今日(12/26)の朝日新聞の佐伯啓思「コロナ禍で見えたものは」が指摘していることは、このところ私が感じ記述してきたことと重なって、もっともだと思いつつ読んだ。佐伯の論展開をかいつまんでみる。
(1)「不要不急」と「必要火急」とを対置してみる。生存の確保に必要なものだけで人がやっていけるわけではない。人の文化は「不要不急」なものに支えられている。
(2)ところが文化はいま、経済に従属している。芸術も科学もエンターテインメントも同じ経済原理で動いている。
(3)経済学は「希少性を処理する方法」の研究であったが、「無限の欲望」の肥大化に「不要不急」と「必要火急」との区別が見えなくなっている。
(4)人の生における大事なものを市場原理に任せておくだけでは見失われていく。
(5)と述べて、「いかなる生、いかなる社会を望ましいと考え、いかなる文化を残すかという価値をめぐる問い」を問う入口に立つ。そうして、「生の充実には、活動の適当なサイズがある」と「無限の欲望の」抑制をほのめかす。
佐伯が文中で触れたジジェクの「物騒な」言葉(新型コロナウィルスによって、豪華客船のような猥雑な船とおさらばでき、ディズニーランドのような退屈なアミューズメントパークが大打撃を受けたことはよかった)の方が私には共感するところが大きいが、佐伯が控えめにというか、あいまいに言葉を濁していると思われるところが、気になった。
「無限の欲望」の抑制をほのめかすにとどめているのは、人の好奇心もまた、「欲望」であるからに違いない。そこに踏み込むと、経済学という肩書をもつ学者であった彼自身にも、他人事ではない。「価値をめぐる問い」を問うこととなると、百家争鳴に陥ることは目に見えている。たぶん彼は「コロナ禍で見えたもの」を為政者に問いたいと考えているのであろうが、そういう提言的な文脈ではない。「コロナ禍でみえた」感懐を綴っているだけという体裁だから、論議を交わす場が設定されていないとも言える。つまり、佐伯が「コロナ禍にみたもの」は(全く平場に身を置く私同様)現実政治過程に生かせるようなものではないということでもある。
でも一つ、彼の立場にあれば踏み込めないこともあるまいにと私は思う。
生存に必要なことだけが人の文化ではないというのは正論である。だが、「市場に依存しなければわれわれは生きてゆけない」のが、コロナ禍で断たれているのだとすると、まずwith-コロナ社会において生存に必要とされる要件だけでも(市場原理と別様の回路を通して)インフラとして整えよと言えば、為政者向けの提言として活きてくる。経済学の専門家としての彼の得意分野も生かされてくる。それを「文化」の次元を一緒に論じてしまったから、焦点が拡散してしまった。「不要不急」と「必要火急」とを対置させたのであれば、まず生存に必要火急のことがらをどうするかを論じ尽くし、それとは別個に「文化」としての不要不急へ言及するものではないのか。
「過剰が整理される恐慌」襲来と同じと言えば、ただ単なる経済現象としか受けとめられず、過剰なる人命が整理されると言ってしまうとジジェク以上に「物騒な」物言いになる。そう言いたいのではあるまい。
とすると、市場に依存しなければならない現状からどのように離脱するのかを思案するのが、学者たるものの背負っている過大なのではなかろうか。ただ単に「価値を問う」というのでは正論過ぎて、そういう問いの立て方自体が、すでに時代遅れになってしまっているのではないか。それとも佐伯啓思は、すでに引退している気分なのだろうか。ならば私と、おんなじだ。世の中的には、もう用がない。
せっかく共感して読みすすめたのに、そこからもう一歩の跳躍が読み取れなかった。残念。
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