2020年9月7日月曜日

知らない鳥

 川内有緒文・中川彰・写真『バウルを探して完全版』(三輪舎、2020年)を読んだ。なんだこれは、「わたし」の本ではないか、と思った。

 著者は1972年生まれというから、私の娘のような若い方。ただ経歴は世界中を旅した赫赫たるものがある。もちろん観光旅行ではなく、NGOであったり国連職員としてであったり、世界各地の困窮する人たちの現場に足を運んでいる。その彼女が、パリでの国連仕事に行き詰まりを感じて仕事を辞めて日本に帰国し、ふと思い立ってバングラデシュの〝バウル〟に会いに行こうと思い立つところから、本書ははじまる。


 いわゆる書籍分類をすればノンフィクションとなるであろうが、わずか2週間ほどの旅が、まるでバングラデシュという国のドキュメンタリーであり、その国の人々がどのような文化を堆積して日々を過ごしているか、その暮らし方が、哲学的な次元にまで目が行き届いているかのように綴られている。一気に読み切ったわたしも、ほんのちょっとした「こころの旅」をしたように感じてうれしい。しかもその旅は、バングラデシュという国と町への旅というよりも、「わたし」の内面へ向けての旅であった感触なのだ。

 その私の感触は、たぶん、この著者自身の「旅」の始まりと終わりとの、わずか2週間の間に起こった変化であり、彼女の「せかい」の広がりと深まりと重なっていると受けとめている。

 

 バングラデシュを知る人に〝バウル〟のことをきくと、たいていの人が知ってはいるが、「どういう人?」と訊ねると、言葉にできない。いろんな人がいるよという。ミュージシャンだともいう。修行者だともいう。イスラム世界のバングラデシュで修行者? どんな宗教? ときくと、さて? と言葉にならない。吟遊詩人だと説明する人もいる。「バウルに会えるかな」と訊くと、いや何処へ行けば会えるかはわからないよ、という頼りない情報を抱えて2週間の旅に出る。

 18世紀末に生まれた吟遊詩人の元祖のような方の名前に行きつく。ラロン・フォキル。

 ラロンの歌、ラロン・ソングが人々の間で親しまれ、口ずさまれている。まるで日本の小学校唱歌のように親しまれてはいるし、それを謳って一躍名が売れ、「日本でいえば美空ひばり」という歌姫もいるが、彼女は歌を教える学校を営んでもいる。

 あるいは地方の町の一角に(全国から)〝バウル〟が集まって三日間、かわるがわる人が登壇して「まるでNHKのど自慢」のようであったり、いや「紅白歌合戦」だと思うほど、(人々に)よく知られた歌い手や演奏家も登場する。その傍らに、もう何年もずうっと座り続けて人々の尊敬を集めている歌わない〝バウル〟がいる。(ある程度中流階層の?と思われる)親たちはわが子がそれを口ずさむのを好ましくは思っていない様子もうかがえる。なぜか。彼のフォキルというのは「乞食」を意味するという。〝バウル〟は在野の哲人という感触か。

 

 この著者の旅で出逢う〝バウル〟が彼女の「バウル概念」をかたちづくり、また壊してはつくり直し、さらにまた壊さないと理解できないという転変をくり返し、ついに彼女は、ある種の達観を手に入れる。一つの概念にまとめようとすることが、すでに「ドグマにとらわれてはいけない」ことを為している、と。ありとある「かたち」を、それとして受け入れて(わが身の裡を)みつめていると、〝バウル〟というのは、己の内面に視線を向けて問いかけの旅をしている人たちだと、氷解していく。その過程が、「旅」の過程を書き記すことによって浮かび上がってくるのが、読んでいてスリリングであり、興味深い。

 そこには、モノにとらわれ、モノゴトに拘泥し、いろいろなモノを持つことによって損なわれていく人の身のナニかが、忽然と浮かび上がってくる。それは、しかし、言葉にするとウソっぽくなる。人から人へ伝えるのは、心から心へ伝えるものでなくてはならない。その言葉がラロンの詩であり、歌だ。しかも歌は、いかようにも「解釈」できる。できるから、まるで日常の歌謡のように口ずさまれたりする。だがその意味ところを象徴的に解いてみると、深い哲学的な視線が浮き彫りになる。しかし、そうしては真意が伝わらない。そこに謡わない〝修行者〟が存在する。

 

 とどのつまりと、コトを要約しようとするのも、別様にいえば修行が足りない証である。こうして、中空に投げ出され、しかし、間違いなくわが身の裡への旅をはじめることになる入口の扉を開ける。そこに立っているという実感が、率直な読後感である。

