2020年12月31日木曜日

コロナ禍の山歩き

 今年は何日、山に入ったろうか。1月が6日、2月が3日。2月には与那国島へ遊びに行ったから山行が減った。そして2月末には、新型コロナに関する緊急事態宣言が出されて、県外へ行くのは憚られるようになった。3月は日帰りの3日となり、4月7日を最後に6月9日まで2ヵ月間、山行が途絶えた。

 今年の山行日数は、32回、49日。20回の日帰り山行と12回、29日の泊をともなう山行であった。そのうち山の会の人たちと一緒の山行は、22回、31日に及ぶ。私の個人山行は11回、18日だったから、ま、山の会の皆さんにはよくつきあってもらったと思う。個人山行の1回には、現地の登山口に行ってみるといつも一緒に山に入るkw夫妻の車が止まっていた。出逢うために(たぶんこうだろうと思われる)コースの逆を辿って、うまく中間点の山中で一緒にお昼をとるのもあった。

 おおよそ週1回の山行をしていたことから考えると、4,5月の二月を除く山行日数としては、まずまずよく行ったといえよう。ならばコロナの影響は、さほどではなかったのかというと、そうでもない。

 同行する山の会の人たちが、格段に減った。何しろ公共交通機関をつかえないとなると、私とkwさんの車で行くしかない。同行する人がいれば最寄りの駅か浦和駅で待ち合わせて登山口に向かったが、それをしたのは3人だけ。あとの方々は、すっかり山から遠ざかったのではなかろうか。

 私は電車やバスを使わず、車で行くようになった。一番遠くまで行ったのは会津駒ケ岳登山口の檜枝岐村だったろうか。甲州市の瑞牆山のほうが遠かったろうか、それとも巻機山だったろうか。3時間半から4時間くらいの運転は、しかし、日帰りではないから、ゆったりと時間をとってムリをしないようにした。

 同行者が減ったことによる大きな変化は、山行計画段階からはじまった。これまでのように実施日と目的の山名を提示するのではなく、実施の週と目的の山名を提案する。それに同行を希望する方がいれば、その人たちと天気予報を参照しながら、実施日を決めるようにした。その結果、ほぼ晴れた日に山へ入れる。予報と違って雲の中を歩くようなこともないわけではなかったが、それまでのようにざんざん降る雨の中を上るようなことはなくなった。これはこれで、山の愉しみが倍加するようになったともいえる。

 それとともに、テント泊がはじまった。私は昔から使っていた一、二人用テントを引っ張り出してつかった。kwさん夫妻はテント用具一式を手に入れ、テント暮らしの第一歩からはじめた。山へ行くごとにキャンプ泊が進化していく。それは「泊」だけを機能的に考えていた私のテント泊観を変えるほどのちからがあり、それはそれで面白いものであった。kw夫妻はそのうち焚火をするようになり、11月の王岳山行を最後に、寒くなったのでテント泊を終了したのであった。山歩き以外に、キャンプを楽しむというアウトドア領域を開拓したともいえる。これは来年の山行の、行き先にも滞在の仕方にも影響を与えるように思う。

 山に登る前日に、登山口の近場でテントを張る。もしロングトレイルを歩くのであれば、帰着した日もテントに泊まる。そうすると、年をとっても登れる山の範囲がぐんと広がる。今年登った百名山は、5つか。巻機山、武尊山、瑞牆山、会津駒ケ岳、白砂山。どれも前日泊をした。会津駒と白砂山は下山後にもテントに泊まった。

 テント泊が面白いと思ったもうひとつは、テント場に椅子を設え、山を眺めながらワインを傾けてぼんやり過ごす楽しさと言おうか。ボーっとしている時間に身を委ねて、大自然に身を浸すのがこんなにも気持ちをくつろがせるものかと、身の裡の何かがほぐれていくのを感じたことだった。山が歩けなくても、こうやって過ごす時間てのがあるんだ。いつも目的をもって前へ進むという私のからだが身の奥にしつらえてしまっている感性を揺さぶるような体感であった。面白い。

 kw夫妻が付き合ってくれてずいぶん私の単独行は減ったが、いつもそうしていると私自身の山行センスが鈍るから、できるだけ週1のペースを崩さず、どこかしらの山へ行くようにしている。これまで登ったことのない山を選ぶようにするのだが、そうしてみると、まだまだ関東の近場にも登ったことのない山がずいぶんあることがわかった。また、「日本二百名山」とか「日本三百名山」とか「山梨百名山」「栃木百名山」「群馬百名山」などが選定されていることも分かる。

 あるいはまた、行ってみると、ルートファインディングも含めて、そう簡単な山でないこともあった。地元では登る山として意識されていないのに、地元の名山のように喧伝されているのがあることも分かって、可笑しかった。

 こうしてみると、関東甲信越の山だけでも、まだたくさんの未踏峰があり、来年以降の登山に困ることはない。こちらの力が尽きてしまうことの方が先のようだから、しばらくはプランニングの愉しみもとっておける。

 ま、こんなところが今年の山を振り返って思うことでした。

2020年12月30日水曜日

年の瀬が押しつまるとは

 今年も明日でお仕舞い。30日なんだから、そうは思うが、なぜか今年は年が改まるという感触が湧かない。どうしてなのだろう。

 カミサンは「今年は孫たちが来ないからね」という。孫たちが来ないから、お接待や料理を考えたりしなくていい。お節だって年寄り二人分の酒の肴くらいがあればいいから、あとはお餅とお雑煮か。仕事をリタイアして18年ともなると、節季仕舞いのあわただしさもない。

 つまり、日常の変わらぬ日々が坦々とつらなり、明ければ1月1日という平凡な1日がはじまるだけ。そういう風に考えると、日常と非日常の端境にある心理的な移ろいというのが、あるかないかの違いだけになる。

 でも、ちょっと違うような気がする。

 年末の大掃除だってそうだ。お節だってそうだ。賀状だってそうだ。そもそも節季という区切りをつけるセンス自体が(歳末・正月だけを指すのではないが)、場面の転換を図って苦しい面倒なものごとをやり過ごし、気持ちを巻きなおして新たな場を迎える仕儀ではないか。仕儀という言葉自体も、区切りをつける儀式的な面持ちを言葉にしたものだ。ただ心もちの移ろいというにとどまらず、儀式的な言葉にすることによって、節季という区切りを外化して、そこへ心もちをあわせるせ生活習慣を築いてい来たのではなかったか。

 だから子細にみると、年を越す世の中の大きな社会習慣と、私たち自身の身に沁みこんだ歳末・新年という越年の感覚と、私自身が意識的にそれをどう受け止めているかということと、それら三層の絡み合いと移ろいとが、錯雑して今のわが身の裡に醸し出す感懐が「今年の年の瀬感覚」になっているのである。

 世の中の大きな社会習慣というのは、おおよそ12/29から1/3までは仕事はお休みであるとか、その間帰省するとか、初詣に出かけるとか、年始に行くとか、お屠蘇やお節やお年玉といったこととかの「行事」になる。だがそれらが社会習慣という外的なもののまんまであれば、ちょうど5月の大型連休と同じで、節季という感触には結びつかない。ということは、幾分かでも子どものころからの暮らし方によって、身に染みているものがあるのか。

 子どもの頃の歳末は慌ただしかった。家業が八百屋だったこともあって、大晦日は除夜の鐘を聴きながら店仕舞いをし、風呂に入り、ラジオの「紅白」や「ゆく年くる年」を聴いた猥雑な混沌の邪気を払って新しい年を迎えるって感覚が底流している。それが年の瀬というものであった。わりと儀式的な型を重んじていた母親の振る舞いもあって、お節やお屠蘇やお年玉は年を越す行事として受けとめる感覚は身に備わっていたが、物心つくころには、戦争と敗戦とその後の世の移ろいとを親や大人の無責任な振る舞いの結果として受け止めるようになってから、わが身から引きはがすようにして、外化していった。

 その、意識的に身につけた観念が、齢を取るにつれて、そう容易に分節化して分けられることではないと受け止めるようになって、身に沁みた儀式的行事を、素直にわがものとして認知するようになったといえようか。子や孫が生まれ、節季という切り換えを取り入れることによって、日々の暮らしを継続する活力に転じることも、無意識にしていたのだと、いま振り返って思う。ここで、社会的習慣とわが身に沁みついた儀式的行事とを分けて受け止めていたことになる。

 となると、子や孫が爺婆から離れ自律していくことによって、ふたたびわが身の生活習慣が転機を迎えているとみることができる。もちろん日常がいつもの日常であれば、盆と正月には子や孫が来るという「ふるさと」としての爺婆が現れるわけだが、新型コロナウィルスのせいで、それも適わない。

 つまり年寄り二人だけの年の瀬が押しつまり、年寄りだけの正月を迎えることが「儀式的」にどれほど保てるかにかかっていると思える。こうなると、節季は個人化される。新年というよりも生誕何十年という節目の方が重くなる。昔のように数え年で年齢を数えていたときは社会的習慣と個人的生活習慣とが符節を合わせて節季を迎えたのだが、満年齢で数えるようになると、個々人で違うから社会的習慣と食い違いが出てくる。

 そうなんだね。そうやって個別化され、人は個人という自己責任で生きていくことを当然化されるから、他人の振る舞いを社会的なモンダイとして考えようという気風が衰えてしまうのかもしれない。節季という、暮らしを分節化して「場」の転換を図って来たことがこの列島の近代化をわりとスムーズに欧米的なものに変えるベースになったと思う。それと同時に、社会的な紐帯を解きほぐしてしまって、私たちの暮らし方そのものを個別化するモチーフを育ててしまっているのかもしれない。

 まさに糾える縄のごとき「節季」の移ろいということができる。

2020年12月29日火曜日

ブログ閲覧回数

 このブログの閲覧数が、週ごとに送られてくる。毎日と毎週の閲覧数と、このブログサービスサイトの全ブログの中の閲覧順位とが記されている。閲覧数が何よと思っていた私は、おおむね1日200件くらいかと識る程度で放っておいた。何がきっかけだったか忘れたが、去年(2019年)から、週ごとのそれを記録するようにした。それが今年になって大きく変わり始めていることを感じた。私のブログの評判がよくなったとか、悪くなったということではない。ブログ全体にかかわる閲覧数が変わり始めていると気づいた。

 2019年の週の閲覧数は、最低815回~最高1795回、平均すると1422回であった。1日平均200回であった。いつだったか、半世紀以上の付き合いをしている(いまだにアナログ派を貫く)知人の物書きにそのことを話したら、(そんなに多いのか)と驚いていた。専門書を出版しても手堅く売れるのは300部、多くても700部ですよと話していたある出版社の編集者の言葉が思い出される。

 ところが今年は、最低441回、最高1648回、平均1002回、平均143回。3割減、格段に下がった。でもこれって、この私のブログの評判が落ちたんじゃないの、と評判を数でみる人は思うかもしれない。そうでないと気づいたのは、やはり毎週の閲覧数につけられた「閲覧順位」である。

 このサービスサイトの全ブログの数は、おおよそ300万件の少し手前を維持している。いつかNHKに務めていた知り合いが「ブログってたいてい2年半続けば終わるのよ」といっていたから、300万件のうち、すでに終わってしまったのが9割以上あってもおかしくない。どうして? 進化生物学の研究では、99・9%の種は絶滅してしまったというからだ。ブログもまた、別に生き残ることを第一目的に目指したわけでもなかろうから、成り行きと偶然性に揺さぶられてあえなく絶滅する羽目になっても不思議ではない。

 その順位でみると、2019年の最低815回の週は20906位、最高の1795回の週は20950位。平均すると24171位であった。数が多ければ順位が上がるというわけでもない。閲覧する人全体の数が(たぶん)影響するから、数が(私のブログ内では)最低でも、全体のブログ閲覧者数の順位は最高の数の時よりも上だったことになる。

 2020年はどうか。最低の441回のときは24824位、最高1948回の時は26111位、平均25769位。やはり昨年同様、最低の時の方が最高の時よりも閲覧順位は上にある。

 2019年の最高順位は17247位、そのときの閲覧数は1667回。2020年の最高閲覧順位は18295位、806回だった。閲覧数が半数になったのに、順位は1000番くらいしか落ちていない。つまり、2019年に較べて2020年のブログ閲覧者数が、がくんと減ったのである。

 どうしてだろう? 2019年以前のそれを見ていれば、もっと別の何かが分かったかもしれない。チャットやツイッターに移る人が多くなったからとも(トランプ政権のやり口を見ていて)思わないでもない。加えてコロナウィルス禍がやってきた。ブログの長文を読むほどみなさん気が長くはない。速戦即決、短文・見出し主義。長い文章は読んでいられない。ましてや論理を追うなどムツカシイことはまっぴらごめんというわけだ。

 もっともブログと言っても、このブログのようにだらだらと書き綴るエッセイよりは、写真を載せ、少し言葉を添えるオシャレなブログが多いから、一概にチャットやツイッターと比較はできない。スマホに切り換えた人が多くなったせいもあるかもしれない。

 さて、そういうわけで、閲覧数が減っているこのブログだが、週平均が1002という数、1日平均143という数は、ゴリラ研究者のいう一人当たり150人の知り合いが精一杯という数とおおむね符合する。閲覧数は、必ずしも目を通している人の数ではない。一人が何回か見ていることもあろう。とすると、閲覧数の半分の方々が読んでくれているとみても、ありがたいことだ。

 おかげさまで明日もまた、書き継ごうかという気持ちが途絶えずつづいている。

2020年12月28日月曜日

12月限定のジョーク

 鳥観から帰って来たカミサンが、こんなことを言う。

「自分の生まれた西暦年に今の自分の年齢を足すと、誰でも2020になるだって」

 えっ、と思って足し算をしてみると、たしかに2020になる。

「これって、今年だけのことなんだって。Oさんが言っていた」

 と、鳥友の名前を告げる。Oさんは変わった方。群れるのが好きではない。朝早く、と言っても私たちとも次元が違い、新聞配達と競うかのように車を運転して鳥観に出かけ、空が白み始めるころには「おっはぁ。こんな鳥いました」と、ほぼ毎日スマホに写真を送ってくるマニアックな方。

 ふ~んと聴きながしていたカミサンの話が、お昼頃に気になった。

 今年だけっていうが、どうして? 今度は何年になるんだろう、と。

 こういうのは計算すればわかるじゃないかと数式に変換する。生まれた年をXとする。年齢をAとする。今年の暦年をYとすると、X+A=Yとなる。さて、2020年だけとなると、A=a+bと2000年を境にして二つに分けるか・・・、とやっていて気づいた。

 何やってんだ、、バカな。そもそもY-X=Aを年齢というのではないか。等号の両サイドを入れ替えるだけで、X+A=Yとなる。ということは、今年だけでなくて、来年も再来年も、この話は通用する。

 と考えて、さらに気付いた。ただ、この話は、12月じゃなくては通じない。12月となると、この年の何月生まれの人も、満年齢になるから、生年と年齢を足すと暦年になる。もし途中の月だと、まだ誕生日の来ていない人はそうならないから、おや? 変だぞと、気付くというわけだ。

 カミサンにそのことを話して、

「Oさんに担がれたんだよ」

 と告げると、

「でも、今年だけだって言ってたよ」

 と笑いながら、そうだよねえ、年齢ってそうだよねえと感に堪えないような声を出した。

 どうしてこんな、単純なことに引っかかるか。たぶん元号で生年を記憶し、ふだん西暦に置き換えて「計算」したことがないからだ。私もそういう意味では、元号と西暦の二重の遣い方が身と頭との二重性と重なっている。そういうとき、こんな簡単なジョークに引っかかってしまうってことの証明のようなもの。

 特殊詐欺に騙されないようにと、連日のようなキャンペーンがTVから流れてなお、被害に遭う人が絶えないのは、この身と頭の乖離が気が付かないところで行われているからにちがいない。ま、特殊詐欺をジョークと同列に並べるのは、ジョークに失礼かもしれない。だが、そんなことが気になった昨日であった。

2020年12月26日土曜日

ここからもう一歩の跳躍を

 今日(12/26)の朝日新聞の佐伯啓思「コロナ禍で見えたものは」が指摘していることは、このところ私が感じ記述してきたことと重なって、もっともだと思いつつ読んだ。佐伯の論展開をかいつまんでみる。


(1)「不要不急」と「必要火急」とを対置してみる。生存の確保に必要なものだけで人がやっていけるわけではない。人の文化は「不要不急」なものに支えられている。

(2)ところが文化はいま、経済に従属している。芸術も科学もエンターテインメントも同じ経済原理で動いている。

(3)経済学は「希少性を処理する方法」の研究であったが、「無限の欲望」の肥大化に「不要不急」と「必要火急」との区別が見えなくなっている。

(4)人の生における大事なものを市場原理に任せておくだけでは見失われていく。

(5)と述べて、「いかなる生、いかなる社会を望ましいと考え、いかなる文化を残すかという価値をめぐる問い」を問う入口に立つ。そうして、「生の充実には、活動の適当なサイズがある」と「無限の欲望の」抑制をほのめかす。


 佐伯が文中で触れたジジェクの「物騒な」言葉(新型コロナウィルスによって、豪華客船のような猥雑な船とおさらばでき、ディズニーランドのような退屈なアミューズメントパークが大打撃を受けたことはよかった)の方が私には共感するところが大きいが、佐伯が控えめにというか、あいまいに言葉を濁していると思われるところが、気になった。

「無限の欲望」の抑制をほのめかすにとどめているのは、人の好奇心もまた、「欲望」であるからに違いない。そこに踏み込むと、経済学という肩書をもつ学者であった彼自身にも、他人事ではない。「価値をめぐる問い」を問うこととなると、百家争鳴に陥ることは目に見えている。たぶん彼は「コロナ禍で見えたもの」を為政者に問いたいと考えているのであろうが、そういう提言的な文脈ではない。「コロナ禍でみえた」感懐を綴っているだけという体裁だから、論議を交わす場が設定されていないとも言える。つまり、佐伯が「コロナ禍にみたもの」は(全く平場に身を置く私同様)現実政治過程に生かせるようなものではないということでもある。

 でも一つ、彼の立場にあれば踏み込めないこともあるまいにと私は思う。

 生存に必要なことだけが人の文化ではないというのは正論である。だが、「市場に依存しなければわれわれは生きてゆけない」のが、コロナ禍で断たれているのだとすると、まずwith-コロナ社会において生存に必要とされる要件だけでも(市場原理と別様の回路を通して)インフラとして整えよと言えば、為政者向けの提言として活きてくる。経済学の専門家としての彼の得意分野も生かされてくる。それを「文化」の次元を一緒に論じてしまったから、焦点が拡散してしまった。「不要不急」と「必要火急」とを対置させたのであれば、まず生存に必要火急のことがらをどうするかを論じ尽くし、それとは別個に「文化」としての不要不急へ言及するものではないのか。

「過剰が整理される恐慌」襲来と同じと言えば、ただ単なる経済現象としか受けとめられず、過剰なる人命が整理されると言ってしまうとジジェク以上に「物騒な」物言いになる。そう言いたいのではあるまい。

 とすると、市場に依存しなければならない現状からどのように離脱するのかを思案するのが、学者たるものの背負っている過大なのではなかろうか。ただ単に「価値を問う」というのでは正論過ぎて、そういう問いの立て方自体が、すでに時代遅れになってしまっているのではないか。それとも佐伯啓思は、すでに引退している気分なのだろうか。ならば私と、おんなじだ。世の中的には、もう用がない。

 せっかく共感して読みすすめたのに、そこからもう一歩の跳躍が読み取れなかった。残念。

2020年12月25日金曜日

義妣の生誕104年

 今日はクリスマス。子どもが小さかった頃はクリスマスよりも、イヴの方が忙しなかった。カミサンはケーキを作り、子どもたちは冬休みに入ったと喜んでいた。今は孫も爺婆と遊んではくれない齢になったから、イヴはなくなった。ケーキもなく、おでんで夕食を済ませた。コロナ禍かどうかも関係ない静かな一日という訳だ。

 12月25日は、信仰心の無い私にとっては、少し前から義母の誕生日であった。どうして?

 じつは、彼女が80歳の時にエジプトへ一緒に行った。ナイル川やピラミッドを見て回り、モーセが十戒を授かったというシナイ山にも登って元気であった。同時に好奇心も旺盛であった。ちょうど彼女の誕生日と重なってツアーの会社がささやかなお祝いを夕食の時に組んでくれて、じつは誕生日を知った。

 太平洋戦争のニューギニアで夫を亡くし、4人の子どもたちを育ててきた大正生まれ。10年前に94歳で亡くなった。高知のチベットと言われた僻地に暮らし、脳梗塞で倒れる直前までよく歩き、ゲートボールに興じ、翌月の旅行を楽しみにする活動的な年寄りであった。

 8月の末、朝起きてこないので家人が部屋に行ったら、脳梗塞を起していたという。中心部の診療所に救急搬送された。だが何しろ山奥のこと、いつもならドクターヘリで高知市内へ運ばれ、入院手術となるのだが、動かさない方がよいという医師の診断で、その場で手当てを受けた。翌日に予定されていた「健康診断」のために夕方から水をとらなかったという。猛暑の一日であったから熱中症が引き金になったのだろうとカミサンの姉妹たちは推定していた。

 でもどうして義妣の生誕104歳と半端な数字なのか? じつは明治生まれの私の母が亡くなったのが104歳であったから、義母が生きていればと思い出したのであった。

 わがカミサンは「コロナ禍も知らず、長女が脳梗塞で倒れてリハビリ療養中であることも知らないで逝ったのは良かったかもね」と、坦々と振り返る。十年経ったせいもあろうが、この齢になると(母が)亡くなったことをあらためて悲しむ感性は沸いてこない。もう自分たちの番が来ている。ましてコロナのせいで死に目にも会えず、お骨になって帰ってくるというのでは、悲嘆の度合いが違う。「良かったかもね」というのは、残される自分の側にとって良かったという意味かもしれない。

 私たちの親の世代が、案外長生きなのは、戦後の経済成長と医療や衛生環境の充実とが貢献しているとは思う。だがそれ以上に、明治や大正生まれの人たちの生きてきた環境が、自ずと足腰を鍛えるように作用していたからではないかと思う。

 さきほどカミサンの故郷を高知の僻地と言った。そうと知ったのは結婚の承諾を得るために高知の梼原に足を運んだ昭和41年のこと。高知駅で乗り換えて須崎駅で鉄道を降りる。梼原行のバスに乗り4時間。くねくねとくねる道を走って山の峠を越える。「辞表峠」と呼ばれたとカミサンが話す。赴任する人が、まずこの峠を越えるときに辞表を提出すると笑っていたのを思い出す。でもその峠は、まだ半分ほどの入り口。さらにいくつもの山を越え梼原町の中心部に着く。そこでバス乗り換えて、さらに1時間。四万十川の上流の支流にあたる四万川という字の残る奥のバス停で降りる。ほらっ、あそこが家よというカミサンの声に励まされて歩きだす。バス停から30分もかかったかと思ったほどだ。まさに高知のチベットと呼ぶにふさわしい佇まいであった。むろん、チベットを知っていたわけではない。話に聴いていただけ。チベットを実際に訪ねたのは、定年退職してからであるから、そのときから40年ほど経っていた。

 いまはトンネルが抜け、舗装路が奥の奥まで通じている50kmだから、マイカーで須崎から1時間もあれば到着する。だが便利になった分だけ、意識して歩かないと、体は車社会に適応して歩けなくなってくる。つまり、大正生まれの義妣が元気であったのは、運転免許を持つわけでもなく、ひたすら自分の脚で歩いていたから。80歳でシナイ山に上り、エジプトへの旅に行けたのも、便利コンビニの社会の機能性に適応せずそれを利用するだけにして、身を処してきたからであったと、妣の世代の生き方を振り返っている。

 心すべし。便利コンビニとわが身の適応とを意識して峻別して、生きていけと。コロナ禍の中でも、この分別が意味を持つように思うのだが、それはまたあとで考えてみよう。

2020年12月24日木曜日

名無しの山、羽賀場山

 昨日(12/23)、たぶん今年最後の山へ出かけた。羽賀場山774m。栃木県の鹿沼市にある里山。里山というのは地元の人には庭のように慕われているが、全国区ではというか、山歩きを好む人たちの間ではさほど関心を払われない低山という意味で、私は用いている。栃木百名山の一つ。

 東北道を走り、鹿沼ICで降りて進む前方に雪をかぶった男体山がひときわ高く姿を現し、その右へ大真名子山、小真名子山、女峰山と、やはり雪で真っ白になった奥日光の連山が居並ぶ。ここ一週間の天気が、関東地方には乾季をもたらしてよく晴れて寒い日々となっているが、日本海側には強烈な寒気と大量の降雪をもたらしている。それを象徴するような(日本海側の)景色に、思わずため息が出る。冬がやって来た。

 羽賀場山は地蔵岳や古峰ヶ原など前日光の山々の東側、関東平野との端境に展開している。鹿沼の市街地側からみると前日光や奥日光の山々の前衛になる。前衛の黒々とした山並みの向こう側から背を伸ばして顔を出すように白い奥日光の山々が聳えるのは、なかなかの壮観である。羽賀場山の山頂に上ればもっと見事に見えるのではなかろうか。今日の山への期待が膨らむ。

 大盧山長明寺はnaviに入っていない。住所を入れるが、精確な番地までは入力できない。ま、近くへ寄ればよかろうと考えていたが、一つの字が広いから、naviの「案内」が終了してから探すのにちょっと苦労する。お寺の下に来て羽賀場山の名の由来は「はかば」ではなかったかと思った。山への傾斜に沿って上に位置する長明寺の下の方には、たくさんのお墓が並んでいた。まるで裏の杉山をご神体にして墓守りをする気色が何となく立派に感じられる。

 車で境内への道を上って山門の裏手に入り込むと、ちょうど車を置くのに都合のよい広場がある。境内の隅を山の方へ入ったところで何やらユンボなどの大型重機が何台か入り込んで大掛かりな工事をしている。登山口を聴くと、その工事の進む前方を上ると指さす。礼を言い、車を止めるがと断ると、少し下へ降りた所の駐車場に置けという。一度引き返し、車を下へ動かすと建物の一階が車の置き場になっている。

 登りはじめる。たいへんな急斜面。キャタピラ付きのユンボが上るから広く凸凹している。上は砂防工事をしているようだ。道が二つに分かれている。入り込んだ右への道は行きどまり。戻っていると、作業員が重機とともに上ってきて、そっちじゃないよ、と左の道を指す。その先に小さな「羽賀場山→」の表示があると教えてくれた。広い作業道からはずれ、山の稜線を上る踏み跡があった。

 しかし踏み跡は、はっきりしていない。上る人が少ないのではなかろうか。谷の向こうに今日の目的の山、羽賀場山が見える。緑のこぶが三つ並ぶように盛り上がっている。なるほどこれが墓に見えるのかも、と思う。ただ植林作業の行われた後が段々になっていて傾斜も歩くのは容易。振り返ると麓の田畑と人家が、まるで隠里。高圧鉄塔が立ち並ぶ山が里を隠すように見える。そこからの高圧線を引き受ける第一鉄塔につく。20年前に発行された山と渓谷社の『栃木県の山』のコースタイムよりはちょっと早い。第二鉄塔を抜けるとすっかり杉林に入る。陽も差さない。約1時間で主稜線に乗り、羽賀場山への分岐710mに着く。やはりコースタイムより20分ほど早い。いいペースだし、疲れたという感じはない。

 そこからの稜線上が急な上りになる。握るこぶを作ったロープを張っている。足元には落ち葉が降り積もり、グリップが利かない。ロープが役に立つ。登っては下り、降っては上るをくり返す。20分余で羽賀場山に着いた。実はこの山名が国土地理院地図には記されていない。ただ標高だけが774.6mとあるだけ。山頂の標識には「羽賀場山774.5m栃木の山紀行」と記してある。ふと気づいた。この標高が地元の呼ぶ「羽賀場山」を「名無し」にしたのではないか、と。そういうシャレがわからねえかなあと国土地理院の地図製作者がジョークをかました、と。杉林に囲まれてまったく展望はない。

 先ほどの分岐に戻り、登ってきたのとは九十度違う東の方へ向かう。

 そうそう、この羽賀場山の登山ルートは地理院地図には記載されていない。山渓のガイドブックの略図を見て国土地理院地図の書きこみを見ながら歩いている。だから大体の見当をつけ、あとは踏み跡を見つけて歩いているのだが、落ち葉が降り積もり、踏み跡も定かではない。分岐からの稜線は広く、ところどころで二つ三つの支稜線に分かれているから、どちらへ踏み込むかは思案しなければならない。そのときスマホに入れたgeographicaの地図に打ち込んだ通過ポイントとGPSの表示する現在地点が絶大な威力を発揮する。おおよその方向を確認しては、それらしき踏み跡を探って踏み出す。こうして稜線の形と通過する等高線のポイントと向かう方向をチェックしながら暗くて広い杉林を、落ち葉を踏みしめてすすむ。これはこれでルートファインディングの面白さを湛えている。

