2023年4月5日水曜日

裏高尾植物散歩

 ひょんなことから高尾山の植物観察の下見に行くカミサンに付き添った。付き添うというと、何となく介助者の優位性を感じるが、そうではない。独りで山へ入るにはまだ不安を感じる私が、たまたま下見をする相棒が急用で行けなくなったので、私が山歩きの代わりに一緒について行っただけ。門前の小僧という位置からすれば、師匠のお供をしたわけだ。

 ラッシュのピークを避けるというので8時33分の電車に乗る。なるほど、ひと駅先で座席に座れた。しょっちゅう利用している師匠は微妙な頃合いを心得ている。私はこの路線に乗って高尾へ行くのは3年ぶりになろうか。

 高尾駅は大変な混雑。階段を上がるのに列をなす。一番西の端の階段を使えば、トイレにも近いと考えて階段の脇を進むと、なんとそのまま改札口に出られる。じゃあ、あの混雑の人たちはみな、京王線に乗り換えるか南出口に出るのか。いつも北口しか使っていなかった私からすると、高尾のまだみていない顔があるのかと思った。

 北口のバス乗り場はこの3年の間に様子を変えていた。その脇の小径を通って西へ向かう。浅川を超える。師匠はその道々でも立ち止まってはコンクリートの隙間から顔を見せる花までチェックする。どこにどんな花があるか、まだ咲いてはいないが蕾になっている、花の咲く気配はないが茎と葉が群落をなしているとみて、マッピンングしているのであろう。これ、ジロボウエンゴサク、あっこれ、ヒメオドリコソウと門前の小僧にも習わぬ経を聞かせる。何種かのスミレの名もあげる。

 高尾山口へ抜ける車道に出て、小仏川の左岸へ踏み込む。一組の老夫婦が草花を覗き込みながら先を歩く。カメラを構えてしゃがみ込む70年配の男性がいる。何を撮っているのだろう。やがて土手の斜面は川の側が鉄製の柵に代わり、板敷の上を歩くようになる。ニリンソウの群落がある。カラスノエンドウやスズメノエンドウが足元を埋めるように広がる。ヤマブキが黄色の花をいっぱい付けている。花期が長いのだろうか。5月下旬になっても山では見掛ける。

 橋を渡って小仏川の右岸へ移り、樹林の間を縫う道は山道風に変わる。ミミガタテンナンショウ、ミヤマキケマン、ムラサキケマン、カキドオシ、歩を進めながら次々と名を告げる。私はカメラを構えシャッターを押す。ああこれ、ヤマエンゴサク、さっきのジロボウとちょっと色が違うでしょといいつつ、だからさっきジロウボウエンゴサクをみておいたのよと口にする。

 右岸の少し広くなった樹林と河原の間に、踏み込まないようにテープを張り渡し、ぐるりと見て回る観察地が設えられている。花はないがニリンソウと明らかに違う葉のイチリンソウの群落がある。アズマイチゲ、ミヤマハコベ、ナツトウダイ、ミヤマカタバミ、葉っぱだけのウラシマソウも教わる。「キバナノアマナ探して」と師匠が言う。アマナのような葉を探せばいいかと見て回る。「あった、あった。これよ」と師匠は手を伸ばし、掬うように持ち上げる。何輪かある。ダラリと垂れた葉から伸びた茎下にまだ花が見えないのか終わったのか。一眼レフカメラを提げた男たち何人かとすれ違う。

 こんな辺鄙なというか、山でもない植物観察ルートの平日に、こんなに人が来るものかというほど、人影がある。しゃがみ込んで、これは**よとおしゃべりしている女性のペアもいる。一人はカメラをもって背を屈めている。

 追い越してゆく80歳近い年寄りが「何がお目当て」と私に聞く。「?・・・」と振り返ると師匠をみて「ああ、付き添い?」と言って、師匠に同じように尋ねる。何か応えて同じことを問い返すと、「キバナノアマナ」と言っている。「ああそれ、さきほどありましたよ」と師匠。ここに来るとソレがあると、知る人ぞ知る世界なのだ。師匠は花の咲いているもの、咲いていないが葉などを確認できるもの、見つからないものと分けてメモを取っている。向こうからやってきたのだろう6人ほどの高齢者グループが、広くなった日差しの下でお昼を摂っている。

 いつしか上の方に圏央道のこれから高尾山に突入するトンネルへの高架が見える。なんと2時間も歩いている。川向こうに特別養護老人ホームの建物があり、手前の高架下に広場があり、三々五々という風情でベンチも設えられている。お昼にする。右岸を歩いてきた7人くらいのグループも、離れた別のベンチを占める。この人たちも植物観察なのだろうか。広いから気にならないが、いつの間にか30人くらいになっていた。

 トイレを済ませて小仏へのバス道をしばらく歩く。その間にも、斜面を登りスミレを確認する。住宅の石垣に生えるオキナグサやフデリンドウを観ながら日影バス停の先から再び小仏川右岸への小径へ入る。コチャルメルソウ、ツルカノコ、レンプクソウとカメラに収めていて、妙な表示が出ていることに気づいた。えっ! 慌ててカメラの裏蓋を開ける。なんと、記録SDが入っていない。お遍路をしたSDの写真をPCに移したときにとり外して、そのままにしてしまったんだ。ははは、笑っちゃうね。

 川縁に突き出す岩の上にあるトウゴクサバノヲを教わる。進んでいると後ろから、「トウゴクサバノヲがあった」と女の人の声が聞こえる。振り返ると高齢のペアがやってきている。この右岸の道は一部崩れかけていて、師匠は「この先へはいかない」と引き返す。山ならば、これくらい何でもないと進むのだが、師匠は週末に案内する人たちのことをイメージしてルートを決めているようだ。

 小仏川を渡った橋の根方に戻り、その先城山へ向かう林道を進む。左側には城山から流れてくる小沢が流れ、右側は高尾山の山体が大きく起ち上がっている。両サイドに植物は繁茂し、それをいちいち見ながらスミレを探す。ヨゴレネコノメ、キランソウ、ラショウモンカヅラ、カテンソウなどを拾いながら、ヒメスミレ、ナガバノスミレサイシン、タカオスミレ(ヒカゲスミレ)、エイザンスミレ、マルバスミレを見つけ、ヒナスミレと思われるものを見つけたが、その葉の根形がくっきりと食い込んで丸くなっていないから同定できないという。そうか、こんな風に厳密に取り扱うから師匠としての権威を持っているんだと思う。また、アオイスミレの葉は見つけたが花が咲いていないのも、リストから除外している。案内する人の関心度合いを見極めて案内しているんだと、門前の小僧は奥行きの深さを感知して、黙ってついて歩いた。

 こうして、4時間半ほどの散策をして、日影バス停から高尾駅までのバスに乗って帰ってきた。13800余歩、10㌔余、2時間40分の散策であった。座らないで立っていたという

のが歩行時間だ。こんなにゆっくり歩いたのは、久しぶり。でも歩いた距離に比して草臥れた。面白い世界の入り口をみた思いだ。やっぱり門前の小僧だね。

2023年4月4日火曜日

あっ、これだ!