 本書中に引用されているラロン・ソングを三つ、末尾に紹介しておく。最初のは「オチンパキ(知らない鳥)」というたいへんポピュラーな歌だそうだ。

 ここに登場する「鳥」とは何か。「八つの部屋、九つの扉」とは何か。それを問うた著者に、一人の〝バウル〟が応える。

 その答えを聞いて「ということは、母屋というのは**ですね」と反応した途端に、このバウルは、何か大きな失態をしたかのように、口を閉ざす。その失態をしたかのような振る舞いのなかに、私は〝バウル〟の伝承の仕方の核があるように感じた。それこそが、わたしの忘れているコトであり、今の時代の日本が(無意識のうちに)捨て去ろうとしていることだと強く思った。


*「オチンパキ(知らない鳥)」


鳥籠の中、見知らぬ鳥は、どうやって往き来をする?

つかまえたら、「心の枷」を、その足にはめたのに。

八つの部屋は九つの扉で鎖され

中をときたま閃光がよぎる

その上には、母屋がある――

そしてそこには、鏡の間。


心よ、おまえは籠をあてにしてるが

おまえの籠はもろい青竹作り、

いつパタリと崩おれるやもしれぬ、

ラロンは言う、籠が開けば

その鳥は どこに一体逃げ去ることか。


**ノヨン・デワンの歌の一つ


盲人がもう一人の盲人に言う

行こう、祭りに行こう

盲人はいう でも道を知っているのか

盲人は答える

知らない でもとにかく行こう

だってほら この世は祭りなんだから

この世は 盲人だらけの祭りなのだから

学者が学があっても自慢ばかりしている

長老は悪口ばかり言っている

どいつも こいつも

この世は 盲人で溢れている

だから行こう 世の祭りへ 盲人の祭りへ

  

***ラロン・フォキル「誰もが訊ねる、ラロンは一体どの家の生まれなんだい」


誰もが訊ねる、ラロンはいったいどこの生まれなんだい

ラロンは言う、「生まれ」っていったい何だい、

この目でまだ目にしたことはないよ

(中略)

ある人の首にはヒンドゥーの数珠、

別なヒトにはムスリムのトズビ

それで、生れがわかるっていうのかい

生まれてきたり、死んで逝くときに、

「生まれ」の印を持つやつなど、どこにいるのかい


溝を流れるただの水が、

ガンジス河では聖なる水になる

なんの違いもないただの水が、

器によって大違い


世界中が、生まれの話で持ちきり

誰もがその話で、一喜一憂

ラロンはその生まれへの迷信を、

とうに七つの市場に売り払ってしまったよ

2020年9月6日日曜日

雨が降る―同世代が身罷る―ウィルスが身近に感じられる

 烈しい雨の音で目が覚める。台風10号はまだ奄美・吐噶喇群島の辺りなのに、関東地方にも雨をもたらしている。朝4時。起きて新聞を開く。このところ新聞は朝刊も夕刊も、毎日薄いビニールに包まれている。予報が雨だと、配達のときに濡れてしまうと想定するからだろう。気象関係者は「私雨」と呼ぶらしい。ごく限られた地域に降る雨のことらしい。観測技術が詳細化してきて、綿密な予報が可能になったからのようだが、天気予報をみて山歩きをするようにしていると、その予報表示がほんの夜中の一瞬であっても「70%」とか「80%」と出されるから、腰が引けていけない。やはり山歩きは、「雨男」と言われようと、若干の雨は覚悟して歩くようでなくてはダメだなと思う。

 

 朝刊を読む。今朝の訃報は、73歳と78歳。前者は国際的な活躍をした男性のダンサー、後者はハウステンボスの創業者だという。団塊の世代の弟と同年生れと私と同年生れ。私たちの寿命が近づいてきていることを、こうやって予告され、予感する。ぼちぼちだんな。

 その脇に、志村けんに関する誰かのコメントがあった。近頃志村けんの姿をTVでも、よく見かける。昨日もチンパンジーと手をつないで、旅をしている映像が流れていた。死ぬといきなり評価が固まるというか高まるというか。お笑いの下地に芸術的な達観があったとか、人柄が好ましいとなる。生前彼の出演する番組のやんちゃぶりが度を越していると非難轟轟出会ったのが、嘘のように。でも、これこそ、彼岸からの目線で此岸をみるから。遠近法的消失点から現在を観ている自分を、意識しなさいということではないか。つまり、その視線が良いとか悪いとかいうことではなく、日ごろ私たちが忘れていることを、死者が思い出させてくれている。単なるセンチメンタリズムと謗るなかれ。むしろ伝統的な自己対象法として、哲学的な評価をした方が良いとさえ思う。

 

 日曜日とあって、一週間のコロナウィルスの広がりがまとめられている。じつは隔月に開催していた「36会Seminar」の3月開催予定が、5月、7月と延期になってきた。では、9月は開催できるか。7月の「案内」では開催目安を(会場のある東京都の数値で)、①感染者数が20人以下、②感染経路不明が20%未満、③実行再生産数が1.0以下、と明示した。①は、けた違いになっている。②も、58.7%と、お話しにならない。かろうじて③だけが「0.88」と「1.0」を下回った。東京都は相変わらず「感染拡大」「警報発令」の姿勢を崩していないから、Seminarの開催はムツカシイ。ところが政府は、山を越したとでもいうような受け止め方をしている。どうして?