 急な斜面を下る所では、そちらにもこちらにも歩くのに良さそうな足場がある。だがその先は、行き止まりってこともあって、木上りならぬ木降りになる。踏みつけた腐った倒木が落ち葉とともに滑り落ちる。バランスをとって転ばないようにする。気が抜けない。地図上ではこの方向に林道の末端があるはず。ガイドブックはそれより手前の、高圧線の下に出る前に林道に出逢うと書いていた。地理院地図より後に林道が延びたのだろうか。でも、下の方は、深い谷にみえる。空を見上げると杉の葉の間に高圧線が走っている。もう出合ってもいいはずだのに。

 立ち止まって暗い谷をみていると、目が馴染んできて、谷の様子が見えるようになる。沢筋と思われる向こう岸に、緑の苔と草に覆われた平たい所があると気づく。ああ、あれが林道だ。こうして林道に降り立った。ガイドブックのコースタイムより20分早い。地図に記された林道に出ると、さすがにしっかりとした設えになっている。両側は、相変わらず杉林。途中で「不法投棄監視パトロール」と車体に書いたバンが止まっている。誰も乗っていない。周りは大きく開け、木の切り出しが行われている。伐採の大きな重機が通るのか。ついでに植林もしているのか。陽ざしが明るく差し込んでいるが、人影は見えない。

 さらに降ると、3メートルほどに切った丸太を積み上げて干している。その山がいくつか見える。こうして何年か乾かして製材所へもっていくのか。民家が出てきた。誰かのアトリエもあるのか、案内看板が立てられている。後からバンがやって来た。あの「訃報と機関紙パトロール」だ。なかに6人ほどの人が乗っている。皆さん若い。前方からトラックがやってくる。これは丸太の積み出しを行うのか。

 おっ、釣り堀に出た。大きい。広い沢水をためた池にマスだろうかイワナだろうか、テカリの入った黒い身を寄せてたくさん泳いでいる。ベンチもあり、食堂風にもなっている。奥の方に人影が見える。私はまだお昼を食べていないのに気付く。11時半。

 奥の人に「イワナを焼いてもらえる?」と訊ねる。

「いいですよ、どうぞ」

「お弁当も食べたいのだけど」

「どうぞどうぞ」

 というわけで、食堂の中に入る。炭火が焚かれている。串に刺したイワナをもってきて炭火の脇に立てかける。塩を振っているが、イワナはまだ尾びれを揺らし体をくねらせている。ずいぶん大きい。そういうと、「焼くと小さくなります」と、申し訳なさそうに応える。

 60年配のお母さんが入ってくる。イワナの焼方を手ほどきする。なるほど、この人はお嫁さんらしい。羽賀場山に上ったと知ると「何かあるんかい?」とお母さんは訊ねる。

「ここら辺の人は上らんよ。皆東京の方から来た人ばかりだね」という。

 栃木百名山にもなっているのは、栃木県の広報戦略か。地元に人にとっては林業の杉山として大切にしているだけで、上り歩く山ではないらしい。ま、そうか。そういう里山があっても不思議ではない。

 イワナの炭火焼きは美味しかった。串刺しのそれを見たときは、済まないことをしたかなと思ったが、塩のたっぷりついた皮をはがしてみると、白い身が湯気を立て、ちょっと青い感じの香りを放つ。口に含むと、やわらかい舌触りが口の中でほぐれる。丁寧にほぐして目玉も食べてしまった。

 コロナが広がってから、釣り人が増えたそうだ。ことに日曜日はいっぱいになるという。明日で学校もお休みだから子どもたちも来ますよとうれしそうだった。

 30分程でお昼を済ませ、車を置いた長明寺に向かう。12時半着。4時間10分のコースタイムの行動時間がほぼ4時間。歩行時間は3時間半。まずまずの年末山行となった。

2020年12月23日水曜日

年賀――からっぽのありがたや

 去年の冬至は12月22日であったと、今朝送られてきた「去年のブログ記事」をみて知った。去年の記事は、この日に年賀状を作成したことを記している。じつは、なぜか今年も、22日。

 でも困ったのは、あまりめでたいと書きたくない気分だったこと。


 めでたいと賀状にかけぬ年の暮れ


 と思ってはいても、やはり賀状を出さないわけにはいくまい。でも、いつもの通りってわけにもいくまいと心裡のどこかで感じている。どうするか。結局、新型コロナの「啓示」したいることを胆に銘じて、慎ましくすること。ということは、必要最小限の方々に賀状は出すが、儀礼的な賀状はもう出さないと決めた。カミサンは「でも、貰ったら返事を出さなくちゃあね」と、正月を家で過ごす態勢の利点を生かす。おまえさんはどうするの? 私は、やはり出さない。そういうことを伝えもせずに? そう、どう受け取られるかは、人による。どう受け取られても構わない。そうやって消えていくのだねと、自分を得心させている。


 めでたいと言葉にならぬ初春かな


 全く下手な句だが、落ち着きの悪いところが今の気持ちを表している。新型コロナの自粛蟄居で、却って静かな生活を送っている。この、放っておいてもらえる佇まいが、なんとも私の今の気分にあっている。手紙のやりとりが好ましく感じられるようにもなった。昔は家を訪ねていって「年賀」の挨拶をするのがふつうであったか。今はメールなどで簡単に済ませる。その程度の心もちなのよと見切っていれば、それはそれですがすがしいと私は思うのだが、はて、どうだろうか。


 コロナ禍に年を越したりありがたや


 こんな気分になるとは、実は思ってもいなかった。めでたいという気分とありがたやと感じる気分とでは、ずいぶんと開きがある。でも、長い目で見ると、後者の方が自然観と人間観とを合わせて考えてみると実感に近い。この、自然に「ありがたや」と感謝の意を表明するのが、神道なのだと感じている。むろん、天皇家の祖神ということなど、長い年月にどっかへ行ってしまっている。お伊勢さんも、考えてみると、おかげまいりと言ってひたすらな感謝の象徴であった。天皇はんはカンケイなく、日本の自然信仰の結実した形かもしれない。御神体が空虚(からっぽ)というのも、好ましい。

 そうした気分になっている自分を、メデタイとおもっている。

2020年12月22日火曜日

これから明るくなる冬至

 昨日(12/21)は冬至。一年で一番、昼が短い。夕方、南西の空に木星と土星が近い所にみえるとニュースがいう。5時過ぎはすでに暗くなる冬至だからこそ、観察できるというわけだ。

 年末の掃除に取りかかっている。障子を張り替えたのは3年ぶりだろうか。大きいのを4枚、小さいのを2枚。こういうのを腰が重いというのだろうか。とりかかるまでに時間がかかった。とりかかってみると、さほどの時間はかからず、手間も割と簡単だった。年齢のせいかもしれない。

 網戸を洗う。かつては1日で済ませたが、いまは3日に分ける。山歩きと同じだ。行程16時間のロングトレイルを日帰りで済ますために、夜の夜中に出発して午後4時に帰着する強行軍をやったのは、まだ仕事をしていたころであった。今はそういうコースを3日に分けて歩く。齢をとるとはそういうことだ。

 先ず南側の網戸3枚を洗う。それが乾くまでに6枚の窓ガラスを拭く。2日目、西側の網戸3枚とガラス6枚を拭く。こちらは狭いベランダに乗り出すのでメンドクサイと思っていた。でも、やってみると、案外簡単であった。そうだよな。腰が重くなっているだけなんだ。残りは北側のベランダに乗る二つの窓。

 のんびり構えるというのは、身の丈に合わせるということなのだと思う。掃除をするというのにスタンダードはない。自分の家の掃除をするのをマイペースですすめるのに、誰が文句をいおうか。わが身の丈に合わせるのを自由というのであったか。障子の張替えもガラスや網戸の掃除も、準備を整えて置き、手順を踏まえてとりかかれば、メンドウでもムツカシクもない。腰が重くなっただけのことで自分を責めることもあるまい。

 昨日の夕食は蕎麦を打つことにした。5時過ぎからとりかかる。今日の蕎麦粉は北杜市の瑞牆山の麓のキャンプ場で手に入れたやつ。甲州蕎麦というわけだが、これまでの梼原の蕎麦とは味が違う。蕎麦粉の捏ね方も念入りにしないと、なかなかまとまらない。水を回し捏ねていると時間を忘れ、頭の中が空っぽになる。瞑想と同じ状態になる。あとになって気づくが、木星と土星の接近のこともすっかり忘れてしまった。

 読み終わった小説の喚起したイメージが胸中を揺蕩い、それを書きつけてわが身の裡の騒ぎを鎮めるのに、じつは午前中いっぱいかかってしまった。午後に年末掃除をのんびり手掛け、夕方に蕎麦を打つ。風呂を入れようとスイッチを押したのになかなか沸かない。カミサンが様子を見に行って「風呂の栓をしていなかったよ」と告げる。私が網戸を洗うとき風呂に蓋をおいて栓をするのを忘れていた。わお、お湯がその間こぼれっぱなしってことか。自分が蓋を置いたことも、スイッチを押すときにそういう確認を忘れていたことも、ひどいことをしたなあと身の裡に響かない。腰が重くなっただけでなく、何か失敗してもどこか他人事のように受け止めている。どうしてそうできる? 齢を取るとそういう失敗はするものだと観念しているからだろう、と。

 ハハハ、あれもこれも齢のせいにして自由になっているだけじゃないか。これって、自然に溶け込んでいるってことかい? 

 そうして今朝、ずいぶん明るくなったと感じて、枕もとの目覚まし時計を見る。なんと6時半に近い。いつも5時に起きるカミサンもまだ床にいる。冬至を過ぎたことで朝が明るくなるとカンネンしていたからだろうか。

 ま、そんなことどっちでもいいじゃないか。そう感じてすごしている、天然自然の一年の底に立つ日でした。これからは明るくなる一方だ。

2020年12月21日月曜日

元号と西暦と身の裡のふるえ

 昨日とりあげた夢枕獏『腐りゆく天使』の舞台の骨格をなしているのは、大正3年9月3日の午後9時17分から翌日の零時33分まで。何でそんなに厳密に?

 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に、月蝕の晩に彼の恋する人妻と逢っていたと書いているそうだが、調べてみると(厳密には、調べてもらってみると)、上記の時刻であったとわかった。大正3年、室生犀星や北原白秋、高村幸太郎や宮沢賢治、芥川龍之介なども活躍していく時代だ。

 そう考えていてふと、一つのことに気づいた。私の裡側では、いつも二つの年号が行き交い、棲み分けている、と。明治・大正や昭和の元号となるとわが身に刻まれた記憶が震える。西暦になると頭で理解した世界の流れが随伴する。その間の亀裂に気付いたのは高度経済成長がひと段落する1970年代の前半であったか。身に刻まれた記憶は元号と西暦の変換を(意識的に)ほどこさないと世界の流れに橋渡しできないようであった。

 大正3年は、明治生まれの私の父や母が3歳、5歳のこと。そこへ私の思いをいたしてみると、父母の子どものころの存念が浮かび上がる。商家の長男に生まれた父、富農の三男を父に持ち、三女三男の次女に生まれた母。母の兄弟姉妹は幼くして亡くなってしまった。加えて父(私からいうと祖父)が早くに逝ってしまったがゆえに母(やはり私の祖母)独りの手で街暮らしとなったと後に知った。

  大正3年は西暦で1914年。その7月にはヨーロッパで第一次世界大戦がはじまっていた。同じ7月に東京では、2年前に中華民国を成立させたのが袁世凱に乗っ取られた孫文が、中華革命党の結成大会を亡命先で行っている。世界史における日本は、一等国の波に乗ろうとイケイケの時代。大正時代というのは、日本の近代化が西欧の模倣から日本の独自性を育てていくときでもあった。そのように時代の感触を読み取るには、棲み分けている年号を重ね合わせていかねばならなかった。

 父母の送った大正時代へ目を移すと、経済史的には農民層の分解と呼ばれる社会的な大変動の進行する時代であった。富農とはいえ、男の子のいない(私の祖父が亡くなってみると)三男の家族は農家を継ぐことはできなかったようだ。大正デモクラシー隆盛の空気を吸って育ったであろう母は、目前にした女学校への進学もかなわなくなり、和裁の針仕事で生計を立てるしかなかったことを愚痴るメモが残されていた。そうやって、時代相に重ね合わせるには元号の刻む感触を、西暦の進行プロセスと二重写しにすることによって、実感に持ち込むことができた。

 それで思い出すのは、あがた森魚の「赤色エレジー」の歌詞。

「昭和四年は春も宵 桜吹雪けば情も舞う」

 と、ずうっと私は思い込んで口ずさんできた。「四年」が「余年」であることは、つい今しがた「歌詞検索」して知った。

 なぜ「四年」と思い込んでいたか。西暦にすると1929年。1923年の関東大震災からすでに6年、1926年には元号は昭和となり、1928年の張作霖爆殺事件で関東軍を前面にたてて軍部は、とどめようもなく勢いづいていた。1927年に金融恐慌があったとはいえ、秋にやってくる「昭和恐慌」を未だ知らず、国運を主導する勢力にとって気分的には、やはりイケイケの時代であったと、私の世界史感覚は受けとめている。ところが「赤色エレジー」は、まるでそういう世界の裏側に潜り込んで「お泪ちょうだいの物語」を謳うセンチメンタリズムに充たされている。私の元号感覚も、そうなのだと思う。クールに自分を観ようとすると、西暦に変換する。実はその齟齬にこそ、時代相をとらえる鍵があるようには思うが、未だそこまで踏み込んでいないと自らを振り返っている。

 こうした元号と西暦の二重性が消えているのは、平成になってからだ。すでに平成としてわが身に刻む感懐は、ない。平成の始まった1999年の私は46歳。時代はバブルの最盛期。

 時代相はたしかにイケイケであったが、グローバルの波に満ち溢れ、もはや元号に浸る気分は社会的に消え失せていた。だから保守層からは危機感が表明され、国旗国歌や元号使用も法的な拘束力を持たせなければ保持できないときに差し掛かっていたともいえよう。

  こうして、私の身の裡の元号と西暦の二重性は解消されてしまった。それとともに身に刻む感覚と世界の時代相に身を位置づける感懐とが符節を合わせて捉えられるようになったか。そうでもあるし、そう一言で括るわけにもいかないという感触も残る。ただ「令和」で身が震えることは、まったくない。ときどき「令和」を忘れていることに気づいたこともあるほどだ。

 その感触の一部分に、「腐りゆく天使」に書きこまれた「匂い」が関わっているように思えるのだが、それが何かは、わからないままである。

2020年12月20日日曜日

脳幹から紡ぎだされるオマージュ

 深い沼の底の泥濘からぷくりぷくりと湧き起る気泡がゆるゆると水中を上り、水面でポッと弾けて言葉になったようなモノローグが差し挟まれる、夢枕獏『腐りゆく天子』(文藝春秋、2000年)は面白い。モノローグの主は鎌倉の教会の裏手にある落ち葉の降り積もった雑木林の土の下に埋められた屍体。「俺を殺して埋めたのはだれだ?」とはじまる。わたしはだれ? なぜここにいるの? だれがうめたの? でも、こうしてものおもっているのはなんなの、とぷくりぷくりと浮かび来る自問自答をくり返す。まるで魂が自問自答するように。

 ミサを終えた教会の神父は香部屋に引きこもり天使と対面して、恍惚の時を過ごしつつやはり自問自答のごとき告白をする。

 それらを一つに結び合わすのは萩原朔太郎。人妻に恋し、前橋から鎌倉に足しげく通う。室生犀星や北原白秋へのはがきや手紙が彷徨える詩人・朔太郎の心裡を記し留める。これも、モノローグと言えばモノローグである。

 本書は夢枕獏が萩原朔太郎に捧げたオマージュである。オマージュhomageというフランス語は尊敬や敬意を表し、その人物に対する賛辞を呈するものと相場が決まっているが、夢枕獏はその言葉に顕れる形式主義的な気配にまるで頓着しない。詩人・萩原朔太郎の歌の心に深く分け入り、自らの感性が受けとめ得る限りの共感性を総動員して、心根の泥濘の底に足をつけて、ふつふつと湧き起る情念の泡を記しとめようと筆を執る。

 夢枕獏を読み取る私の胸中に、父と子と精霊とが起ちあがる。とすると、象徴的に神父は父となり、萩原朔太郎は子となり、土の下のモノローグは精霊となる。その三者が三位一体となって感じとれる泥濘には、人妻に恋し、天使に恍惚を感じる、脳幹より出でて脳幹にじかに響く言葉にならぬ情欲がある。まさしく身の裡に宿る具体的な実態である情欲が、抽象的な、朔太郎に言わせれば「心霊上の恐るべき犯罪」に直結して、「私は絶大なる恐怖と驚愕と羞恥と困惑との間に板挟みとなって煩悶」する。それを「天帝から刑罰されて居る」と見る地点で、精霊がそれとして姿を現す。おおよそキリスト教にいう三位一体とは様相を異にする、人の実存の三位がひとつになって感じとれる。それを掉尾を飾る室生犀星の萩原朔太郎に当てた手紙が言葉にする。


 しかし、萩原君。

 ああ、よく聴いてくれたまへ。

 萩原君。

 我々は、人ではないのだ。

 人でありながら、人のことを書きながら、人ではないのだ。

 この世に生きながら、霊魂となったのが我々なのだよ。

 たとへ、人である仮の身がどのやうな目にあはうが、詩人はいかほども、びくともすることがないのだ。

 どのやうな哀しみですら、詩人は耐へてしまふ。

 耐へることができる。

 耐へられぬ耐へられぬと、哭きながらだって耐へてしまふ。

 何があらうと、何ごとがあらうと、我らはびくともすることはない。

 それは、言葉を持ってゐるからだ。

(後略)


 オマージュというのは、詩人を飲み尽くし食い尽くしてわが身の裡に咀嚼してしまった後に吐き出される「ことば」である。それはすでに萩原朔太郎というよりも夢枕朔太郎の精霊が言葉を紡いでいる。

「ああ、何といふ傑作を書いてしまったのだらう」と、作者はヴィオロンのごときあとがきに記している。そう、まさにそう。何といふ傑作を読んでしまったのだらうと、溜息のごときしみじみとした実感をもったのでありました。

2020年12月18日金曜日

秩父往還の里山・大霧山

 一昨日(12/16)朝ゆっくりと、車で家を出る。比企の名山と言われる外秩父の大霧山に上る。その途中、鶴ヶ島ICで降りるルートをインターネットは示していた。それなら、足を痛めているkwrさんの顔だけでも見ていこうかと車を走らせる。彼の家の住所「字××***番地」を入れるが、私の車のnaviはそれを表示しない。地番が新しくなったのか? まあ良かろう、近くへ行って電話をすればわかるだろうと思ったが、大違いであった。naviにいれた「字××○丁目*番地」は、大きく離れたところにあった。とりあえず市役所の駐車場で落ち合おうということにして、そちらに向かう。賑やかな鶴ヶ島の町は、すっかり様子が変わっていてわからない。kwmさんも一緒。ご挨拶だけして、お見舞いを渡した。案外元気でそうであった。「来年になったら、また行きましょう」とkwrさん。

 そこから一般道を行こうとしたが、naviは高速道へ乗せたがる。「一般道優先」の「ルート選択」を選ぶのに、やはり高速道へ向かわせる。とうとう根負けして、高速に乗って登山口へ向かった。

 下山口まで車で向かい、そこから4kmほど下の登山口まで自転車で戻る。自転車をバス停脇広場の車止めに縛り付けて、歩き始めたのは9時15分。昔の、秩父と小川・川越を結んで江戸に向かう粥仁田峠へ行く。立派な舗装車道が走っている。登山ルートはその間をショートカットして、山道を歩く。25年前発行のガイドブックには舗装車道から登山道への入口がわかりにくいと書いてあったが、今はきちんと方向表示板が設えられていて、迷う心配はない。

 畑の隅に立つ庚申塚の向こうに大霧山がなだらかな姿を見せる。空気の澄んだ青空に映えてすっくと立つ。連なる稜線の広い放牧場が里山の気配を湛えている。50分で粥仁田峠に着く。コースタイムより10分も早い。ちょっとペースが速いか。でも、今日は全体で4時間10分のルートだから、後半草臥れてもさほどの影響はないであろう。そう考えて、体の趣くままに歩く。

 ここから大霧山までが「急坂」とガイドブックは記していたが、さほどの傾斜はない。上っていると木々の間から秩父市の街並みの広がりが見える。遠方に両神山の独特の山稜の連なりが際立つ。冬の山は木の葉が落ちて見晴らしの利くところがいい。30分程で大霧山に着く。見晴らしがよい。高さ2000mほどの雲が南西の空にあるが、あとは青空。武甲山の中ほどが台地上になっているのがよくわかる。

 山頂から見える山の名前を連ねた案内板がある。南西の蕎麦粒山にはじまり、大持山、小持山、武甲山と今年歩いた山々が名を連ねる。雲取山や甲武信岳もあの辺りかと見える。両神山や二子山の右にあるはずの浅間山は雲に隠れて見えない。つい先日のぼった諏訪山なども見えているはずだが、名前はない。妙義山から榛名山と確認できるが、谷川岳や武尊山は、大体の見当しかつかない。赤城山、日光白根山、男体山や女峰山は本当に小さく見える。いや、一望できると言っていい。

 松平という中間ポイントに着いた。このあたりでお昼かと算段していたが、まだ11時。旧定峰峠まで行けそうだ。と思ったが、ほんの10分で旧定峰峠に差し掛かる。暗く狭い分岐点だ。これじゃあお昼を食べる気にならない。ガイドブックではここから定峰峠まで1時間とあった。12時を過ぎるが、まあいいかと先へ向かう。

 「ダイダラボッチの伝説」と書いた看板がある。大きな体のお坊さんが定峰峠に腰かけて笠を置いたところが笠山、粥を煮たところが粥仁田峠などなどと民話を記す。何だろうこれは。民話は何を表象しているのだろうか。

 標高でいうと150mほど下って100m上るというふうに凸凹しているが、踏み跡はしっかりしていて歩きやすい。おや、45分で定峰峠についてしまった。あのガイドブックのコースタイム1時間は何だったんだろう。舗装車道がここで行き止まりとなっているが、茶店もある。ラーメンとかうどんの幟がはためいているが人影はない。駐車場の隅の大石にもたれて弁当を広げる。ここまでに出合った人は一人もいない。

 食べていると若い人が自転車で上ってきた。標高550mほどを下から登って来たか。自転車と茶店をスマホカメラに収めている。食べていると後から二人、また自転車で上ってくる。ヘルメットをとると還暦ほどの年寄りだとわかる。

 20分程で食事を済ませ、下山にかかる。12時10分発。舗装車道を20mほど行くと、「白石車庫→」と小さな手書きの標識があった。山道に入る。下の方で車道をまた横切る。「車に注意」と書いてある。車高の低い赤いセダンがぶろろろと、何か憂さを晴らすような大きな音を立てて下ってくる。どこから来たのだろう。また山道に入る。最後は車道を500mくらい歩き白石車庫に着いた。12時40分。行動時間は3時間55分。歩行時間は3時間半。なんだかコースタイムが違っていたように感じた。

 でもおかげで半日ハイクのようなもの。帰宅してから月刊の「ささらほうさら・無冠」をコピーし、封書に入れる作業に取りかかったところで、プリンタがうまく作動しないことに気づいた。後のことは、昨日のこの欄に記した通り。

2020年12月17日木曜日

異次元世界の交差点の開陳ショー

 先日通信会社を変える工事をしてもらった。モデムを新設してもらい、インターネットにアクセスできることを確認して、ご苦労さんとなった。ところがその二日後、プリンタをつかおうとしたら、やたら時間がかかる。プリント指示を出して10分くらいかかってやっと動作が始まる。封筒のあて名書きを指示すると、一枚に10分かかる。これでは手書きにした方が早い。工事をしてくれた通信会社のカスタマーセンターに電話をした。「混みあっていますので、後で電話をするか、このまましばらくお待ちください」というアナウンスを繰り返し聞きながら、15分も経った頃やっと人の声に代わった。

 こちらの症状を話す。パソコンは手元にありますか? という。電話機の傍にもってきて用意する。こちらの画面が見えるらしい。

「遠隔操作をして症状のチェックをしたいと思いますが、よろしですか?」と問う。了承してネットにあるその会社の「遠隔操作」をクリックして「同意する」と画面の上をマウスの指先に当たる矢印が動き回る。途中電話でプリンタをONにしたり一度OFFにしたりしたのちに、パソコンの何かをチェックしたり動かしたりして、「ドライバを入れ替えますね」と電話で話しながら何かを操作しているのだが、手早くて何をいじっているのかわからない。そうして30分ほどしてプリンタに「test」印刷をすると、すぐにさかさかと、以前のようにプリントアウトしてきた。いや、すごい。

 しかも、「このMa**というソフトはご自分でいれたものですか」と聞く。「いや、それが何か、いつ入ったものかもわからない」と応えると、「これはウィルスソフトです。パソコンの動きを重くしてしまいます。右クリックして、そうそう、アンインストールをクリックして」という。クリックするが、消えない。もう一度やってみるが、なお消えない。「では、このソフトウェアが悪さをしないように「無効」にしておきましょう」といって、これも何やら操作をしてくれた。

 15分待ったのもすっかり帳消しにするほど、その後の操作の見事さに感心してしまった。と同時に、そこまでインターネットがつながってしまい、なおかつ、外から入り込んで動かしてしまえるのだということに気づいた。これは、たいへんな事だ。抑々パソコンの持っている能力の1/1000も使っていないのだから、乗っ取られるとかを心配することはほとんど無用なのだが、こういう操作を目の当たりにしてみると、アメリカの大統領選にロシアが介入したとか、中国が企業秘密を盗んだということも、十分ありうること。防衛力整備にあれだけのお金をかけるよりも、サイバーで介入し、相手のデジタル回路を攪乱する方がはるかに安上がりで、しかも人的損失を出さなくていいんじゃないかと、要らぬことが思い浮かぶ。それが昨日のこと。

 そして今日。メールを受信できるが送信できないというトラブル。こんなことは初めてだ。

 プロバイダのサイトを覗くとメールソフトのプロパティを開いて、どこどこをこれこれこのように変更してくださいとあった。騙りメールが続発しているため本人確認をより厳しくするように対応したのだと、変更のわけを書いている。みると2016年のことと言う。えっ? てことは4年も私はそれを放置していたのだろうか。

 そういうお知らせが「メール」であったかもしれないが、それ以外にわんさとコマーシャル・メールが来るから、みることなくどんどん「迷惑メール」の屑籠に放り込んできたから、私は目にしていない。でもそうか、わかったとメールのプロパティを開こうとしたが、何処にあるのかわからない。知人に問い合わせてみたら「そのソフトは使ったことがないのでgoogkeで「メールソフト;設定」を検索してみたら」と返信。だがそれをやるとわが家のメールソフトと同じ画面が現れて、行き詰る。

 光通信の通信会社がプロバイダもまとめているので、通信会社のショップに行って相談した。一人の販売員は「わからない。プロバイダの会社に問い合わせて」という。代わった販売員は私のもっていた「契約書」を覗いて、「ここにあるプロバイダのカスタマーセンターに電話して聞いてください」と親切に応対してくれた。そのカスタマーセンターの電話番号は、私がプロバイダと「契約」を結んだ20年前のお客様電話と違い、無料になり、かつ、固定電話、ひかり電話、携帯電話とこちらの電話の種類によってかける先が異なっている。

 早速家に帰って電話をする。昨日のことがあったから、パソコンを電話機の傍にもってきている。やはり8分ほど待たされて人の声に代わる。受信ができないと状況を説明する。パソコンが手元にあることをきいて、「では、受信ができるようになるのをお手伝いします」と言って、メールソフトを開く、その何処どこをクリックして、左端の方に青い色のついた項目があるでしょうという。いえ、ありませんと言うと、私のメールソフトの年式を確認するために別の場所を開くように指示する。そののtに、もう一度「設定」に戻り、その画面の右下の方にある「詳細設定」をクリックするようにいう。すると、これまでになかった場面が現れる。受信の設定を番号を確認し、その下の送信の番号を訪ねる。●●番というと、そこを○○○に変えてくださいと別の番号を言う。それを入れ替えて、元に戻すと、もう大丈夫だという。テスト送信をしてみましょうと、自分への送信を「test11:05」と時刻を入れて送る。「送受信」をクリックすると、来た来た。今送ったものが、すぐに届いた。また、今朝ほど送ろうと「下書き」に入っていたメールも、すでに送信が済まされていた。これで全部解決。

