2023年6月10日土曜日

お知らせ

 お知らせ

 このブログ制作者のPCが先月下旬から故障し、記事をアップできなくなりました。つきましては、下記のサイトに統合して継続することにしましたので、恐れ入りますが、そちらをご覧くさだるようお願いします。PC故障の顛末や今も四苦八苦していることも記しています。長くご無沙汰していたことをお詫びします。

 https://blog.goo.ne.jp/fjtmukan

 なお、上記サイトは継続しますので、今後ともよろしくお願いします。

2023年5月23日火曜日

「まつりごと」が日常になるには?

 ゼレンスキー・ウクライナ大統領が突然訪日したことで、一挙にG7に衆目が集まり、評判が上がりました。御膳立てをした岸田首相は助演男優賞という格好です。評判のお裾分けなのに支持率が上がって、早速解散の話に政界雀たちは囂しくおしゃべりをはじめました。でもなぜゼレンスキーの来たことが、私たちの関心を惹きつけているのでしょうか。

 日々攻防が伝えられる戦場の最高責任者がやってきたという野次馬の目が大方を占めていると私は感じます。どうやって来たのだろう。飛行経路を秘匿してやってこられるものなのだろうか。フランス政府の専用機を借りていたいうが、飛行途中で(ロシアやそれに味方するどこかが)それを撃墜するというのは、明らかに第三次世界大戦の引き金を引くことになる。この来日のさまが劇的ではないかと興味関心を惹き寄せる。

 何をしに来たのか。当然支援をより鞏固に取り付けるため、兵器・弾薬をより多く援助願いたいため、できればこれまで中立的立場に立ってきたグローバルサウスの国々もウクライナを支援するように願いたいため。リモートでG7に参加するといっていたけど、実際現場に足を運んで顔を合わせる方が間違いなく「効果」的だ。いかにも元俳優だっただけのことはある。

 でも、野次馬の日本人が・・・と考えていたところへ、TVの画面から「広島の人たちにとっては・・・」とゼレンスキーの原爆資料館などの訪問を報道するアナウンスが続き、おやおやヒロシマもついに「広島の人たち」のことになっちゃったのかと、当事者性の狭くなったことに気づかされた。ヒロシマの人たちとしては、78年前の広島と現在のウクライナを重ねてみていたでしょうし、ゼレンスキーは現在の広島を復興ウクライナの将来に重ねて言葉にしていました。そのズレが懲りない人類史を著しているようでした。

 それで気づいたのですが、G7の首脳たちを案内した広島・平和公園の戦没死没者慰霊碑が、あなた方を待っていたのよと語りかけているように思えました。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しません」という碑文は「主語が曖昧」とか「原爆を落とされた日本人が口にする言葉じゃないだろう」などと非難を受けていました。でも、G7の首脳が口にする言葉としてなら相応しい。主語が曖昧なことを特性とする日本語が実は、人類史的な「反省」を表現していたということが浮き彫りになりました。だがね、G7の首脳たちが裏表なくこの碑文のいうように振る舞ってくれればですがね。

 広島という平和を願う地で兵器調達の話をするのは似つかわしくないという意見もTV報道は伝えていました。どうして? と思いますね。G7に要望するゼレンスキーの兵器支援要請は、文字通り直面するウクライナの戦争を戦前前の状態に戻す。ま、クリミアをどうするかで子細の差異は生じるでしょうけど、大雑把には昨年の2月22日以前の状態に戻れば、ロシアとの和平交渉にウクライナも同席することになるでしょう。先ずロシアが撤退すること。逸れなくしてウクライナに譲歩を迫るとすると、中国の台湾侵略は止めようがありません。ここで俄然私は、当事者になったように思います。ウクライナの趨勢が、台中関係の帰趨を制することに直結していると私は考えています。もちろん私のウクライナ贔屓を隠すつもりはありません。ウクライナの人々は、日本の私たちと似たような暮らしのレベルを持ち、似たような社会習慣の上に日々を送っていたと感じているからです。例えば日本の沖縄や南西諸島に、かつて宗主国であったからといって中国が軍を派遣するようなことがあれば、如何に何でもそれは許せないと戦うしかないと思っています。ウクライナに於けるロシアの立場を少なくとも侵略開始前に撤退させることができないでは、台湾どころか沖縄さえ日本は、護ることができない。そう思います。切実な当事者です。そういう意味で、ゼレンスキーの訪日は的を射ていたし、それが広島でヒロシマとイメージを重ねてG7首脳に要請したこと、インドの首相と会談したことは効果を持つと感じました。

