2023年5月20日土曜日

専門家ってなあに?(2)わが実践人生批判

《市井で遣う「専門家」とは、「その道での知的権威」というほどの意味である》と書いた。これでは、随分補足条件が付く。「市井で遣う」場合って何か。「その道」って謂うのは、どのレベルか。

 こんなふうにいうと、どうだろう。空間に於ける自分の位置を表現するのに、住所表示で表す。路地や車道もあれば、大通りや幹線道路で道筋を説明することもできる。一丁目、二丁目という行政区画で示す方が判る場合もある。だが市町村単位とか都道府県という大きさが必要な場合もあれば、国民国家単位やもっと大雑把な広域地域を用いる方が歩いている道筋の研究対象によって有効なケースもある。つまりいつ、何処で、誰が、何のために、誰に対して居所を尋ねているのかによって、応じ方は異なる。「専門家」と呼ぶにしても、その人やその研究に、誰が何処に身を置いて「知的権威」を認めるかによって、流動的である。

 市井の民が「その道での知的権威」を認めるのは、その人の関心の在処と傾け具合に応じて、定めがたい。そう考えると、いかにも判った風に「専門家」ということばを遣うことが可笑しい。だが、時と場合と人とによって流動的である「概念」を、いかにも共有しているかのように用いることによって、ワタシたちの内心の多様性とか差異の些末にこだわらずに言葉を交わし、思いを交わしている。それが人なのだ。それが、言葉なのだ。

 ところが言葉を交わす毎に、その微細な違いを意識の次元で捉えることによって、みている世界の違いや拠って立つ感性や感覚の差異が浮き彫りになり、「違い」の次元が明らかになる。それは、人それぞれの感性や感覚、身に刻んできた無意識の壁がつくっているイメージや思索の次元の違いを鮮明にすることになる。それによって逆に、相互の意思疎通を深めることにもなる。神は微細に宿るというのは、こういう動態的事象をさしていると私は思っている。

 つまり市井の人の「知的権威」とそうでない人の端境は、制度化されている「肩書き」と違って曖昧模糊としており、「権威」という言葉に含まれる「上位-下位」の優劣すら分からないものである。市井の民は、知意識的な次元で「知的権威」に敬意を感じているとしても、実は市井の民の身からほとばしり出る言葉が知意識的な次元とは異なり血意識的な鮮烈さをもっていて、「知的権威」を揺さぶるということも案外多いものだ。

 人は、なぜジブンがそれに「権威」を感じるのか判らないままに、知的なものに畏敬の念を抱き、血的な反応に嫌悪を抱いたりする。そこには、社会的な制度とか時代的な気風の作用がある。それが言葉を覚え振る舞い方を身につける過程で、周りの大人たちから、あるいは同世代の取り巻く環境からいつ知らず伝えられ、わが身に刻まれてきている。

 だから、わが身そのものが、自分でもワカラナイ不可思議のセカイとなっている。それを解き明かす必然性は、人の暮らしにはないのかもしれない。その根拠が判らなくても暮らしていけるからだ。だが、わが身の裡の不可思議セカイを感じると、そこに人類史が堆積していると感じられる。わが身のそれは、仮令一端であっても、紛う方なく全人類史のひとつである。しかもそれは、人類だけでなく全生命体の歩んできた35億年の過程の集積的現在である。

 わが身の裡の不可思議を見つめる目が、ヒトがどこから来て何処へ向かっているのかを問う専門領域の「関心」と同じ知的興味につき動かされ、ひょっとすると同じ地平をみているかも知れない。そう思うと、ただ不都合なく暮らすだけではなく、ヒトが抱くようになった好奇心につき動かされてヒトのクセを精一杯発揮していってやろうじゃないか。それは面白そうだと、ワクワクする。これはワタシの現在。

 市井の民が「その道の知的権威」と地平を同じうするには、「その道」を「わが道」に位置づけることだ。先に、市井の老爺であるワタシは「人生80年の実践人生批判」を生きてきたといった。つまり当事者である。「わが人生」の専門家である。「人生批判」というと、人生に異議申し立てをするように聞こえるかもしれないが、そうではない。わが身の感性や感覚、好みや選好、思考・思索・判断が何を根拠にそうしているのかを考えること。つまりわが身の生きてきた形跡を振り返って、わが身の現在のそれらを対象として見つめ言葉にすること。それを「批判」と呼んでいる。そうして意識化することは、間違いなく当事者の、身に堆積した全人類史の探求である。

 こうして、当事者として位置づけたとき、門前の小僧は、ありとあらゆる専門家の知的好奇心の成果をわが身のこととして「研究」対象とすることができる。もちろん「専門領域」の境内からみると、ワタシのそれは門前の小僧の振る舞いであるが、でもそれによって怯むことはない。「わが道」としてはまさしくワタシが生きてきた「実践人生批判」として屹立するところだと感じているのである。 

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