 そういう時代になったんだ。外と中の区分けが簡単に取り外せる。それに乗じて割り込む輩がいる。それをブロックするために、プロバイダなどはあの手この手の防護壁を築く。それをいちいち感知していたらメンドクサイという私のような連中がいるから、今回のような突然の不調に見舞われる。「いまたいへん混みあっています。後程改めて電話をくださるか、このまま暫くお持ちください」というアナウンスが、ただたんに人手を節約するために混んでいるのではなく、一つひとつがなんとも手間暇のかかる修理過程を必要としているんだ。そう思った。デジタルとアナログの目下、行き交う交差点にいる。カスタマーセンターは、出くわす異次元の世界をうまく調整して、次の世代の世界を標準化するために人類が支払う代償なのだろう。ご苦労様。この先、同じようなことでまた、電話をするかもしれません。よろしくお願いしますよ。

2020年12月14日月曜日

原的否定性と祈り

 ちょうど一年前に考えていたことが、つい先日問題にした「原的否定性」(ダメなものはダメ)と深いかかわりがあることに気づいた。このブログ(2019/12/13)「沈黙という祈り」は、「言葉にならない(言葉にするとウソになる)思い」を「祈り」として儀式化している原始生活を(選んで)営むボルネオ島のプナンの習俗に触れている。

「言葉にならない思い」というのが、このように表現できるのは、「(言葉にするとウソになる)思い」と知って後の視点からみているからである。つまり原始生活そのものの中にあっては、ただただ自然のもたらすものへの畏敬の念から生じた「沈黙」が、日常的な「おしゃべり」の猥雑さと対比されて(言葉にすることの困難)に突き当たる。自然に対する感謝の「思い」や「畏怖」をことばにできないことが、「祈り」という儀式として定着した。それを事後的な観点から指摘したのが「沈黙という祈り」である。その「祈り」は、原始生活の場に居合わせた子どもにとっては、食事中は「おしゃべりしてはならない」という掟として現れる。「どうして?」と問うた子もいるであろう。そのとき親は、「ダメなものはダメだから」と教えたのではないか。そうすることによって、その「祈り」の背景に積み重ねられてきている集団の「思い」の由来があることを、子どもに感知させるしかない。いやじつは、親自身も、なぜそうするかを言葉にできない。先述の「事後的な観点から」というのは、原始生活とは違った次元の生活文化の入って後に築いた観点からみているということであった。

 つまり私たちがモノゴトを分析したり解釈するのは、次元を異にする地平に視点を置いたときに可能になる。もちろんコトの渦中にいるときに、そのコトがなんであるかをとらえないとわが身を「世界」に位置づけることができない。だから、渦中にいて視点を異次元におくという方法を、ひとは編み出してきた。宗教がそうであり、哲学がそうであり、科学もそうであり、イデオロギーでさえも、現状況から離脱する手立てとして観る視点を手に入れるために、生まれてきたのだといえる。

 社会集団の渦中に身を置くものとしては、まず「ダメなものはダメ」という物言いを受け容れることが欠かせない。それは、その社会集団が築いてきた「掟」や「習俗」、「沈黙」や「ことば」などの「振る舞い」への価値的評価に、積年の営みが積み重なっていることの承認なのだ。言葉を換えていうと、それは自分の身を置く社会集団への帰属のスタート地点である。それは、身を置く社会集団への畏敬の念であり、大人は言うに及ばず子どもは特にわからないことがいっぱいあることを承認することから集団への帰属は出立するからである。それを拒絶するということは、その社会集団から離脱して生きることを意味する。逆にいうと、人と文化の多様性を組み込む社会とは謂うが、それは社会集団への敬意がなくてもいいという意味ではないのだ。人が集団で暮らすという基本線を逸脱するものは、身を置くことが許されないと言い換えることもできる。人類の宿痾でもある。

                                            *

 そう考えてきていま思うのは四半世紀ほど昔、TVの画面で「なぜ人を殺してはいけないんですか」という一人の青少年から発せられた問いへの答えである。そのとき「ダメなものはダメ」と口にする人もいたが、それはほとんど説得力をもたなかった。なぜなら、「なぜ?」とその青少年は訊ねているのだから、「原的否定性」では説明にならないと(ほぼ誰もが)考えていたからであった。そのとき、そうだよダメなものはダメなんだよと呟いていたのは、家庭で(コトを弁えない幼い)子どもを育てている親であったり教室で悪戦苦闘している学校の教師たちであった。つまり具体的な社会集団においては通用する言葉が、TV画面という一般的な言説の場面では、全く通用しないということであった。

「なぜ人を殺してはいけないんですか」と問う青少年は、すくなくとも社会集団においておけないと宣告することしか、大人の側には残されていないのである。

 原的否定性を忘れた人々は、じつは「祈り」を忘れているのであり、言葉にならないことがあることや「沈黙」ももっている大きな意味を忘れているのである。ひいては、人類が歩んできた道のりで堆積してきた膨大な文化のほんの裾野をいま目にしているにすぎないという「実存」のちっぽけさを知らないことを意味している。

 そんなことを考えさせられている。

                        ***「沈黙という祈り」を再掲する***

 奥野克巳の長い表題の本『ありがとうもごめんさないもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房、2018年)で指摘されていたもう一つの事実に触れておきたい。

 プナンは獲物をとってきて食するわけだが、イボイノシシをとってきた場合、解体から食べ終わるまで、全員が沈黙を貫く所作があったそうだ。声を発することが獲物を貶める振る舞いとみられているようだと奥野は言う。獲物にありつけるということは喜びであるはずだ。にもかかわらず沈黙を貫くというのは、獲物への敬意であり、命あるものを奪って食するということへの畏れであり、私たちの文化に引き寄せて謂えば、森やイボイノシシという自然への感謝の儀礼化したものということができる。沈黙という祈りであろう。

 また近親者が亡くなると、その近親者の名を呼んではならず、残された近親者が自らの名前をも変えてしまうという。彼または彼女が使っていた家財道具ばかりか(ときには)家なども処分して、別の場所へ移り住むという葬送儀礼もあったそうだ。狩猟採集生活だからこそできることではあるが。名を呼ばないということと、獲物を食し終わるまで沈黙を守るというのとどう関係しているのかいないのかはわからないが、声をたてたり名を呼ぶということが猥雑なことであり、命を失くしたものを貶めるという感覚があるのかもしれないと、最初は思った。。

 戦中生まれ戦後育ちの私の世代は、明治生まれの親の文化受け継いできた。食事中はおしゃべりをするものではないと、子どもの頃はしつけられた覚えがある。どうしてそうなのかは考えもしなかったが、そうした習俗にも、何がしかの意味合いが含まれていたのであろうと、いま思う。

 それをもう一歩踏み込んで考えてみると、何がしかのことを言葉にすることが、的を射ていないというか、軽んじることに通じると感じていたからではないか。私たちの日常でも、哀切な思いをどういっていいかわからないことがある。悲しみも愛おしさも、口にするとウソっぽくなる。同様にプナンは、例えばイボイノシイを獲ってきたとき、言葉にする何がしかの思いを「*」とする。罠にかかったイボイノシシのことにふれると、それを獲った側からみた「*」と罠にかかったイボイノシシの側からみた「*」とは、自ずから異なってくる。どちらのことも讃えようというとき、イボイノシシの命の賛歌とそれを奪った栄誉への賛歌とは、矛盾する。まして、それを屠って食することを称賛することは、イボイノシシと同じ世界を生きているものとして、どういえばいいのか。それが「*」である。

 「語ることができないことについては、沈黙するしかない」という哲学者の言葉を思い出す。プナンの「沈黙」は、言葉にすることへのためらいであるだけでなく、言葉にならない「*」が胸中にあることを大切にしておきたいという思いがこもる。奥野の指摘は、逆に、現代社会の私たちは「沈黙」という祈りを忘れているのではないかと抉り出しているように思える。「祈り」というのが、いま私たち自身が生きていることへの感謝であってもいい。それがイボイノシシの命によって購われていることであっても構わない。あるいはもっと広く、イボイノシシとそれを獲った者たちとそれらすべての環境を与えてくれた天然自然への畏れというのであってもいい。自分たち自身が天然自然によって生きていることを「*」すること。それが「祈り」であろう。そうした言葉にならないが、間違いなく私たちの胸中に湧き起る「思い」は「沈黙するしかない」所作によって、共有されていたように思う。ことばにしてしまうと、零れ落ちて、「祈り」にならないのだ。

 かくいう私自身が、ここに書き落としているような形でおしゃべりをして、大切なことを零し落している。言葉が「ない」ことの大切さを忘れているのが、日常というものであり、猥雑と称されるものだとすると、ときどきは沈黙して、大切なことを想い起すこともしておきたいと思う。(2019/12/13)

2020年12月13日日曜日

進む技術、遅々たる社会的手順

 スマホの会社を切り替えたのに伴い光通信の会社も切り替えることにした。実はこの切り換えがどういう意味を持っているのか、とんと見当がつかない。結局、いまより月額1000円ほど安いというのが、決断の動機となり根拠となった。

 その話を持ち掛けたのが先月末。一週間前に切り換えの技術的チェックに、若い調査人が訪れた。部屋の配線を調べるのに、1時間半くらいかかったろうか。今後は書斎の回線を使わず、リビングのTV回線をつかって光通信も電話も使えるようにするらしい。

  二十年以上になろうか、何年前であるかもう忘れてしまったが、NTTでADSL通信がはじまったころに電話回線を切り替えた。モデムなども借りるようになったのだったか。そのときには、書斎の受け口の配線をいじり、それだけではすまず、ドアホンと兼用の電話が通じるようにリビングの壁に取り付けた電話機の配線も、何やら工事していた。

 それが光回線に切り替わったときは、モデムの切り替えくらいで済んだ。だが、ときどきモデムが作動せず、よく見ると初期化されていたりして、その都度、どうして? と思ったものだった。停電などのときにモデムが初期化されることがわかり、接続をはじめからやり直すことがしばしばであった。あとで判明したのだが、同じ団地の同じ棟のどこかで光回線に切り替える工事のときに、一時的に通信回路を遮断する必要があって、その都度、既存の回線のモデムが初期化されるのだと思った。いまはそうした切断もない。工事方法が(たぶん)改良されたのだろう。

 そうして昨日(12/12)、切替の工事が行われた。モデムも切り替わる。既存のWIFIもリビングにうつす。まだ二十代の若い工事人が1時間も遅刻してやってきて、果たして時間内に終わるかと心配させた。だが、2時間半かかると聞かされていた工事が1時間余で済んだ。この若い工事人は、終わりに「後で今日の工事のやり方とか工事者の説明や態度についてアンケートがあると思いますが、よろしくお願いします」と(遅刻したことを寛大にみてくれと頼むようなことを)言った。

 電話回線は、NTTが切り替えを承認して「通知」が来てから、もう一度接続工事をする。その間の何日間かはドアホンの電話が使えなくなるという。まあ、もう一つ和室に同回線の電話があるから不都合はない。書斎の電話は、廃棄することにした。

 ちょっと気になったのは、今日の工事で切替が可能になったのに、NTTの承認手続きをして切替工事をするのに2週間もかかるってことだ。どうして? 「わかりませんが……セールスの人に聞いてください」と工事人は我関せず。じつは事前にセールスの人にも訊ねていた。彼は「いつも、だいたいこれくらいかかりますね」と、そんなものですよと応えた。

 通信技術の方は、ADSL以来ずいぶんと変わった。早くなっただけでなく、容量も多くなったし、装置の設置・開設が簡単になった。今回だって、切替工事でモデムが初期化されることはなかったのではなかろうか。だが、デジタル技術をつかうことのできる社会的な切り換えの方は、ずいぶんと遅れている。いやそう言っては、現況を精確に言当てていない。

 デジタル社会の方は、カード決済とかスイカやパスモ、paypayなどと、現金をあつかわない方向へ舵を切っている。ところがお役所仕事の方は、未だそれに対応していないことが、露わになってきている。コロナウィルスに際しても、厚生労働省の地方自治体からの保健情報の集約などが、FAXという文書主義とか「未だ手作業」とからかわれるほどアナログ的であった。NTTもお役所仕事の面影を残しているのであろうか、切り換えを通知したから承認するうまでに、たっぷり時間がかかる。あるいは切り換えに不承不承であることを伝えるために、わざと遅らせているのであろうか。

                                            *

 もう三十年前になるが、私が現場の学校にいた1991年に、学期末の成績を電算処理することを提案したときのことを思い出す。エクセルを使って成績入力してもらうと、各クラスごとの成績一覧表から各個人への成績通知表も出力できるようになる。

 それまでは、各ホームルーム担任が各教科担任からもらうクラス別の「成績単票」を、「成績一覧表」に転記し、出欠席を加えてまずホームルーム別の「成績会議資料」を作成する。成績会議が終わると個人別の「成績通知表」に書き写して、期末ごとに保護者に通知するというものであった。期末の担任教師の忙しさは、ほぼその成績処理で埋め尽くされ、その間授業もあるのでは大変というわけで球技大会などを組み込んで、生徒は生徒で、試験後の解放感とともに行事に熱中していた。

 その成績処理を電算化して、各教科担任が「成績単票」を作成し電算室で成績を入力することで、ホームルーム担任は「成績一覧表」も「成績会議資料」も個別の「成績通知表」も作成する業務から解放された。球技大会などへの関与もできたし、授業を行うこともできた。なにより試験実施から期末までの期間を短縮することができた。

 しかしはじめて教務主任がそれを提起したときは、大騒ぎであった。

「なんだよ。キーボードが扱えないと教師が務まらないのかよ」

 と毒づく教員がいた。

「手書きしてこそ一人一人の生徒の成績の浮き沈みがわかるってもの、こんな成績処理をしていたのでは教師には生徒が見えなくなってしまう」

 と正論を振りかざして抵抗する人もいた。

 まず半数ほどの教師が、キーボードに初めて触る状態であった。教務は、成績入力の部屋に担当者を置いて、入力の仕方を手ほどきする必要があった。それと同時に、「成績単票」の合計が間違っていることもかなりあることが分かってきた。それまでは各教科担任が「単票」に書きこんでホームルーム担任に提出する。ホームルーム担任はそれを「一覧表」に転記して、縦に教科ごと、横に個人別の成績合計を出す。その縦と横の総合計をしてみたとき、ぴっちり合わないと、どこかで記入ミスをしていることがわかる。もう一度、全部の単票と一覧表とを見比べて合計を計算する。ところが、もともと「単票」の合計自体が間違っていたりすることもあり、なんだ、転記ミスじゃなかったのかと教科担任のソコツを発見してクラス担任は苦笑いをする。そんなこともなくなった。

 それから12年ほど同じ現場にいて私は退職したのだが、その間に成績入力に関する手順は行き渡り、常識化していた。18年前のことだ。だからお役所が未だにアナログ時代を過ごしていることに、ちょっとした驚きを覚えた。技術が進んでも、それが社会的に取り入れる手順は遅々として進んでいないことになる。韓国では現金での買い物がほぼなくなっているというのに、驚く。それほどにデジタル化が、社会的手順としても浸透しているのだ。

 この「遅々たる社会的手順」が一概に悪いかどうかはひとまず置いても、お役所仕事が遅々として進まないのに、世の中のデジタル化が必要と力説する人たちが政府を率いているというのは、どこかおかしくないか。つまり政府のリーダーたちは仕事をすすめる「現場」をちっともみていない。机上の空論を振り回して切りまわしているから、上級官僚たちの絵空事がたちどころに「現場」で実施され得ることと勘違いして世の中をみているのだね。

 おもえば、アナログ育ちの私たち後期高齢者が、デジタル社会に適応できなくておいてけぼりになっているのは致し方ないとしても、デジタルを扱う「現場」ではそういう人たちも、それなりに世の中の進み具合に適応できるようにサポート態勢を整えて、社会的に参入できるようにしていかねばならないし、実際そうしている。時間はかかるが、そういう手間暇をかけるごとに、私は手順を覚えていく。それができてこそ、コミュニティが多様性を保ちながら持続するのだといえる。今、その切り替わりの時代。落ちこぼれになりかけた後期高齢者として立ち会っていることを、なんとなくオモシロイと感じている。

2020年12月12日土曜日

リモートのサイエンス・カフェ

 昨日(12/11)、カミサンがリモートの「サイエンス・カフェ」に参加するという。リモートの授業とか会議ってどうやるの? と、遠方に住む息子に訊ねた。すると、電話が来て「パソコン開いて」という。開くとメールが来ている。画面をみながらzoomをやり取りできるようにインストールしろという。少し時間がかかったが、インストールができ、息子と孫娘が画面に登場する。こちらの「参加」を「ON」にすると、自分の顔が画面の一部に表示される。なるほど、これでいいのか。カミサンを呼んで、孫娘とやり取りしながら、「カフェ」に参加したときの「手の挙げ方」「声を出す方法」「画面から顔を隠す方法」を実体験する。こうして準備が整った。

 「サイエンス・カフェ」当日の昼頃に「ご招待」のメールが届く。開始の少し前に「ご招待」のURLをクリックすると、主宰者の姿がモニターに現れる。カミサンのそれは「ON」にしないから、名前だけが表示される。参加者が誰と誰と、名前が表示されている。なかには植物の写真を顔代わりに登場させている方もいる。

 メイン講師が今日のテーマをパワーポイントをつかって40分ほど話す。植物の「レッドデータブック」を軸に据えた「生物の多様性」に関するやりとり。司会役が誘導して質疑がはじまる。あちらこちらの参加者が、環境問題をふくめるその筋の専門家であることがわかる。大阪からも参加している、と発言を聞いているうちに分かる。遠慮がちに進んでいたものが、徐々にほぐれていき、「レッドデータブック」は何の役に立つのか「生物の多様性」はなぜいいことといえるのかという哲学的な問いまで飛び出して、話すすんでいるようだ。

 その間に私は風呂に入ったが、戻ってもまだ質疑がつづいている。結局50分の質疑応答を越えて「退出なさっても結構ですので・・・」という声掛けもあって、一人二人が画面から消えたが、さらに20分ほど超過して終了した。なるほど、面白そうだ。

 若い人たちはこうやってリモートの仕事をしたり、会議をしたり、カフェという名でフリートークをしたりしているのか。これならば、コロナウィルスの心配をしないで、言葉が交わせる。惜しむらくは、参加者が顔を出さない人もいる。当然、声を出さない人もたくさんいて、いかにも日本的な風景だなと私は岡目八目で思っていた。というのも、先日TV番組で、リモート会議に参加者がうんうん頷くだけで発言者の発想も言葉も変わってくると実証実験をしているのを見たばかりだ。遠慮とか気恥ずかしいという日本的な風景がちょっとばかし邪魔をしているといえるし、逆に、立ち位置の違う専門家たちとの段差を気にせずにずぶの素人が話を聴くのには、顔など出さずに、ふ~~んそうかと耳を傾けているのに都合がいい。

 もう十カ月延期しているSeminarも、半年中止になっている「ささらほうさら」も、こうやってパソコンを使えばリモートで行える。ただ、パソコンなんて触ったことないよという人もいる高齢者ばかりのグルーピングだから、ちょっと手を変えなければならないが、不可能ではない。

 考えてみようかと思案している。

2020年12月11日金曜日

アア、メンドクサイ、モウヤメルワ

 皇嗣の長女の結婚がもめ続けている。とうとう宮内庁が口を挟んできた。婚約者の母親が資金援助を得ていたとかそれが借金であったとかいうことがモンダイとしているが、父親である皇嗣自身が記者会見で話したように、「両性の合意のみによって」という憲法の条文を持ち出して結婚を承認するというのであれば、宮内庁が口を挟むことではなかろうと思う。

 いやそれよりも婚約者にしてみれば、アア、メンドクサイナ、モウヤメルワ、と婚約破棄をしてもいいと思うくらい、単純なことがごちゃごちゃと社会問題に仕立て上げられている。私たち庶民からすると、結婚相手の親に何がしかのモンダイがあったとしても(ほじくり返せばモンダイがない方が珍しいのだが)、ま、最終的には本人同士のモンダイだからと棚上げにして、結婚にすすむことができる。勿論先々のことを考えれば、両家の親がそれなりに同意して成立する方がいいだろう。だが、そうとばかりは言えないのが世の常。それに宮内庁が口を挟むというのは、皇室が国民の所有という公のものだからだ。

 だがそう考えてみると、はたして皇室は、私たち庶民にとってどのように存在意義を持っているのであろうか。それを一度きちんと自らに問うてみる必要があるように思った。

 そもそも政治体制として憲法では規定しているけれども、現実の政治過程としては皇室を不可欠のものとして必要としているわけではない。民主主義日本は、皇室なしでもやっていける政治体制をとっている。右派や保守派の人たちにとっては、まさしくニッポンという人々の統合の象徴として欠かせないというであろう。だが私たち庶民からすると、せいぜい日本の文化遺産として存在しているのを(憲法の精神からいうと)許容してるにすぎない。たとえ明治維新期に創造された天皇制国家日本であっても、あるいは南北朝の正統性論争からすると疑念を挟む余地があるとしても、あるいはまた、7世紀末から8世紀初頭にかけて制度化されて語り継がれた記紀神話の伝統を背負っているとしても、連綿たる皇室の伝統というものは「国民統合の象徴」としての希望的存在であった。現実過程として「国民の統合」には様々な利害の対立や考え方の齟齬という困難があり、せめて「相和して」社会をかたちづくっていってほしいという希望を象徴する存在である。右派や保守派の人たちはそれを逆に考えるようにして、天皇制を護ることが国体を護ることと逆立させてしまったのが、戦前の天皇制国家・大日本帝国であった。

 戦後の政治体制が天皇制国家ではなく民主主義国家となっているのであるから、憲法上の制度としては文化的な(国民統合の象徴)遺産として皇室が存在しているとみるのが、まず、妥当なところだ。でも一つの文化遺産として、皇族という人たちの人権を大きく制限するというのは、何か私たち庶民に意味があるのか。

 ひとつ、こうはいえようか。「民主」ということがどういう立場であるかを、現実的に示して見せる反照的存在。彼らの不自由さを目の当たりにして、わが自由を実感する。でもなあ、いまさら彼らがいようといまいと、私たちは人の振り見て我が振り直せって感覚を棄ててしまっている。ヒトはどうあろうと私は私じゃと唯我独尊を誇れるほど、勝手気ままに生きている。むしろ彼らの不自由さを反照として、私たちの自由さが公共性を失っていると実感してもいいくらい。となると、今度の皇嗣の長女の結婚を私たちも見習って、相手の親や家族に一点の瑕疵もないことを確認しないと、結婚なんてしてはならないと生き方を改めるかい? それは無理だろう。となると、文化遺産としての皇族というのは私たちにとってはほぼ無意味である。

 えっ? 「国民統合の象徴」? なるほどニホンコクミンは、いまや勝手気ままのてんでばらばら。せめて天皇を担ぐことによって、ココロを一つにしようと右派民族派の人たちは唱えている。だが見てごらん、世界を。一つにまとまって見える「くに」って、ほぼ独裁的な政治体制をとっている。民主主義国家というのは、ほぼ社会経済的な格差の拡大とかイデオロギー的な分断とか利害得失による分裂をきたして、まとまるということと逆の確執によって不安定さの最中にある。それを考えると、独裁政権でもないのに政治的な大騒ぎをせず、リーダーシップをとる人たちがこれといった指導力を発揮しているわけじゃないのに、さほど文句も言わずに平穏な日々を送っている日本じゃないか。これって皇族がいるからなの? それとも、1200年ほど続いた天皇制神話の「和の精神」のおかげなの? いずれにせよ、すっかり身に沁みこんだ文化的伝統は人々の振る舞いの隅々にまで行きわたっている。もうすでに、皇族が存在するかどうかはカンケイがない。

 でも、皇室の当事者の生き方が、齟齬をきたしている。皇室の人たちには、国民の権利が与えられていない。「両性の合意のみによって」という結婚に関する憲法上の規定を皇嗣が口にするのは、(憲法の国民規定が皇族には適用されないから)したがって、皇族に対しては妥当ではない。にもかかわらず皇嗣が憲法の規定を口にしたのは、皇嗣の長女には普通の庶民と同じように考えてやってほしいという願望が込められている。皇族としての面体を保つために1億何千万円かの「持参金」が税金から支払われるということが(400万円の借金を踏み倒している母親が釈明もしないのでは)軛となって、宮内庁が口を差し挟む余地が生じているのだ。だったら、「持参金なんかいらない」から、勝手にさせてよと言えない社会的存在が皇族である。

 そう考えると、もうそろそろ皇室の人たちを私たち国民が「象徴として担ぐ」ことから解放してやってもいいんじゃないか。天皇制をいきなり全部廃止せよと言っているのではない。もちろん全面的に解放するには廃止するのがいいのだが、男子相続性とか皇族女子のあつかいとか、シチメンドクサイことを棚上げして、「公務」からさえ解放して、成人になった時点から、当人の選択を取り入れてやっても、いいんじゃないか。「公務」など、政治家の然るべき人がこなせば済むことだ。

 天皇制を国体として担ぐ時代は終わった。アア、メンドクサイ、モウヤメルワって、ならないもんかね。

2020年12月10日木曜日

霧氷の絶景、笠取山

 青梅街道の一ノ瀬高橋トンネルを抜けて500mほど行ったところにヘアピンカーブがある。そのカーブを曲がらずまっすぐ行く道が一ノ瀬林道。この林道を9キロほど入ったところに登山口がある。笠取山1953m。この山をプランに組み込んだのは山の会のkwrさん。歩行時間は4時間20分。車でないとアプローチが難しい。登山口と下山口が2キロほど離れているから、車が2台あると好都合だ。山行計画を皆さんにお知らせした。だが、同行できる人がいない。加えてkw夫妻も、毛無山の疲れが取れないというよりも、同行者に迷惑をかけると思ってか、しばらくマイペースの山歩きをするといってきた。つまり、先々週に引き続き私の単独行になった。

 昨日(12/9)朝6時ころに家を出発して青梅街道を走る。一ノ瀬林道の入口の所に「林道が崩落して通行止め」と表示している。やれやれ、先月半ばころの氷室山同様、去年秋の台風19号で林道が崩れていると記し、崩落現場の写真二枚をつけている。いや、これはすごい。道路下の土砂がすっかり崩れ落ちていたり、道そのものがなくなっている。また、足止めかと思った。ならばせめて、一ノ瀬高原キャンプ場だけでも見ておこうと、青梅街道をさらに甲府の方へ進む。落合橋から一ノ瀬高原へ向かうと、「作場平3.5km→」と手書きの表示がある。

 おお、それは笠取山の登山口のあるところ。では、一ノ瀬林道はこの一ノ瀬高原をぐるりと経めぐるように設計されているのか。ならば行けるではないか。車を先へ進める。舗装された林道は荒れてもいない。作場平にはすでに2台の車が止まっていた。大宮ナンバーのジムニーと川崎ナンバーの三菱デリカ。どちらもアウトドア好みの車だ。

 8時45分、歩き始める。下山口からここまでは1・8km40分と表示看板があり、合計5時間歩行のコースになる。カラマツとヒノキの混淆林を落ち葉を踏みしめて上る。道標も踏み跡もしっかりしている。下の方に結構な水量の一ノ瀬川が流れ下っている。20分足らずで一休坂分岐に着く。コースタイムでは40分とあるのに、どうしたことだ? 急ぎ過ぎているとはおもえないのに。分岐の表示板には「一休坂(急登)」とある。だがどこに急登が? と思うような、緩やかな上り。広いルートの斜面側には丸太の土留めが設えられていて、まるで森林公園の散歩道という感じだ。ただ、案内表示には「水干(みずひ)3・6km→」とはあるが、笠取山とは書いていない。変なの。何だこの一ノ瀬高原は、笠取山よりも水干がウリなのか。登山路の落ち葉はしっとりと湿っている。昨日か今朝にも雨が落ちたのか。上へ上がるにつれて落ち葉に残り雪が混じる。ミズナラやブナ、リョウブ、ナツツバキ、コシアブラの林になる。「クマがいます」と書いてあったのを思い出して、ザックから鈴をとりだしてぶらさげる。

 笠取小屋1780mの前の庭は、うっすらと雪が覆っていた。コロナのため年末の営業は29日までと掲示してある。遭難に備え、縦走者は登山届を出せとも書いてある。登山口からほぼ1時間10分。コースタイムだと2時間10分なのに、何だか狐につままれたみたい。ここにきてやっと、笠取山の名が出てきた。小屋裏のキャンプ場で一組のアラフィフペアがザックを降ろしている。私に先行した一組だ。ジムニーだろうか。訊ねると中島川口へ縦走するのではなく、笠取山から水干を回って作場平へ下るという。私が先行する。