 1年前の、このブログ記事「自己限定したときの勁さ」(2022-04-03)を読んで、「あっ、これだ!」と思った。台湾の作家・李琴峰がウクライナへのロシアの侵攻に直面して「個人が国家に領有されている」と感懐を綴った文章。「自由」を信じていた「自分」が国家の所有物だったと実感させられた学校時代の軍事訓練を振り返って思い浮かべている。

《自由というものをひとまず、「何者にも領有され支配されない感覚」や「自分の生から死まで自分で決められる状態」と定義しよう》

 と作家は自己限定して語り出しているのだが、この感触は私たちが日本で感じている「自由」と同じようなものと受けとった。だから私は、「国家が(ワタシを)領有している」というのは、国家に囲われて生きてきた「自分」のデファクト・スタンダード(既に確立されている既定の事実)の(自己による)発見と読み取った。つまり、(領有されるのはいやだ、自由がいい)という感懐は、戦争状態、あるいは戦争予想状態(の軍事訓練)になって領有されるのではなく、自らの身体に刻まれていることの「発見」とみて次のように記した。

《いや、むしろ「自由」と「国家」への幻想を対立させて考えるより、国家の領有する身体という「事実」は、李琴峰の身に刻まれているはず。それをどう脱ぎ捨てて自由への信仰に飛翔したのか、そこを語らないと、ただ単なる自己規定(自己限定)した宣言でしかない》

《大切なのは、身に刻まれた「事実」をどう剥ぎ取って「自由への信仰」に至ったのか、そこまで言及しないと、人々へのメッセージとはなり得ない。ただ「信じなさい」という呼びかけにしかならない》

 と言いつつ、しかし、「自己限定したときの勁さ」をこの作家の文章から感じ取っている。これが、3月seminarで私が突き当たっていたモヤモヤ(3/27、3/28記事参照)と感じ、「あっ、これだ!」と発見したような気分だったのである。

 BBC東京特派員氏の感じた「過去にこだわる日本人の不思議」は、統治的にモノゴトをみる視線のもたらしたものと私が指摘したのに対して、トキくんは「オレはその時の感じたそのままを書いただけで、別に統治的にものをみたりしてないよ」と応じた。それに対して私は「そうですよね。その体に刻まれて意識されていない視線が統治的だということなんですよ」と応え、少し後で、「小中学校で教わりワタシたちの世界をみる理念にもなった日本国憲法もまた統治的な視線を国民に刷り込むものだった」と話した。たぶんトキくんは、強く非難されたように感じたのだろう、いつもはにこやかに別れの挨拶を交わすのに、黙って帰ってしまった。憤然として……、と私は感じた。

 もうひとつ、キミコさんの無邪気奔放な振る舞い。この作家の「自由」の自己限定の言葉、「自分の生から死まで自分で決められる状態」のように感じて生きてきたことが如実に現れていた。これが国民の身の裡に「統治的視線」を培うものであったとしても「日本国憲法の理念」によって私たちの身の裡に埋め込まれてきた感性の発露であったから、同じ空気を吸って育ってきた同窓同期のワタシたちにはよくわかる。その共感性の広がりが「勁さ」である。止めようがない。

 上記の二つ、トキくんの憤然とキミコさんの無邪気奔放とが、ひょっとするとseminarの意図してきたこと、自己を対象としてみて「日本人の不思議」を切り分けてみようという運びそのものを堰き止める役割を担った。そのことへの、ワタシの失望、慨嘆、でもそれもそうだよなあという(土台にある身の裡の)共感性に溶け込んでいく私の気分、それらの混沌とした感触が、傘寿を越えて(時代と人生を振り返る)「当事者研究」をするのはもう無理だと思わせたのだと思った。

 でも、1年前の記事を読んでひとつ「発見」があった。自分を対象として身の裡を見つめるということを、そうすることによって「他者」との(社会)関係を築くという風に、どちらかというと社会道徳的な必要からみていたのだが、そうではないと判った。我知らず、受け継いできたデファクト・スタンダードを切り分けてわが身から引きずり出すことによって、わが身の(無意識に)感じている「窮屈さ」の源に迫ること、これこそが、「自由」への第一歩だということに至った。作家の「自分の生から死まで自分で決められる状態」という「定義」も中空に浮いた「観念」である。その中空に浮いた観念自体を、社会関係の中に位置づけて動態的に捉えるところに、より「自由」の概念をわがコトとして捉える勁さがあると思う「発見」であった

2023年4月2日日曜日

ふらっと遍路の旅(6)神仏

 四万十町・窪川から西条市・壬生川まで歩くというのは、鉄アレイのような形の四国の西側の出っ張りを全部踏破することになるから、お遍路道全体の1/3ほどを歩いたことになろうか。海際まで迫り出した山を上り下りしながら太平洋を一望し、中ほどには豊後水道を目にし、後には瀬戸内海を眺めるという、四国の輪郭をたどりつつ、三原村という数少ない山間の「村」を経て、四国山脈の北側の久万高原へも入り込む今回のお遍路は、「遍路道」ならずとも日本の地理地勢を十分に感じさせる行程であった。

 本四架橋を三本もかけることはなかったという今治の古いホテル主人が昔日を思って慨嘆するように、いうまでもなく高速道が四通八達し、なおかつ鉄道が細々ながら生き延びて走り続けている姿は、人の暮らしの健気さと成長経済の習慣的見当違いを感じさせ、来し方行く末を考えさせるものでもあった。古い「遍路道」は各地で寸断され、掘り抜かれたトンネルでショートカットされている。