 昨日、政府の専門家会議に参加している大阪大学の行動経済学者が、この夏のウィルス対応を総括して「新型コロナウィルスはある程度制御可能」とする記事があった。要点は以下の通り。

(1)3月には専門家が危機感を強く持っていたのに対して、国民は軽く受けとめていた。だが、7月以降は、それが逆転している。専門家は「ある程度制御できる」と考えるようになったのに、国民は危機感を強めている。

(2)感染クラスターは、夜の町やカラオケなど特定の業種に絞ることができる。スポーツジムや感染対策をしている業種、あるいは公共交通機関では、それほど感染拡大がみられない。湿度が高いと飛沫感染の拡散が抑えられる。

(3)50歳未満では重症化することはほとんどなく、高齢者や重症化する人への重点的な対応が必要。事態がひっ迫している現場医療機関の負担を軽減するための財政支援が、ピンポイントで必要だ。

 

  なるほど「ある程度制御可能」となると、経済振興にも乗り出せる。山を越したような気配の根拠が、これか。だが、現場の地方自治体の首長たちはそれほど楽観していない。たぶん、「ある程度制御可能」というには、その制御に携わる自分たちの行政システムやそれを社会的に浸透させる社会環境やシステムが整っていなければならない。「制御」は机上の理屈じゃない。実務的な展開をするだけの社会的身体と財源をもっていなければ、机上の空論になってしまう。全国民への十万円配布もそう。「接触確認アプリ」を広めるのもそう。安倍政権が交代する今ごろになって政府は、「デジタル化をすすめる」と「公約」している。つまり地方自治体の首長と政府の違いは、実務的な運びができるかどうかの見通しを感じているかどうかによる。とすると、自己判断が求められている私たちは、首長の方を実際的だとみるしかない。

 

 ただ、こうはいえる。

(a)新型コロナウィルスは、高齢者には厳しいが若い人にはさほどの打撃を与えない。

(b)ホモ・サピエンスのスタート地点からみて、何が過剰かを、経済、文化、政治にわたって鳥瞰し、過剰なものを整理して出直せというのが、コロナウィルスが齎した「天の啓示」だ。

(c)ニンゲンの過剰を調整するとしたら、高齢者から身罷るのが順当だ。


 つまり、ニンゲンを滅ぼすことなく、ニンゲン社会を再編成をするのに、この新型コロナウィルスは最適な「啓示」となっている。となると私たち高齢者は、静かに退出しようではないか。自らすすんでコロナウィルスの餌食になることはないが、コロナウィルスに見舞われたからといって、騒ぐことではない。静かに受け入れて、彼岸へ旅立とうではないか。カッコよく、そんなことをウィルスとの共生だと考えている。

 巨大な台風がやってきている。ニンゲンは自然の子だ。高齢者には、ぼちぼちその秋(とき)が訪れている。

2020年9月5日土曜日

36会Seminar 9月予告と開催決定時期のお知らせ

皆々さま

 新型コロナウィルス禍が、まだ続いています。政府はひと山乗り切ったという感触でコロナウィルスに対応していますが、東京都は感染の広がりが拡大傾向にあるとの認識を崩しておらず、様子を伺っている私たちとしては、困惑しますね。


 「36会Seminar 7月開催のご案内」の中で、開催する「条件」を以下のように記しました。

【実施するかどうかの目安】

 東京都の三つの指標が以下のようであることを目安として実施の可否を判断する。一週間前(7/18)の指標をみて判断します。その後大きく変動があるときは、再度、見直します。

1、感染者数が20人未満である。

2、感染経路不明が20%未満である。

3、実効再生産数(感染の広がりを示す指数)が「1・0」未満であること。

 上記指標については、「東洋経済online 国内感染の状況」https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

における「東京都の状況」による。


 東京都の感染者数は9/4で「211」ですので、開催条件「1、」とは桁外れです。また「2、」は、東洋経済onlineでは掲載されていません。「3、」の実効再生産数は、東京都0.88、埼玉県0.94と1.0を下回っていますが、神奈川県は1.05と、まだ「感染拡大」の傾向を示しています。