 10分ほどで雁坂峠分岐1832mに着く。先行していたアラカンの男性と若い女性二人の3人組。たぶんこの人たちが三菱デリカと思う。「小さな分水嶺」と記した看板がある。ここに降った雨は、北側は荒川へ流れ、南側は多摩川へ下り、西側は甲府を経て富士川となると記す。「水干って何?」とアラカンに聞く。水干というのは多摩川の源流なのだそうだ。笠取山よりも、水干をみるために上ってくる人が多いという。なるほど「水干」というのは、水が干上がるところ、逆に多摩川からみると水がしたたり落ちるところ、という意味か。

 追い越そうかと思ったが、私はマスクをザックに入れたままだ。この3人組もマスクをしていない。しばらく距離を置いて後をついて歩いたが、どうぞ先へと道を譲ってくれる。分水嶺の小高い丘を越えると少し下り、林が途切れたところの正面に笠取山が見える。思わず、おおっ、と声を上げた。標高差にするとわずか110m余だが、グググッとそそり立つ急勾配。その山体の真ん中を貫くように人の踏み跡が直登する。その両脇に、真っ白に枝を飾る霧氷をつけた樹木が山体を覆う。カメラを構えていると、先ほどのアラカンが後ろで「ここが笠取山の撮影スポット」と連れに声をかけている。いや、絶景ですよと後ろへ言葉を返す。右へ「水干→」の表示柱がある。正面の笠取山へ踏み出す。

 急勾配を上りながら振り返ると、いま歩いてきた分水嶺からのルートが一望できる。そちらも霧氷に覆われているかのように、霞んでみえる。3人組のあとに、小屋で出逢った2人組も登ろうとしている。

 15分ほどで山頂に着く。広くない。岩が重なる中央に山名表示の木柱が立つ。周りの木々は霧氷で真っ白だ。10時35分。1時間50分で到着した。コースタイムは3時間15分。山頂でお昼かなと考えていたが、そんな時刻ではない。それに強い風が吹いて寒い。ザックから羽毛服を出して羽織る。山頂の先は細い岩の稜線。雪がついている。10分ほどゆくと、また「笠取山」と記した環境庁の木柱がある。さらに三角点が置かれているのも、ここだ。何だろう先ほどの山頂はと思う。

 岩を越えて雪のついた下りになる。「←水干・笠取山→」のプラスティックの標識が壊れて木の幹に挟まれている。大岩の傍らに「秩父山地緑の回廊」と林野庁の看板が掛けられ動物保護を呼び掛けている。そうか、ここは山梨県とは言え、秩父山地の一角なのだと思い直す。15分ほど下ると、「←水干・笠取小屋」への案内がある。下山路はそれとは別の方向になる。水干までは6分ほど。行ってこよう。

 さほどの上り下りすることなく水干に着く。「多摩川の源頭・東京まで138km」と記してある木柱は、東京都水道局の制作したもの。60mほど下に湧き水があり、それが一ノ瀬川→丹波川→奥多摩湖を経て多摩川になるというわけだ。ここは山梨県甲州市なのに、まるで東京都の山のように「多摩の水」と呼んでさえしている。水源涵養林として東京都が植林などをしているのであろう。笠取山の南側の標高百メートルほど下にある。それなのに「山梨百名山」も、「日本三百名山」も東京都水道局・「水干・源流の道」に乗っ取られてしまったようだ。

 分岐に戻り、中島川口へシラビソの尾根を降る。振り返ると木々の間から笠取山が霧氷にけぶるように立つのが見える。この先になると、もうこの姿は観られない。山頂から標高で200mほど下って笠取小屋への分岐に来た。11時31分。ここでお昼にした。標高が下がったのと少し陽ざしが出て南向き、着こんでいた羽毛服を脱ぐ。思えば、青梅街道を挟んで南側には黒川鶏冠山とか大菩薩峠がある。西には三つほどの雁ヶ腹摺山などが連なる。奥深い、文字通り秩父山地。一ノ瀬高原自体が、ひっそりと影を潜めているようにみえる。

 15分ほどで再び下山にかかる。シラビソ尾根につづく黒槐(くろえんじゅ)の尾根。どちらも、大きくジグザグを切っていて、下山路としてはまことに歩きやすい。ついつい駆け足になるほど傾斜と言い、広さと言い、危なっかしさがない。角を曲がるところだけ用心してスピードを殺す。両側に生い茂るクマザサに陽ざしが当たってキラキラと輝く。トレイルランナーの気分もこうなのかなと思うほどであった。昼食場所から1時間40分のコースタイムを1時間で下ってしまった。中島川口からは舗装の一ノ瀬林道。1・8kmを時速6kmで歩いて、駐車場に着いた。13時6分。行動時間は4時間20分。なんでこんなに調子がいいんだろう。二週間ぶりの山に身体が喜んでいるみたいだった。

2020年12月8日火曜日

訣れ

 先月から「喪中はがき」が届き始めた。嫁ぎ先の祖母・大姑の死、親の死、兄弟姉妹の死、連れ合いの死という若い知人や同世代の友人の訃報に混じって、旧友や知人本人の死の知らせが(親族から)届く。ほとんどが「コロナウィルス禍」をほのめかして、家族だけで葬儀を執り行ったと言葉を添えている。

 なかには、年賀の交換をする以上の付き合いというか、メールでやりとりしていた方の訃報を、年賀のやりとりをしていた友人への「喪中はがき」によって知るという回り道もあった。そうだよなあ、本人との付き合いであって家族ぐるみじゃないから、そういうこともあるよなあと彼や彼女との向き合い方を感じさせる。

 寒中見舞いにことよせて年明けにお悔やみを送るまでの間、喪中の人たちの心裡を想い起すたびに、私は「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と兄・宮沢賢治に願う病床のいもうと・とし子の言葉を思い起す。賢治はそれを、兄へのいたわりの言葉として聴き取っていたのではなかったか。

 旅の宿で傍らに寝ていた兄が身罷るほんの直前まで言葉を交わしていた私は、「喉が渇く」といった兄にお湯を用意したら「水の方がいい」というのが「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(雨雪をとってきてちょうだい)と同じ意味合いだとは、そのとき思いもよらなかった。発熱していたとは思わなかったのだ。くしくも岩手・八幡平の宿であった。

 救急車を呼ぶのも「朝になってからでいいよ」と兄は言っていた。とし子のように、「Ora Orade Shitori egumo」とは言わなかった。兄自身、まさか死に直面しているとは思いもしなかったであろう。救急車で運び込まれた病院で急性心臓死と診断を受けた。

 喜寿とはいえ、日ごろテニスに興じ、山歩きに関心を示して槍ヶ岳にも登り、秋田駒ヶ岳と八幡平を経めぐっている途次。健康には人一倍気を使っていた。ジャーナリズム世界でもそれなりの位置を占めて最新刊書を出したばかり。それもあってか私は、兄が「ちょっと散歩に行ってくるよ」と出ていったきりという風に感じられ、亡くなったと思えなかった。

 そうであったから、とし子のように「うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる」という口ぶりとは無縁の時代であった。でも私にとっては「永訣の朝」。賢治がいもうと・とし子に寄せる思いが(兄・自分への)「いたわり」に響くように、喪中の方々の心裡にも響き届くことを祈らずにはいられない。

2020年12月7日月曜日

ヒトとカネを動かすのが権力

  いま(12/7)TV番組で、コロナウィルスの感染広がりにともなう医療体制の危機的状況が逼迫していると、大阪の場合をあげてやりとりしている。気になったのは、コメンテータとして出演している元大阪市長・橋下徹の発言。

 看護師を増やせないのかという芸人コメンテータの発言に対して、少子化の将来を見越して全国的には医師や看護師の養成数を減らしている厚労省の政策を説明したのちに、「看護師などの過剰地域から不足地域へ強制的にでも異動させられるのが権力ですよ。それができるのは政府しかないんだから」と発言していて、なるほど妥当な意見にみえるが、それを実行に移すにはずいぶんとクリアしなければならない前提が必要で、今ここでの提言になっていないと感じた。

「強制的に異動」という言葉の響きが(平穏な日常性にどっぷりと浸ってきた社会には)強烈に過ぎるほど、庶民感覚と開きがある。もちろん緊急事態という、状況全体の特異性が(橋下徹の)頭にあるのはわかる。だとすると、むしろ、自衛隊の医療チームを投入するとという「緊急対応」を提案した方が、はるかにリアリティがある。

 それと同じことなのだが、医療が逼迫して、医療従事者の勤務が過労気味になっているにもかかわらず、コロナ関連医療機関の看護師が辞めていっているとか、一般医療機関からコロナ対応医療機関へ移ろうとしないとか、逼迫した医療従事をしている現場でも、手当てが追いつかず、寧ろ給料が下がっている事態があると、番組はニュースを挟みこむ。それに対して厚生労働省は何兆円かの手当てを施して地方行政機関に遣うように指示しているのに、各都道府県は2月県議会を経なければ使えないとコンプライアンスの壁があると、橋本徹は融通の利かない法適用の現場を抉り取る。なるほど、それもそうだよなあと思いはするが、でも「緊急事態」なんだから、臨時議会を招集すればいいではないかと思う。なんだか地方の首長の方も、臨機応変の対応をするのにへっぴり腰ではないか。

 橋下徹は「ヒトとカネを動かすのが権力なんですから」と、政府や地方首長への哲学的示唆でまとめていったのだが、そのときひとつ、私が「気になってわだかまっていること」に気づいた。

 橋下徹の提言が、原理的に言えばそうだよなあと思う。他方で、でもなあと、何か引っかかるのは単なる原理的な物言いと庶民の日常感覚のズレ。このズレの根底には何があるんだろう。そう考えてみると、日ごろ、医師や看護師の養成とか医療体制の整備というときの厚労省のスタンスは、ヒトとカネと箱モノの配置ばかりである。しかもその根底にはコストパフォーマンスという経済合理主義ばかりが優先して、何のための医療体制なのか、百年先の将来を見通した社会医療を展望する、社会イメージを含む「人間要素」が欠落している。つまりふだん経済合理主義だけで仕切っておいて、「緊急事態」だからという「お上の印籠」かざして「ヒトとカネの移動を差配するのが権力」といわれても、ははあそうですねと畏まる庶民は、たとえ医者や看護師だってそうはいない。

 たぶんこれは、法的言語に浸って論議をする人たちの弱点なのだろうと思う。例えば日本の防衛モンダイに際しても、「身を捨つるほどの祖国はありや」と思わせるような「くに」では、せいぜいが、おカネは出すからよろしくねと、自衛隊という傭兵にお任せして知らぬ顔をするのが関の山ではないか。つまり、誇らしくもわが家族、わが身同様に守り抜きたいと思うほどの「くにづくり」をすることから説き始める防衛論議でないと、単なる防衛イデオロギーのやりとりしか、残されない。

 コロナウィルスという「国防」のモンダイを考える際にも、「人間要素」を算入する「くにの防衛」として、根底から貫き通す現実的提言が迫られている。それが、政治を志している人の真摯な態度だと思った。

2020年12月6日日曜日

そこから先が出てこなかった

 中村文則『逃亡者』(幻冬舎、2020年)を読む。おっ、これは香港のことを書いたものかと、急ぎ奥付をみた。初版は4月15日。香港の国家安全維持法が可決されたのが6/30だから、直にそれに対応したものではない。

 正体不明の人物が登場する。神出鬼没、なぜか「わたし」のやることなすこと考えることを子細に承知している。しかも、三択の生き方を「選べ」と突き付ける。それはいずれも屈辱にまみれるしかない死への道だ。まるでカフカの『城』の門番が、人の生き方にまでこだわって迫ってくるようなのだ。

 読みすすむにつれて、在日外国人のモンダイであり、日本の海外侵略戦争のモンダイであり、従軍慰安婦のモンダイであり、ベトナム戦争のモンダイであり、日本国内の対外関係のモンダイであり、もっと卑近に、ヘイトスピーチや国民の分断のモンダイであり、いやじつは人が生きるというモンダイであり、その生きる場である国家社会のモンダイであり、そもそも人類史の背負っているモンダイであると、思いが広がっていく。正体不明の人物の外に、謎の宗教団体やファナティックな政治集団に属すると思われる人物も消えては現れ、「わたし」とかかわりのある言葉を放ち、でも逃げ場のない圧迫感だけは間違いなく増してくる。

 なぜ「逃亡者」なのか、なにから「逃げている」のか。不明な正体がコレと特定できるように姿を現さないから、まるで自問自答する「わたし」からさえ、「逃げ出そう」としているように感じられる。

 ふと思い出したのは、2020/9/28のこの欄《言語の「原的否定性」と社会関係への参入》でもとりあげた「原的否定性」ということば。


《ダメなものはダメという(理屈抜きの)「原的否定性」を受け容れることが、社会関係に参入する「原的肯定性」に転化していく筋道を開くパラドクス。》


 生きるという現実存在そのものが、「原的否定性」を受け容れ(社会関係に参入す)ることからはじまる。それに気づくというのは、正体不明の「かんけい」の網の目にからめとられていることを感知することであり、そこから「逃亡しようとする」ことは自由を求めることを意味する。その「自由」は「原的否定性」を受け容れることからしか始まらないし、その「原的否定性」が屈辱にまみれるしかない死への道だとしたら、はたして「逃亡者」である「わたし」は、狂うしか道がないのかもしれない。そう示唆する記述にあふれる。予言的な香港のモンダイでもあった。

 そのような「物語」を書き残して著者は消える。それを本にするための帯文を引き受けた作家の言葉が掉尾を飾る。いや、掉尾とか飾るという言葉の響きは、まったく似つかわしくない。でも、この重い響きは、「掉尾を飾るように」置かれている。


《"歴史と繋がる、四人の男女が生んだものは”そこまで書き、ペンが止まった。〝希望”と書き、斜線で消した。/"歴史と繋がる、四人の男女が生んだものは……”僕はもう一度書く。でも再びペンが止まった。そこから先が、出てこなかった。》


 この末尾に登場する作家というのは、本書の読者である「わたし/あなた」だ。著者・中村文則があなたなら「そこから先」をどう続けますかと、問うている。これこそが「生苦」と受け止めはしたものの、では、どう続けるか。

 う~んと唸っているとき、傍らのTVに、香港メディアの主宰者が逮捕拘留される前の日本メディアによるインタビューが放映されていた(12/6)。「こういう取材に応じているということがさらに問題になりませんか」と気遣って問うインタビュアーに、かのメディア主宰者は(他の国の方々には)「祈ってください」と願う言葉であった。

 そうだ。「そこから先」へ言葉を継ぐとしたら「祈る」ことしかないか、と。

2020年12月5日土曜日

目に見えないウィルスを相手にして安心する方法

 昨日(12/4)の朝日新聞「パンクしない保健所」は、墨田区保健所長へのインタビュー記事。コロナウィルスと共生する基本を示して明快である。

 これまでは、感染源(クラスター)をひとつひとつを明らかにし、そこを封鎖してウィルスをつぶしていくという方法であった。カラオケだ、キャバクラだ、夜の町だ、集団会食だと犯人探しをしていく。だが、陽性者が素直に聴取に応じないとかウソをつくとかして、感染経路不明が多くを占める。クラスターの具体的な公表もしない。そのうちどんどん広がってしまった。メディアの報道に頼るしかない私たち庶民は、若い人たちには無症状者が多いこともあって、何処にウィルスが広がっているのかわからない状況に置かれる。結局、高齢者と持病持ちは出歩かないようにするといった自衛策しかないと肝に銘じるのが関の山だ。政府も、それしか手がないような口ぶりである。

 他方で、経済活動を止めないために、go-toトラベルなどのキャンペーンが張られる。それらはどう考えても、暮らしの基本をさておいて、お金の散財をすすめ、金銭勘定できる社会活動の一部しか視野に入れていない。あとは自己防衛という放置状態。行政なんてどこにもないとみえる。

 ところが墨田区保健所長は、感染源がどこかを探るよりも、広く一斉のPCR検査をして早い段階で感染者を割り出し、(無症状者の)自宅療養などを含めて隔離し、集団感染の拡大を防ぐことを提案している。提案しているというよりも、墨田区ではその方法をとっているというのだ。

 記事のインタビュアーは、そんなことは(1)検査数が多くてむりではないか、(2)感染者が増えて保健所が対応できないのではないか、(3)患者が急増して医療崩壊になるのではないかと疑問をぶつける。

 それに対して次のように答えている。

(1)’抗原検査も含めて「ちょっとのどが痛い」程度で検査を受けている。無症状の陽性者も見つかるので、知らない間に感染が広がったり重症化したりすることを防げる。

(2)’保健所以外の発熱外来の医療機関を公表し、早期受信を可能にして保健所へ集中するのを拡散している。つまり保健所と医療機関が役割の棲み分けをする。

(3)’陽性者を掘り起こすことになるが、早い段階での隔離で対応できるから、自宅療養をふくめると医療機関の負担は限られる。

 クラスターを調査するときに「(自分の行動経路を)覚えていない」人がいるのもよくあることとみているとか、感染者が出た施設名も公表し、区民が危機意識をもてるようにするといった、人間への見立てがふくらみを持っている。

 また、保健所が地域医療のセンター的な役割をすると位置づけがはっきりしている。保健所は情報分析と物資の調達に関して地域医療機関に資すると、私たちにとっては雲がとれたように明快である。

 インタビュアーは、墨田区保健所長の取り組みは政府や都の施策への批判につながると言わせたいようであるが、保健所長はやんわりと、第一波、第二波と第三波の違いを取り上げていなしている。この応対が好ましいのは、施策の批判をしても何の役にも立たないという現場下士官の矜持が感じられるからだ。

 世界はワクチンがいよいよ接種されると期待をつないでいるが、半年先のそれよりも、まず、いまの自衛策をどうつづけるかに役立つ対応を行政が行ってくれることだ。それは、墨田区保健所の対応が明快に感じられることと重なる。

(a)「ちょっとしたのどの痛み」程度でPSR検査をしてくれること、

(b)陽性者が出たらともかくその(学校でも会社でも施設でも)集団で一斉にPCR検査を行って感染者の早期発見につなげること、

(c)なんでもかでも保健所へというのではなく、発熱外来の医療機関を公表して、何処へ行けば診てもらえるかわかること、

(d)感染していれば(症状に応じて)隔離するにしても、どこでどうするかがわかること、

(e)状況を公表することで何に用心したらいいかわかること、

(f)何よりも、人は(記憶も対応も)いい加減であると前提して施策を立てていること。

 これらが、ちゃらんぽらんな人間にとっては、安心の基盤になる。しかも都市封鎖のような形で、経済活動を止めることもない。半年それを持ち応えればワクチンも使えるようになってwith-コロナの社会生活がはじまるということが実感として感じられる。中央政府や地方政府がこのようなスタンスをもってコロナウィルスに向かってくれればいいと願わないではいられない。

 現場下士官に、このような視線が保たれていることは、まだ日本の社会は捨てたもんじゃないと思えるから、うれしいね。

2020年12月4日金曜日

「ええじゃないか路線」の「お伊勢まいり」

 お伊勢参りに行ってきました。3年前に現地に詳しい方がコーディネートしてくれて、旧知のSeminar関係の人たち15人ほどでお参りしたことがありました。そのときは、自動詞アマ・テルが他動詞アマ・テラスになったいきさつなどと言葉が飛び交い、ま、いうならば、ご神体の由来がもっぱらでありましたから、瀧原宮とか瀧原竝宮にまず参り、「あらみたま」の原義を聞きながら、彼岸から此岸を見る感覚を感じとってから、外宮、内宮と足を運んで、神楽と御饌の儀式を観、祝詞を上げ、拝礼の儀式まで執り行うということまでしたのでした。いうならば、祭神と祭主の側を見極めてこようという参内だったわけです。もちろん詳しい「神宮案内人」が、ずうっとついてくれました。

 一度は私も行きたいと言っていたカミサンの申し込んだツアーの「お伊勢参り」が今回。前回と異なり、二見ヶ浦の「浜参宮」と呼ばれる「みそぎ」から入り、倭姫宮、猿田彦神社と神宮誕生の「物語」の順序にしたがって、外宮、内宮へと近寄っていきました。外宮と内宮は、「お伊勢さん観光案内人」がついて一つひとつ説明を加えながら廻り、最後は朝熊岳の金剛證寺へ行って、(神仏習合の象徴のような)「片まいり」にならぬようきっちりと締める展開。つまり今回は、江戸時代からの参詣の順序を踏んだ、いわゆる「お伊勢まいり」の「ええじゃないか路線」というわけです。

 3日間とも天気は良く、「観光案内人」がまた、押しつけがましくなく、「いや私もわからなくて・・・」と神官に聞いた話、教えてくれないところを取り混ぜて「お伊勢さん」の「神々の世界」の懐の深さを暗示する語り口は、なかなか味のあるものでした。他方、ツアー・ガイド添乗員の「案内」が、まだ勉強中の気配を漂わせ、控えめに、でも要点は言っておかねばと思い出し思い出しして伝える気配も奥ゆかしい。バスは二座席に一人。全部で17人というこじんまりした行動単位。外宮・内宮の案内は12人にする配慮。自由時間が多く、でも、皆さん時間厳守の振る舞いをして、スケジュールも少し早め早めにすすんで、心地よく過ごすことができました。

 最初のときは、こちらがSeminar事務局ということもあって、半分「お伊勢参り」の主宰側でしたが、今回はツアーに乗って全部お任せのお気楽旅。暢気なものでしたが、コロナウィルスのせいでgo-toトラベルが重なり、なんとも落ち着かない心もちになってしまいました。

                                            *

 モンダイは、go-toトラベルの「地域共通クーポン」。旅のはじまりのときに手渡され、旅の期間通に指定地域で使い切らなければならないという(指定地域指定店限定の現金同様の)「クーポン」。費用の1/4ほどですから、1万円を軽く超えます。ふだん山へ行ったりするときは、お金を使うところがありません。鳥観のツアーに行くときにも、食費を含む経費はすべて払い込んでいますから、お金をつかうのは、せいぜい「お土産」だけ。旅行総額の1/4もの多額をつかうことは、どうあってもありません。そこへもってきて、もともと育ちが戦後の貧窮時代ときていますから、お金はもちろん、物を粗末にすることもできない。清貧と言えば聞こえはいいでしょうが、ケチと言えばケチ、お金の使い方を知らないといえば知らないのです。

 土産物屋へ入っても、これまではどんな土地のものを売っているか、何処から来たどんな客が入っているか、店は古いままか新基軸を取り入れて回転しているかとみているのが面白く、品物を買うつもりでみることなど、ほとんどありません。

 そこへ「使い切りなさい」と手渡された大金。がらりと視線が違ってきました。買うかどうかと商品をみると、自分の内心の欲望との相談になります。すると、ざわざわと内心が騒ぎ始めます。うまいかどうか、欲しいか欲しくないか、土産にすると、嬉しいと思うかそんなものは要らないと思うかどうかと、自分の内心に問い、ひとの顔を想いうかべ、なんだかニンゲンとしての自分の内側が商品棚に陳列されているかのように恥ずかしく、且つ、それを剥き出しにしないと決断できないという状態に引きずり込まれるのです。なんだか裸で歩いているような気分になっていました。

 ほかの方々をみていると、そんな煩わしい思いをきっぱりと断ち切ってか、さかさかと買い物をし、いくつも手提げの紙袋を下げてバスに戻ってきます。いやはや見事と言わねばなりません。結局、停まっていたホテルの土産物売り場で、遠方に住む兄弟に品物を送ることを思いつき、適当にまとめて、箱代と送料ともに、端数を足してクーポンで支払う。これで大部分を始末して、気持ちが落ち着いたというわけです。受け取った兄弟の方は、これまでお歳暮のやりとりもしたことがないのに、なんだこれはと、きっと訝るに違いありません。そもそも、「お伊勢参り」をしたと知らせることも、憚るくらいです。何かの悪い知らせと思わねばいいのですが、ね。

2020年12月1日火曜日

人手を経た物語と虚飾の重さ

 カミサンがTVドラマ「赤毛のアン」を観て、昔読んだ本とずいぶんと違うと感想を漏らす。小学校か中学校の図書室に置いてあった本は、毛色が違ったために差別的扱いを受けるが、生長するにつれ、毛色の違う特質が周囲に受け容れられ、立派な大人になるというもの。私も小学生の時に「小公子」「小公女」「母を訪ねて三千里」などと並んで(女の子の好む話と思って)読んだ記憶が残っていて、ぼんやりと見当は付く。

 TVドラマは、しかし、かなりリアリティに富んでいて、イギリスの信仰や階級制や中流階級の人たちの労働者階級への偏見や差別的視線がぶつかり合って変っていく姿が、時代の変容と重ねて如実に描かれていたらしい。そういわれて思い出すのは、子どもの頃に読んだ本の大半は、リライトされたものであった。シェイクスピアやガリバー旅行記、ドン・キホーテなどもすっかり読んだ気分になっていたのに、大人になって目を通してみると、まるで別の物語と思えるほど、ずいぶんと奥行きも深く、考えることの多い物語だと気づく。今で言えば、マンガになった「名作」「古典」を読んだようなものであったろう。リライトされたものも、マンガになったものも、作品としては別物と今はみている。その視線は、語られるお話しが語り手によって違ってくるものだと知って後の感懐である。

 それはちょうど、自身の精神的成長に合わせて、物語り世界がどんどん奥行きを深めていったとさえ感じることである。例えば源氏物語が、これまで何人もの人たちによって現代語訳されたりもしてきた。私が高校生のとき文芸部がそれに取り組み、生徒たちの源氏物語の現代語訳が学校の文芸誌に掲載されていたことがあった。私たち自身も、古典の授業で原文を読んでいたせいもあるが、当時親しかった同級生の現代語訳が見事で、「須磨の海岸」の情景を想いうかべて深く感嘆した覚えがあった。なぜそんなことを憶えているか。その同級生が意外にも法学部に進学し、あろうことか卒業後に弁護士になってしまい、「がっかりした」と手紙を書き送ったりしたからである。こうしたことも、別様にみれば私の感懐の押し付けであって、勝手にがっかりされた方にとってははた迷惑であったに違いない。

 だが思うに、伝えられているありとあらゆるコトゴトが、いわば人手を経たものであり、物語りや情報と限定してみても、経てきた手数の分だけ、付け加わったり省略されたり本筋からはずれたり岡目八目で、逸れていった方が面白くなっていたりして、要するに、経てきた人手の数だけ、累積した感懐がこもっているといえる。かつての物語は、源氏物語にせよ、読むとは筆写することであり、文体とは文字の筆跡も加わって、変容を遂げてきているとみることができる。いつかも記したが、詠み人知らずの防人の歌なども、人の口ずさむ口辺を経て伝えられてきたことによって、手を施され、あるいは洗練され、あるいは時代的変容を施されて受け継がれた「名作」であったといえる。

 ところが文字にとどめられ、さらに木版、ガリ刷り、活版と印刷術が広まって後の現代となると、一冊の著書が何百冊、何千冊となって広がっていく。さらにそれが音波となり、電波を通じて画像として、さらにITを媒介として情報機器類の飛躍的発展もあって、コピーそのものが人手の加工を経ることなく伝えられてくる。言葉そのものには加工が施されず、直に飛び込んでくる。そのとき、かつては誤字脱字や表現が手直しされ、人手を経るごとに(おおむね)校正が行われるように衆目を得て出来上がって来た「作品」が、いまは最初の提示のままに、ポンと投げ出される。なるほど、雑だなという印象はそこから生まれるのか。しかも今のネットはSNSにせよチャットにせよ、誰でもどこからでも言葉の投げ込み放題。つまりかつては面と向かった「おしゃべり」によって伝わり、取捨選択されていたものが、今は電波を通じて生のまま世界中に拡散することになった。人の手を経ることなく、荒削りの、ときには書いた人の剥き出しの気分が、そのままに表現として提出されてきて、それはまるで他人の秘所を見せつけられたような気分の悪さをもたらしたりする。そういう意味で、人手を経ない物語はナイーブで、お粗末でもある。そういう時代の波に、私たちはいま呑み込まれて漂っている。