 山間僻地にまで行き渡る車道は、しかし、人の通過を促進したものの、地元に止まる若い人をことごとくといって良いほど地方中核都市や都会地へ吸収させてしまい、村に残るのは高齢者ばかり。まるでかつて栄えたという伝説的風情を語るようであった。久万高原を走り抜ける立派な二車線道路の高台、山の斜面に並ぶ家並みは、賑わいを見せるようにみえたが、大半は空き家。「50軒あったが、いまは10人だけよ。皆子どものところへ行ってしもうたわ」と、腰を曲げながらも、しっかりした足取りで散歩をしていたお婆さんが話す。

 そういえば、ネットで採った「お遍路地図」には各地に小学校や中学校の名が記されていた。だが、まだそう古びてもいない建物の小学校を脇を通っていても、子どもの声が聞こえない。「避難場所」に変わっている。中学校も統廃合で「空き家」になっている。バス停に立つ中学生が「おはようございます」と挨拶をする。聞くとスクールバスを待っていると話す。こうなるとますます若い人たちは、生まれ故郷に居着かなくなる。子育ても、もう少し子どもの多いところでと思うのは、親として当然の心情。こうして過疎は加速度的に進む。それをまざまざと見せつけられたようであった。

 思えば、私が小中学生の頃には、日本は人口が多すぎると学校で教えられていた。村ごと南米へ移民する船が出たとも報じられていた。その頃の日本の人口は8千万人くらいであった。それがいま、1億2千万人を切るようになるぞと人口減少が問題視されている。人口が減ると経済成長も規模が小さくなるというのだが、それの何がモンダイなのか。逆立ちしてるんじゃないかという疑問が、私の胸中には湧き起こる。高度消費社会というのがヒトの暮らしから離陸してしまったのか。

 ちょうどその季節でもあって柑橘類の収穫が行われている。「お接待」のところで記したが、大きなポンカンやデコポン、文旦などが「規格外」として捨てられるという。高度消費社会と謂われる時代の商品経済は、熟しているか、美味しいかどうかではなく、既定の箱に巧く入るかどうかが「規格」になる。大きすぎても駄目、小さいのも論外。こうして収穫の半分くらいが捨てられることになる。というか、都会地に運ばれることなく、地元の道路端の無人販売所に置かれる。大きな文旦が三つ300円とか、ポンカンが五つ200円とか、大きな蜜柑が袋いっぱいで100円と表示されておかれている。車は目にも留めず走り抜けている。「市場」と「交換」と「食べ物」とが噛み合わなくなっている。でもこれで「GDPの成長」を云々しても、果たして私たちの暮らしにどこまで影響するのかわからない。どこかでボタンを掛け違ったというか、商品市場だけを見てなぜその品を生産をしているのか見失っている。木を見て森を見ない。全体を見てとって考えていくテツガクを忘れてんじゃないか。いやそうじゃないか。根本をみる余裕もないほど、日常の稼ぎに追われているのか。そんなことを思いながら歩いた。

 もちろん、鉄道駅から5時間も掛かっていた山間部にトンネルと道路が整備され1時間で往き来できるようになったことは、人の交通ばかりでなく、品物の流通にも大きく影響し、暮らしを変えた。しかしその土建的成功をバカの一つ覚えのように土建業界を中心に相変わらず資本投下を繰り返すのは、目前の利権を保持しようとする業界経済の論理であって、何の為にそれをしているのかわからなくなっているんじゃないか。今治の宿亭主が「この上四国に新幹線なんていらないよ」と言うのを聞いて初めて、えっ、新幹線誘致なんて騒いでいるんだ。時代錯誤も極みだと思った。

 そうだねえ。高度成長の記憶が残像として残って、資本主義的市場経済が唯一の道と考えているのかね。グローバル化が日本経済に何をもたらしたか。失われた三十年というとき、なにが「失われた」というのか。そこを見きわめもしないで、ただただGDPとか成長率とか株価に目をやって、嘆いたりじゃぶじゃぶと紙幣を繰り出してきた。経世済民という根本を見失ってる。それも社会の構造がそうなっているのかと思うほど、それぞれの立場の人々の感性や思考に食い込んでいる。カネ、カネ、カネ。神も仏もあったもんじゃない。

 お遍路は、そういう風潮から取り残された社会を見ているようであった。そうか、それでお接待かとも思う。私は信仰心は亡いと分かったが、神仏のみて取り方を忘れたわけではない。大抵の札所には、すぐ近くや境内の奥に、神社がある。むしろ神社の方が大きな表示をしていて、札所が霞むようなお寺さんもあった。神仏と一緒くたにして皆さんは謂うが、私は別のことだと思っている。神というのは八百万の神、つまりありとある大自然に対する畏れと敬意を意味している。良いことばかりとは限らない。鬼神という如く、善いことも悪いことも人の意にならぬまま勝手に猛威を揮う。猛威の中には、生物の命を育み生長をさせる不可思議も含まれる。だから、その脅威を恐れるとともに畏敬してきた。

 では仏って何だ? その神々の勝手な猛威の下に暮らす人々に、その大自然をどう解釈するかを解くのが仏である。さらにすすんで、大自然の元で、その恩恵に浴しながら、しかし、気儘な大自然の振る舞いに右往左往し心揺さぶられて我を忘れてしまうヒトの生きる知恵を授けもする。修験道とか修業とか謂うのもどちらかというと、単なる大自然の解釈ではなく、それに翻弄されて生きていくしかないヒトの克服法を教え諭すもの。つまり理知的な大自然の認識は、同時に非力な人の力という実存を知らしめ、その立ち位置に応じた向き合い方の方法と限界を摑みなさいよと謂う智慧が、仏である。

 つまり神と仏では、解釈がどうであろうと揺るぎなく存在して私たちを包み込むのが神であり、その中にいて大自然全体の姿を仮構し、その中に人自らを位置づけて存在の仕方を教え諭すのが、仏。余計なことを謂うと、明治初めの廃仏毀釈は、神と仏が一緒では具合が悪いと見当違いをしながら、なお、神を唯一神として西欧の絶対神になぞらえた浅知恵の促成天皇信仰であった。その悪しき伝統を、一向に改めることなく、未だに堅持しているのが、靖国信仰とも言える。これも、この「くに」に暮らす人々の、身に染み付いた宗教的信条を国家が創ることができるという錯誤から始まっている。統治的精神が、逆立ちしているのだ。庶民大衆の身に染み付いた心情とそれを言葉にした信条とは、暮らしの中から芽生え、暮らしの中に根を生やし、暮らしをつくっていく形で再生されて受け継いできている。資本家社会的市場経済で席捲させてしまうわけにはいかない根っこを、普段の暮らしの中に持ってきてるんだよと四国のお遍路道は諭してくれるようであった。