 こうやって、当事者性をきっちりと位置づけていさえすればいいのですが、巷の評判がもっぱらドラマをみている観客としての視線で形づくられるのはどうなんだろうと、判断を保留したくなります。いやそれでも、ウクライナへの心情的な共感は身の裡に培われているよといえば、そういうものかと思わないでもありませんが、野次馬では矢っ張り力になれないのではないかと心配です。

 そういう意味では、ブラジルの大統領が「待っていたけどゼレンスキーが来なかった」と会見しなかったことを「残念がって」いましたが、第一報は、ルラ大統領がゼレンスキーとの会見場に現れなかったというものでした。どちらが真実か分かりませんが、ロシアの言い分にも耳を傾けろと常々主張してきたブラジルの大統領ですから、ゼレンスキーもぎっしりつまった日程を無理して開けてでも会談しようとしなかったのかもしれません。

 ただルラ大統領が、「G7の場ではなく国連で話し合うことでしょう」と言っているのは、「正論」でしょう。だが国連総会でロシアの撤兵を決議しても、どこ吹く風のロシアです。そもそもウクライナに兵を進めたのが、国連憲章違反ということもブラジルの大統領が知らないはずはありません。国連がもはや調停や調整で力を持たないことは、誰もが知る事実です。つまりルラ大統領にすれば、言ってみただけだったんでしょうよ。これは、偏狭になるかどうかではなく、どういう位置でこのモンダイの当事者なのかを明確にさせないと遣り取りできないことだと言えます。

 さてG7は終わり、それぞれの日常へと首脳たちは戻っていきました。ゼレンスキーは無事に戦場へ戻ったんでしょうね。お祭り騒ぎをして、後はまた日常が戻ってきたというのでは、G7は(私たち庶民にとって)文字通り「政/まつりごと」。庶民にとってはハレの場、選挙と同じでちょっとした気晴らしの時を過ごしたに過ぎない。そうそう、消費したってわけさ。「政/まつりごと」が庶民にとって日常にならない限り、庶民が政治の当事者になることはない。そう見切ったワタシが、今も私の身の裡に潜んでいます。

2023年5月22日月曜日

気分が左右している政治動乱

 安田峰俊『八九六四――「天安門事件」から香港デモへ[完全版]』(角川新書、2021年)を読んだ。天安門事件といえば中国民主化の兆しと受けとっていましたから、その弾圧やその後の権威主義的統治の推移を見ていると、民主主義香港の圧倒的制圧とか台湾侵攻の危うい動向も一連の情勢として視野に入る。それはまた、天安門事件のことを概念化することになります。大きな潮流の中においてみると、あの時中国は現在の統治体制へと舵を切ったとみえ、翻って中国の民主化は、あの事件の時にアメリカが経済的関係の利害から中国を見ていて(民主化を)見誤ったと受けとってしまいます。そうやって私も、天安門事件のことを胸中に収めてきました。

 ところが本書は、ルポライターの安田峰俊が天安門事件に「かかわった」人たちを、その二十数年後とか三十年後に訪ね、8964のとき、何処で何をし、何を考えていたか、その後それはどう変わったかに着目しながらインタビューをして全体像を描き出そうという試みです。それは、八九六四を軸にして人生と世界を浮かび上がらせます。言葉にするとつまらないことをいっていると見て取りながら、天安門のヒーローとして名を馳せた自分の後世に伝えるお役目として己に課している人もいます。あるいは安田自身が、言葉だけが軽々と繰り出してつまらない人だと見切ってインタビューを打ち切った人の姿も現れます。

 そうしてその一文一文が、概念的な把握を簡単に覆して、ワタシのセカイ認識をあらためさせるようです。このリポライターの視線と記述の手順と、その背景に横たわる人間観や社会観、世界観の奥行きが深いからか。やはり鏡としてワタシを映してページを繰る手を誘うのです。

 安田峰俊は、北京のその現場にいた人たち、遠く離れた東北部やチベットや南部にいた人たち、日本に留学していて民主化を支援していた人たち、アメリカにいて後に国籍を取得した人たち、あるいはいろんな経緯を経て台湾に落ち着き、今も大陸の若い人たちと遣り取りする機会を持っている大学教授と辿ってゆき、最後を香港の雨傘運動とその後の国家安全法の施行と人々の沈黙などを、運動の細部に目を配りながら関わった人々の心裡の欠片を組み合わせていき、中国は今どうなっているかを描き出しています。

