2020年12月25日金曜日

義妣の生誕104年

 今日はクリスマス。子どもが小さかった頃はクリスマスよりも、イヴの方が忙しなかった。カミサンはケーキを作り、子どもたちは冬休みに入ったと喜んでいた。今は孫も爺婆と遊んではくれない齢になったから、イヴはなくなった。ケーキもなく、おでんで夕食を済ませた。コロナ禍かどうかも関係ない静かな一日という訳だ。

 12月25日は、信仰心の無い私にとっては、少し前から義母の誕生日であった。どうして?

 じつは、彼女が80歳の時にエジプトへ一緒に行った。ナイル川やピラミッドを見て回り、モーセが十戒を授かったというシナイ山にも登って元気であった。同時に好奇心も旺盛であった。ちょうど彼女の誕生日と重なってツアーの会社がささやかなお祝いを夕食の時に組んでくれて、じつは誕生日を知った。

 太平洋戦争のニューギニアで夫を亡くし、4人の子どもたちを育ててきた大正生まれ。10年前に94歳で亡くなった。高知のチベットと言われた僻地に暮らし、脳梗塞で倒れる直前までよく歩き、ゲートボールに興じ、翌月の旅行を楽しみにする活動的な年寄りであった。

 8月の末、朝起きてこないので家人が部屋に行ったら、脳梗塞を起していたという。中心部の診療所に救急搬送された。だが何しろ山奥のこと、いつもならドクターヘリで高知市内へ運ばれ、入院手術となるのだが、動かさない方がよいという医師の診断で、その場で手当てを受けた。翌日に予定されていた「健康診断」のために夕方から水をとらなかったという。猛暑の一日であったから熱中症が引き金になったのだろうとカミサンの姉妹たちは推定していた。

 でもどうして義妣の生誕104歳と半端な数字なのか? じつは明治生まれの私の母が亡くなったのが104歳であったから、義母が生きていればと思い出したのであった。

 わがカミサンは「コロナ禍も知らず、長女が脳梗塞で倒れてリハビリ療養中であることも知らないで逝ったのは良かったかもね」と、坦々と振り返る。十年経ったせいもあろうが、この齢になると(母が)亡くなったことをあらためて悲しむ感性は沸いてこない。もう自分たちの番が来ている。ましてコロナのせいで死に目にも会えず、お骨になって帰ってくるというのでは、悲嘆の度合いが違う。「良かったかもね」というのは、残される自分の側にとって良かったという意味かもしれない。

 私たちの親の世代が、案外長生きなのは、戦後の経済成長と医療や衛生環境の充実とが貢献しているとは思う。だがそれ以上に、明治や大正生まれの人たちの生きてきた環境が、自ずと足腰を鍛えるように作用していたからではないかと思う。

 さきほどカミサンの故郷を高知の僻地と言った。そうと知ったのは結婚の承諾を得るために高知の梼原に足を運んだ昭和41年のこと。高知駅で乗り換えて須崎駅で鉄道を降りる。梼原行のバスに乗り4時間。くねくねとくねる道を走って山の峠を越える。「辞表峠」と呼ばれたとカミサンが話す。赴任する人が、まずこの峠を越えるときに辞表を提出すると笑っていたのを思い出す。でもその峠は、まだ半分ほどの入り口。さらにいくつもの山を越え梼原町の中心部に着く。そこでバス乗り換えて、さらに1時間。四万十川の上流の支流にあたる四万川という字の残る奥のバス停で降りる。ほらっ、あそこが家よというカミサンの声に励まされて歩きだす。バス停から30分もかかったかと思ったほどだ。まさに高知のチベットと呼ぶにふさわしい佇まいであった。むろん、チベットを知っていたわけではない。話に聴いていただけ。チベットを実際に訪ねたのは、定年退職してからであるから、そのときから40年ほど経っていた。

 いまはトンネルが抜け、舗装路が奥の奥まで通じている50kmだから、マイカーで須崎から1時間もあれば到着する。だが便利になった分だけ、意識して歩かないと、体は車社会に適応して歩けなくなってくる。つまり、大正生まれの義妣が元気であったのは、運転免許を持つわけでもなく、ひたすら自分の脚で歩いていたから。80歳でシナイ山に上り、エジプトへの旅に行けたのも、便利コンビニの社会の機能性に適応せずそれを利用するだけにして、身を処してきたからであったと、妣の世代の生き方を振り返っている。

 心すべし。便利コンビニとわが身の適応とを意識して峻別して、生きていけと。コロナ禍の中でも、この分別が意味を持つように思うのだが、それはまたあとで考えてみよう。

0 件のコメント:

コメントを投稿