 札所の数でいえば、残すは後、34ヶ寺。石鎚山の中腹にあるという横峰寺からの最後のお遍路区切りは、たぶんあと十日くらいで終えることができる。さて、いつ、それを終えるか。最後の香川県は「涅槃の場」と言われている。さて、宗教心のない私にも「涅槃」の境地は訪れるのであろうか。楽しみと謂えば、楽しみ、ちょっと怖いといえば怖い「お遍路」。私をよく知る友人は、♭(ふらっと)が二つの調性「変ロ」(変路)に代えて、もう一つ♭(ふらっと)が加えられる「変ホ」(変歩)になって、足を挫いたりしませんようにと揶揄っている。

 ま、それくらいの軽い気持ちで、そう遠くない時を見計らって出かけるとしようか。

2023年4月1日土曜日

ふらっと遍路の旅(5)お接待

 お遍路といえば、お接待。帰ってからも、「どんなお接待うけた?」と何人かから訊ねられた。もちろんあれこれをあげることはできるが、振り返って考えてみると、「歩き遍路」という放浪者の姿が、しっかりと四国の人々の暮らしに組み込まれていて、違和感なく受け容れられているのが、なによりの「お接待」に思えた。

 受け容れてくれる宿がある。それが先ず有難いと思いった。風呂を立て、洗濯ができ、布団に寝ることができる。疲れを取り清潔に身を保つ。もう野宿する力はない。それに加えて食事まで用意して下さる、片付けもしなくていい宿というのは、「お遍路」というより「旅」であった。二箇所では、お弁当まで用意してくれた。

 民宿からペンションや観光ホテルまで、また素泊まりからBB、即ち朝食とベッド付きから二食付きまである。素泊まりは、夕食と朝食を自分で持っていかねばならないが、ご馳走ばかりよりは、レトルトのお粥とか、ヨーグルト/牛乳とパンという質素な食事が胃腸を休める為にも良かったと思う。

 また、暖かいお茶のサービスが、歩いて乾いた身体に何よりの活性剤になった。歩いているときにはアクエリアスとかポカリスウェットとか水を摂るようにした。でもスポーツ飲料も甘くて喉に引っかかるようになり、水も力が抜けるようで美味しく感じなくなってくる。その時の喉越しの温かいお茶は、ほうじ茶や麦茶の方が緑茶よりもじわじわと細胞の隅々に行き渡って、疲れから恢復していく感触を味わうことになった。

 お昼が取れないことが多く、歩いている途中で頂戴した栗饅頭やどら焼きを食べたり、飴をなめてカロリー補給して済ますことが多くなった。朝夕をしっかり摂っていればお昼はその程度で済ませても何でもないと感じていた。一度だけ、歩き始めた所の「道の駅」でお弁当を買ったら、支払い担当の方が「浅漬け」のパック(200円)を同封してくれていたのが、後でわかった。お遍路傘を被っていたからであろう。ああ、こういう気遣いがさらりと為されるんだと食べながら感嘆したことを思い出す。

 お接待カフェがあるのも分かった。足摺岬から竜串の方へ海沿いに歩いて松尾の古い遍路道へ踏み込んだ五日目、声をかけられ振り返ると道沿いの家から顔を出した古希世代の方が「コーヒーでも飲んでいかんかい」という。まだ9時頃だったと思う。扉が開けられ、かつては食堂でも営んでいたのか、土間にテーブルと椅子が置かれ、ご近所の方も座っている。コーヒーをご馳走になり、どこから来たか、なぜお遍路に出たかあれこれ訊ねられ応えていると、また一人若いお遍路が入ってきた。先程から私の先になり後になり、歩いていた方だ。このカフェの方とは顔見知りらしく、「あんた何回目かな」と声をかけている。8回目だそうだ。へえ、こんな若い方が8回目となると病膏肓にいるってところだな、何か深いわけがあるんだろうなと思う。被り物をとると彼は、頭を丸めている。何だお坊さんか。「あんたまた今度も剃ってきてるんか。感心やな」とカフェの亭主は口にする。お坊さんではないらしい。重い荷を背負って野宿をして歩いている。コーヒーをご馳走になり、じゃあこれも持っていき、足しになるやろと、お菓子のパックをあげている。私にもどうぞといったが、荷物になるからと丁重に断った。このとき私のルートは高い峠を越える、難儀やでといろんな「遍路情報」をくれた。野宿の彼は、峠を越えない東側へ戻る道を取るといっていた。なるほど地図を見ると、海に突き出した半島がくびれていて距離的にも短くなるとわかる。

 今治の古い素泊まりホテルのご亭主も、手書きの、今治市内のお遍路概念地図をつくって、道を教えてくれた。これは新しい道が作られ入り組んでしまった道筋を朴訥にまっすぐ行くと次の札所に行けるという極意を秘めていて、面白かった。こういうお接待もあるのだと、後になって気づいた。

 呼び止められてお接待を受けることは何度かあった。軽トラが止まり、水のペットボトルを貰ったこともある。ダンプを止め、缶コーヒーを手渡し、気をつけてねと言葉を掛けてくれた運転手もいた。13日目に久万高原の山中を歩いていたときには25トントレーラーを路肩に止めアラフォーの運転手が温かい缶コーヒーを手渡し、暫くおしゃべりをしたこともあった。コロナ禍やロシアのウクライナ侵攻があって木材の国際的流通が妨げられ、国内の木材需要が急増し、バイヤーはウハウハだと笑っている。大型のトレーラーの数が足りず、彼は仕事に追われているとか、この25トンの木材チップは製紙工場の原料だとか、原料の買い入れは水分を取った実重量、10トンになってしまう。水を運んでいるようなものだと、自嘲的に笑う。四国山脈の山奥にもこうして世界情勢がビンビン響いているのだ。