 そうやって振り返ってみると、世界の動乱は何を内発的な契機として起こっているかワカラナイ。みている人にワカラナイだけでなく、その場にいる人にもわからないということが浮き彫りになります。渦の中にいては自らのしていることを見て取れることができないと言えるのかもしれません。ルポライターというのは、その現場にいながら、なおかつ、ステップアウトして全体像をとらえるために、細部にインタビューを重ねて、歳月を隔ててイメージを総合していく作業をしているのだなあと敬意をいだいています。その手際に感嘆の溜息をつきながら、ワタシのセカイの欠片を一つ塗り替えている。それが読後感です。

2023年5月21日日曜日

専門家ってなあに?(3)ローカルこそが普遍というパラドクス

 ひとは大雑把に「専門家」という言葉を用いる。その意味する所が何であるかは、時と場合とひとによって異なってくる。その内実は「知的権威」と私は考えているが、大抵は「肩書き」で以て判断している。大学の教授であるとか、建築設計に携わってきたとか、政府の防疫機関の研究者として従事しているという「肩書き」である。

 コロナ禍がはじまった頃、TVのコメンテータとして随分たくさんの感染症の研究者や防疫機関の専門官や医師が出演し、いろんなトーンで喋っていた。その中の女性の専門家は、初め登場した頃には素顔の地蔵通りのおばちゃんという風情であった。何度も登場するうちにだんだんおしゃれになり、髪かたちも変え、顔つきまで洗練されてきた。彼女の話よりも、その様子の変化の方が話題になっていた頃、私と同年の老爺の一人がいかにもインチキ臭いものを目にしたように、彼女のことを「何が専門家だ。バカなことをしゃべってやがる」と口汚く誹った。「えっどうして?」と訊いた。彼は「あんないい加減なこと」と何を指していたのか分からないが、みるのもイヤだという風情であった。

 自分の聞きたくないことをいかにも専門家面して喋るコメンテータも結構いるから、彼女もその一人に祀りあげられたのかもしれない。だが、出演して喋っていることとは別に先述の私のように様子が変わってくることに注目していると、「専門家」というよりは「タレント」の成長記録のように感じている。ありきたりのことを喋ったりするとか、いかにもワタシは知っている(アナタは知らないでしょうけど)という気配が漂ったりすると、何言ってやがんでえと反発を感じることもあろう。

 TVプロデューサの方は「肩書き」で「知的権威」を感じて出演願っているつもりでも、視聴者は、タレントの一人として受け止めるから、その言葉と振る舞いに何の「知的権威」も感じないこともあろう。すると、何でこんなヤツがと反発を食らう。もっとも私と同年の老爺は、功成り名遂げた風の学歴と職歴といった経歴を持つから、エライ人ではある。すぐにひとを馬鹿にして反発するキライもある。だからなぜこの人が当の「専門家」に反発したのかはワカラナイ。知りたいとも思わないからそれっきりにしたが、ひとが何に「知的権威」を感じるかは、人それぞれによって大きく異なることだけは確かである。

 じゃあ、一般的に「専門家」といっても、話が通らないではないかと反撃を食らうかもしれない。そこが、大雑把にとらえる「ことば」「概念」のお蔭で、いちいち騒ぎ立てないで私たちの世間話は通じているのである。

 だから「実践人生80年」の専門家としての私は、それだけで胸を張っていいのであるが、それだけでは胸が張れないと思っている。どうしてか。ただただ生きてきただけだからだ。やはり専門家というのは、知的な何かが加わらなければならない。実践人生80年に知的に加味することとは「批判」である。カントは「実践理性批判」と記した。

 批判というのは「文句をつけること」と近年の学生さんはとらえるようである。だから人の提出したレポートを批判するというのは、喧嘩を売ることと考えている。「そんな失礼なこと」と大真面目で教室で質問したり批判したりするのを排撃するのに立ち会ったことがある。そりゃあないよと、当の教室の秩序を取り仕切っていた私は、質問や批判をした学生をかばった。すると、教師がそういうことを奨励するのはもっとケシカランと口撃を受けた。