 電波に乗る「おしゃべり」においては、ただの市井の人も、一国の大統領も同じである。ところがその放たれた波が、世界最強を誇って来た一国の大統領とあっては、ざわざわと波紋が世界中に広まり、ときには名指されたテロリストが大っぴらに殺害され、それを知って歓喜の声が上がる。つまり、人の手を経ることによって洗練された来た文化が、より原初の形にとどめられて現れる。ナイーブでお粗末な振る舞いが世界政治を席巻してきた。突出する言葉は鋭く尖り、多くの人を支えられず、且つ触れると深く傷つく。身を護るにも鋭くとがらせた針をもつ。世界をヤマアラシのように変えていくようだ。

 東アジアの片隅に身を置く私にとってこのヤマアラシは、情報民主主義のもたらした人類のささくれ立ちにみえる。もう少し人手を経て練り上げる物語と言葉とを、文化遺産として受け継いではいけないかと思いながら、しかしそれが体現してきた虚飾の重さにも、辟易している。虚飾をはぎ取るには、いま少し内省的な視線を多数の人の目に曝して、練り上げる作法が必要なのではないか。

2020年11月30日月曜日

天罰をどう呼び戻すか

 2020/11/17の本欄で、浅田次郎『マンチュリアン・リポートA MANCHURIAN REPORT』(講談社、2010年)を取り上げた。そのなかで、物語の分岐点としても取り上げられている万里の長城を舞台とした物語、浅田次郎『高く長い壁』(角川書店、2018年)を読んだ。前著で不完全燃焼しているこの作家自身の、日本軍の中国侵略への批判を少し燃焼させたのが後著、と私は読みとった。

『マンチュリアン・リポート』は天皇の密命を受けた将校が身をやつして張作霖暗殺の経緯を調べ午前に報告するという筋立てであった。当然視界は大局を見つめるようになり、調査報告も統治者の目線に絞られ、関東軍の動きも上層部の怪しげな蠢きを浮き彫りにするように話はすすんだ。だが、その大局を辿る著者の(現地調査の)視線は、軍内部のヒエラルヒーからもこぼれ落ちる「倫理性」に目が止まり、軍の大局視線からは大きく外れる現地住民の暮らしと憤懣に気持ちを寄せないではいられない。その思いを、南は南京後略、北は満州の鎮圧に傾ける軍事戦略のはざまで取り残される万里の長城付近の駐屯軍に起こる「事件」、小状況にことよせてミステリ仕立てにしたのが、『高く長い壁』である。

 大局と小状況を対比して考えてみると、目下のコロナウィルスに対する政府と東京都の齟齬と確執にも、思いが及ぶ。経済の衰微を大局と呼んでいいかどうかは議論もあろうが、政府が経済状況を勘案しているのに対して、東京都はコロナウィルスの広がりをみている。それを小状況とよぶのもまた、異論がないわけではなかろうが、小状況は東京都がよくつかんでいる。しかし、大局をみている(と考えている)政府は、小状況の権限を認めないで、末端まで支配が行き届くことと思っているから、go-toトラベル開始のときに、東京都を除外するという決定をしてしまった。ところが今になって、小状況をつかんでいる東京都が要請すれば受けると「責任を都に押し付けるような姿勢に転じた。それを都知事は遺恨をもって素知らぬ顔を続ける。政府は、go-toトラベル開始時のスタンスを変えたと表明すれば片づくことなのだが、メンツにこだわる現政権は、下駄を都に預けたまま、ワシャ知らんよという。こんなことをしていたのでは、都民は堪らないねといいたいが、もともと自助・自己責任で自己防衛しなさいというのが政府の基本姿勢なのだから、国民の方は、政府の無策には慣れている。こんな時にもしあなたがミステリ作家であれば、小状況のどのような事件を媒介にして、大局の無茶苦茶な無頓着で無策な様子を炙り出すか。そんな心もちで読むと、なかなかこれも、「高く長い壁」であることが読み取れよう。

 つまり、八百万の神をなんとなく信奉している庶民目線でいうと、政府がワシャ知らんよという顔をするのに対して、わしらも知らんもんねと、応じている。それが現実態。もし政府が、シモジモは金銭に触れることとなると素直に動くと金をちらつかせて庶民の琴線を揺さぶると、美味しい所だけ頂こうかなと元は己の納めた税金であることを忘れて得をした気になる。でも、それ以外のやりとりは、バカだなあ奴らはと白けてみている。私は、これはこれで、「高く長い壁」を掘り崩していく手立てになっていると思う。むろん長年かかるであろう。あるいは、「危機」を醸成して、わしらも知らんもんねという心持を保てないほど(為政者が)揺さぶってくることも経験上知らないわけではないから、用心はしている。だが、利用できることは利用する。でも利用されるのはまっぴらごめんと、距離を置いて眺めている。

 せいぜい、浅田次郎のようにミステリを仕組んで、「高く長い壁」に乗じて無策を続ける為政者たちに天罰が下ってくれないかと、祈っているのである。

2020年11月29日日曜日

コロナウィルス禍の思わぬ贈り物

  コロナウィルスのせいで、「ささらほうさら」の会合が今年2月以来、6月に1回開かれただけで、ずうっとお休みです。来月も予定しいたのに、コロナラッシュでまた休業。結局来年の3月までお休みすることになっています。

 言うまでもありませんが、休業補償はありません。ま、金銭に換算できる損失が有るわけじゃありません。でも、琴線に関わる「損失」を法的言語にして換算するのなら、どうなるか。言葉になりませんが、今の政府に、そういうことに関する補償能力があるとは考えられませんからね。当然申請しません。

 さてこの、ブログスペースの提供者から「1年前の記事を読んで感想を書いてください」というメールが送られてきます。去年の今頃何を考えていたかと感慨深く目を通しています。ちょうど去年(2019年)の11月の「ささらほうさら」の講師はmsokさん。この方のエクリチュールに触れたブログ記事(2019/11/28)「茫茫たる藝藝(4)あそびをせんとやうまれけむ」は、お前さんなんでこんなブログを日々更新して書いているの? と自問自答するのに似た、思いを綴っています。

 じつは、「ささらほうさら」がお休みになってからも毎月、私は「ささらほうさら・無冠」を作製して関係の方々に送っています。それに対する返信ハガキが、律義に毎回、msokさんから送られてくるのです。ま、お互い、近況報告のようなものですが、それは読み捨てるには惜しいほど「エクリチュールの遊び」に溢れています。コロナウィルス禍がもたらした思わぬ贈り物です。

 1年前のブログ記事に紹介したmsokさんの作文術、自称「枡埋め」はこう記しています。

 

《貧乏性ゆえか、いや実際幼少のころから貧乏でしたが、その所為もあって原稿用紙に余白があると何かひどく勿体なく思え、できることなら折角の四百もの桝目の凡てを埋めてやりたいと思うほどにその性向が勝っているのであります。》


 それを象徴するような彼からの葉書は、小さな文字でびっしりと埋められています。葉書裏面だけでなく、表面も住所宛名書きを上の方へググっと押しやって2/3を細かい文字で埋め尽くしています。一番多かったときは、400字詰め原稿用紙に換算すると4枚が収まっていたほどです。

 かつて、表面の半分までは埋めてもいいが、それ以上はダメと「通信法」か何かにあるとかないとか耳にしたことがあります。それでも日本郵便が配達してくれるのは、msokさんの娘さんがお仕事でJPに関係していることへの忖度でしょうか。まさかね。

 その便りが月一回届きます。それが楽しみで、私もまた、「ささらほうさら・無冠」を毎月書き記し、msokさんに送り届ける生活習慣病にどっぷりと浸っているわけです。もちろん、「ご返事無用」とときどき記すことを忘れていません。親しい中にも遠慮ありって言うではありませんか。msokさんの肺の持病が、このコロナウィルス禍で傷めつけられているのではないかと思いますから、無理はしないようにと気遣っているのです。その程度の分別は、お互いが後期高齢者ですから、身に付いています。暑い夏の最中、彼が熱中症にかかって点滴を受けたことも、この「枡埋め便り」によって知ることとなりました。でも、葉書が来るのを心待ちにしていないわけではありません。「元気だよ」という印です。

 ブログ記事も、考えてみれば、ひとつの「便り」です。目を通してくれる方が、あの方とあの方と・・と思い浮かべるのは、ちょっとした気力の持続につながります。よく人間関係論者が「褒めるといい」と関係術を言い立てますが、実は褒めなくてもいいのです。良いとか悪いとかはどちらでもよく、ただ、目を通してくれているという感触があれば、違いなんてどうでもいいのです。

 ブログ記事を書くような自問自答というのは、人の思索思考の本質であって、それ自体、褒めてくれなくても、その文章の存在がありましたよ、目を通しましたよと確信できる反応さえあれば、書き手の思いは半ば達成されています。ほかの方がそれに賛意を表明するか、批判をするかは、ほかの方のモンダイ。つまり、言説とか表現というのは、表明されたときに記述者の手を離れ、一人歩きする。その独り歩きがはじまった言説を、記述者も読者として読み取ればいいのです。

 自問自答というのは、言葉自体がある種の同義反復であるように、論理も表現もレトリックも、トートロジーです。繰り返しなのですね。ですから、誰かが書いたものを誰かが読むというのは、どう読んだかを問われない絶対性を持っています。言語の絶対性といってもいいほどの孤立性を有しているのです。その「意味の混沌の大海」に身を投げる行為が表現です。

 ただ大海へ投げた言葉の瓶詰が拾われて読まれているよということを知るのは、ある種の喜びにつながります。それが、msokさんの葉書なのです。

2020年11月28日土曜日

撤退戦を戦うトランプ

  大統領選で敗れたトランプが、籠城戦をするのかと懸念されていましたが、どうも、撤退戦に入ったようですね。12月の各州からの選挙人選出が「投票結果」の通りだったら、城を明け渡すと関係部署が明け渡しの準備に入ったとバイデン側に通告しました。トランプ本人は、あくまでも「不正選挙」を訴えてぎりぎりまで頑張ると気勢を張っていますが、ま、それは敗軍の将のつね、殿を務めるのが誰かはわかりませんが、このまま突き進むと籠城戦しか残らなくなり、それは討ち死にしか道が残されないと、彼の頭も理解したのでしょうね。

 あるいは、前代未聞の票を獲得したトランプを担ぐの人たちが、4年後を目指せと視野を広げたのかもしれません。つまりまだまだトランプ人気は、侮れないということです。

 トランプ人気が何を意味しているのか、相変わらず考えておかねばならないと思っています。ひとつリンクするのは、トランプの登場は、かつてのドイツにおけるナチスの登場と同じ質のものではないかということです。ナチスも、ワイマール共和国の「最も民主的な体制」のもとに誕生しました。第一次大戦後にドイツが背負うことになった過酷な負債に苦しむドイツ国民にとって、憤懣のはけ口は債権の行使を急ぐフランスなどの近隣諸国でした。そう言えばヒトラーは、優秀なゲルマン民族を旗印に掲げました。ちょうと都合のよい標的としてユダヤ人を見つけて槍玉にあげたのも、トランプの見つけた標的と同じですね。対立候補クリントンであったり、イスラエルに敵対するイランやテロリストであったり、果ては中国やコロナウィルスにまで、次から次へと標的をでっちあげてきました。それは自らを指示してくれる選挙民の歓心を買うための宣伝戦であったし、ウソでもなんでも百遍繰り返せばホントウになるという「マインカンプフ」の操作戦術と似たようなものです。ただ一つ違って幸いだったのは、トランプはナチスの親衛隊のような私兵をもっていなかったことです。プラウドボーイズや全米ライフル協会を私兵に育てようと思っていたのかもしれませんが、やはり彼らもアメリカ民主主義社会の育ち、そこまで利用されるほど馬鹿ではなかったといえるかもしれません。もっとも、そうは言っても、武器を持った彼らがいつまたトランプ親衛隊に豹変するかわかりません。大統領が正式に後退するまで、目が離せない所です。

 ナチスは敗戦によって解体され、ドイツ国民もそれを支えてきたことを肝に銘じて、戦後大胆な法的規制を自らに課しています。はたしてトランプの4年間をアメリカ国民がどう総括して、今後に活かすか。分裂を、ふたたびユナイテッドするのがバイデンのお仕事になるのでしょうが、ただのオバマ時代への復帰だとすると、また再びトランプ勢力は生きながらえるってことになるんじゃないか。そんなことを東洋の島国の片隅で私が心配するのは、国際政治がこれほど私たちの身近な暮らしにビンビン響いてくるようになったのは、やはりエゴ剥き出しのトランプ流が目に見えるように展開してみせてくれたおかげです。それは同時に、日本の政治もまた、トランプとほぼ同じ土俵で繰り広げられていることを如実に曝してくれています。国家の為政者が、こんな素人の私と同じセンスで、右往左往しているのかと思うと、安穏としているわけにはいかないと不安になるのです。

 民主主義というのは、素人が国家の運行を操船するようなものです。潮流を読み、星を見ていく先を見定め、いやそもそも、何処へ、なぜ向かうのかも、その都度見極めながらすすむのですから、船の能力や将来的なコトを見越した修復を重ねながら、重い荷や軽い荷の優先順位の評価をつけながら、降ろしたり積んだりしなくてはなりません。専制国家のように「優れた誰か」にすべて任せてのほほんとしていると、いつか経験したような沈没の憂き目をみないとも限りません。それらすべてが、「あなたの手にかかっています」と責任を押し付けられる。それが民主主義です。

 優秀な民族という甘言、偉大な国よ再びという願望、#ミー・ファーストというホンネ剥き出しの心地よさは、足元を危うくすることを肝に銘じなくてはなりません。いつも勝つことしか頭にないと、すべてがフェイクと謗りたくなっても来ます。トランプのデタラメなフェイク・ニューズは、まさしく民主主義時代の産み落としたものにほかなりません。

 多種多様な人々とかかわりあって世の荒波を航るには、いろいろな事態に遭遇することになります。挫けず、倦まず弛まず、雨にも負けず風にも負けない丈夫な体をもって、生きていってねと、次の世代に託す祈りを込めている次第です。

2020年11月27日金曜日

国家百年の大計

 学術会議の任命をめぐって、相変わらず説明しない/できない状態が続いている。「総合的俯瞰的に考えて」というのが、じつは政府の意向を忖度することを要請していることだと、安倍時代からのやり口をみていると推し測れる。つまり、気に食わない学者を排除するのだが、そうは口にできないから「総合的俯瞰的に考えて」「個々の人事案件には言及しない」と逃げようとしている。

 いや逃げているんじゃない。任命されなかったのは日本共産党の系列に属する人たちだから(排除したいの)だという、内調によるレッド・パージ復活のようなきな臭い流言も出回っている。陰謀論のような政治世界が好きな方々は(賛否どちらにせよ)、そういう言葉を弄んでいれば(自説を堅持しつづけることができて)結構なのだろう。だがふつうの庶民からすると、自分の頭の上のハエを追うことに夢中になっているとしか思えない。

 他方で、軍事研究に協力しないことへの批判じゃないかと、学問と政策との連携を図ろうとするモンダイとして、を正面から論じようとすることまで、蓋をしてしまうのかと思う。その善し悪しはとりあえず脇において、政府がそう考えているのなら、それを正面から論題として掲げて学術会議と論戦を交えることを避けて通らないでもらいたい、と思う。

 学術会議が、軍事研究への協力はしないと決議するのは、単にイデオロギー的な差異があるからではなく、歴史的な経緯がある。根底にある経験は、「政治への不信」だ。猪瀬直樹「昭和16年の敗戦」で明らかにされたように、太平洋戦争が不可避かどうかが論じられていた昭和16年に、当時の政府の、産業、軍事、学術など関連諸機関の俊才を集めて「日米もし戦わば」という机上の模擬戦を政府首脳も立ち会って行ったという。その結論は「敗戦」であった。にもかかわらず、無謀な戦争に突入したという「経験」は、学術と政治とを切り離して考えるという「教訓」を産んだ。その「教訓」は、原子力科学者が核開発に携わることとなり原爆や水爆を生み出して実戦に使用する結果を産んだ。そこにおける科学者の「敗北」を経験化したことも「教訓」に組み込まれている。

 もう一つある。戦後日本が、(アメリカの押し付けられたものであっても)新憲法の下で、平和主義を採用してきたのであるから、「政治への不信」は、戦前と戦後で別物と切り離して考えてもいいはずであった。だが戦後政治の過程は、GHQの変節も含めて、「政治への不信」を払拭することにならなかった。せめて、科学と政治の独立性を担保することを通じて、戦前と戦後の「政治への不信」を「教訓」として堅持してきたのが、学術会議の姿勢であった。

 それを転換しようというのであるなら、文字通り政治的な裏工作やタテマエ的な手続き論で片づけず、正面から切り込んで、「科学と国策の連携」を論題として、やり取りするべきである。そうした問題を脇において、「総合的俯瞰的に考えて」といっても、真意を隠して政治の意思を通そうとしているとしか映らない。「総合的俯瞰的に考え」ることの子細に立ち入って、政府が説明することを避けてきたために、現在の齟齬が生じ、相変わらず「政治への不信」が拭い去れないでいる。

 それと関連指摘になるのは、学問や芸術に対する国策の姿勢である。

 教育と並んで学問や芸術に対する政府の姿勢は「国家百年の大計」と呼ばれてきた。目先の効果や効率に左右されず、長い目で見て民生を豊かにしていくのは、国民に「希望をもたらす」意味でも、重要である。そこに育まれる「希望」には、誇らしさと自律する気高さが育まれるからだ。それは、目下の貧窮にも耐える力にもなるし、何より次の世代の「希望」につながって、国家社会存続の原動力になる。大雑把な見方でいうならば、いろいろなモンダイはあったが、明治維新から日露戦争までの日本の歩みは、その誇らしさに支えられていたと、司馬遼太郎が描いていたではないか。

「総合的俯瞰的な考え」というのは、須らく「国家百年の大計」でなくてはならない。

 ところが(バブル崩壊以降)21世紀に作用されている国策は、学問研究に対して「大学の独立行政法人化」を押し付け、競争原理を持ち出してコストパフォーマンスを問うようになり、なんの役に立つか、いくら儲かるかを学問研究に強いるという愚行を横行させてきている。これでは、「国家百年の大計」どころか、誇らしき研究の屋台骨もやせ細り、先の成果しか見えなくなってしまう。バブル時代に育って学問研究に打ち込んできた何千人という博士たちが、ポスドクと呼ばれる失業状態におかれ、ついには研究活動を断念するしかない状況に置かれている。

「総合的俯瞰的な考え」というのは、鷹揚であることを意味している。天空を舞う鷹のように、些事些末にこだわらず、ゆったりと百年の大計を与える如くに総合的俯瞰的に世の中を見つめる。民生を鳥瞰する。それが「希望」となっているか、誇らしさや気高さを体現しているかを確かめながら、寄り添って立ち尽くすことこそ、政治の信頼を取り戻し、ならばこそ、多少とも軍事に貢献する研究も必要であろうと国民が思うようになる。それを、長期的にみ通すのが、まさに「総合的俯瞰的な考え」なのだ。

 防衛論議の貧しさは、目先の損得と相手との力比べしか目に入らないやりとりにある。日本国憲法の前文が誇らしく掲げている「平和主義」の精神(「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」)を、今一度想い起して、その上に立って考えてもらいたいと思う。


《日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。》


 その誇らしさを、果たして戦後日本は築くことが出来たろうか。そのためには、アメリカとの関係もまた国民に隠さず、己に厳しく政府は取り仕切って行ってもらいたいものである。

2020年11月26日木曜日

静かな奥深い諏訪山

 昨日(11/25)家を出たとき霧のような雨が降っていることに気づいた。降水量でいえば0mmであろう。ときどきワイパーを動かして雨滴をぬぐう。鶴ヶ島を通過するころには上がっていた。高速道を下仁田で降り、南下して上野村に向かう。途中でnaviがフリーズした。こうなると地図を読んで経路を確認しておかねばならないと思う。道路標示に「浜平→」が目に留まり、そちらへのトンネルを二つくぐる。と、林道が行き止まりになり、ガードレールの外が草地の駐車場になっている。浜平登山口だ。

 今日の諏訪山は、最初4人で上るはずであった。Sさんがお孫さんのお付き合いで行かないことになった。先週、天人山塊の毛無山に同行したkw夫妻が、疲れが取れないと不参加。こうして私の単独行になった。この山、当初私が調べたコースタイムでは5時間であった。ところがkwmさんがネットでみると6時間前後。毛無山は往復5時間20分であったのに6時間を超えたのを勘案したのであろう。ちょっとムリとみたのであろう。地図を打ち出して、スマホのyamapの地図でコースタイムをチェックすると、5時間50分であった。累積標高差は1151mとある。私の単独行の場合、早くなりすぎるのを抑えなければならない。早すぎて、後半で疲れが出るのだ。

 8時20分、歩き始める。湯の沢沿いの入口対岸には、「浜平鉱泉」と何軒かの家屋がある。右岸の20メートルほど高いところから沢に降りる。それなりに踏み跡が残るが、沢のごろた石と落ち葉で分かりづらいところがある。徒渉するところには、丸太を組み合わせた橋が架かる。ところどころに赤いテープがつけられ、それに注意していればルートを見失うことはない。

 沢からはずれる標高800mほどから1250mほどまでの間が、ジグザグの急登になる。紅葉はすでに終わっている。標高900mくらいのところにカエデの紅葉が2本、赤い色を枯れた木立の間に屹立させている。山はとっくに冬なのだ。湯の沢の頭1250mに着いたのは9時44分。歩き始めて1時間24分。コースタイムと5分しか違わない。いいペースだ。

 その先、標高1300mほどまでは稜線歩きになる。いくつかあるピークを巻いて踏み跡がついている。滑り落ちそうな危うい所もないわけではないが、バランスを崩さず歩けば心配はない。1時間のコースタイムの所を45分できている。ついつい調子に乗って急いでしまう。そのさきが、三笠山への上りだ。ロープのかかる岩場が何カ所かあるが、むつかしくはない。鉄の長いハシゴのかかるところが二カ所ある。三笠山1491mに10時56分。湯ノ沢の頭から1時間半のところを1時間12分。ちょっとコースタイムより早いか。登山道から眺めたこの三笠山は、峨峨たる山が木を装っているようにみえる。三笠山を越えて諏訪山に向かう途中で振り返ってみると、そこの深い漆塗りのお椀を伏せたようにぽこりとした山容を、木々の間を通して見せている。三笠山からの眺望は見事であった。上州の山並みの向こうに八ヶ岳など、甲斐の山々が輪郭をくっきりとしてみえる。湿度も低いのだろう。遠望が利くのは、ここだけであったと、諏訪山の山頂へ行って思った。

 三笠山から諏訪山へ向かう地点に一カ所、どう降りるだろうと思案する岩場があった。斜度は60度、15mほど。二枚の岩がぶつかり合って直角に凹んでいる。縦に罅割れたところはあるが、手や足を掛けるところがみつからない。ただ、ロープが2本、新しいのと古いのが掛けてある。かつてはこういうところをザイルで確保して肩がらみやエイト環をつかって下ったものだが、まさか肩がらみで降りることを想定しているとは思えない。わずかでも足場になるところに爪先をかけ、靴裏を岩に張り付けてザイルをもって身体を立てるようにして降った。この同じところを復路では、手足を掛けるところが簡単に見つかり、ロープをつかむことさえしないで通過したから、下りのときによく見極めて通れば、ムツカシクはないということであろう。

 諏訪山山頂直下でのこと。正面の大岩のすぐ左側を上れば山頂部につくと思ったが、岩の右裾に踏み跡がある。へえ、そちらからも行けるのかと踏み込んでみた。だが大岩を回りこんだところで踏み跡は消え、ている。枯葉が降り積もった急斜面を見上げると、上に山頂部と思われる平坦部が見える。元に戻るのも面倒だと、落ち葉にストックを突き刺して、まるで雪山のラッセルのようだと思いながら、急登を上った。案の定、そこが山頂であった。11時28分。登山口から3時間8分。ちょっと早すぎたくらいで、いいペースであった。山頂部は縦に長く、木々に囲まれて眺望はない。太い古木を横たえてベンチにしている。やわらかい陽ざしが降り注ぐ。そうだ、今日はまだ、誰一人として逢っていないと気が付く。お昼にする。ここで20分過ごして、下山にかかる。

 往路を戻りながらコースタイムとの差を頭で計算している。三笠山までが20分の所を2分ほど余計に掛けている。三笠山から湯ノ沢の頭までは1時間5分のところを、ほぼ1時間4分。その途中で、脚に異変を感じた。左太ももが攣りそうになる。右の太ももにも、そういう感じが走る。わりと平坦な稜線を歩いていたときである。立ち止まって、スパッツの上からエアゾルをかける。しばらく違和感が落ち着くまで足を休ませる。ゆっくり歩いて違和感をほぐす。緩やかに炎症が収まり、違和感が遠のいていく。やれやれ。前回これが起こったのは、蕎麦粒山へ行った帰り道だった。そのときも同じような手当てをして、少し立ち止まっていて、収めた。やはり前半と還りの岩場が負担をかけていたのであろうか。

 湯ノ沢の頭からの下りが1時間のところを約1時間。何と順調に上り下りしたことか。ただ、急斜面を下るのは足への負担が大きい。太ももの違和感がどうなるか気遣いながら、下った。幸い何事もなく、バランスを崩すと危うい所も難なく通過して、駐車場に到着した。14時21分。出発してからちょうど6時間。山頂の食事タイム20分を差し引けば、歩行時間は5時間40分。まずますのコースタイム山行であった。そうそう、誰一人、出会わなかった。静かで奥深い山であった。

 先週の山は、帰りに暗くなる運転のことが心配であった。今回も、日暮れは早い。4時を過ぎてからは灯りを点けて走った。帰宅したのは4時45分。すでに街灯も点いていた。もう冬場、6時間を過ぎる山行はムリなのかもしれない。

2020年11月24日火曜日

何処から「違い」が出てくるのか

 先日(11/21)の「底辺をみる慧眼」で記したブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)を読んでいて、気になったことのひとつ。

 著者自身が驚いて書いていることだが、イギリスの保育基準では3歳児4人につき保育士1人という基準に対して、日本では3歳児20人に対して保育士1人になっているということ。そして、日本の保育園は静かに園庭で子どもたちが過ごしているのに対して、イギリスの子どもたちは走り回り、あちこちで諍いをし、声をあげて騒ぎ、保育士たちは駆けずり回って世話をしているという。

 保育園の敷地の広さや遊び道具の種類とか設け方にも違いがあるから、一概には言えないが、日本では、子どもたちはおとなしくしていることが基本となり、イギリスでは騒ぎまわることを基本と考えていると思える。こうも言えようか。日本では先生のいうことをきいて、周りに迷惑をかけないように過ごすことを躾け、イギリスでは、子ども同士の争いごとや子どもと先生とのもめごとを通じて、子どもが自身で学んでいくことを躾けと考えている。

 そこには、大人社会の規範の反映があり、社会集団と個体との布置関係が現れている。つまり、大人自身が、社会集団と向き合うとき、(皆さんに)迷惑を掛けずに自らを持して位置することを心掛けていれば、日本の保育園のような様子が生まれる。他方、迷惑をかけるかどうかは二の次で、まず自身が何をどうしたいかを表現・表出させることを求め、しかる後に(それが社会と引き起こすコンフリクトを経て)社会と個体との在り様の文法をかたちづくっていくことが子どもを育てることだと考えているとイギリス風になる。どちらがより、現代社会にふさわしいかも、時代の変遷と見合って変わっていくのであろう。

 日本に関していうと、(皆さんに迷惑をかけない)ことから、まず自己(の欲求)の表現・表出を行う方向へ、時代は動いてきた。その前者と後者がちょうど見合うところに、「自立/自律」が位置し、「自己責任」で世の中を渡れという処世訓が人々の隅々にまで行きわたってきた。病気や災害や不運によって不遇に見舞われ、暮らしが行き詰った人たちに対しても、厳しい視線が向けられる。そういう厳しい社会になってしまった。

 少子化対策として、新政権が一番に放った施策が不妊治療であったのは、笑止千万であった。むろん私は、不妊治療を無用とは思っていない。それはそれで推奨して推し進めればいいのだが、それが少子化対策というのは、日々どれほどの堕胎が行われているかに目を止めれば、お笑いだと思うのである。子どもを産むことが暮らしを行き詰らせることになる社会的要因を取り除くことこそが、つまり安心して子どもを産める社会保障制度を整えることが、少子化対策の第一の施策であることは、考えるまでもない。だがそれがなぜ等閑視されるのか。子どもを産むかどうかは、個人責任で考える範囲のモンダイであって、それを社会的ケアの範疇とは考えていないからだ。社会的ケアと考えるのは、すなわち(妊娠するかどうか、子を産むかどうかという)個人のモンダイが世の中に迷惑をかけていることであるから、我関せず焉と、知らぬ顔をするのが、ご正道だと為政者たちは考えているからである。だったら、少子化対策なんて政治の課題に載せるなよって思うが、不妊治療は(個人の選択できるモンダイではなく)科学医療のモンダイであるから、推奨しようというのであろうか。