 宇和島の車道を歩いていたお昼を少し過ぎた時間、うどん屋を見つけた。入ると一人女性が食事をしている。その人の向こうの席に背を向けて座りきつねうどんを注文した。5時間ほど歩き続けていたから私もすっかり草臥れている。うどん屋の女将がどちらからと話しかけ、背中の女性も「わたしも仕事に区切りがついて回りはじめたんよ」と話しかけ、「はあそうですか」と力の無い返事を交わしたが、背中の方が「お接待させていただきます」といい、女将があの方が支払ってくれましたと言うのを聞いて、えっ、そういうのってあるのかと、初めて自分の迂闊に気づいた。女将に聞くとその女の方は最近退職してお遍路を(区切りながら)はじめたらしい。如何に世間話が苦手とは言え、背中の方へ向かって「ありがとうございます」という言葉だけを返して済ませたのは、いかにも粗忽。どうして回っているのかと聞くべきじゃなかったのかとワタシの粗末さに、あらためて気づかされた。

 松山市内の52番札所・太山寺の傍で車を止めた60歳くらいの女性から、お接待を受けた。300円と飴三つ。53番札所の本堂天井にある龍の一木作りを見ていけという。本堂の正面にそれを写真に撮った「案内」は目にしたが、覗き込んでも暗いところに不自由するようになった私の目には、見つからなかった。

 松山市の北端、北条の町に近い宿の手前5キロくらいで、床屋に入り髪を切り髭を剃ってもらった。6時間ほど歩き続けすっかり疲れていたのであろう、散髪をしている間の1時間ほどウトウトと休み、気力を恢復したこともあった。髭をあたり肩をもみほぐして散髪が終わった後、缶コーヒーでもとお接待を受け、ソファに座らせて貰って飲ませて貰った。その時の柔らかな応対も「お接待だったなあ」といま思い出す。

 歩いているときにポンカンを貰ったり、文旦やデコポンをいくら食べてもいいよと出してくれた宿もあった。高知も愛媛も、柑橘類の栽培は盛ん。ことに商品として出すものを仕分けした後の大量の規格外品は、大きすぎたり小さすぎたりするだけ。味に問題はないのに捨てられるのかもしれない。歩いている途中で「いくつでも持っていって」と言われても、荷になるから三つが精一杯だったが、美味しかった。

 道に迷っているのに気づいて教えて貰ったことも二度あった。というか、基本的に歩き遍路は(どこのルートを取っているか勝手だから)放っておかれるのだが、明らかにうろうろしているとわかるのであろう、次の札所の寺を口にして「こっちだよ」と指さしてくれることもあった。一度は、「お遍路道→」が、古いトンネルを抜ける最短距離を取っていないと思い、車道沿いに歩いていたのだが、飲み物を買おうと入った雑貨屋の主人が「そのお遍路道なら山越えで7㌔だが、こちらは山裾を回り込むから14㌔になるね、ははは」と笑っていた。いまさら戻るわけにも行かず、歩き通して41㌔/日と言う最高記録を出した日のことだ。

 そうそう、一つ不思議に思うことがあった。コロナ禍に振る舞われる「地元クーポン」。「ワクチン接種3回以上してますか」と聞かれ、照明を見せると宿泊料は2割引になり、地元で使えるクーポン券を2000円分もらえるというもの。高知県で2回、愛媛県で2回もらった。ところが予約のときに「ワクチン接種」のことを聞かれ「証明は持ってます」と応えたのに、フロントでは「電話予約の方には適用していない」といわれたことがあった。「えっ。どうして?」と私が聞いたものだからフロントの女性は裏方へ姿を消し相談したのだろう、「特例」としてクーポン適用してくれたことがあった。また、「じゃらんとかJTBとか業者を通して、インターネットで申し込んで貰わないと適用しない」というホテルは複数あった。どうしてなんだろう。何も言わないのに、クーポンを出してくれたところが、民宿もホテルでも(19日のうちの)4回あったことも逆に、不思議といえば不思議になる。この旅支援制度は一体どういう風に運用されているのだろう。いちいち調べる気にもならないが、旅行業界の大手支援制度かいなとか、デジタル世代のみが利用できる制度かいと思ったりもしたのであった。アナログ傘寿の愚痴である。

2023年3月31日金曜日

ふらっと遍路の旅(4)危険

 ただただ歩くだけなのに、身の危険を感じることがあった。その一つは、車とトンネル。恐らく9割以上、国道か県道を歩いていたのだと思う。高知県も愛媛県も、大きな車道にはたいてい、歩道というほど広くなくても歩行者の歩けるスペースが設えられていた。道路の広さにもよるが山間部を抜ける車道では、左右のどちらかにある。道路建設の地形的な関係でそれが、左側から右側へ、あるいは逆に、と代わる。その代わる所には横断歩道が記されていて、歩行者が渡るような気遣いが為されている。

 だが、山肌に沿ってカーブしながら走る山間道で車が止まってくれることを期待しても、ほぼ無理。ま、というほど車の通行量が多くはないから、それほど気にならなかった。むしろ私自身が考え事をしていたというか、歩くのに夢中で、「歩道」ということを意識しないで、気が付くと歩道ではない側溝の上を歩いていて、歩道が入れ替わっていることに気づかないことが、何回かあった。

 それとは別に2回、身の危険を感じたことがある。1回は歩道のないトンネル。昔の狭いトンネルをそのまま使っているのだろう、側溝だけで歩道がない。上下二車線の向こうから来る車のシルエットはトンネル内の灯りに浮かんでみえる。ところが、トラックが来ると車線いっぱいに広がっている。私が身体をトンネルの壁に押しつけるようにしてやっと車を躱せるかなというほどしか余地がない。そこでトラック同士がすれ違うことになると絶体絶命だなと思うようであった。だがそこがお遍路。大きな笠を被っているこちらのシルエットもみえるのだろう、正面から来るトラックが止まる。後ろから轟轟と音を響かせて(たぶん)トラックが来ているのであろう、待っている。当然私も壁にへばり付いて待っている。トラックがすれ違い、正面のトラックは大きく対向車線にはみ出して私とすれ違う。そんなことがあった。