 カントがそういう意味で使ったかどうかは知らないが「批判」というのは、対象を見つめ言葉にしてその輪郭を切り分けることと私は考えている。つまり「実践人生批判」というのは、わが人生の過程で身に堆積してきた感性や感覚、好みや思索、判断などの、ほぼ無意識に沈潜している一つひとつを言葉にして取り出し、その由緒由来を探ることである。意識に浮上させ、その由緒由来というからには、対象の出自来歴の淵源を辿ることになる。

 カントさんは「人間の理性から直接導かれる道徳があるはずだという確信から出発」(1)したという。それを彼は「定言命令」と呼んでいるから、理性が直接命令すると考えている。そして「実践理性批判」では快や欲望からくり出されてくる「命令」は、「快のために・・・」「欲望を満たすために・・・」何かを行うというのは「仮言命令」だとして、理性の命令ではないと言葉にしたのであった。そしてさらに、「習俗や宗教といった特定のローカルなルールが道徳の源泉であると当たり前に考えられていた時代において、道徳を普遍的な視点から規定しようと試みました」(2)と「普遍性」を所与のこととして論展開をしている(上記の(1)(2)はマイクロソフトの生成AIcopilotの回答したもの)。

 だがなぜ「普遍」が所与のことになるのか、なぜ「人間の理性から直接導かれる道徳があるはず」と決めつけることができるのか。そこが私には、ワカラナイ。「ローカルなルールが道徳の源泉」というのを(専門家は)「倫理」と呼んで「道徳」特別するらしい。とすると却って、ワタシ自身の身の形成過程から考えると、倫理こそが身の無意識に刻まれたワタシの規範の源泉である。それがローカルのものではなく普遍的なことへと繋がるべきであるというのは、いろいろなローカルが交通し、ぶつかり合って調整が加えられ、その堆積から生み出されるものではないだろうか。

 80億人もいる人類からすると、80億通りの倫理が身に刻まれ、大雑把に国民国家的に地域分けしても200余のローカルがあり、それらが互いにぶつかり合って共有する「なにか」があるとか、「なにかがあるのがのぞましい」という観念が共有される。それが「普遍」だとすると、普遍というのは、永続革命の果てに夢見るあらまほしき姿である。悲願であり、それがある地は彼岸である。

 カントはその哲学を通して「神を殺した」といわれている。だが、キリスト教的な唯一神の幻影に呪縛されているように見える。そのカントさんからみると、ローカルなセカイで身に刻んだものを「仮言命令」と呼ぶかも知れない。だが、ヒトの生成と径庭を自然存在として考えると、世界宗教的な普遍性を彼岸において、でも間違いなくローカルそのものの人類史を歩む航跡こそが、身の心も一つにして生きている「人生批判」の視座なのではないか。

 ローカルこそが普遍というパラドクス。人の頭脳というのは、理知的に言葉にするから、パラドクスを生きることを必然としたのであった。 

2023年5月20日土曜日

専門家ってなあに?(2)わが実践人生批判

《市井で遣う「専門家」とは、「その道での知的権威」というほどの意味である》と書いた。これでは、随分補足条件が付く。「市井で遣う」場合って何か。「その道」って謂うのは、どのレベルか。

 こんなふうにいうと、どうだろう。空間に於ける自分の位置を表現するのに、住所表示で表す。路地や車道もあれば、大通りや幹線道路で道筋を説明することもできる。一丁目、二丁目という行政区画で示す方が判る場合もある。だが市町村単位とか都道府県という大きさが必要な場合もあれば、国民国家単位やもっと大雑把な広域地域を用いる方が歩いている道筋の研究対象によって有効なケースもある。つまりいつ、何処で、誰が、何のために、誰に対して居所を尋ねているのかによって、応じ方は異なる。「専門家」と呼ぶにしても、その人やその研究に、誰が何処に身を置いて「知的権威」を認めるかによって、流動的である。

 市井の民が「その道での知的権威」を認めるのは、その人の関心の在処と傾け具合に応じて、定めがたい。そう考えると、いかにも判った風に「専門家」ということばを遣うことが可笑しい。だが、時と場合と人とによって流動的である「概念」を、いかにも共有しているかのように用いることによって、ワタシたちの内心の多様性とか差異の些末にこだわらずに言葉を交わし、思いを交わしている。それが人なのだ。それが、言葉なのだ。