 ブレイディみかこの本書を読んだ末尾に、次のように記した。

《そうした現場を歩いてきた著者の眼力は、なかなか見事なものがある。彼女自身が「アナキーに」感性を解き放っていくのが読み取れて、のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる。底辺をみてこそ、その社会の最上辺に至るモンダイが見てとれるという指摘は、なかなかの慧眼と言える》

 だが、逆なのかもしれない。ブレイディみかこが20年ほどイギリスで暮らすうちにイギリス流の保育技術を身につけ、底辺託児所に携わるうちに「下流ブリティッシュ」を含む移民ら、下層の人々の規範や振る舞いの流儀を身に沁みこませ、それが「アナキーな」感性に実を結んできたのかもしれない。「のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる」のは、お前さんそれで、自分の意思で生きているのかいっていう、自問自答だ。

 あたり構わず我が儘に振る舞うトランプがアメリカ選挙民の半数に迫る支持を得るのも、そういう自己主張をしてやっと手に入れてきた日々の暮らしが、誰がどこでそうしているのか目に見えない社会システムによって窮迫するところに追い込まれているのを打開するには、クールな解析よりも、熱狂的なぶつかり合いを通じて道を開くという気構えがあるからかもしれない。日本では到底受け入れられないトランプ支持者の振る舞いも、案外、人類が生き延びてきた活力の原基を示しているのかもしれない。

2020年11月23日月曜日

Seminar中止

 11/12のこの欄「頑張らにゃあ、バイデン・メトロノーム」にも記しましたが、コロナウィルスで3月からずうっと延期してきたSeminarを、そろそろやってもいいんじゃないと声がかかり、呼びかけたところ、常連のうちほんの2名を除いて、皆さん参加すると返事があった。同時代の空気を吸っている私たちのあいだに、何か共振するものがあるんじゃないかと思うほど、意気投合するようにして、実施を決めていたのだが、それから十日の間に、すっかり情勢が変わってしまった。

 とうとう11/21に「Seminar中止の直前案内」を送ることになった。文面は、こうだ。

                                          ***

皆々さま

 いやはや、ここ連日のコロナウィルスの広がりようは、尋常じゃありません。

「そろそろ(自粛をやめても)いいんじゃない?」と言っていた方も、「(開催して)大丈夫かな?」と心配するほど、日々記録更新の模様です。

 ことに「最高レベルの警戒」を呼び掛ける東京都。神奈川県も埼玉県も、不要不急の移動の自粛を呼びかけています。なかでも「高齢者への感染が第3波の特徴」と言われては、Seminarを開催するのは、「大冒険」どころか「火中の栗を拾う」に等しい振る舞いです。

 それもあってか、すでにお二人の方が、参加取りやめの連絡をくださいました。

 諸事情を考慮した結果、11/28(土)の第二期・第12回Seminarは中止することといたしました。

  出席のご連絡をくださっていた方々には、ほんとうに申し訳ありませんが、ご理解の上、ご承知くださいますようよろしくお願いします。

  2020年11月21日 事務局

追伸:次回Seminarは1/23(土)に予定

 このSeminarも、当初予定していた講師・I・Hさんが入院しているのに、事務局で引き受けて開催しようとしたものでした。それが中止に追い込まれたのも、「天の啓示」かもしれません。/I・Hさん、12月に退院ということでしたが、その後いかがですか。中止したSeminarは、次は1月23日(土)に予定しています。そのときには、講師として、よろしくお願いします。

                                          ***

 Seminarを発案し、一緒に運営に当たっているM・Kさんは

「実は私からも中止したいとのメールを出そうとしてメールを開いたら、貴信があったわけです。これだけ感染者が増えたのでは、火中の栗をひらうどころか、自殺行為かもしれません。」

 と、さっそく賛同の返信がきた。

 また慎重居士のT・Tさんからは

「いつものお世話に深謝しております。ご無沙汰しておりますので、年1回くらいは顔を合わせたいということと、ダイナミックなCOVID-19情勢とで、本日まで出欠回答保留にさせていただきました。またの機会を楽しみにします。」

 と、音信があった。

 月初めに「もうそろそろ(Seminar)やってもいいんじゃない」とメールしてきたT・Sさんは、

「残念(座暗念)ですが承知しました。対策を講じての行動なればメディアが騒ぐほどのことでははないと思いますが・・・・」

 と、自衛策を講じていれば、大丈夫じゃないかと思っているようだ。

 また都内で医院を開いているH・Kさんは

「セミナー中止のご連絡を有難うございました。お世話役は判断と決断を迫られ、その決定には必ず、賛否両論があります。お疲れさまでございます。2月後は予想もつきませんが、セミナーが開催できる事を願っております。」

 と、事務局へのねぎらいの言葉を添えてきた。

 Seminarがある日にはうちを早く出て映画を一本見てから来るというF・Tさんは

「お世話になります。まあ、仕方ないですね。しばらく我慢がまんですね。ワクチンを待ちましょう。」

 と絵文字を添えて記している。

 いつも興味津々で、子どものように質問を仕掛けてくるH・Mさんは

「了解致しました。この爆発的な感染の広がりは、各種のcampaignに起因するするものかどうかは、専門家の意見を聞いてみないとわかりませんが、このコロナは一筋縄ではいかぬどえらい奴ですね。地球全体を巻き込んで、人類への挑戦でしょうか? 又は罰を与えているのでしょうか? お互いに我が身を守る努力をいたしましょう。1月には、本当にお会いできますよう、祈るしかありません。」

 と、コロナウィルスを何とか自分の「せかい」のなかに位置づけておこうとする意欲を示しています。これに対する返信を書いた。

 《「人類への挑戦」というより、「人類への天の啓示」と受け止めています。ヒトが多く「密」である。都市への集中という経済の「密」である。暮らしが贅沢という「密」である。働き過ぎも「密」。ヒトの暮らしの原点、お伊勢さんの保ち続けている暮らしの基本、火を熾し、森を育て田を起し、稲を植え育て、ことごとく自らの手でひとつひとつ賄っていく営みが、過剰。つまり「密」であると「天の啓示」が降りてきているように感じています。原点に還れ。ヒトが長生きするというのも、「密」なのかもしれません。

そういうお話を交わせるといいと思ったのですが、1月に、また。》


 政府は、私の見立て通り、自己防衛しなさいという姿勢を崩していない。行政府を当てにせず自律的にやっていきなさいよというのならいいのですが、何、タダの無策だよと、口の悪い友人は評している。それほどに、行政への信頼は失せているということか。

2020年11月22日日曜日

身が詰むって感じが身につまされる

 先日私のスマホが故障したことを記した。リセットしてからの使い勝手がよくない。毎回、開錠のために暗証番号を入れなければならない。山を歩いていて現在地を確認するときなど、ずいぶんと煩わしいと感じる。でも、どうやってそれを無しにできるのかが、わからない。

 NTTの光通信を利用している。それをプロバイダともどもドコモに切り替えたら、月ごとの請求がカード会社を通してきて、請求の明細もなく、金額が結構な額になっている。何処へ問い合わせていいかも、わからない。

 世の中がだんだんブラックボックスになっていく。ま、こちらが世の中から浮いてきているとは思っている。デジタル化が進んで、カタカナ文字の操作がほぼ日常語のように画面に並ぶと、もうそこでお手上げって。一つひとつ考えながら操作するもんではなく、体で覚えてさかさかと手指が動くものと若い人たちは受け止めているのであろう。

 そう言えば、車にnaviをはじめて付けて走ったとき、助手席に座っていた娘が「naviの画面をみなさいよ」と声を上げたことがあった。つまりnaviは画面を通して予期的情報をたくさん流しているのに、私はnaviの声の指示だけを聞き採ろうとしていたから、五差路か何かでうろうろしたのを叱る声でだったのだ。いまだもって私は、naviの経路表示まかせのままに動くことができない。それよりは、事前にnaviの経路を地図でチェックし、混んでるときはこちらが良いかと修正して、頭に入れてから運転に取りかかる。そういう心の準備を内側で整えてからでないと、naviと共存できない。つまりアナログ世代がデジタル世界に移行する間の、身が馴染む時間を、目下、過ごしているというわけだ。寿命が尽きるのと馴染むことができるのと、どちらが早いか、競っているようなものだ。

 スマホや光通信がブラックボックスだからと言って、埒外にわが身を置いてしまうわけにもいかない。それどころか、日常の暮らしは着実にデジタルに移行している。それをある程度使いこなせなければ、何かを手に入れるのにも不自由する。ましてgo-toトラベルなどの「特典」にあずかろうとすると、間違いなく落ちこぼれる。デジタル機器のサポートシステムに頼るほかない。だがそのサービスの拠点が、街なかのどこにでもあるものじゃない。今使っているスマホのサービス拠点は、電車で6駅も先にある。「開錠ナンバーの解除」というのを聞くために電車賃を210円支払って出かけるのも、何だかなあと、つい思ってしまう。こういうのって、ケチなのだろうか?

 そこへ、今使っているスマホから乗り換える手数料が0円というコマーシャルメールが入った。乗り換え先の大手の出店が歩いて5分ほどの所にある。そこへ行って話を聞くことにした。カウンター越しに5人ほど、ほかに広くテーブルを6つほどおいて、スタッフが6、7名いる。用件を聞き、受付番号をもらって少し待つと、スタッフが来て、応対してくれる。すぐに切り替えの話に入るから、いやいや、切り替えたらどうなるか、話しを聞きたいのであって、すぐに切り替えるかどうかを決めるつもりはないと、こちらは引け越し。

 私のスマホのつかい方とスマホ自体が持っている能力との大きな乖離も気になっていた。スタッフは、私のスマホの使用容量をあれこれ操作してチェックし、それならばこうなると「料金試算」を提示する。ふんふんと聞く。6カ月の格安期間を過ぎてこちらに切り替えると、一番安いこの料金であとはずうっと維持できる、と。

 光通信の話を出すと、こちらに切り替えるとスマホ料金が月壑500円安くなる。連れ合いのスマホがこの大手なのでというと、それなら、も少し安くなります、とも。さらにわが家がご近所の集合住宅と聞くと、ケーブルテレビの会社の回線が入っているなら、プロバイダも切り替えると、安いプランがあると言って、話しを聞いてみるつもりがあるなら、そちらの担当者を紹介するから、聴くだけ聞いてみたら、とも。

 こうしていったいどこまで何が作用して安くなるのか、絡み合ってわからなくなる。ふと気づいて、彼が別の機種のスマホを考えているんじゃないかと思い訊ねると、やはりそうであった。今使っているこの機種が不都合でなければそのまま使いたいのだというと、使えるかどうかを調べに行って、OKですと応答する。このスタッフが当たり前と考えていることと私がそう思うこととがずれているのだ。そうこうするうちに、スマホも光通信の方も、来月までが切り替えに障りがない期間ということも分かって、いつの間にやら、買い替えることに話が転がっていく。

 あれもこれも合わせると、今使っているのよりも1500円ほど安くなるというので、今月中にいろいろな手続きをすることにして、あらためて出直すことにした。これだけで、1時間半。

 つきあってくれたスタッフもそうだが、手早く、かつ、根気がいい。こんな年寄りに懇切丁寧に向き合うのも、好感が持てる。ま、これがセールスってやつなんだろうけれど。

 そこで、スマホの画面開錠の相談をする。ではではと、私のスマホを受け取り、何やら操作を続けて、ここをこうすればいいとありますよねと、画面を私に向ける。なるほど四つばかり選択肢が並び、暗証番号を使用しない所をチェックすると、以前のスマホに戻った。と同時に、そこにあった注意書き。他の人が操作することをブロックできなくなりますとある。そうか、それで、以前にこれがフリーズしてしまったのかと、直感した。アルゴリズムというか、カタカナ用語と手順がわかればそれなりに仕えそうな予感がした。

 機器に私の身が馴染むというよりも、スタッフの応対にアナログ仕様の身が馴染むって感じがした。

2020年11月21日土曜日

底辺をみる慧眼

 ブレイディ・みかこ『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017年)を読む。この著者がどんな方だか、本書の文体に表れたことしかわからないが、したたかで確かな視線をもった方とみた。女性の視線が、これほど勁く遠くまで届いているのを感じたことは、あまりない。オモシロイ。

 本書は、2000年代の後半から15年程のあいだイギリスに暮らし、保育士の仕事をしながら目にすることになった託児所の変貌を、労働党政権から保守党政権へと移り変わる時局の変遷と重ねて書き記した、一つのドキュメントである。

 バブル崩壊以降の日本経済の「失われた**十年」によって中流層が崩壊し、上下へと格差が拡大して分裂していく様が若い人たちの間に生まれているのを「階級社会になっていく」と思っていた私にとって、イギリスの「階級社会」の在り様は、やはり衝撃的であった。なにより、話す言葉によってすぐにこの人は労働者階級かミドルクラスかわかるという。それと同様に、肌の色、髪の毛の様子、飾り物や被り物の形によって、その人がどのような人であるかが判別されるというのは、多様な人の在り様やそれぞれの人に対する見極めの仕方などが、幼いころからの、いわば体に刻まれて無意識に沈むように、その人の感性や感覚をかたちづくる。その発動が「階級」であるというのは、日本で感じている格差や差別とは別種の、衝迫力を持つと思われる。逆にだから、イギリスの労働者階級の人達は、自らのそれに誇りを持っているとも言われる。問題は、労働者階級とミドルクラスの格差と対立ではなく、労働者階級にすら含まれない「下層ブリティッシュ」と、おおよそ社会の18%を占める移民たちの在り様であった。

「ブロークン・ブリテン」というときのブロークンとは、「壊れた」であろうか。「はちゃめちゃな」であろうか。それとも「打ちひしがれた」か(どこへ向かうか)「怪しげな」であろうか。著者がみていた21世紀00年代のイギリスは、日本人である自分を受け容れて保育士の免許を取ることを支援してくれる、移民にも暮らしやすい老大国イギリスであったようだ。それが2010年代には「ブロークン」していたという、現在との対比が込められている。たぶん、人々も、社会システムも、あるいは社会政策も、すべてが含まれて、くじけていく混沌の様子を表している。

 イギリスは長く、良くも悪くも、資本家社会の発展モデルであった。追随した他の国々は、イギリスモデルと対比して、自国の経済がどの程度の段階にあるかを勘案し、経済分析を行ってきた。そのイギリスが、最先端を牽引していた時代は、もう百年も前に終わり、代わってドイツやアメリカが隆盛を誇るようになった。それでもイギリスは、資源をもたない海洋国日本にとっては、相変わらずお手本であった。だがイギリスの廃れていく姿を、日本はみていない。階級社会という言葉にしてから、日本で考えるのは、単なる格差であるが、イギリスでは身に沁みついた文化であり、一度として融和したことのない隔絶した差異をもち、必ずしも優劣で語れない違いを、誇っている。そのイギリスが、EUに片足加わり、人の流動化によって多様な文化が流れ込み、移民が増えるにしたがって、ワーキング暮らすとミドルクラスの階級的差異を示す文化も、多方面からの綱引きによって拡散し、下層ブリティッシュと呼ばれる最下位層の都市住民を生み出し、言葉から装いから振る舞いからして、明らかにそれと分かる「文化」を身につけてしまった。それが、移民たちの顰蹙をも買い、いっそう差別的に敬遠され、かつて誇りとしていたイギリス社会のソリダリティ(連帯感)さえも消失してしまう自他を招いている。ここでも、日本社会の先を行っているようにみえる。

 ブレディ・みかこは、21世紀00年代後半に自分が身を置いたり手伝いをした託児所を「底辺託児所」と呼ぶ。対して、2010年代にふたたびイギリスに戻って身を置いた託児所を緊縮託児所と名づける。後者は保守党政権になってから、緊縮財政の下で締め付けられて出来上がった託児所の姿を現す。


「昔も底辺託児所は貧しかったし、緊縮託児所よりもカオスな場所だった。それは、モラルも何も崩壊してアナキーな国になった「ブロークン・ブリテン」を体現していた。だが、そこには、現在のような分裂はなかったのである。」と前置きして、こう記す。


《レイシスト的なことを口にする白人の下層階級も、スーパーリベラルな思想を持つインテリ・ヒッピーたちも、移民の保育士や親子も、同じ場所でなんとなく共生していた。違う信条やバックグラウンドを持つ人々は、みんなが仲良しだったわけでもなく、話しが合ったわけでもないが、互いが互いを不必要なまでに憎悪し合うようなことはなかったのである。そこには、「右」も「左」も関係がない。「下層の者たち」のコミュニティが確かに存在したのだと思う。》


《英国のEU離脱選択や米国のトランプ大統領誕生で、世界中のメディアで識者たちは「エスタブリッシュメントと民衆の乖離」を指摘するようになった。同様に、排外主義的な右派が世界で勢力を増しているのも、「左派と民衆の乖離」があるからだと言われている。》


 イギリスの労働党と保守党の違いがどのようなものであるか感じとることはできないが、ブレディ・みかこの記す限りでは、いずれも「緊縮財政」の波にのまれて、「下層ブリティッシュ」の心に灯をともすことを忘れて、金銭的な収支計算、コストパフォーマンスに向かってしまったと読み取れる。たぶんそこには、デジタル化の波もかぶさっていて、とどめようがなかったのであろう。

 そうして「下層ブリティッシュ」の人々は、やってくる(向上心のある)移民との居場所の奪い合いに出くわしてしまったのであろう。

 祖国から逃げ出すように移動してきた移民は、イギリスという新天地で落ち着いた暮らしを手に入れようと意欲に満ちている(逆に、新天地と思ってきたのに、なんだこれは。これじゃあ、わが祖国の方が幸せに暮らせたのではないかと落胆した人たちも少なからずいたと記している)。それに較べて下層のブリティッシュは、生活保護を受けてやっていけるならそれに乗っかってらくちんに暮らしていこうとだらしがない。麻薬やアルコール、暴力にまみれてまるで向上心を持たない。だから移民からも冷たい視線で見られ、バカにされる。それが目に付くから、下層ブリティッシュは、移民が自分たちの居場所を奪ったように思い、反撥する。

「エスタブリッシュメントと民衆の乖離」とか「左派と民衆の乖離」とは、人々が自律して前向きに暮らすという意欲は、金銭だけでは支えられないことをみていないことを意味している。暮らしに必要なお金だけを与えて、あとは自立しなさいというのでは、人間はやっていけないのだ。「希望」が必要だ。それが底辺託児所時代には、託児所の人と人とのかかわりの中にあった「コミュニティ性」が、かろうじて人々の間を(いい加減なかたちで)結びつけていた。ところが緊縮時代になって、保育行政は、コスパ計算しかしない。生活保護も金銭的にしか見ていない。緩めれば、お金をもらって遊び暮らす人たちが多数出来する。と言って引き締めれば、住むところも失って、とどのつまり、まず一番弱いところ、子どもに対するネグレクトや虐待として噴き出してしまう。更に保育行政は、金銭計算だけに基づいて託児所の削減にも乗り出すから、閉鎖される託児所が頻出し、それはさらに子どもを預けるところを失って、仕事に出ることもできないシングル・マザーやシングル・ファーザーを増やしてしまう。

 そうした現場を歩いてきた著者の眼力は、なかなか見事なものがある。彼女自身が「アナキーに」感性を解き放っていくのが読み取れて、のほほんと秩序だった日本社会で暮らしている私の日常に突き刺さってくる。底辺をみてこそ、その社会の最上辺に至るモンダイが見てとれるという指摘は、なか中の慧眼と言える。

2020年11月20日金曜日

調子がいいが・・・ホントかな?

 一昨日(11/18)に山へ行った。帰ってきたのは6時前。暑い頃なら、まずひと風呂浴びてってことになるが、今節、汗ばむこともなかったから、大相撲の最後の取り組みを観て、すぐ夕食にかかる。口を開けた日本酒の四合瓶が冷蔵庫にあった。いつもなら備前焼のお猪口をつかうのだが、ふと手に持ったのは、口の大きく開いたハーフグラス。それにとことこと注いで、くいっと口に含む。じんわりと味蕾に行きわたり、やわらかい刺激がしみ込み、その行き止まりのところで喉越しとなって、食道へとやや残る冷たさが通ってゆく。うまい。これは調子がいい。山歩きした後の、喉の渇きも幾分影響しているかもしれないが、いつもの倍くらい飲んだ。

 以前にも書いたが、お酒が飲めるかどうかが、いつしか体調のバロメータになった。呑みたいと思わないときが、ときどきある。そういうときは口にしなくなった。なんだか習慣性の飲酒というのが、つまらなくなったのだ。でも、口に含んで、うまいなあと思えるときは、飲む。三杯目になって、うまさが変わってくるようになると、止める。その制動が、いとも簡単に利くようになった。何だ、気の持ちようではないか。山へ行く前の二日間は、そういうわけで晩酌をしなかった。それもあったかもしれないが、美味しかった。

 そして昨日、太ももに筋肉痛が現れた。珍しい。以前は、二日三日後になって筋肉痛になっていたのに、古稀を過ぎてからは、それも現れなくなった。どんよりとした疲れが残り、歯が痛んだり、気管支炎になって咳き込んだりしたものだ。その回復期に出るという筋肉痛が出てきた。今朝起きるとき、さらにそれが露わになり、嬉しくなった。

 でも半信半疑ではある。歳をとると着実に力が落ちてくる。日ごろ鍛えるということをしない。山の鍛錬は、山を歩くしかないとかたくなに思い込んでいるから、週1の山行をできるだけ行くようにしてきた。今は山へ同行してくれる友人が数人いるから、その人たちと相談して、山は私が選び、彼らが実施日を策定して、おおむね愁1のペースで足を運んでいる。私より若い彼らは、しかし、ここ10年ほどの間に山へ向かうようになった。だから今、面白くなりかけていて、身体もだんだん力がついてきている。それに比して私は、ゆっくりと力が低落している。そのバランスが、目下は、うまく取れているというわけだ。

 だから、調子がよくなったわけはない、と思う。お酒のバロメータが調子いいからと言って、容易に信じたりはしない。どこかでホントかな? と訝りながら、結論的な判断は、つねに保留している。

2020年11月19日木曜日

リミット挑戦に最適の毛無山

 このところ雨が降らない。加えて、秋の深まりが一休みしている。昨日(11/18)に、また富士山を観に行った。本栖湖と田貫湖の間、天子山塊の毛無山1948m。2年前の8月に私は上っている。そのとき、毛無山からの下山ルートに地蔵峠から沢に沿って麓登山口へ下る道をとった。これが崩れていたり、沢の徒渉を何度か繰り返すところがあり、加えて当日の高気温にやられてすっかり消耗したことがある。先週、栃木県の氷室山へ向かって登山口にまでたどり着けなかったこともあって、果たして地蔵峠からの下山路がどうなっているか心配ではあった。もし崩れていたら、ザイルを使って上るところも出てくるかと思案していた。もちろんコースタイムも、往路を下るよりは1時間半ほど余計にかかる。同行するkwrさんは往路をとりましょうと簡単に返信が来た。

 予定の登山口に8時半前に合流。駐車料金を支払い箱に入れて、出発する。高速道を河口湖ICへ向かう途中で、富士山が見えた。下の方は雲の中だったが、8合目から上は真っ白な雪をかぶり、その上の青空に映えてみごとであった。だが富士山西側の登山口からは雲が視界を遮り姿は見えない。入口には「※地蔵峠は通れません。※クマ出没」とワラ半紙に手書きして、貼ってある。

 神社を過ぎて登山路に入ると、朝陽を照り返して紅葉の林が明るく輝く。だが沢を渡ると秋は姿をひそめ、冬枯れになる。この後はしかし、景観を気にする暇もないほど岩を乗り越えていく急登になる。ロープを張ったところが何カ所も続く。「1合目」から「9合目」までの表示が、最後の稜線にたどり着くまでつけられていて、それが励みになる。今日の標高差は1100m。急登のはじまる地蔵峠分岐から稜線に出る南アルプス展望台までの直線距離は、およそ2km。その間に1000mを上ると考えると、斜度は30度。きついわけだ。地蔵峠分岐にあった、泥で汚れた古いイラスト付き案内看板には、地蔵峠分岐から山頂まで上り140分、下り100分とあったが、昔の山人は力があったのかもしれない。

 不動の滝見晴らし台に9時7分。コースタイムより10分余計にかかっている。kw夫妻は、先週も大山詣でをして来たそうだ。山行計画をつくるとき、kwrさんは「毎週ではなく、月に一週は休みを設けたい」と骨休み提案をしていた。私もそうだなあと思っていたのだが、実際の休みの週になると、身がうずうずして、どこかへ登りたくなる。先週私は、下見のつもりで栃木県の氷室山へ向かったのだが、昨年の台風19号で登山口への林道が崩れ、その修復中であったために通行止めを食らって、やむなく引き返している。つまりkw夫妻も、骨休みをと思いながらも、どこかへ登りたいという気持ちを抑えきれないほどに、山歩きが習慣化しているとみてよさそうだ。「いや、けっこう足に来ましたよ」と男坂の石段に閉口したようなことを言う。「ロープウェイで降りなかったの?」というと、kwmさんが(何、バカなことを言っていんのよ)という顔をした。大山詣では、今日の為の足慣らしだったというわけだ。

 中間点の少し手前に「レスキュウ・ポイント」と書かれた看板があった。「ヘリコプターで救出できる場所と説明も加えられ、事故があったときには119番に電話をして、この場所を利用して救助を求めなさいというのであろう。でも、ここに着陸できるかしらと、周りの枯れた木立をみながらkwmさんが呟く。ザイルで降りてくるんじゃないのとkwrさんが応じている。ほぼ中間点にあたる標高1600mの「六合目」が、その先にあった。見上げると枯木のあいだに青空が広がり、すっかり雲がとれているようにみえた。

 岩を乗っ越す上りはつづき、大きな岩が立ちはだかるところに「富士山展望台」があった。

「おっ、見えるよ」とkwrさんが声を上げる。振り返ると、木立に邪魔されながらも七合目辺りから上の雲が取れ、山頂部がはっきりと姿を現している。なるほど「展望台」だわいと思った。こちらの富士山には雪がない。南西向きの斜面であるから、高速道からみた北向きの冠雪の山頂とはまったく趣が違う。静岡県の富士山だなと思った。

 そこから10分余で稜線上に出る。「南アルプス展望台」と名づけられた地点は、傍らのごつごつした岩を上らなければならない。kwrさんが先に立ち、狭いよと告げる。彼の背に立つようにして西側をのぞき込む。あれが北岳かとみえる地点は、手前の山並みに大きな山体の大半を隠されて、頭だけを出している。2週間前に、南アルプスの真っ白に雪をかぶった山頂部は、ほぼ黒々と見える。前回王岳に登ったときは、前日に雨が降った。しかしここ十日ほど雨が降らない。少し北西には八ヶ岳であろう。これも黒っぽい。

 11時53分、毛無山の山頂についた。すでに3人の若い人たちが食事をしている。三重から来たのだとは、私たちを追い越すとき最後にやってきた人が話していた。ずいぶん遠方から来たように思ったが、三重からすると、この静岡県は隣の隣。つまり私たちからすると茨城県へ行っているようなものかもしれない。新幹線を使うとすぐだねとkwrさんは口にしていた。途中で私たちを追い越していった単独行の男二人は、姿が見えない。このピークの、もう一つ向こうへ行ったのだろうか。それともさらに向こうの、雨ヶ岳を越えて本栖湖の方へ縦走したのだろうか。お昼にする。食べていると、単独行の方がぽつぽつと二人やって来た。結構御人気の山なのだ。そう言えば、麓の駐車場には、私が着いたときにはすでに4台ほどが止まっていた。その人たちは、何処へどう行ったのだろう。

 kwmさんが胃の調子が悪いという。彼女は力を遣い尽くすタイプ。腹の底から力を振り絞るのが胃に来るのだろうか。昼を食べていた人たちが立ち去った後、「あっ、見えた、見えた」と単独行の男性が声を上げた。富士山の八合目より上の雲が取れ、青空に背を伸ばしている。

「あんなに高いところにあるんだ」とkwrさんが言うから気づいたのだが、ここよりさらに1800m以上高いから、見上げるようだ。そのとき撮った写真をみると水平が狂っているようにみえるが、あれは富士山の南側が剣ヶ峰で少し高いから、山頂部分だけを観ると傾いているように感じる。

