今年も明日でお仕舞い。30日なんだから、そうは思うが、なぜか今年は年が改まるという感触が湧かない。どうしてなのだろう。
カミサンは「今年は孫たちが来ないからね」という。孫たちが来ないから、お接待や料理を考えたりしなくていい。お節だって年寄り二人分の酒の肴くらいがあればいいから、あとはお餅とお雑煮か。仕事をリタイアして18年ともなると、節季仕舞いのあわただしさもない。
つまり、日常の変わらぬ日々が坦々とつらなり、明ければ1月1日という平凡な1日がはじまるだけ。そういう風に考えると、日常と非日常の端境にある心理的な移ろいというのが、あるかないかの違いだけになる。
でも、ちょっと違うような気がする。
年末の大掃除だってそうだ。お節だってそうだ。賀状だってそうだ。そもそも節季という区切りをつけるセンス自体が(歳末・正月だけを指すのではないが)、場面の転換を図って苦しい面倒なものごとをやり過ごし、気持ちを巻きなおして新たな場を迎える仕儀ではないか。仕儀という言葉自体も、区切りをつける儀式的な面持ちを言葉にしたものだ。ただ心もちの移ろいというにとどまらず、儀式的な言葉にすることによって、節季という区切りを外化して、そこへ心もちをあわせるせ生活習慣を築いてい来たのではなかったか。
だから子細にみると、年を越す世の中の大きな社会習慣と、私たち自身の身に沁みこんだ歳末・新年という越年の感覚と、私自身が意識的にそれをどう受け止めているかということと、それら三層の絡み合いと移ろいとが、錯雑して今のわが身の裡に醸し出す感懐が「今年の年の瀬感覚」になっているのである。
世の中の大きな社会習慣というのは、おおよそ12/29から1/3までは仕事はお休みであるとか、その間帰省するとか、初詣に出かけるとか、年始に行くとか、お屠蘇やお節やお年玉といったこととかの「行事」になる。だがそれらが社会習慣という外的なもののまんまであれば、ちょうど5月の大型連休と同じで、節季という感触には結びつかない。ということは、幾分かでも子どものころからの暮らし方によって、身に染みているものがあるのか。
子どもの頃の歳末は慌ただしかった。家業が八百屋だったこともあって、大晦日は除夜の鐘を聴きながら店仕舞いをし、風呂に入り、ラジオの「紅白」や「ゆく年くる年」を聴いた猥雑な混沌の邪気を払って新しい年を迎えるって感覚が底流している。それが年の瀬というものであった。わりと儀式的な型を重んじていた母親の振る舞いもあって、お節やお屠蘇やお年玉は年を越す行事として受けとめる感覚は身に備わっていたが、物心つくころには、戦争と敗戦とその後の世の移ろいとを親や大人の無責任な振る舞いの結果として受け止めるようになってから、わが身から引きはがすようにして、外化していった。
その、意識的に身につけた観念が、齢を取るにつれて、そう容易に分節化して分けられることではないと受け止めるようになって、身に沁みた儀式的行事を、素直にわがものとして認知するようになったといえようか。子や孫が生まれ、節季という切り換えを取り入れることによって、日々の暮らしを継続する活力に転じることも、無意識にしていたのだと、いま振り返って思う。ここで、社会的習慣とわが身に沁みついた儀式的行事とを分けて受け止めていたことになる。
となると、子や孫が爺婆から離れ自律していくことによって、ふたたびわが身の生活習慣が転機を迎えているとみることができる。もちろん日常がいつもの日常であれば、盆と正月には子や孫が来るという「ふるさと」としての爺婆が現れるわけだが、新型コロナウィルスのせいで、それも適わない。
つまり年寄り二人だけの年の瀬が押しつまり、年寄りだけの正月を迎えることが「儀式的」にどれほど保てるかにかかっていると思える。こうなると、節季は個人化される。新年というよりも生誕何十年という節目の方が重くなる。昔のように数え年で年齢を数えていたときは社会的習慣と個人的生活習慣とが符節を合わせて節季を迎えたのだが、満年齢で数えるようになると、個々人で違うから社会的習慣と食い違いが出てくる。
そうなんだね。そうやって個別化され、人は個人という自己責任で生きていくことを当然化されるから、他人の振る舞いを社会的なモンダイとして考えようという気風が衰えてしまうのかもしれない。節季という、暮らしを分節化して「場」の転換を図って来たことがこの列島の近代化をわりとスムーズに欧米的なものに変えるベースになったと思う。それと同時に、社会的な紐帯を解きほぐしてしまって、私たちの暮らし方そのものを個別化するモチーフを育ててしまっているのかもしれない。
まさに糾える縄のごとき「節季」の移ろいということができる。
0 件のコメント:
コメントを投稿