 ところが言葉を交わす毎に、その微細な違いを意識の次元で捉えることによって、みている世界の違いや拠って立つ感性や感覚の差異が浮き彫りになり、「違い」の次元が明らかになる。それは、人それぞれの感性や感覚、身に刻んできた無意識の壁がつくっているイメージや思索の次元の違いを鮮明にすることになる。それによって逆に、相互の意思疎通を深めることにもなる。神は微細に宿るというのは、こういう動態的事象をさしていると私は思っている。

 つまり市井の人の「知的権威」とそうでない人の端境は、制度化されている「肩書き」と違って曖昧模糊としており、「権威」という言葉に含まれる「上位-下位」の優劣すら分からないものである。市井の民は、知意識的な次元で「知的権威」に敬意を感じているとしても、実は市井の民の身からほとばしり出る言葉が知意識的な次元とは異なり血意識的な鮮烈さをもっていて、「知的権威」を揺さぶるということも案外多いものだ。

 人は、なぜジブンがそれに「権威」を感じるのか判らないままに、知的なものに畏敬の念を抱き、血的な反応に嫌悪を抱いたりする。そこには、社会的な制度とか時代的な気風の作用がある。それが言葉を覚え振る舞い方を身につける過程で、周りの大人たちから、あるいは同世代の取り巻く環境からいつ知らず伝えられ、わが身に刻まれてきている。

 だから、わが身そのものが、自分でもワカラナイ不可思議のセカイとなっている。それを解き明かす必然性は、人の暮らしにはないのかもしれない。その根拠が判らなくても暮らしていけるからだ。だが、わが身の裡の不可思議セカイを感じると、そこに人類史が堆積していると感じられる。わが身のそれは、仮令一端であっても、紛う方なく全人類史のひとつである。しかもそれは、人類だけでなく全生命体の歩んできた35億年の過程の集積的現在である。

 わが身の裡の不可思議を見つめる目が、ヒトがどこから来て何処へ向かっているのかを問う専門領域の「関心」と同じ知的興味につき動かされ、ひょっとすると同じ地平をみているかも知れない。そう思うと、ただ不都合なく暮らすだけではなく、ヒトが抱くようになった好奇心につき動かされてヒトのクセを精一杯発揮していってやろうじゃないか。それは面白そうだと、ワクワクする。これはワタシの現在。

 市井の民が「その道の知的権威」と地平を同じうするには、「その道」を「わが道」に位置づけることだ。先に、市井の老爺であるワタシは「人生80年の実践人生批判」を生きてきたといった。つまり当事者である。「わが人生」の専門家である。「人生批判」というと、人生に異議申し立てをするように聞こえるかもしれないが、そうではない。わが身の感性や感覚、好みや選好、思考・思索・判断が何を根拠にそうしているのかを考えること。つまりわが身の生きてきた形跡を振り返って、わが身の現在のそれらを対象として見つめ言葉にすること。それを「批判」と呼んでいる。そうして意識化することは、間違いなく当事者の、身に堆積した全人類史の探求である。

 こうして、当事者として位置づけたとき、門前の小僧は、ありとあらゆる専門家の知的好奇心の成果をわが身のこととして「研究」対象とすることができる。もちろん「専門領域」の境内からみると、ワタシのそれは門前の小僧の振る舞いであるが、でもそれによって怯むことはない。「わが道」としてはまさしくワタシが生きてきた「実践人生批判」として屹立するところだと感じているのである。 

2023年5月19日金曜日

専門家ってなあに?

 昨日の本欄、「専門学者たちは人の言説を一つひとつ住所登録しながら、歩一歩とコトを進めるから、つねに根拠に遡ることができる」と勢いに任せて書いた。だが、専門学者というのも、もっと子細に分けることができるし、誰が誰に「専門家」というのかと口にするのかも、組み込まなければならないと、友人の指摘で考えた。

 友人は「あなたは生徒の前で専門家でないと言えたのか?」と私に問うた。「もちろんそう問われれば、私も門前の小僧だと応えたであろうけど・・・」と応じて、そう言えば教室の生徒は私を知的権威とみていたなと振り返った。

 現役教師であったときの私は、「教師-生徒」関係が「指導-被指導」として成り立つためには「教壇の高さがなくてはならない」と象徴的に口にしていた。生徒が教師の権威を認めていなくては、生徒は授業の間机に付いていることができないからだ。でも子細に考えてみると、生徒が教師の何に「権威」を感じるかは、小中高という学齢によっても違うし、子ども関心の置き方によっててんでんばらばらである。

