安田峰俊『八九六四――「天安門事件」から香港デモへ[完全版]』(角川新書、2021年)を読んだ。天安門事件といえば中国民主化の兆しと受けとっていましたから、その弾圧やその後の権威主義的統治の推移を見ていると、民主主義香港の圧倒的制圧とか台湾侵攻の危うい動向も一連の情勢として視野に入る。それはまた、天安門事件のことを概念化することになります。大きな潮流の中においてみると、あの時中国は現在の統治体制へと舵を切ったとみえ、翻って中国の民主化は、あの事件の時にアメリカが経済的関係の利害から中国を見ていて(民主化を)見誤ったと受けとってしまいます。そうやって私も、天安門事件のことを胸中に収めてきました。
ところが本書は、ルポライターの安田峰俊が天安門事件に「かかわった」人たちを、その二十数年後とか三十年後に訪ね、8964のとき、何処で何をし、何を考えていたか、その後それはどう変わったかに着目しながらインタビューをして全体像を描き出そうという試みです。それは、八九六四を軸にして人生と世界を浮かび上がらせます。言葉にするとつまらないことをいっていると見て取りながら、天安門のヒーローとして名を馳せた自分の後世に伝えるお役目として己に課している人もいます。あるいは安田自身が、言葉だけが軽々と繰り出してつまらない人だと見切ってインタビューを打ち切った人の姿も現れます。
そうしてその一文一文が、概念的な把握を簡単に覆して、ワタシのセカイ認識をあらためさせるようです。このリポライターの視線と記述の手順と、その背景に横たわる人間観や社会観、世界観の奥行きが深いからか。やはり鏡としてワタシを映してページを繰る手を誘うのです。
安田峰俊は、北京のその現場にいた人たち、遠く離れた東北部やチベットや南部にいた人たち、日本に留学していて民主化を支援していた人たち、アメリカにいて後に国籍を取得した人たち、あるいはいろんな経緯を経て台湾に落ち着き、今も大陸の若い人たちと遣り取りする機会を持っている大学教授と辿ってゆき、最後を香港の雨傘運動とその後の国家安全法の施行と人々の沈黙などを、運動の細部に目を配りながら関わった人々の心裡の欠片を組み合わせていき、中国は今どうなっているかを描き出しています。
そうやって振り返ってみると、世界の動乱は何を内発的な契機として起こっているかワカラナイ。みている人にワカラナイだけでなく、その場にいる人にもわからないということが浮き彫りになります。渦の中にいては自らのしていることを見て取れることができないと言えるのかもしれません。ルポライターというのは、その現場にいながら、なおかつ、ステップアウトして全体像をとらえるために、細部にインタビューを重ねて、歳月を隔ててイメージを総合していく作業をしているのだなあと敬意をいだいています。その手際に感嘆の溜息をつきながら、ワタシのセカイの欠片を一つ塗り替えている。それが読後感です。
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