 もう一回は、歩道というほどではないが、幅50センチくらいの側溝の水抜きと歩道とを兼ねた設えのトンネル。そのトンネルの中ほどの照明が切れている。行く前に私は懐中電灯をリュックに入れてはいたが、電池を抜いてある。トンネルの途中でリュックを降ろして電池を入れるのは面倒。だが、暗い所をどう通過するか。私は金剛杖は重くて持てないが、代わりに軽いストックを二本持ち歩いた。お接待のときにノルディックスタイルですねと揶揄われたが、いや80歳ともなるとバランスが悪くてねと遣り取りした。そのストックの片方を、トンネルの壁の一番下、20センチくらい高い擬歩道との接点に当て、別のストックを擬歩道と道路との段差に当てて、その間をゆっくりと進む。前から車でも来てくれれば足元がみえるのだが、そういうときに限って一台もやってこない。恐る恐るゆっくりと歩を進めた。この時くらい、ワタシが目に頼る暮らしにすっかり依存していると思ったことはない。昔灯りが今ほど豊かでなかった頃には、トンネルといえば暗いのが当たり前であった。そこをどう歩いたのだろう。そもそもトンネルに灯りがあって当たり前になったのは、ほんの21世紀になってからではないかと思うほどだ。それ以前は、暗闇でも感じ取れるほどに、耳や皮膚の感覚が鋭かったのではないか。明るい日常の中で、ヒトはどんどん感性を変えてきてしまったと、昔日の「ふるさと」を思うようにわが身の変容を思った。

 お遍路がほぼ全部「歩き遍路」であった頃は、遍路に出る方も送り出す方も、永久の別れと思っていたそうだ。中には、姥捨てと言われては風が悪いから遍路へ送り出す、まさしく片道切符の片路道だったとしるされていたことも、どこかで読んだ覚えがある。行き倒れである。88番札所にはいまでもそうしたお遍路さんを供養する無名の墓があり、それを守り世話をしている方をTVが報じていたこともある。今治の五十何番目かの札所の遍路道を歩いているとき「四国遍路無縁墓地」と記された2メートルほどの高さの墓柱が立てられ、その脇に十いつくかの小さな石の地蔵が置かれ、まわりには花や木が植えられている、奥行き一間、幅四間ほどの土地があった。周りは住宅地。ご近所の方が世話をしているのだろう。

 今回も私は宿を確保して経巡ったが、野宿のお遍路も少なからず目にした。たいていは大きなザックにテントや自炊の用具を入れているのであろう、ゆっくりと歩いている。最初に出逢ったのは30歳くらいの若い男だった。愛媛の45番札所へ向かっているときには「逆うち」と呼ばれる反時計回りに札所を経巡っている野宿のお遍路さんにであった。この方は私と同じくらいの年齢ではなかったか。実はその頃既に私は、歩くのが人生ただただ歩くのが遍路と思っていたから、何度もお遍路をする人の心持ちが少し判るように思っていた。つまり、繰り返し繰り返し、ひたすら歩く、それには札所という「導き」のある方が煩わしくない。お大師さんに惹かれて歩くってこういうことなんだと、私も思っていたから、「逆うち」のお遍路さんに出逢って、究極はこうなるんだと感じ入って、少し言葉を交わしたりもした。これは、行き倒れるまでお遍路を続けるということに外ならない。無縁墓地となるかどうかはわからないが、死ぬまで生きるという意味では、ついにお大師さんと出逢うまで歩き続ける人生そのもの。案外信仰の精髄なのかもしれない。

 お遍路かどうかはわからないが、ベッドくらいの大きさの曳き手の着いた台車に荷物を載せ、歩いてくる人とすれ違ったことがある。40歳くらいの男性。別の日には同じように歩く還暦を過ぎの男性も見掛けた。そのうちのアラフォーの方とは立ち話をした。野宿をして(お遍路とは逆に)回っているという。脊椎のすべり症という持病で歩ける身体はもう限界。歩ける今のうちに歩いておこうと四国の輪郭をたどるように隅から隅へと回っているという。これも、今風お遍路じゃないか。私は「野ざらし紀行」を思い浮かべて聞いていた。

 危険といえば、今治の宿がそうであった。今回遍路の旅のラス前の宿を今治ステーションホテルにとった。その名からして、今治駅のすぐ傍とみた。ここで帰りのJRの切符を買う。最終日は今治市内の一番東の端か西条市に宿を取り、ゆっくり骨休めをして翌々日の西宮での法要に出かけるという算段であった。ところがその日、35㌔を歩いて今治駅のすぐ傍に着いてみても、目的のホテルがない。Google-mapのスマホ案内は「目的地に着きました。案内を終了します」と言って沈黙してしまった。えっ、こりゃあ、どういうことだ?

 近くで建物の内装工事をしていたお兄さんに訊ねる。彼は自分のスマホを取り出し仕事を中断して、「こちらですよ」と先に立って案内する。先程私が立っていたところへきて、「えっ、ないよ。ここ」と平地になっている所を指さす。小さく出ている看板をみると「改築工事中」とわかる。じゃあ、4日前に「予約した」ときの遣り取りは何なんだ?

 スマホに記録していた電話へかけると、相手はちゃんと出る。状況を話すと、「改築中っていったはずです」という。鉄道で隣の西条市まできてくれ、そちらで宿泊の用意をしていると返事。冗談じゃない、こちらは歩き遍路だ、初めからそれがわかっていたら、予約はしないよと怒るが、向こうさんは「言ったはず」と譲らない。そんな口論をしていても拉致があかない。キャンセルして、宿を探そうと駅へ行く。ステーションホテルっていうのだから駅に責任があると感じていたのだろうか。今考えると可笑しい。観光案内所を紹介してくれる。

 ところが今治市というのは、三番目の本四架橋「しまなみ海道」の四国側の起点。乗り捨てることができるというので、サイクリングで賑わう。コロナ禍の往来自粛が解禁となって、外国人がわんさと押しかけている。宿はどこも満杯と観光案内所は話して、駅近の第一ホテルを紹介してくれた。いやはやラッキーであった。素泊まりだが、泊まることができ、予定通りの運びに辿り着いた。もし宿がなかったらどうしたろう。駅の待合室で野宿でもしたろうか。それも変ロになって面白かったかもと思わないでもないが、齢傘寿にしてそういう冒険は、少し無理かなと思うようになっていたのでした。