 と、北の方から男が一人やってくる。聞くと、向こうの最高点11946mまで行ってきたという。地理院地図には、そちらの方を毛無山と書いているが、実際にはその手前の1946mに、「毛無山」の標識をおいてある。それも二つも。一つは「山梨百名山」とあるが、もう一つは、「毛無山1946m」とある。2年前に上ったとき、「この山を山梨県に上げるから、富士山を静岡県に頂戴」と女の方がしゃべっていて、オモシロイと思った。県境なのだ。でも、置いてある位置が、逆じゃないかと、今回も思った。と、がやがやとにぎやかにしゃべりながら、3人のパーティが現れる。この方たちも、最高点に行ってきたようだ。麓の駐車場に先についたkwmさんは「奥さんが車で送ってきた人が、戻ってこないから、雨ヶ岳に行ったのだろうか」という。そうか、奥さんが車を下山口に廻して待っていれば、縦走もできるねと話す。山頂の掲示板を見ると、毛無山の山頂から割石峠までは5時間の行程。併せて「クマザサが深いためベテランを必ず同行してください」と付け加えている。上級者のルートだというのである。天気が良いから頂上で45分も時間をとった。

 12時半に下山を開始。kwmさんの様子を気遣って、mwrさんは少しペースを落とした。でも、登るときの急傾斜を下るのだから、気を抜くわけにはいかない。私は標高と時間とをチェックしながら、ストックを使って足を運ぶ。kwrさんのペースが私の体力にちょうど良い。持続力に配慮した運びになる。「よくこんなところを上ったねえ」とkwrさんは感嘆しながら下っていく。ペースが崩れず、標高の1/3を45分で降る。2/3を1時間半。見事にコースタイム男だ。このペースで下ると2時間15分で駐車場に着くと思っていたら、駐車場着、14時50分。5分しか狂っていない。車には、「駐車料受領」の印が押してあった。律儀なことだ。

 そこで、kw夫妻とは別れ、私は車を走らせて家路を急いだ。だが、4時半になると自動点灯の車の明かりが点きっぱなしになった。5時を過ぎると真っ暗である。夜の運転には注意してくださいと言われている私にとって、この時間の運転は鬼門である。ずいぶん気を張ってハンドルを握り、渋滞の外環を走り5時45分に帰着した。翌日、kwrさんから電話があった。彼も日が暮れる速さに驚いたようだ。冬場の山は、行動時間を身近くするか、もっと早く登り始めるかしなくちゃねえと、登山計画の変更にまで言い及ぶことになった。

 体力的にも、運転能力的にも、リミットの山であったなあと振り返っている。

2020年11月17日火曜日

人と土地を起ちあがらせる視線の起点

  浅田次郎『マンチュリアン・リポートA MANCHURIAN REPORT』(講談社、2010年)を読む。

 1928(昭和3)年の張作霖謀殺事件の「真相」を、当時の天皇の密命を受けた将校が現地に足を運んで関係者から聞き取りをして、探るという筋立てになっている。この事件が浅田次郎の関心を惹き、本書が書かれることになった背景には、1990年に発表され『昭和天皇独白録』があったのではないか。その「独白録」なかで(珍しく)昭和天皇が、関東軍河本大佐の謀略であったと報告を受けて、ときの首相に処罰をし支那に対して遺憾の意を表明する意向を示した。ところが田中首相は、(これを明らかにし如何に意を表明することは日本の国益に反するとの軍部の反対意見に押されて)これをあいまいなままに処理しようとした。それを天皇に譴責され、内閣が総辞職した経緯に触れている。思い返すと、これ以降、軍部の暴走を政府も(天皇も)止めることができなくなった。

 東北部の軍閥の雄であった張作霖を謀殺したことによって、日本軍の援護を受けて満州の統治をしていた統治者を失った。タテマエとはいえ、満州国の自治権を保護するという位置を棄て、日本は直接統治(つまり侵略)に乗り出さざるを得なくなtったのである。と同時に、張学良らを反日へと向かわせ蒋介石との国民政府への統一へと追いこんだ発端の事件であった。張作霖が関東軍の意向を無視するようになったからと、高校時代の日本史では教わってきたが、そもそもその「意向」が満州全域を支配下に置くことを意味していたのだとすると、歴史過程としては、むしろ逆の読み取り方をしなくてはならないと、いま振り返って思う。

 つまり、張作霖謀殺を叱り、その責任者を処罰して、支那に対して遺憾の意を表明すると考えていたのが統帥権を持つ天皇だとしたら、彼がもし強く指示して事件の全容を明らかにし、関東軍の暴走を抑え、軍の統制を行っていれば、その後の満州事変から、あるいは、太平洋戦争までの無謀な拡大への突入を抑止することさえできたかもしれないとおもうからだ。逆に、こうも言えようか。強く(事態の解明と責任の追及を)指示することができなかったのは、すでに統帥権は名目だけであり、天皇は軍部からみてお飾りに過ぎなかったとも。もっと踏み込むと、そうした軍部と天皇との力関係をやむなしとするような気風が統治者のうちには広まっていたともいえる。つまり天皇の個人的な「意向」がどうであるかということよりも、天皇主権の立憲君主制という統治構造が、日露戦争以来、大きく軍部の発言力を増大させ、文民には抑えようもないほどになっていたという構造的なモンダイが底流していたのであろう。

 浅田次郎の筆運びは、密命を受けた将校が内閣の秘書官に身分をやつして、北京から瀋陽までの旅をし、大陸浪人や日本の新聞記者、滅びゆく清朝の役人たちや関東軍の将校たちへの聞き書き、あわせて張作霖の姿を浮かび上がらせることによって、東北部の軍閥が満州族の故地を自ら統治するイメージをかぶせて、関東軍の「意向」がいかに無茶であるかを浮かび上がらせる。さすがみごとなストーリー・テラーである。構造的なモンダイには言い及んでいないが、それとは逆に、河北と東北部の端境の万里の長城との位置関係、満蒙と呼んだ(清朝の故地)東北部の肥沃さなどが、私の思い込みと違った景観をもって起ちあがった。

 じつは私は、2016年の11月に大連から瀋陽まで、新幹線で2時間ほどの旅をした。そのときの新幹線から見える大地の印象を、こう記している。


《沿線には大きな町がポツンポツンと出現する。超高層ビルが林立し、煙を吐く火力発電所が際立つ。街を離れるとほぼ平原。持参の高度計で標高をみると高くても50mほどであった。緑もなく、赤茶けた大地が広がる。ところどころに少しばかりの疎林のあるのが、かえって何もない大地を際立たせているように思える。満州へ移り住んで「開拓」に当たった人たちは、この荒涼とした原野をみて「希望」を抱いたのだろうか。もちろん今が「原野」というわけではない。畑らしく耕され、あるいは収穫が終わった後のようにみえ、トラクターが動き、人々が立ち働いていた。水はどうしているのだろうか。雪は積もらないのだろうか。強い季節風は、どうなっているんだろう。目についたのは、ところどころに東奔西走する高圧送電線と立ち並ぶ鉄塔だ。と、前方に林立する超高層ビルがみえはじめる。》


 つまり、荒涼とした不毛の大地という印象が予め刷り込まれている。ところが浅田次郎の作品では、河北よりもはるかに肥沃な満州と記している。これがいつの時代を指しているのかはわからないが、荒涼とした人跡未踏の不毛の大地イメージを抱かせ、満州を「開拓する」という思い込みが、日本の満州進出を正当化する一要因になっていたのかもしれない。浅田ようにみると、満蒙開拓団は明らかに侵略であった。

 その、満蒙開拓に対する忌避感が私の内側にあったせいか、瀋陽の町に入ってからは、むしろ清朝の故地、女真族の故郷としての瀋陽へと関心を移して、次のように記している。


《瀋陽の街に降り立った時の印象は、大連以上の喧騒の街。遼寧省の省都らしく、ひときわ商業的な賑わいが感じられる。人口は900万人と聞いた。マクドナルドもある、スターバックスもある。バス、タクシーが行き交い、車が多い。タクシーを拾って「北稜」にゆく。後に満州族と呼ばれる女真族を統一したヌルハチが後金を名乗り都をおいたのが、この瀋陽であった。そのヌルハチの墓が「北稜」である。ヌルハチが満州八旗を編成し、明を破りモンゴルを併合し、朝鮮を服属させて、北京にも都をおいて清と名乗りを上げたのが1636年。ちょうど徳川家康が江戸に幕府を開き、権勢を確立したころと重なる。「北稜」はしかし、今はすっかり公園として風景に溶け込み、菊花展をやっていた。子どもを連れた賑わいは、日曜日ということもあって、明るく屈託がない。奥の方の「稜」にまで足を運んでいるのは、私のような観光客。17世紀の建物が(いくらか修復はされてきたのであろうが、満州国崩壊以後)あまり手入れもされずに放置されてきたように見える。一部は崩れ落ちそうになっている。「稜」は円墳。その素っ気なさが、かえってヌルハチの偉大さを表すように感じたのは、私の中の何かと触れ合うものがあったからのように思う。》

《「瀋陽故宮」は満州族の文化的シンボルであったようだ。ヌルハチを継いだ第二代皇帝ホンタイジの創建した居城であったのだが、ホンタイジと最後の皇帝溥儀を軸にかつての「清」の栄光を置きとどめようとしている。満州族の風俗、風習、宗教、文字、生活と部屋を分けて展示し、豆のひき臼やその調理法まで写真付きで解説している。ここの展示を見て回っている人は、漢族なのであろうか満州族なのであろうか。ガイドに尋ねたが、はっきりした答えは聴けなかった。ガイド自身は漢族だと分かったが、「たくさんの民族が一緒に暮らしています」と対立相克がないことに力を入れて説明していたから、あるいは私の疑問を、今様風にとらえて先回りして応えたのかもしれない。広い敷地にはホンタイジのときの満州八旗を象徴する八角形の本殿まで残され、人々は日曜日の公園として訪ねてきていた。》


 この、ヌルハチやホンタイジの衣鉢を継ごうとしていたのが張作霖―張学良であったという所にまで、私の想像力は届いていなかった。浅田次郎はそれをベースに、『マンチュリアン・リポート』を書いている。

 人と土地が起ちあがる視線の起点が、奈辺にあるかを示したといえよう。

2020年11月16日月曜日

ポナンザと棋士たちと「わたし」

 将棋の面白さは、その指し手にその人の人生が現れるところにあると言われる。どういうことであろうか。大局観のことだろうか。守りを重視する人、攻めに傾きがちな人、そのバランスのうまい人ということか。それとも、攻守の局面局面に現れる棋士のクセのような重心の置き方やそのときの心もちのことをっているのであろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、中学生からプロ棋士になった藤井聡太の活躍をみながら、ああやっぱり、このあたりに壁があったかと思ったりしている。

 先日(2020/11/12)、NHKの「アナザーストーリー」という番組で、将棋AIとプロ棋士との対戦をとりあげていて、興味深く観た。

 チェスAIはずいぶん前に人との勝負に決着をつけたが、将棋AIはなかなか容易ではなかった。その違いが、手に入れた駒を攻撃に仕えるか使えないかということと簡単に紹介する。その違いが、攻守に関する展開の局面を飛躍的に増やすから、電算処理のAIにとっては手間暇かかることになるらしい。AI棋士のプログラマーの話を、なるほどと聞きながら、へえ、と思ったのは、このプロぐらなーはほとんど将棋を知らないということであった。

 このポナンザというAIソフトが出現するまでは、将棋に詳しい人がソフトを組み、実力の向上を図ってきたという。ところがポナンザは、これまで蓄積されてきた何万という優れた対局の棋譜を覚えさせ、さらにポナンザ同士で対局させて「経験」を積み、その学習をもとにして強くなってきたという。

 では、ポナンザが蓄積してきた「経験」とは、何か。手筋を憶えるだけというなら、プログラマー山本一成氏のプログラミングの力は、何処に発揮されているのであろうか。ポナンザの記憶力と、局面に臨んだときの演算処理の速さというだけなら、なぜ将棋AIの力量向上に、ここまで時間が必要だったのだろう。番組をみていながら、コンピュータの基本的なことを知らない私には、ふつふつと疑問がわいてくる。

 つまり、棋譜の指し手のもう一段深いところにある「判断」が「経験」なのではないか。駒の、どのような局面で、何に、どのような重きをおいているのか。それは、相手の駒との関係の、何に重点を置いて、どう評価しているのか。それを数値化して「経験」として蓄積するのが、開発者プログラマーの役割だったのであろうか。

                                            *

 面白かったのは、ポナンザが佐藤天彦名人と対戦したAIポナンザの第1局の初手。3二金と飛車の横に金を動かした。佐藤は頭を抱えて考え込む。

 それを解説していた加藤一二三が「こんな手を打つと、ふつう、お前、出直してこいと叱られる。」と言う。素人も素人、まったく将棋を知らない人が打つ無意味な手だとみなされる。

 ところがその第1局はポナンザの勝利となる。

 もう一つ注目する一手があった。

 終わりに近い中盤で、7六歩をポナンザが打つ。

 えっ? なに、これ、と佐藤は驚く。取られてしまえばそれだけの無駄打ちと見える。熟考の末、佐藤はその歩をとる。ところがあと後で気が付くのだが、それをとったために、自らの飛車の動きを封じることになった。深謀遠慮というよりも、思いもよらない打ち方をAIは学習してきていると思う。ポナンザが一切ミスをせず、坦々と勝つ鉄板勝負ばかりでは、AIとの将棋は飽きられてしまう。AIが学習した「経験値?」に組み込まれている手筋に、人はふつう思いつかない意外性が備わっている。将棋ソフトで腕を磨いた藤井聡太が快進撃を続けたというのも、この意外性の幅が先輩棋士たちよりも広かったことに拠っているのかもしれない。

                                            *

 もう一つ興味深かったのは、最初にプロ棋士とAIソフトが対決した2013年の「第二回電王戦」で、ポナンザが佐藤慎一四段に勝利したときのこと。佐藤慎一四段に対する口汚い非難が相次いだという。ところが、2017年のポナンザと佐藤天彦名人との対局で、名人が敗れたときには、よくやってという称賛の声が名人に寄せられたという。

 この違いは、なんなのだろうか。

 むろん、将棋に関心の深い人たちがこの対局を観ながら、自分ならこう打つなとか、あの一手はミスだったんじゃないかと見極めているから、佐藤慎一四段が負けたときに(自分が味わう悔しさもあって倍加して)「非難」として噴き出したのかもしれない。あるいは佐藤天彦名人のときには、やはりベストの対応手を打っていたと思っていたから、よくやったと、これも自分をほめるような気持で称賛となったのではないだろうか。

 その背景には、プロ棋士四段と名人という(将棋に関心の深い人たちにも達している)「権威」の違いが横たわっていると思う。素人の私には、(四段も名人も)同じように見えるが、佐藤慎一四段の指し手に(ミスだったんじゃないか、とか、あれで良かったろうかと、自分の指し手と較べて)疑念を持つような将棋に関心の深い人が、「非難」をするとは思えない。

 ただ、自分が負けたように感じて、その悔しさを「非難」としてぶつけるということは、わからぬでもない。そこには、四段だから(もっと良い手が指せたのではないか)と、選択の余地が指しはさまれる。名人のときには(あれ以上の手があったとは思えない)と、素直に求められる。そこには、「人間」の力量の(現在の)最高点として「名人」という権威が座っている。

 人間の抱く「権威」というのは、そのような自分自身の人生の写し絵のように内心に埋め込まれて、外へ向けて発露される。私自身の抱いている「権威」は、どうなっているんだろうと、興味は外へ広がる。

「アナザーストーリー」は、一つの出来事を三つの視点から検証するという構成をとっている。その視点の移動によって、TV画面をみている視聴者も、観る目を移していく。そのとき「わたし」を見つめる私の視線が複数となり、自分を外(あるいは超越的)から観る視点になっているかどうか。そんなふうに、考えさせられた。

2020年11月15日日曜日

こりゃまた、失礼いたしました――「断裂」の行方

 大学時代のサークルの先輩後輩とのやりとりで「断裂」を感じて、訣かれを決断して、最後の「断裂」を感じた所以を記したメールを送りました。あまりの長文なので、冒頭の前説を本文にし、あとをpdfにして添付ファイルにつけて。

 ところが、その添付ファイルが開けない。「添付ファイルがついてないよ」というのもあれば、「開けない」というのもあります。私もやってみたが、写真くらいしか受け付けていないのであろうか。連絡網管理者の(やはりサークル後輩の)Mzさんに、開き方を教えてくださいと依頼しました。

 さっそく、開き方が送られてきました。パスワードを使って、さらに奥のURLにアクセスする必要があった。若い人たちは、このあたりの手順を身につけているんですね。さらに、添付ファイルがついていない(と見える)わけも、説明してあった。この「連絡網」は今回はじまったわけではなく、すでに何年も前からあったものだが、そこへ付けた添付ファイルを開けると、一緒に何やらウィルスが忍び込むことがあって抗議を受け、新規に出直しをしたらしい。ただそのときの警戒注意のままにしてある方のところでは、開けないということのようです。まいわば、私は新米の飛び込みで、言葉が通じないのも、無理のないことかもしれないと感じています。

 

 それとは別に、後輩のMさんはメールにこう書きこんでいました。

 《「断裂」がありますか。私は、明朝早起きしたいので、今夜は早めに就寝します。先に書きましたが、スマホでは文章をじっくりとは読みづらいし、16日には帰京するので、帰京後にじっくり読もうかな。反応には、しばらく時間をくださいね。》


 先輩のWさんは、(添付ファイルを)読むまでもないとみているようです。さすが、言葉を専門とする学者のようです。

《F様 Wです。ざっと調べたところ、やはり添付ファイルはないようです。しかし、絶対ではありません。今はその添付ファイルがなくても議論は可能なようなので、改めて探す必要もないと思います。「断裂」はアキレス腱を連想する言葉ですね。私はこのような言葉を自分に対して使われたことがありません。最初から「断裂」などと言われたら、もう議論はいいよ、という意味のように感じます。》 


 そうなんです。「議論はもういいよ」というより、「議論になっていませんね」というのが、私が指摘した「断裂」の意味だったわけです。

 そこへ北海道に在住のSさんが近況報告を送ってきました。彼は、私とサークル同期であっただけでなく、学部学科専攻も同じだったので、そちらの同窓生にも同じ内容の近況報告を送ってたのです。PCなら「添付ファイル」が開けるだろうと、「お目通し下さるとありがたい」と書き添えて、pdfを送りました。

 Sさんは、次のように書いていました。

《添付pdfの件、試してみました。普通にダブルクリックしたら開かず。ただ、ワンクリックしたら、(普段使っているgoogle chromeではなく)新たにMicrosoft edgeが起動し開けました。何故か分かりませんが。/「断裂」の方は、私には残念ながら難しくて今のところ内容が理解できません。》


 お二人は「断裂」があるとは思っていないようですし、Sさんは「難しくて」と取り合ってくれません。そうか、そうなんだと、わが胸中に浮かぶ思いを反芻しています。なんだか独り相撲だったようです。

 MさんもWさんも、私との言葉のキャッチボールを軽快にやりとりしていたつもりなのに、なぜかFは直球勝負していたつもりらしいと、いまさらに気づいたのかもしれません。Sさんが「難しくて」とやんわりと敬遠したことで、そのあたりの事情が浮かんできたわけです。

 2,3年に一度しかあっていなかった者同士が、半世紀以上もの間をおいてやりとりした言葉を、直球勝負のように投げたり受けたりするもんじゃないよ、何考えてんだおまえさんはって、言われたようなものですね。


 こりゃまた、失礼いたしました。

 植木等じゃないが、そう言って退席した方が賢明です。いろんな感懐が、湧き起ってきます。私自身の人生が、こういう軽く快ちよく触れるか触れないかでやりとりするキャッチボールを経験していない。ひとつひとつの出来事や出くわす言葉を、わが輪郭とみてとらえ変えし、わが身に引き寄せて意味を問い直すという、なんともメンドクサイ回路を築いて、そこに入ってこないことを組み込む作法を知らない。そんなことで、「他者」と向き合って、はて、何処までコミュニケーションを成立させることができるのか。よくぞ、その歳まで、身近にいた人たちがつきあってくれたものだと、嗤われてしまいそうです。

  いやはや。

2020年11月13日金曜日

心に鍵を掛けない暮らし

 先月末から、大学のサークル同窓生とのやりとりが続き、埋めようのない「断裂」を感じてきたことは、すでに記しました。こうしてまた私は「断裂」に直面して、二人の知人と縁を切ることになりそうです。わずか十日間のやりとりですのに、「わたし」はどこで訣れてしまったのだろうと、考えるともなくわが道程を振り返っていました。

 ところが、思わぬところから「コミュニティ性」に関する答えが降りてきました。一昨日(11/11)、山へ出かけ登山口にたどり着けずに帰ってきた日、録画していた昔の映画を観ました。

 マイケル・ムーア監督「ボーリング・フォー・コロンバイン」(原題: Bowling for Columbine、2002年)。コロンバイン高校で二人の生徒が銃を乱射して同級生を多数殺害して自殺した事件がなぜ起こったのかを追って、インタビューで構成したドキュメンタリー映画です。

 子細は省きますが、そのなかの一つのプロットでムーアは、デトロイトの対岸にあるカナダの街を取材し、どの家も鍵をかけていないことを知ります。インタビューを受けた人たちは「えっ、どうして?」と鍵の必要性を考えたこともない気配を漂わせて、銃をもたないではいられないアメリカとの対比をして、どちらが良い社会でしょうかと(言外に)ムーアは問うています。それをみて先ず思い出したのは、コロナウィルスが広がるアメリカから逃れて、カナダへ移住する人が多くなったという10月のニュースです。第1回の大統領候補の討論会が、罵声を浴びせるトランプの振る舞いに驚かされたころだったと思います。アメリカ人にとってカナダってそういうふうに見えているんだと、新発見をしたような気分でした。

 そう言えば半世紀も昔、日本人は空気も水も安全もただだと思っているとイスラエルを引き合いに出して日本文化を揶揄する本が流行したことがありました。そのあたりから、気分的にはわが心に鍵をかけるようになったのでしょうか。

 カナダの人たちが鍵を掛けないということは、社会に対する信頼を表しています。インタビューは貧困層の男性にも行われていました。彼は「そりゃあ失業しても、社会保険制度がきちんとしているから、(暮らしの)心配はしていないね」と応じていました。つまり社会的格差に対する心配りが、カナダという社会を落ち着いたものにしているようです。社会秩序というのは、軍隊で護るべきものではなく、人が安心して暮らすことのできる空間、つまり「かんけい」をつくることなのですね。

 カナダ人の社会に対する信頼と昔日の日本のそれとが同じとは言いませんが、でも、性善説とか性悪説とか、自助・共助・公助という分別を無用にする「社会に対する信頼」が慥かにあったと私は感じています。それが雲散霧消してしまった。

 いつ、なぜ、どのようにして? と疑問は次々に湧き起ります。たぶんそのあたりに、「コミュニティ性」を取り戻す「鍵」があるように思うのですが…。でもいま、ここまで来てしまった日本の社会が、果たして、社会的信頼を取り戻すことって、できるのでしょうか。コロナウィルス禍の下で、密にならず、社会的距離をとって、しかもある程度生活物資を地元で調達して地元で消費することのできる社会関係が望まれているのですから、今こそコミュニティ性を見据えた社会をつくるチャンスだと思うのです。たしか京都大学の広井良典さんが、『人口減少社会のイメージ』という本で書いていたことが、ちょうどwith-コロナ時代の、社会イメージに近いのではないかと思い当たります。

 誰か、どこかで考えてくれているのでしょうか。

2020年11月12日木曜日

頑張らにゃあ、バイデン・メトロノーム

 ますます勢いを増しているコロナウィルス。第三波の到来と東京都医師会長が言明した。全国のあちらこちらで、感染者数の新記録を更新している。

 にもかかわらず、そろそろ自粛という「閉門蟄居」に我慢ならなくなった高校同窓の後期高齢者が、いい加減、覚悟してやりましょうよと、延期しているSeminarの実施を要望してきた。ではと、11月末のSeminar開催案内をおくった。

 すると、欠席連絡があったのは2名、判断に迷っているのは2名、あとは十数名が出席の返事をしてきた。皆さん、東京、埼玉、神奈川の在住者ばかりだから、どの県も、感染者数は、高い水準を維持している。いつも使っていた会場は、医療関係の大学とあって、さすがに5人以上の会合禁止で借りることができなかったが、新橋の繁華街にある「鳥取・岡山アンテナショップ」が会議室を貸してくれることになった。会食するなら借用料は無料と4時間の使用が認められた。

 シャーロックならぬ、ステイ・ホームズの大冒険と呼んで、開催が決まった。

 でも、この皆さんの気分は、なんだろう。自粛を「我慢できない」ってこと? コロナウィルスと共存していくしかないのなら、それぞれが自衛策を講じて、それでもだめなら(人生を)諦めるしかないとカンネンしたということか。いずれにしても、なんとなく共通する感覚が流れているように思える。

 顔を合わせることもなく、日頃ばらばらに暮らしている私たちが、TVや新聞やラジオを通じて接している「世界」の動向が、わが身の裡に何がしかの同調する波長を引き起こし、心裡に似たような感覚を呼び覚ましているということではないのか。つまり私たちは、ふだんから、顔を合わせ、振る舞いをみているうちに、なぜか同調する気分を内側に醸しだしているのである。

 そう気づいたのは、みるともなくみていた昨日(11/11)のTV「ためしてガッテン」。コロナウィルスのせいで、リモート会議が盛んだが、なんとなくリモートだと会議が盛り上がらない。参加している人たちもアイデアが浮かばない。なんとなく、仕方なくその場に顔を出しているような気配が漂っている。それを、身ぶり手ぶりを入れ、うなずく人がいると、俄然発言も、リモート会議参加の皆さんの顔つきも違ってくる。

 それにかこつけて、「お題」を与えられた「天才ラッパー」の、ふだんの韻を踏む「スウィング」の回数を、まず数える。その後に腕を胸の前に組み動きを封じて「お題」を与えて、同じようにやってもらうと、なんと半減する。つまり発言者、あるいはラッパー自身も、体の動きが言葉を繰り出していく技に連動しているということがわかる。

 つまり語り手も、同席する人たちも、身ぶり手ぶりを交えて話したり、それをうなずいて聞いたりする聴衆がいることで、俄然、話の内容も弾み方も、大いに変わってくるということだ。

 いつであったか、東大の心理学研究でメトロノーム百台を同じ台の上に乗せて、それぞれを勝手がってに動かしたところ、ほんの数分で、百台のメトロノームが同じリズムを刻むようになっていたという実験を思い出した。私たちは情報メディアを通じて、日本社会とか、世界という同じ「台」の上の載って、勝手がってに動いているメトロノームなのだ。いつ知らず、なぜともわからず、身のリズムが同調する。コロナウィルスの蔓延と自粛、しかもその動きが日本ばかりか世界を一つにしている。つまり世界が一つに感じられていることが、いっそう同調性を誘ったのかもしれない。

 そう考えると、トランプの登場とヘイトスピーチの蔓延や人種差別的な、あるいは難民排斥的な動きなども、ある種のメトロノームの同調とみてもいいかもしれない。ずいぶん大雑把なみてとり方だが、ヒトの暮らす世界って、案外、そういう単純な共鳴装置を携えて、この時代まで生き延びてきたのかもしれない。ホモ・サピエンスとして。

 さあ、どうなるかはわからないが、11月末のSeminarをやってみて、あとで考えてみようと思っていたら、傍らからカミサンが「あなたも頑張らなくちゃあね」と声を掛けた。

 うん、どうして? 

