ひとは大雑把に「専門家」という言葉を用いる。その意味する所が何であるかは、時と場合とひとによって異なってくる。その内実は「知的権威」と私は考えているが、大抵は「肩書き」で以て判断している。大学の教授であるとか、建築設計に携わってきたとか、政府の防疫機関の研究者として従事しているという「肩書き」である。
コロナ禍がはじまった頃、TVのコメンテータとして随分たくさんの感染症の研究者や防疫機関の専門官や医師が出演し、いろんなトーンで喋っていた。その中の女性の専門家は、初め登場した頃には素顔の地蔵通りのおばちゃんという風情であった。何度も登場するうちにだんだんおしゃれになり、髪かたちも変え、顔つきまで洗練されてきた。彼女の話よりも、その様子の変化の方が話題になっていた頃、私と同年の老爺の一人がいかにもインチキ臭いものを目にしたように、彼女のことを「何が専門家だ。バカなことをしゃべってやがる」と口汚く誹った。「えっどうして?」と訊いた。彼は「あんないい加減なこと」と何を指していたのか分からないが、みるのもイヤだという風情であった。
自分の聞きたくないことをいかにも専門家面して喋るコメンテータも結構いるから、彼女もその一人に祀りあげられたのかもしれない。だが、出演して喋っていることとは別に先述の私のように様子が変わってくることに注目していると、「専門家」というよりは「タレント」の成長記録のように感じている。ありきたりのことを喋ったりするとか、いかにもワタシは知っている(アナタは知らないでしょうけど)という気配が漂ったりすると、何言ってやがんでえと反発を感じることもあろう。
TVプロデューサの方は「肩書き」で「知的権威」を感じて出演願っているつもりでも、視聴者は、タレントの一人として受け止めるから、その言葉と振る舞いに何の「知的権威」も感じないこともあろう。すると、何でこんなヤツがと反発を食らう。もっとも私と同年の老爺は、功成り名遂げた風の学歴と職歴といった経歴を持つから、エライ人ではある。すぐにひとを馬鹿にして反発するキライもある。だからなぜこの人が当の「専門家」に反発したのかはワカラナイ。知りたいとも思わないからそれっきりにしたが、ひとが何に「知的権威」を感じるかは、人それぞれによって大きく異なることだけは確かである。
じゃあ、一般的に「専門家」といっても、話が通らないではないかと反撃を食らうかもしれない。そこが、大雑把にとらえる「ことば」「概念」のお蔭で、いちいち騒ぎ立てないで私たちの世間話は通じているのである。
だから「実践人生80年」の専門家としての私は、それだけで胸を張っていいのであるが、それだけでは胸が張れないと思っている。どうしてか。ただただ生きてきただけだからだ。やはり専門家というのは、知的な何かが加わらなければならない。実践人生80年に知的に加味することとは「批判」である。カントは「実践理性批判」と記した。
批判というのは「文句をつけること」と近年の学生さんはとらえるようである。だから人の提出したレポートを批判するというのは、喧嘩を売ることと考えている。「そんな失礼なこと」と大真面目で教室で質問したり批判したりするのを排撃するのに立ち会ったことがある。そりゃあないよと、当の教室の秩序を取り仕切っていた私は、質問や批判をした学生をかばった。すると、教師がそういうことを奨励するのはもっとケシカランと口撃を受けた。
カントがそういう意味で使ったかどうかは知らないが「批判」というのは、対象を見つめ言葉にしてその輪郭を切り分けることと私は考えている。つまり「実践人生批判」というのは、わが人生の過程で身に堆積してきた感性や感覚、好みや思索、判断などの、ほぼ無意識に沈潜している一つひとつを言葉にして取り出し、その由緒由来を探ることである。意識に浮上させ、その由緒由来というからには、対象の出自来歴の淵源を辿ることになる。
カントさんは「人間の理性から直接導かれる道徳があるはずだという確信から出発」(1)したという。それを彼は「定言命令」と呼んでいるから、理性が直接命令すると考えている。そして「実践理性批判」では快や欲望からくり出されてくる「命令」は、「快のために・・・」「欲望を満たすために・・・」何かを行うというのは「仮言命令」だとして、理性の命令ではないと言葉にしたのであった。そしてさらに、「習俗や宗教といった特定のローカルなルールが道徳の源泉であると当たり前に考えられていた時代において、道徳を普遍的な視点から規定しようと試みました」(2)と「普遍性」を所与のこととして論展開をしている(上記の(1)(2)はマイクロソフトの生成AIcopilotの回答したもの)。
だがなぜ「普遍」が所与のことになるのか、なぜ「人間の理性から直接導かれる道徳があるはず」と決めつけることができるのか。そこが私には、ワカラナイ。「ローカルなルールが道徳の源泉」というのを(専門家は)「倫理」と呼んで「道徳」特別するらしい。とすると却って、ワタシ自身の身の形成過程から考えると、倫理こそが身の無意識に刻まれたワタシの規範の源泉である。それがローカルのものではなく普遍的なことへと繋がるべきであるというのは、いろいろなローカルが交通し、ぶつかり合って調整が加えられ、その堆積から生み出されるものではないだろうか。
80億人もいる人類からすると、80億通りの倫理が身に刻まれ、大雑把に国民国家的に地域分けしても200余のローカルがあり、それらが互いにぶつかり合って共有する「なにか」があるとか、「なにかがあるのがのぞましい」という観念が共有される。それが「普遍」だとすると、普遍というのは、永続革命の果てに夢見るあらまほしき姿である。悲願であり、それがある地は彼岸である。
カントはその哲学を通して「神を殺した」といわれている。だが、キリスト教的な唯一神の幻影に呪縛されているように見える。そのカントさんからみると、ローカルなセカイで身に刻んだものを「仮言命令」と呼ぶかも知れない。だが、ヒトの生成と径庭を自然存在として考えると、世界宗教的な普遍性を彼岸において、でも間違いなくローカルそのものの人類史を歩む航跡こそが、身の心も一つにして生きている「人生批判」の視座なのではないか。
ローカルこそが普遍というパラドクス。人の頭脳というのは、理知的に言葉にするから、パラドクスを生きることを必然としたのであった。
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