 おっと大事なことを忘れるところであった。今回のふらっと遍路の旅は高知の窪川から歩き始め、足摺岬を目指して太平洋の南東に面した四国の輪郭をたどったのだが、時も時、3月の上旬、(2011年の)3・11の直前であり、かつ、南海トラフ地震がいつ起こっても不思議ではないと報じられていたこともあって、最も高い津波が襲ってくると想定されている黒潮町などの通過地点はピリピリと緊張した雰囲気にあった。歩いている道には「ここは標高*m」と記す看板が立てられている。宿の79歳の亭主も、「35mもの津波って、いったいどこに逃げればいいのかわからないよ」と溜息をつく。避難場所とされている(車でも上がれる)すぐ裏の山の標高は20mくらい。35mの津波となると、その北側にあるもう一つの山、と指さして、そこでなくては避けられないが、車道はないと愚痴る。宿のTV番組は、シミュレーション画像を取り入れた「もしもドラマ」をみせて警告しているが、海辺にまで迫り出している山の「避難路」は、果たして20分くらいで辿り着けるだろうか。そのピリピリは、四国の南へ向いた海辺の輪郭を離れて山道へ入るまで続いた。

 山を越え、宿毛を過ぎてまた、豊後水道に面した愛媛県へでてやっと、35mの「脅威」から解放され、20m程度の緊張へとほぐれていった。なにがワタシにピリピリした緊張をもたらしたのか。シミュレーションの予測する津波の高度が想像力を経由して身に響いたのであろうか。道路沿いに立てられた標高や避難路という警告表示看板の数がワタシの身に伝わっていたのだろうか。瀬戸内海に面した松山市に入った頃にはすっかり南海トラフのことは忘れていたのは、地震による津波が瀬戸内に回ってくるには時間がかかり、高さも10m程度になるというのが安心に変わったのか。それとも瀬戸内という子どもの頃から馴染んだ地理的感触が「危険」とか「逃げ道」というのを摑んでいるからなのか。ワケはわからなかったが、身体から遠ざかっていったのは間違いない。「想定以上の津波」と考えて行動せよとTVは警告していたが、身体そのものが感知しているものを、理知的に頭で動かそうというのは、「訓練」しかないのかもしれない。

 いつも「もしも」をかかえて暮らすというのは、ストレスがかかる。海辺に暮らす人たちは古来からどうしてきたのだろう。ひょっとすると「仏教的な諦念」が心落ち着かせ、万一の時は「仕方がない」と肚を決めることによって日常を営んでいたのかなあと思いながら歩いたのであった。 

2023年3月30日木曜日

ふらっと遍路の旅(3)体調

 歩くときいつも体調を気にしていた。国道や県道沿いを歩いたことも関係していようが、ああ、これは危ないかもと思ったのは、気管支が傷んだことだ。咳き込む。疲れを感じる感官が鈍っていて、オールアウトになるまで歩いてしまう。去年がそうであった。お遍路から帰ってきて二、三日は何もする気にならず、ボーとして過ごした。年をとるってことは、そんなにも全体的に劣化するのだと肝に銘じている。それが何日目に出てきたか、もうすっかり忘れたが、二度ほどあった。

 歩きながら感じていたのは、胃腸が丈夫なこと。宿で出される食べものはいつも完食した。美味しかったこともある。これはちょっと量が多いなと思ったこともある。だが、こいつを消化できなくなったら歩くのは無理だと自分に言い聞かせて、全部食べるように心がけた。

 何より毎日宿に到着して少し休むと、すっかり脚が草臥れていることがわかる。足裏はヒリヒリし、腰掛けていたら、次に起ち上がるとき、ふらついて仕舞う。腰に来ては大変と思っていたから、腰痛ベルトをいつも締めていた。たぶんそれに扶けられたのだと思う。そうそう、ズボン下のようなつもりで筋肉補助スパッツをいつも履いて歩いたのも、大いに扶けになった。それでも、それを取ると身体を真っ直ぐ立てていることが覚束なくなり、用心して歩くようにしていた。

 幸いにも殆どの宿では、着くとすぐに風呂を立ててくれた。汗を流し、脚を伸ばし、足裏を手でほぐしてやると、強張りが解けてくる。足裏の三箇所が堅くなり、これで翌日歩けるだろうかと心配したことは、毎日のようであった。にもかかわらず翌日朝には、それをすっかり忘れるほど脚の疲れは回復していた。これは有難かった。

 遍路のお接待をしている人が明日のルートを聞いて、えっ? あの峠を越えるの! と驚きの声を上げる。でも三原村の民宿に予約しているから(そこを通るしかない)というと、前夜どこで泊まるかと聞く。ルート沿いの民宿はほとんど「おかけになった電話番号は使われていません」というアナウンスで拒まれ、お遍路地図上のホテルも「風呂が壊れてねえ」といわれ、近くのもう一軒の海沿いのホテルを紹介してくれた。そのことを話すと、それじゃあ4㌔も外れるから往復8㌔もよけに歩かなくちゃならないと心配してくれた。峠というのは、今ノ山864mの肩を越える立派な車道。クネクネと山肌を縫うように高度を上げ、標高670mの峠を越える。山を歩くとき、高度百メートルは平地の1㌔と換算していたから、その日の行程29kmに6㌔くらい加えた歩行距離になったと思う。足摺岬の東、竜串の海を望むホテルから峠を越え、標高150mくらいの三原村に入ったのだが、天気は快晴、暑いというほどでなく、今みると時速4.9km/hで歩いている。山には強いのだと思った。

 そうだ、3/11、41㌔歩いた日のことだ。宇和島の街中のホテルに泊まり風呂に入って汗を流していて、鏡に映るわが身体の鳩尾の辺りに横に長く赤い斑点があるのに気づいた。痛くも痒くもないが、発疹だ。思い出したのは25年も前の帯状疱疹。その時は熱も出て痛みがひどく、近所のクリニックに一晩入院して点滴をする羽目になった。えっ、歩いていてあんな痛みが起こったらどうしたらいいんだろう。看護師をしている知り合いにメールを打ち相談したら、こんな発疹かと、写真が送られてきた。そうそう、それよりももう少し横幅が広く繋がっていると応答したら、帯状疱疹かもしれない、疲れが出ると発症するからねと悠長な応答。じゃあ、熱や痛みが始まったら救急車を呼ぶわと返事をしたら、「帯状疱疹で救急車を呼んだりするもんじゃない。今、救急車はそれどころではないのだから」と叱られた。幸い発疹はそれ以上大きくならず、たしかに疲れが軽いとやや小さく凋んでいくようにみえた。やれやれ、であった。