「バイデンって、1942年生まれ。あなたと一緒よ」

 そうか、Seminarの面々は、1942年生まれと1943年の早生まれ学齢の同窓生だ。そうか、アメリカと学制は違うから一緒にはできないが、でも、私たちと同じ学年だ。それで、これからの四年間アメリカの大統領を務める。トランプとそれを支持する7000万人余の軍勢を相手に、世界最強の国家の首長として大立ち回りをやろうという気概をみよってわけだ。

 そうか、年寄り面して、のほほんと過ごすわけにはいかないのか。、それもいいか。同年齢の頑張りをみていると、こちらも少しは、元気が出るかもしれない。

2020年11月11日水曜日

登山口にたどり着けず――氷室山・十二山

  今朝6時半、車で家を出て山に向かった。お今週は、山の会の山行がお休みの週。いつも一緒に付き合ってくれる相方夫妻が、月に一回くらいは休みを入れたいというのでお休みにしている。だが、このお天気の良さ。私の身はうずうずしている。そこで、日帰りの山としていくつかピックアップしていた山のうち、栃木県の氷室山と十二山へ下見に行ってくることにした。標高は1100mちょっと。かつて山の会で上った根本山とか熊倉山の北にある。

 登山口は、佐野市葛生町に流れ下る秋山川に沿って走る林道・大荷場木浦沢線を上り詰め鹿沼市と佐野市が境を分けるあたり、標高940mほどのところにある。葛生の町からひたすら20km余、山間の谷を走る。バス停があるところをみると、一日に何本か往き来はあるようだ。15キロほど走ったあたりに工事の人たちが十人ほど集まっている。朝8時前。これから川に沿う道路の改修工事に取り掛かるのであろう。

 ところがそこから1・5kmほど入ったあたりで舗装は途絶える。いよいよ砂利道の林道にかかったところで、沢を渡るコンクリートの橋が架設途上であり、その先の道が閉鎖されている。

「これより先、車だけでなく、登山や釣りの歩行による通行もできません。 佐野市」

 と看板が置いてある。ご丁寧に短いガードレールでふさいでいる。傍らの高台には茫茫としたお寺があるが、無住の寺のようだ。登山口まではまだ4キロほどあるのではなかろうか。引き返すしかない。新設橋工事用の鉄板の上を踏んで車を回し、下りにかかる。

 先ほどの工事関係者はまだ屯している。車を止め、「どなたか話を聞かせてくれませんか」と声をかけると、一番手近にいたアラフォーの方が寄ってきてくれた。行き止まりになっているわけを尋ねた。おおむね以下のようなことをきかせてくれた。


 去年の台風で林道が崩れ、補修がつづいている。今年はこの先の橋の付け替え地点まで予算がついているので、それを春までに仕上げる。でも、その先の工事は来年度で予算がついても、沢の流量が多い6月から10月までは工事はできないから、早くても再来年の春、しかも全部に予算措置ができるかどうかわからないから、いつになるかわからない。 


 じつは登山口には、鹿沼市側から入る道もある。そちらはどうなっているかわかるかと尋ねた。わからないが、たぶんそちらも、どこかから先は通行禁止になっていると思うと、話してくれた。昨年10月の台風19号の被害は、ほんとうに山にダメージを与えているようだ。

 だめだこりゃあ。今日ダメというだけではない。この先何年か修復は適わないだろう。

 そういうわけで、引き返してきた。どこか別の山に向かっても良かったのだが、こういうときに地図ももたず踏み込むと不運に見舞われると、私の経験的警報装置がアラームを鳴らす。そうだね、今日は、家に帰って本でも読みなさいと天の声が響く。

 行った道をそのまま引き返して、10時には帰着。お昼は弁当がある。テルモスにお湯もある。お茶もスポーツドリンクもある。ボーっと過ごす条件がすべて整っている。大掛かりな散歩をしてきたようなものだね。

2020年11月10日火曜日

過ごしやすい季節――全焦点的拡散

 いつもの年より暖かいのだろうか。朝、窓を開けると流れ込む外気が寒くもない。もちろん暖かくもない。涼しいというのは暑さを感じているからだから、これも似つかわしくない。さわやかというのが感じる気配だ。でも、気温の表現に何かが加わっているようで、身を包むまるごとの気配という感触の心地よさを表している。

 外を歩くのが気持ちいい。でも(目的もなく)何時間も歩くというのが、街なかだとどこか似つかわしくない。山を歩くのだと、何処へ向かうか目的地がはっきりしている。しかも、凸凹の足元に気持ちを集中し、バランスをとるのに身が反応するから、ほんの少し歩くだけで瞑想の境地に入ることができる。ほかのことが考えられず、意識が澄明になる。

 ところが街なかだと、足元にはほんの少し、ときどき気を向けるだけで、たいてい障碍なく歩ける。と、あれやこれや胸中を去来することが雑多に混沌としてくる。気持ちは澄明にならない。誰であったか教育学者が、散歩が一番の贅沢と言っていた。目的もなくぶらりぶらりとさまよう境地をそう呼んだのだったが、こんなに猥雑な思いが行き来するようでは、とても贅沢とは思えない。ゴミ一つ落ちていない道路、穴を塞いで補修された路面、傍らの貸農園で大きくなったネギを収穫し、一束ずつ新聞紙にくるんでいる夫婦、たわわに実る柿の実を長枝ばさみで獲っている年寄り、幼い子が補助輪付きの自転車をおっかなびっくりで漕いでいる背に、手を当てるか当てないで一緒に歩いているお父さん。今日は平日なのに、ひょっとすると休日出勤のサービス業なのだろうか。目の配りどころと胸中に去来する思いとが、山歩きとは全く違って、でもまあ、これも一つことに意識を集中させない点では、澄明と言えなくもないか。

 ちょうど探鳥の達人たちが鳥を見つけるときの目の焦点の話を思い出す。どこかを見つめていたら、鳥は見つからない。ことにさえずりの季節を終えて、子育てになったときには、鳥は鳴かない。意識を平らにして目をみるともなくぼんやりと全体を視界に収める。そうしていると、隅の方の小さな動きも目に留まるようになる。その話を聞いたとき、私は、物見の話を思い出していた。物見というのは、戦場における斥候のこと。部隊に先駆けて、フロントの様子を探りに行く。ヨーロッパ戦線では、広い平野の何処に敵兵が潜み、戦線を張っているか見落とさないために、高い地に身をひそめて、平野部を視界に収め、一晩過ごすこともある。そのとき斥候は、目を皿のようにして始終ぐるりを見回すのではなく、ぼんやりと何も考え全体を視界に収めてみるともなく見る。そうすると、遠方の片隅でちょろりと動く影をとらえることができる。つまり、集中するとみえないものが、焦点を絞らないとみてとれるという逆説的な身体と意識の不思議だ。

 瞑想は、したがって意識の焦点的集中ととらえるよりも、全焦点的拡散とみた方が良い。何も考えてはいない。だが意識は澄明である、と。ひょっとすると目的をもたない散歩も、あれやこれやに目移りがして、歩くいているときに、おや、何処へ行くんだったっけとわが身を振り返るような心持になっている瞬間が、一番の贅沢と言っていたのかもしれない。

 目的をもたないと自分がどこにいて何をしているかわからなくなって不安になる。と言って、一つことにばかり集中しているのも、身が細くなるようで我慢ならない。斥候も実は、何を見つけるのか、しかとは分かっていない。だが状況の変化をいち早くとらえて、それがなんであるかを見極め、あるいは見極められないがナニカアルと感じとって読み解こうとする。

 そういえば昔、誰の作品であったか『ものみよ夜はなお長きや』という小説があったなあ。あれも、時代の先を読むことを象徴した作家の作品だったかなと、焦点を合わせない目配りの仕方に重ねて記憶をたどっている。

 案外、全焦点的拡散、ちゃらんぽらんが世相や時代を良く読み取るのかもしれないと、我田引水してほくそ笑んでいる。

2020年11月9日月曜日

断裂の裂け目

 昨日の話につづけます。MさんやWさんとのやりとりで大きな「断裂」を感じたのは、以下のような点でした。11/6ブログ「この断裂の深さ」に掲載したおおむね本文のままの(メール)からピックアップします。


(1)《私からすると末尾で、「別荘使用だから、無断伐採されてもやむをえない」「Mが人生相談している」に対しやんわりと苦情を申し上げました。》(メール2)

「無断伐採・・・」については昨日記しました。「人生相談・・・」云々は、「コミュニティ性」に関する私のモンダイ提起がMさんの個別具体的な事例にどう対応するかという提起ではなく、(一般的に社会に共通する)社会学的な考察だと述べる過程で(「人生相談に応じているわけではありません」と)記した表現です。それを「Mが人生相談している」と読み取るなんて、ひどく防御的ですよね。ひょっとするとMさんは、ふだん周りの人たちからいじめられているのかなと思ったほどです。


(2)《改めて読むと、「社会集団の常識と言葉、感性や感覚が、団地の管理にかかわりあって醸し出す場の空気をコミュニティ性と(Fさんが)名づけた」のですね。私が「コミュニティ性」という言葉を、すっとは理解できなかったはずです。》(メール2)

 Mさんが「理解できなかったはず」というのが、何を指しているのかわかりませんが、推察するに、「コミュニティ性」に関する「定義」のようなことを期待していたのかもしれません。人に言葉を伝えるために、よく「自分の言葉で言え」ということを言います。上記引用文中の私の言葉は、文脈(あるいは論脈)に応じて意を通じようと用いた表現です。「コミュニティ性」という言葉自体、私が持ち出したものです。どこかに「定義」があるのかどうか知りませんし、もしあったとしてもそれがどれほどの「権威」をもつのかは、用いる人それぞれが自分の思いを込めてその場で自己規定するものだと思います。ひょっとするとMさんは、言葉の「定義」はアカデミックな世界で規定されて、それを庶民は用いていると思っているのでしょうか。これはこれで、場を改めて考えなければならない、面白いテーマだとは思いますが。


(3)《私の生活実感とは違うなと感じました。典型的には、「個々住民の関係構築をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティを形造ってきたツケがまわってきているのではないか」「公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっています」の部分です。…むしろ、どんな生活をしたら、こんな実感を持つようになるのだろうかと、驚きました。私は、東京でも松本でも、機会があれば積極的にご近所と話をします。相手は限られますが、まれには私も妻も、家の前で咲かせている花をきっかけに通りすがりの方とも話します。》(メール2)

 ご近所付き合いを「コミュニティ性」と受け取っているように思います。出会えば挨拶をするとか、混雑する街で知らない人とすれ違うときも、はい、ごめんなさいと言葉をかけるというのも、たしかに「コミュニティ性」です。ただ、ヨーロッパなどを旅すると、「エクスキュズミー」とか「パルドン」という言葉を街中でよく耳にします。言葉を掛け合って(知らない者同士が)敵意がないことを示していると私は思ってきました。日本では、混む電車の中でも乗り降りのときにそのような言葉を掛け合っている声を耳にしません。山を歩くと日本でも「こんにちは」と挨拶を交わすのは、敵意がないことを示すというのではなく、同好の士が山(自然)を共有している共感の思いを表現しているのだと感じています。つまり、日本の場合、知り合いのあいだでは挨拶もし、声も掛け合うけれども、見知らぬ者同士がそのような「かんけい」をもたない。そこがかつての村落共同体の「コミュニティ性」と都会地の「コミュニティ性」の違いなのではないかと思います。

 このコミュニティ性の違いが、社会設計や公権力の発動に関しても、大きな差異を産んでいるのではないかと私は想定していますが、それについては、次の項で触れましょう。


(4)《私は、「これまでの共同体論の多くは、社会システムをどう構築するかということに焦点」という議論はその分野に関心なかったので、まったく知りません。「社会システムをきちんと構築すれば人々の 暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」も持ちません。「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」ことは、超現実的存在=Good(ママ)にしかできないことで、現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇です。「これまでの共同体論」に、本当にこんな議論があるのでしょうか。私には、信じられない議論です。》(メール2)

 これにはちょっと遠回りの説明回路が必要です。上記(3)の、「コミュニティ性」に関するヨーロッパと日本との違いが大きく影響していると思うからです。

 日本人は(とすぐに海に囲まれた日本特殊のように表現しますが、じつは、それ以外のアジアとかを知らないのです)、ヨーロッパ的な見知らぬ人たちとのかかわりを経験しないままに近代の市民社会へ突入したように思います。ここで市民社会というのは、互いに見知らぬ人同士が社会の場を共にし、市場などを通じて交換関係をかたちづくっている「かんけい」を指します。

 いやそうじゃないよ、という声が聞こえてきそうです。たとえば「日本人」という概念自体が、じつは「見知らぬ者同士がお互いを“同胞”として認知している」ことを指しています。でもその根底には、同じ言葉を話すとか、同じ食べ物とか調味料とか文化を体験してきているとか、同じ島国で生まれ育っているという共通の自然体感が“同胞”意識を生み出しているのだと思います。そして近年これが、大きく変わり始めていることで、人びとのあいだの共有感覚が変化しはじめ、齟齬をきたしているように思えます。

 ヨーロッパの人びとは、外国の侵略につねにさらされている緊張感の中に暮らしています。また、見知らぬ国の人々が数多往き来するという市民社会です。たとえば「移民が多くなって困る」という右翼民族主義的な動きが発生しているフランスなども、海外からの移民の割合は2割近いパーセンテージに迫っています。彼らは、「他者」との向き合い方に鍛えられ、かつ、他者と向き合って暮らす暮らし方に知恵を傾けて、長年かけて身につけてきました。

 日本の、近頃多くなったと言われる外国人の割合はその10分の1以下です。つまり日本人は、ヨーロッパ人のような「他者」と(庶民は)出遭っていません。私の生育歴中の実感では、もっと小さな「くに/郷里」が保護膜のようになって暮らしていた時期から、一挙に近代の市民社会を迎え、自律的な個人として振る舞えることに、あるいは喜びを感じ、片や戸惑いを感じながら、社会的な作法を作り出してきたのです。貧困も差別的な抑圧も、社会的な解決は行政的な仕組みによって作り出されることを、イメージしてきました。しかも高度消費社会と一億総中流という社会を経たことによって、資本家社会的市場が個々人をむつびつけて社会関係を取り仕切り、それ以外のことは行政が整えるという感覚を「公共性」としてもつようになったと、私は考えています。お金さえあれば対等に遇してくれる資本家社会的市場経済にすっかりなじんで、自由な個人は羽根を伸ばしてきました。

 社会システムの構築「という分野に関心がなかった」と過ごしてきたのも、伝統的な自然感覚がそのまま保持されているからではないでしょうか。

 庶民がそうであることと逆に、為政者(官僚や行政の首長や政治家たち)は、どのような社会構成をしていけばいいのかと考え続けてきたと思います。どう考えたか。庶民が自然に身につけた「保護膜」である共同関係の団体(これは「くに/郷里」であったり「家族・家庭」であったり「学校」であったり「会社」だったりした)が、自生的にかたちづくって来たものが、社会の変容によって揺れ動くのをどう補正し、どの方向へもっていくかと思案してきたといえます。ま、「お上」に任せてのほほんと暮らす最大のインフラが「官僚的行政組織」だったわけですね。

「人々の暮らしが自ずからよくなる社会システムをきちんと構築する」、それがエリートといわれる「お上」のつねに考えているテーマでした。「社会システムをきちんと構築すれば人々の暮らし方は(自ずから)よくなるという漠然とした期待」をもっていたのは、下々の方です。しかも高度消費社会の実現ということもあって、バブルが弾けるまではリアリティを持っていました。いまだって、夢よ再びとアベノミクスに期待してきた人たちが多かったではありませんか。

 それを、「超現実的存在=Godにしかできないこと」というのは、社会設計とその実現過程とを混同した言い方です。日本の官僚組織がエリートとして評価されてきたのは、まさに神がかり的な(国民への)奉仕の精神が備わっていたことへの尊崇の思いでした。モリカケ問題で(隠蔽工作に携わらされて)自裁した末端官僚の思い(国民全体への奉仕者ではないのか)が、この原点を照らしていることは言うまでもありません。しかし、すっかり社会政策の展開場面を資本家社会的な関係の舞台に限定してしまったために、尊崇の念は剥落してしまいましたね。今となってはまさに、「現実にはあり得ないことです。それが実現可能だと思うのは、もはや信仰・宗教の範疇」になってしまいました。でもこのことは「信じる/信じられない」という議論のモンダイではありませんよ。1960年頃からの日本の行政過程を考察してみれば、いくつでも見ることのできる事実です。もちろん政治家の思惑や不埒な官僚の振る舞いをあげつらえば、いくつでも疑念をもつことはできますが、全体としてそれなりに機能してきたことは「理念的な公務員の位置づけ」が生きていることを示していると私は、思うのですがね。


(5)《また、「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置くというのは、安定した暮らしの基本」なんて、他人に自分の暮らし方をまかせるなんていう恐ろしいことは、私はできません。そんな完璧な「社会システム」は、あり得ないからでもあります。》(メール2)

「科学的知見に基づいて構築される確固とした社会システムに身を置く」というのは、行政的な社会政策は「科学的知見に基づいて構築される」ことを良しとしてきた、戦後社会の一般的な傾きを表現したものです。ことに1990年代、IT社会に入ってからの社会政策の構築は、アーキテクチャと呼ばれて設計的に運ばれました。監視カメラがそうです。道路設計もそうです。昨日のこのブログで触れた1960年代のサイバネティクスやフィードバックの、「議論」であったことがITの助力を得て、全社会的に作動し始めたといえます。それと同時に(単純化して言えば)、従来の「規律訓練型の学校教育」は無用とみなされ、市民一人一人の要望に応えることのできる社会構築へと「制度改革」が検討されています。

 私からみると、それ自体が矛盾を孕んでいて、それに適応する人間が自らを変貌させていってしまう問題を生み出すと思えます。

「そんな完璧な「社会システム」は、あり得ない」というのは、その通りです。でも、だからと言って、そのような社会システムを志向することはあり得ないのでしょうか。こういう文言を吐くMさんは、じつはモノゴトを実体的にとらえていて、関係的にみていないのではないか。人も社会も、かかわりながら変貌していくことを承知していれば、GODだの完璧な社会システムだのを想定すること自体が、あり得ないことなのです。


(6-1)《…人間を、「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」なんて、そんな社会は勘弁してくださいと、誰しもが思うでしょう。まず人間ありきではなく、社会システムありきなんでしょうか。まず「人間ありき」であるべきです。》(メール2)

(6-2)《「社会システムを固定化して、それに合わない人間をバグ・ごみにしてしまう」は、既視感があるぞと感じました。そうです。今の中国です。中国の社会システムに合わない「香港の民主波」や「チベット系」をバグ・ごみとして扱っています。》(メール3)

(6-3)《社会システムばかりでなく人間は他人をゴミ扱いしています。私も自らの中にそういう意識があります。私にとってトランプや菅はゴミです》(メール4)

 どういう文脈で、この言葉「社会システムの取り扱えない存在=バグ:ごみにしてしまう」が出て来たのかをみないと、何を言ってるのかわからないと思います。人を「バグ:ごみ」にするというのは、デジタル社会のアルゴリズムに乗れない人の本性のことを指摘したものです。YES/NO的な選択で次へ次へと展開していく回路では、迷ったり、戸惑ったり、選択を棚上げにしたりすることは、処理回路から外れるということです。例えば電車のチケットを買うときに、何処へいくのか決められないで行き先ボタンが押せなかったら、機械処理はそこでストップしてしまいます。つまり人間的なありようが許容されず、つねにYES/NO的に選択を明確にすることへ、人が適応するようになっている。そのデジタル社会のシステムでは、私たちアナログ育ちは「バグ:ごみ」ですよと自虐的に笑いを取ったつもりでした。それは「勘弁してください」というので済む話ではありません。ましてそこへ、「まず人間ありきであるべき」というのは、デジタル社会の在り様をとりあげるに足らないモンダイと、みているように響きます。

 まして(6-2)のように、中国や香港やチベット系の処遇をめぐる問題に限定した話でもないのです。(6-3)のように「トランプや菅はゴミ」などとなると、もう最初の「バグ:ごみ」の提起は、なんの話だったか雲散霧消してしまっています。


 長々と断裂の裂け目に焦点を当ててきました。なんだ、おまえさん、おちょくられているんだよと言えば、それですべて片づきます。でも、なんでこんなに言葉が通じないのだろう。アメリカの大統領選を観ていても、あの熱狂的な共和党のトランプ支持者、(それがあるからかもしれないが)対するバイデン支持者のやはり熱意溢れる街頭行動、しかもそれがコロナウィルス禍の下で激しく行われているという事実。そこでも言葉が通じていないのだろうか。それとも、「民主党でも共和党でもない。わたしはアメリカの大統領だ」というバイデン次期大統領の勝利演説は、トランプを支持した人々の心にどのように届くのだろうか。ずいぶん次元の違う話のように思えもするが、重なり合って私の胸中の木霊しているのです。

2020年11月8日日曜日

「コミュニティ」への価値意識

 はじめに目くらましにあっているみたいと感じた、同窓先輩Wさんの「かつて大徳村にいた農民岡村仙右衛門(現在の茨城県龍ケ崎市大徳町辺り)」の「無頼漢」の話とは、争いが絶えず、訴訟合戦になったものを幕府権力が利害調整するという「江戸期末の農村コミュニティーの姿」を紹介したものです。でもそれを、現代社会のコミュニティ論に持ち出して、どう読み取ろうとしているのか、わかりませんでした。


 Wさんは、

《そのようにコミュニティーには限界もありますが、知識でしか過ぎなかった村落共同体つまりコミュニティーの存在と活動を私は古文書を通して具体的に知りました》

 と続けます。つまり、「コミュニティ」を村落共同体と同様のものとみているばかりか、現在自分が身を置いている社会集団のこととは、別のものと認識しています。

 これでは、私の「コミュニティの社会学的考察」と噛みあわないわけです。

 さらに続けて、

《そういう(団地建物の維持管理の)必要から生じた、自然発生的なコミュニティは大いに重要だと思っています》

 と、私の「社会学的考察」もありだと肯定したうえで、

《しかし、此の頃のコミュニティー強調論は、どうも手抜きをするためのコミュニティーのような気がします。老人や病者の介護をコミュニティーでやるべしというのは、権力が税金をデタラメに恣意的に、使い放題に使って、そのツケをコミュニティ論を美化し、煽り、持ち上げてやらせようとしているように思われるのです。利用しようとしているのですね》

 と、公権力の意図的な操作とみて非難しています。


 まず、私の団地管理組合における取り組みは「自然発生的」なものではありません。10/31の「どういう角度で「コミュニティ性」を取り上げているか。」でも述べましたが、国土交通省の「模範法」に拠る指導に基づいて(マンション建設業者の起動によって)設立されています。「自然発生的」ではなく、公権力の「指導」という古典的な「お上」による民草への、共助の方向性を(建設業者を媒介にして法的に)授けたものです。むろんそこには「利用しようとしている」要素もないわけではないでしょうが、集合住宅の区分所有というこれまでになかった「所有関係」をめぐる争いを事前に(居住者が)自前管理できるように制度設計をして、調整している姿でもあります。

 そして気づくのですが、「此の頃のコミュニティー強調論は、どうも手抜きをするためのコミュニティーのような気がします」という見立ては、本来そういう(調整は)公的な行政機関が直に乗り出して行うべきものであって、それを管理組合の自前管理に任せようというのは、行政機関が「手抜きをするための」便法だとみなしていることです。そうでしょうか。


 この区分所有法が最初につくられたのは1962年。ちょうど新築の「高島平団地」が都市の新しい住まいとして紹介され、テレビに(当時の)皇太子夫妻が訪れてキッチンやダイニングルームに風呂、トイレも組み込まれた「3DK」とか「2LDK」ともてはやされたころです。今から振り返ると、これが高度経済成長に向けての人口移動政策であり、逆にみると、農村の最終的な解体でもあったわけです。私などもその社会的な流れに(それとは気づかぬまま)乗って、東京に出てきた口でした。

 じつは1963年頃に私の所属する大学のサークルでもやりとりされていた「話題」に「サイバネティクス」とか「フィードバック」という言葉がありました。当時農学部の学生であったサークル・メンバーのひとりが「これからは、これだよ」と盛んに口にしていて、「理科学系の試行錯誤の知的蓄積」の方法論かと思っていました。のちに、このあたりから人間の振る舞いを工学的にとらえて社会設計に組み込む時代に入ったんだと思ったものです。別様にいうと、国家権力が民衆をただ単に搾取して利用しようという時代から、フーコーのいう「生-政治」の時代に入っていたんだと(遅ればせながら)気が付いたわけです。

 ところがWさんは「……権力が税金をデタラメに恣意的に、使い放題に使って、そのツケをコミュニティ論を美化し、煽り、持ち上げてやらせようとしているように思われる」と、国家権力による操作として「コミュニティ論」をみていることがわかります。逆に私は、そういう時代はもうとっくに終わっていると感じていることに気づかされたわけです。

 なるほど国家権力による陰謀論的な操作によって「コミュニティ論」が提出されているんだとなると、私の「コミュニティ性」の提起が「金無垢の正論」と揶揄いたくなるのも、わからないでもありません。(Fは)踊らされているとは思いもよらず、団地管理組合の理事長を務めた勢いで、片棒を担いでいるわいと思ったのでしょうね。

 私の立論の起点を抑えながら、振り返ってみます。


 まず、団地管理組合が建物の維持管理の意思決定を自前で行うのは、当然のことだと考えています。

 近頃の高層マンションは管理人のことをコンシェルジュとフランス語で呼んで、新しいシステムのように見せていますが、要は、管理会社に全面的に委託しているにすぎません。いわば商取引です。もちろんそれを拒否するのがいいと、ひと口にはいいませんが、自前でできるだけやって行こうというのが、(さして金持ちでもない私たちの)矜持のように思っています。

 たまたま集合住宅であったがために、戸建て住宅の持ち主が(わがままに)自己決断することを、管理組合の理事会や総会でやりとりしなければなりません。でも少し子細に考えてみると、戸建て住宅の場合は、家族で言葉が交わされることになります。それがスムーズに運んでいるかというと、たぶんそうではないことがいっぱいあると思います。夫婦の間にだって齟齬があります。親子の間となると、もっと大きなズレが生じているかもしれません。単なる住宅の補修管理と財源という問題なのに、ほかのコトゴトが絡み合って、日ごろの不平不満が噴出して収集がつかなくなるってことは、他人でないだけに余計めんどくさくこんがらがってしまうかもしれません。つまりそれが「コミュニティ性」なのです。

 こうも言えましょうか。私たちは暮らしていくうえで、いろいろな他者と出逢い、言葉を交わし、いわば、齟齬と利害の調整を行わなければなりません。それを市民社会では、問題の局面ごとに限定して取り交わします。行政が取り仕切るのだけが公共性ではなく、それぞれの社会団体がその限定された局面において調整機能を発揮し、「かんけい」の縺れをほぐしていくのが、「コミュニティ性」だと思います。しかし、いうまでもなく、他者と向き合うわけですから、いいことばかりではありません。意に反する(つまり自分の意思が組み込まれない)調整が行われることも少なくありません。そこに、自分と他者と調整機能を果たす(他の他者がとりしきったり、長年の慣習でそうなっている)団体のルールや規範も、かかわってきます。それは(総合的俯瞰的にみると)あたかも、人類史が総集されたような「混沌」の展覧会のように見えるかもしれません。

「コミュニティ性」というあいまいな言葉が必要なのは、言い当てようとすることがらがこれこれと名指しできる実体をもった集団とは言えないからです。そこに集まる人々がもちよる身に付いた振る舞いや言葉、「情報」や知見の繰り出し方、対立や合意を形成する手順や重点の置き方、権威や習わしの傾き、異なる意見を組み込む度量などなど、ありとあらゆる「人類史的遺産の堆積」が交錯するからにほかなりません。

 ちょっと横道にそれますが、今回のアメリカの大統領選挙は、この様相をよく表しています。ああ、これが民主主義なのだと私は、感心してみています。「#ミー・ファースト」のトランプが、4年間を通じて全米に沁みわたり、半ばの人々の(憤懣の)心をとらえていることも、よく見て取れます。それを毛嫌いする(民主党を支持する)人々の(憤懣の)勢いも、敵を見つけた喜びにあふれて噴き出しているようです。

 古代ギリシャの民主主義時代に(おおよそ一万人の市民を相手に)弁論術が流行ったというのも、この選挙のやりとりをみていると、むべなるかなと思います。と同時に、ソフィストたちのむなしい言葉のやりとりに辟易して、ソクラテスという人が違った次元を切り拓く振る舞いをして、後世に残る哲学的なメルクマールを画したのも、その時代の溢れる言葉の空虚さが限界に達してもたらした時代的な精華であったようにみえます。

 いまの民主主義も、そのような転機を迎える限界領域に来ているのかもしれませんね。


 話を元に戻します。

 日頃私たちは「コミュニティ性」に包まれて暮らしています。それをそれと意識しないでいることを「コミュニティ性の消失」と私が名付けたことが、いけなかったのかもしれません。

 意識しないで、どうやって過ごしているか。誰かに預けてのほほんとしている。ボーっと生きていると言ってもいいかもしれません。誰に預けているのだろうか。それを意識しようではないかと、問題提起したつもりであったのです。

 だから「コミュニティ性」という言葉に善し悪しの価値は埋め込んでいません。「コミュニティっていいことばかりではない」とWさんはいいますが、そんなことは言われなくても当然のことです。人類史的な遺産が、いいことばかりといえないのと同じです。むしろ、言葉の原初に立ち返って「中動態的に」言葉を吟味することを、私も提唱したいほどです。いいも悪いも、まるごと組み込んで考えていきたいと思っています。

 でもそれには、もう一つ大きな、越えなければならない壁があったことが、同窓後輩Mさんの言葉からうかがえます。それはまた、後ほどに。