングの面白さを湛えている。

 急な斜面を下る所では、そちらにもこちらにも歩くのに良さそうな足場がある。だがその先は、行き止まりってこともあって、木上りならぬ木降りになる。踏みつけた腐った倒木が落ち葉とともに滑り落ちる。バランスをとって転ばないようにする。気が抜けない。地図上ではこの方向に林道の末端があるはず。ガイドブックはそれより手前の、高圧線の下に出る前に林道に出逢うと書いていた。地理院地図より後に林道が延びたのだろうか。でも、下の方は、深い谷にみえる。空を見上げると杉の葉の間に高圧線が走っている。もう出合ってもいいはずだのに。

 立ち止まって暗い谷をみていると、目が馴染んできて、谷の様子が見えるようになる。沢筋と思われる向こう岸に、緑の苔と草に覆われた平たい所があると気づく。ああ、あれが林道だ。こうして林道に降り立った。ガイドブックのコースタイムより20分早い。地図に記された林道に出ると、さすがにしっかりとした設えになっている。両側は、相変わらず杉林。途中で「不法投棄監視パトロール」と車体に書いたバンが止まっている。誰も乗っていない。周りは大きく開け、木の切り出しが行われている。伐採の大きな重機が通るのか。ついでに植林もしているのか。陽ざしが明るく差し込んでいるが、人影は見えない。

 さらに降ると、3メートルほどに切った丸太を積み上げて干している。その山がいくつか見える。こうして何年か乾かして製材所へもっていくのか。民家が出てきた。誰かのアトリエもあるのか、案内看板が立てられている。後からバンがやって来た。あの「訃報と機関紙パトロール」だ。なかに6人ほどの人が乗っている。皆さん若い。前方からトラックがやってくる。これは丸太の積み出しを行うのか。

 おっ、釣り堀に出た。大きい。広い沢水をためた池にマスだろうかイワナだろうか、テカリの入った黒い身を寄せてたくさん泳いでいる。ベンチもあり、食堂風にもなっている。奥の方に人影が見える。私はまだお昼を食べていないのに気付く。11時半。

 奥の人に「イワナを焼いてもらえる?」と訊ねる。

「いいですよ、どうぞ」

「お弁当も食べたいのだけど」

「どうぞどうぞ」

 というわけで、食堂の中に入る。炭火が焚かれている。串に刺したイワナをもってきて炭火の脇に立てかける。塩を振っているが、イワナはまだ尾びれを揺らし体をくねらせている。ずいぶん大きい。そういうと、「焼くと小さくなります」と、申し訳なさそうに応える。

 60年配のお母さんが入ってくる。イワナの焼方を手ほどきする。なるほど、この人はお嫁さんらしい。羽賀場山に上ったと知ると「何かあるんかい?」とお母さんは訊ねる。

「ここら辺の人は上らんよ。皆東京の方から来た人ばかりだね」という。

 栃木百名山にもなっているのは、栃木県の広報戦略か。地元に人にとっては林業の杉山として大切にしているだけで、上り歩く山ではないらしい。ま、そうか。そういう里山があっても不思議ではない。

 イワナの炭火焼きは美味しかった。串刺しのそれを見たときは、済まないことをしたかなと思ったが、塩のたっぷりついた皮をはがしてみると、白い身が湯気を立て、ちょっと青い感じの香りを放つ。口に含むと、やわらかい舌触りが口の中でほぐれる。丁寧にほぐして目玉も食べてしまった。

 コロナが広がってから、釣り人が増えたそうだ。ことに日曜日はいっぱいになるという。明日で学校もお休みだから子どもたちも来ますよとうれしそうだった。

 30分程でお昼を済ませ、車を置いた長明寺に向かう。12時半着。4時間10分のコースタイムの行動時間がほぼ4時間。歩行時間は3時間半。まずまずの年末山行となった。