 だが概ね高校生ともなると、知的権威に関心を傾けてくる。教師が身に堆積してきた「知識」がそれ相応の言葉に乗せて繰り出される。日々積み重ねられ繰り返される知的資質を受けとりながら、生徒は教師のそれに権威を認めたり、逆らったりする。高校生と言っても、学校毎に通う生徒の知的関心の層は異なるから一概には言えないが、概ね私が身を置いた高校では私の「知性」に敬意を表してくれたから、先に述べたように「門前の小僧」であることを公言することはなかった。

 だがもし生徒が「先生は今教えている歴史の専門家ですか」と問えば、「いい質問だ」と応じて、門前の小僧だと思うに至ったワケを話したであろう。そう振り返ってみると、「専門家」というのも誰が誰にそう問うのかによって応え方は違ってくる。高校の生徒が問うのは「教科の専門家」であろうか。世界の歴史の専門家はすっかり地域毎、時代毎、あるいは政治や経済、文化などの主題に分節化されている。高校の教師は「世界史」という教科にするとジェネラリストである。世界の通史を総覧して紹介する。謂わば各地域の関係の変遷を大雑把に摑み、そこで展開された事実の由来と根拠を加味しながら観てきたように話す講釈師である。その段階では「知ること」、すなわち「知識」の多さが「知性」と受け止めている。

 だがそうした関連本を読んでいると、事実に関するデータの多さよりもその由来や変遷の推移をとらえる「論脈」や「歴史哲学」が底流していることに気づく。統治権力争奪の正統性をもっぱら記すのが「正史」の伝統であったが、視点を庶民に置いて記すとか、統治と反統治の争いという次元ではなく、人の暮らしの中で紡いできた習俗や風説、民話ということに焦点をあててその推移を目に留めるというのは、専門家ならずとも関心を傾けることができる。そういう人生観というか世界観というか、物の見方にかかわる視線の鋭利さを「知性」というのではないかと、「知識」からの離陸のときに感じていた。つまりそういう関心を持って人の辿ってきた航跡を眺めると、判らないことを知ることより、ワカラナイことを判ること、般若心経に謂う「無無明亦無明尽」こそが、知性の神髄であり、にもかかわらず生きている限り、知り尽くそうと関心を傾けることが知性の動態的在り様の正しさだと考えるようになった。

 言うまでもないが私は歴史を専門にしてはいない。入口としては経済学であったが、やはりそれも門前の小僧。哲学や倫理学、心理学や精神分析学などのどれもこれも入口ばかりを覗いて、境内に入ることなく市井の老爺になってしまった。人間論だけは身を以て踏襲してきたが、「人間学」と言えるような、古今東西の関連する知的蓄積を住所登録して歩き、その先の一歩を刻むというレベルにまで高めてはいない。まあ言うなれば「実践人生批判」を終生行ってきたと「イワレタイ」と、雨ニモマケズを気取って思っている。

2023年5月18日木曜日

生成AIは庶民

 生成AIの「進化」が著しい。わずか半年で一挙に広がった。検索から文章作成、画像や音楽に至るまで、プロの仕事を取って代わるかもしれないと弁護士や新聞記者、大学の教師らも、本気で位置づけを考えはじめている。新聞もTVの番組も、この生成AIをどう使ったら、人間の下僕にしておけるかを検討しているように見える。

 レイ・カーツワイルが、AIが人間を超えると2045年のシンギュラリティを提起したのは(調べてみると)2005年、それを10年ほど遅れて私たち庶民が耳にし、コンピュータが人を越えると言ったって所詮人工物の範囲じゃないかと、人の知恵を最高位に置くことにためらいはなかった。ところが、2045年より20年以上も早く、生成AIが人並みの言葉で当意即妙に応答する。レスポンス(応答する)というのがレスポンサビリティ(責任)の語源と思っていたが、この生成AIはもちろん責任はとらない。今日(5/18)の新聞でもこう書いている。