 疲れの恢復に睡眠が大いに役立っていると感じた。宿に着き風呂に入り、洗濯などをして、夕食は6時頃から。それが終わると後は寝るだけ。終わりの方にはWBCをやっていたが、観る元気はない。結局7時半くらいから5時、6時までぐっすりと眠った。一度のトイレに起きないこともあれば、二度ほど起きたこともある。水分摂取が足りなくて便秘になるんじゃないかと心配したが、朝夕にせっせと水分を補ってなんとかクリアした。毎日10時間は眠ったろうか。山小屋やテントでの寝泊まりに慣れていたこともあろうが、正体なく寝る技が身についているんだとわが身を発見した。

 普段家に居るときには、起きている間の殆どをパソコンの前にいてタイプしているか、本を読んで過ごしている。何もしないで過ごせるだろうかと、行く前には心配して、小さなタブレットをもって歩いて日々の記録でも書き残そうかと思わないでもなかったが、荷物になるので、持っていかなかった。それが正解であった。もちろんいろんなことを忘れちゃ困るからスマホで自分宛のメールを打った。夜中に目を覚まして2時間くらいそうして過ごしたこともあったから、10時間全部を睡眠に使ったわけでもない。何も書かなくてもちっとも退屈しないことも判った。案外ワタシはシンプルにできている。ボーッとしていてちっとも退屈しない。これって、年寄りの特権なのだろうか。

 そう考えてみると、去年「飽きちゃった」と感じたのは、なんだったのだろう。ワタシの欲望というか幻想がつきまとい、それが満たされないことが「飽きちゃった」という表現をとったのだろうか。そんな気もするし、そうじゃないのかもしれないとも思う。ともかく今年は「飽きも」せず、坦々と歩けたわけだ。

 そうだ、帰って後に計った体重だが、僅か1㌔減っただけであった。ところが、体重計が表示する「体内年齢」は相変わらず「65歳」のままであったが、「足腰年齢」は5歳若返っていた。体脂肪を良く絞って筋肉に代えたってことか。よく食べ、よく寝て、良く歩いた。お大師さんに感謝しなくちゃならない。

2023年3月29日水曜日

ふらっと遍路の旅(2)歩く

 信仰心がないことがわかり、気が楽になって、歩きに歩いた。といって歩くことをもっぱらにしたわけではない。去年の「ぶらり遍路の旅」のことがあったから、出発前には、疲れを残さないように考えて計画した。去年は、16日間で422km。ほぼ26km/日であった。疲れは残ったものの、これくらいは歩けるが、これくらいが限度かなと思っていたから、平均して25km/日の計画というわけであった。

 ところが実際に歩いてみると、19日間、575km。30km/日というペースであった。計画より2割多い。去年はしかし、途中で飽きが来て区切りを付けた。今年は知り合いの法事があって、最初から19日間で区切ると決めて臨んだ。いやじつは、19日間の途中で飽きが来たり、草臥れてどこかに逗留したりするんじゃないかという心配をしていた。それなのに、このハイペースは、何だ? 

 信仰心がないんだという「覚醒」がひとつ目、ワタシは歩くだけでいいんだという「悟り」が二つ目。そう思ったことが、歩く秘訣といえば秘訣であった。それ以外には、靴を変えた。去年は軽登山靴であった。いや今年も直前まで同じ登山靴で行こうと思っていた。だが、去年、お遍路から帰ってから手に入れたウォーキングシューズが、巧い具合に足にフィットする。たいした山道があるわけじゃないから、こちらの方がいいかもと出発の玄関先で考えて、その軽い方にした。それが、当たったといえば当たった。

 靴擦れが6日目に起きた。去年は4日目に靴擦れの水疱が足指の間に二つ三つできて、針と絆創膏と小さい綿とテープを同宿者に貰って、難なくクリアした。今年も同じように足指の間に二つでき、それは去年同様に処置してその後何の問題もなかったのだが、もう一つ右親指の付け根の上にできた水疱が面倒であった。何でこんなところにとはじめ思った。ほかの水疱と同様に処置したが、その後も踏み出す時に折れ曲がる靴の、その部分が当たって痛みが走るんじゃないかと気遣いをする必要があった。痛かったと言うよりもその気遣いに草臥れた。とうとう13日目の宿出発の時にフロントの方に相談したら、消毒とオロナイン軟膏を塗って処置してくれ、その後すっかり解消した。それもあって、毎日ウォーキングシューズの紐を解き、毎朝出発の時に結ぶという手間暇をかけて足と靴との相性を調整することにも気を遣った。

 距離が伸びたわけを考えてみると、ひとつは宿が休業していたり廃業していたり、なぜか電話が通じなかったりして、予定通りに運ばなかったことがある。もう一つは、「遍路道」の地図にある四万十川河口の「渡し船」を使おうと思ったら、もう半世紀前に廃業していた(といわれていたが、実は復活し、予約電話を入れれば使えたはずと、後に聞いた)ということもあり、上流の橋まで7kmほども遠回りをしなければならなかったというアクシデントもあった。もう一つが、「古い遍路道」をたどったために、トンネルを抜けると短縮できたのに遠回りになったこともあった。それがあったため十日目、逆に、「遍路道」を避けて国道をたどったせいで、(後で聞くと)山を越えていれば7kmのところを、15kmも遠回りをしてしまったヘマもあった。この時は、なんと41kmも歩いていたのだが、それほどの距離とは思わないほど疲れを感じなかった。

 信仰心がないというのを去年は、これじゃスタンプラリーではないか、何をやってんだワタシはと慨嘆したのであったが、今年は、信仰心のない私にとってはスタンプラリーでいいのだ、歩くことがわたしの人生なのだと「達観」したことで、心裡のざわざわはなくなり、気持ちよく歩くことができたと思っている。本当に人は気の持ちようで、身を処すことができると体感した次第であった。

 違いを探るために去年と今年の歩く距離と日数を出した。

歩距離/日(km)   今年(日数)  去年(日数)

 35km超             5日         1日

 30km超             4日         0日

 28km超             4日         7日

 25km超             4日         4日

 21km               1日         1日(17km)

 11km               1日         1日(13km)

 歩数計がGPSで計測した歩行総時間は、今年は114時間と6分、去年は92時間46分。歩いた距離を時間で割ると、今年は時速5km/hだが、去年は4.5km/h。去年重い荷物を担いでいたことを考えると、さもあらんと思う。今年歩くのが軽くなったというのは、やはり「悟り」を開いた御蔭というべきか。