2023年5月23日火曜日

「まつりごと」が日常になるには?

 ゼレンスキー・ウクライナ大統領が突然訪日したことで、一挙にG7に衆目が集まり、評判が上がりました。御膳立てをした岸田首相は助演男優賞という格好です。評判のお裾分けなのに支持率が上がって、早速解散の話に政界雀たちは囂しくおしゃべりをはじめました。でもなぜゼレンスキーの来たことが、私たちの関心を惹きつけているのでしょうか。

 日々攻防が伝えられる戦場の最高責任者がやってきたという野次馬の目が大方を占めていると私は感じます。どうやって来たのだろう。飛行経路を秘匿してやってこられるものなのだろうか。フランス政府の専用機を借りていたいうが、飛行途中で(ロシアやそれに味方するどこかが)それを撃墜するというのは、明らかに第三次世界大戦の引き金を引くことになる。この来日のさまが劇的ではないかと興味関心を惹き寄せる。

 何をしに来たのか。当然支援をより鞏固に取り付けるため、兵器・弾薬をより多く援助願いたいため、できればこれまで中立的立場に立ってきたグローバルサウスの国々もウクライナを支援するように願いたいため。リモートでG7に参加するといっていたけど、実際現場に足を運んで顔を合わせる方が間違いなく「効果」的だ。いかにも元俳優だっただけのことはある。

 でも、野次馬の日本人が・・・と考えていたところへ、TVの画面から「広島の人たちにとっては・・・」とゼレンスキーの原爆資料館などの訪問を報道するアナウンスが続き、おやおやヒロシマもついに「広島の人たち」のことになっちゃったのかと、当事者性の狭くなったことに気づかされた。ヒロシマの人たちとしては、78年前の広島と現在のウクライナを重ねてみていたでしょうし、ゼレンスキーは現在の広島を復興ウクライナの将来に重ねて言葉にしていました。そのズレが懲りない人類史を著しているようでした。

 それで気づいたのですが、G7の首脳たちを案内した広島・平和公園の戦没死没者慰霊碑が、あなた方を待っていたのよと語りかけているように思えました。「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しません」という碑文は「主語が曖昧」とか「原爆を落とされた日本人が口にする言葉じゃないだろう」などと非難を受けていました。でも、G7の首脳が口にする言葉としてなら相応しい。主語が曖昧なことを特性とする日本語が実は、人類史的な「反省」を表現していたということが浮き彫りになりました。だがね、G7の首脳たちが裏表なくこの碑文のいうように振る舞ってくれればですがね。

 広島という平和を願う地で兵器調達の話をするのは似つかわしくないという意見もTV報道は伝えていました。どうして? と思いますね。G7に要望するゼレンスキーの兵器支援要請は、文字通り直面するウクライナの戦争を戦前前の状態に戻す。ま、クリミアをどうするかで子細の差異は生じるでしょうけど、大雑把には昨年の2月22日以前の状態に戻れば、ロシアとの和平交渉にウクライナも同席することになるでしょう。先ずロシアが撤退すること。逸れなくしてウクライナに譲歩を迫るとすると、中国の台湾侵略は止めようがありません。ここで俄然私は、当事者になったように思います。ウクライナの趨勢が、台中関係の帰趨を制することに直結していると私は考えています。もちろん私のウクライナ贔屓を隠すつもりはありません。ウクライナの人々は、日本の私たちと似たような暮らしのレベルを持ち、似たような社会習慣の上に日々を送っていたと感じているからです。例えば日本の沖縄や南西諸島に、かつて宗主国であったからといって中国が軍を派遣するようなことがあれば、如何に何でもそれは許せないと戦うしかないと思っています。ウクライナに於けるロシアの立場を少なくとも侵略開始前に撤退させることができないでは、台湾どころか沖縄さえ日本は、護ることができない。そう思います。切実な当事者です。そういう意味で、ゼレンスキーの訪日は的を射ていたし、それが広島でヒロシマとイメージを重ねてG7首脳に要請したこと、インドの首相と会談したことは効果を持つと感じました。

 こうやって、当事者性をきっちりと位置づけていさえすればいいのですが、巷の評判がもっぱらドラマをみている観客としての視線で形づくられるのはどうなんだろうと、判断を保留したくなります。いやそれでも、ウクライナへの心情的な共感は身の裡に培われているよといえば、そういうものかと思わないでもありませんが、野次馬では矢っ張り力になれないのではないかと心配です。

 そういう意味では、ブラジルの大統領が「待っていたけどゼレンスキーが来なかった」と会見しなかったことを「残念がって」いましたが、第一報は、ルラ大統領がゼレンスキーとの会見場に現れなかったというものでした。どちらが真実か分かりませんが、ロシアの言い分にも耳を傾けろと常々主張してきたブラジルの大統領ですから、ゼレンスキーもぎっしりつまった日程を無理して開けてでも会談しようとしなかったのかもしれません。

 ただルラ大統領が、「G7の場ではなく国連で話し合うことでしょう」と言っているのは、「正論」でしょう。だが国連総会でロシアの撤兵を決議しても、どこ吹く風のロシアです。そもそもウクライナに兵を進めたのが、国連憲章違反ということもブラジルの大統領が知らないはずはありません。国連がもはや調停や調整で力を持たないことは、誰もが知る事実です。つまりルラ大統領にすれば、言ってみただけだったんでしょうよ。これは、偏狭になるかどうかではなく、どういう位置でこのモンダイの当事者なのかを明確にさせないと遣り取りできないことだと言えます。

 さてG7は終わり、それぞれの日常へと首脳たちは戻っていきました。ゼレンスキーは無事に戦場へ戻ったんでしょうね。お祭り騒ぎをして、後はまた日常が戻ってきたというのでは、G7は(私たち庶民にとって)文字通り「政/まつりごと」。庶民にとってはハレの場、選挙と同じでちょっとした気晴らしの時を過ごしたに過ぎない。そうそう、消費したってわけさ。「政/まつりごと」が庶民にとって日常にならない限り、庶民が政治の当事者になることはない。そう見切ったワタシが、今も私の身の裡に潜んでいます。

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