《回答する過程がブラックボックスで、なぜ間違えたのかわからないという問題も残る》

 なんだ、これって、私たち庶民と同じじゃないか。私らも、なぜ自分がそう感じ、そう思い、そう考えるかを、いちいち根拠を明らかにしているわけじゃない。

 専門学者たちは人の言説を一つひとつ住所登録しながら、歩一歩とコトを進めるから、つねに根拠に遡ることができる。実際、引用の出典を明記して先へ進む。だが私たち庶民はことごとくについて門前の小僧。井戸端会議であり、世間話。耳学問、流言蜚語の吹き溜まり。何時、誰が記した何からの引用なんぞはどうでもいいじゃないのと、気に入ったことを身の裡で繋いで、自分の思いや考えを繰り出している。

 言葉で言えば、ワタシはブラックボックス。生まれおちて後の人類史的に遭遇する環境のことごとくを身の裡に堆積させ、その感性や感覚、好みや危険察知感覚をベースに、世界を感知する「こころ」に集約し、言葉にして日々おしゃべりに興じている。大宇宙の向こうの方と同じように、身の裡のブラックボックスは、ワカラナイ不思議世界だ。

 とすると、生成AIがブラックボックスだと誹ることはない。ふつうの庶民と同じ、ただ、当意即妙であることが、いかにも「物知り顔」をしているから、ついつい騙されてしまう。これも、TVに登場するコメンテータと同じようにみていれば、いいじゃないのと思う。たしかに入力されたことは忘れないという才能は、動物的である。それらを総合して繰り出してくるというのは、いかにも優秀な人間のようである。だが、全くの刷り込みによると考えると、情報統制された北朝鮮の人たちとか、厳しく制約されたロシアの人たちと同じ「可能性」もありうる。オレオレ詐欺の番頭が仕込んだ生成AIだと、案外上手く行くとほくそ笑んでいるかもしれない。驚くことじゃないよね。

 ヨーロッパ各国が生成AIを禁じたり、制約を国際的に取り決めようというのも、大雑把にみていると随分せこいことを考えてるんじゃないかと思えてくる。そもそも知的所有権というのを勝手に決めて、おカネがなければ使えなくなったというのも、可笑しい話だ。別に中国の肩を持つわけじゃないが、もし知的所有権というのなら、先ずヨーロッパは、羅針盤や印刷術や火薬の使用権をきっちり払ってから、云々しなさいよと思う。

 日本だってそうだ、って話をどこかで聞いたことがある。日本が中国に知的所有権の話を持ち出したら中国側から、漢字の使用権はどうするの? と問われて、沈黙したって、落語のような遣り取りだった。

 ヨーロッパが知識人を上位においている。これも権威主義じゃないか。中国の権威主義的資本主義をリベラル資本主義が批判しても、私たち庶民からすると目くそ鼻くそを笑うような話だ。似たり寄ったり、科学技術という人類史的成果に特許権という制約を掛けて、カネを支払う特定人類しか使えないようにしてしまった。それでいて、環境破壊だ、気候変動だと、あたかも人類全体が罪深いことをしているように言うのは、ちょっと違うんじゃいかと、ワタシのヒト感覚は訴えている。

 そうやって考えてみると、生成AIは、やたら記憶力がよく、情報総合力のある庶民の一人ってことじゃないか。なんでそう考えるの? って重ねて根拠を問うと、どう応えるだろうか。ブラックボックスです、って言うのだろうか。

 マイクロソフトのAI、copilotに問いかけたことは先日記した。「あなたは経済の専門家です。失われた三十年を回避するために行うべきであった構造改革とは何でしたか」と問いを投げかけると、「私は専門家ではありませんが・・・」と始まる回答が打ち出されて感心した。謙虚だからというのではなく、いかにも耳学問で情報を収集総合した庶民ですって感触が、よく出ていると思ったわけ。それにこの生成AIには、読み込んでいる情報の出典(?)が、「日経デジタル、プレジデントonline、yahoo」などと表示されていた。たいしたものだ。

 面白いのは、問いかけるとすぐに応える。さらに問いを重ねると、それにも応じる。この遣り取りは、まるで人と言葉を交わしているように思える。ワタシの狭い世界にどんどん嵌まっていくような危うい感触と狭い世界を開いていくように見える生成AIの情報収集範囲が、アンビバレンツなワタシのセカイを表しているようで、面白いと感じているのかもしれない。まず自問自答する自己対象化の作業が唯一生成AIに勝るワタシの取り柄ってことかもしれない。

 生成AIと付き合うには、思考スタイルの違う市井の若い庶民と話しているという距離がいいのかもしれない。