 ただ、夏場の「傾向」を、政府の専門家会議に参加している大阪大学の行動経済学者が総括している記事がありましたので、以下に添付しておきます。要点は以下の通りです。

(1)3月には専門家が危機感を強く持っていたのに対して、国民は軽く受けとめていた。だが、7月以降は、それが逆転している。専門家は「ある程度制御できる」と考えるようになったのに、国民は危機感を強めている。

(2)感染クラスターは、夜の町やカラオケなど特定の業種に絞ることができる。スポーツジムや感染対策をしている業種、あるいは公共交通機関では、それほど感染拡大がみられない。湿度が高いと飛沫感染の拡散が抑えられる。

(3)50歳未満では重症化することはほとんどなく、高齢者や重症化する人への重点的な対応が必要。事態がひっ迫している現場医療機関の負担を軽減するための財政支援が、ピンポイントで必要だ。


 さてそういうわけで、後期高齢者である私たちにとっては、あまり状況は変わっていないといえそうです。9月26日(土)の「36会Seminar」の開催は難しいかと思いますが、19日(土)まで様子を見て、「3、」を中心に、濵田守、佐藤和恵、三宅健作さんたちと相談して、開催か延期かを決定したいと思います。

 何度も延期になりますが、講師の伊勢木洋昭さん、よろしくご了承ください。

      2020年9月5日 36会Seminar事務局 藤田-k-敏明


                            ***東洋経済online 2020/09/05

★「新型コロナは制御可能」が今夏の経験の結論だ――大阪大・大竹氏「的を絞った対策で乗り切れる」

                                                    野村 明弘 : 東洋経済 解説部コラムニスト


7月に始まった新型コロナウイルス新規陽性者の再拡大は、約1カ月を経て収束に転じた。懸念された重症者の増加も一定程度に抑えられ、国民の新型コロナへの見方も徐々に変わりつつある。

政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の構成員である大阪大学大学院経済学研究科の大竹文雄教授は、ウイルス流行当初からの変化をどう見ているのか。心理学の研究成果を用いた行動経済学の視点を交えて話を聴いた(インタビューは8月25日に実施)。


 ◇ 3月は専門家と国民の危機感に相違があった


――今年3月から政府の専門家会議のメンバー(7月に新型コロナウイルス感染症対策分科会に改組)として活動されていますが、春の第1波から今夏の感染再拡大までにどのような変化を感じていますか。


初めて参加した3月19日の専門家会議は強烈に覚えている。当時は、国民と専門家の間で危機感の強さがまるで違った。一般に多くの人々は、中国・武漢発の新型コロナ流行はもう落ち着いたから、小中高の一斉休校措置を解除すべきだと話していた。


だがこの頃、欧州帰りの感染者が毎日10人くらい入国していた。専門家会議は、欧州発の感染拡大を押さえ込まないと大変なことになると、非常に強い危機感を共有していた。西浦博教授(京都大学大学院医学研究科)は4月に「行動制限なしなら42万人死亡のリスク」と話したが、3月の時点でも人工呼吸器がどれだけ足りなくなるかなどの推計値を公表していた。


――行動経済学者として、そのような状況をどう見ていましたか。


3月19日の専門家会議の発表資料には、主に2つのことが書いてあった。1つは、(先に感染拡大が起きた)北海道は落ち着いたということ。もう1つは、感染源のわからない陽性者が東京などで継続的に増加しており、大規模流行につながりかねないということだった。


人間には、自分の信じたいことの情報だけを見てしまう「確証バイアス」がある。だから、危機感を強調したいのなら、そちらをもっと強く書かないと国民には伝わらないと思った。会議後に尾身茂・副座長(地域医療機能推進機構理事長)にそのことを伝え、記者会見では危機感を前面に出してくださいと話した。ただ、書いたものを通じて国民に伝わる部分が大きい。全面的な修正ができなかったのは残念だった。


――その後、感染は急拡大し、春に第1波を形成しました。次の7月以降の感染拡大については、どう見ていますか。


今回は、専門家と国民の認識ギャップが逆になった。検査態勢が充実したことにより、若者を中心に陽性者が増えたが、春の第1波でももっと検査を実施していれば、より多くの感染者が見つかっていただろう。7月後半からは中高年の陽性者も増え始めたが、いずれにしろ、感染は収束し始め、重症者も春に比べてさほど増えなかった。院内感染や高齢者施設での対策や検査態勢が拡充され、早めに対応できるようになったことが奏功したためだ。今夏の経験により、「新型コロナはある程度制御できるようになった」と、大方の専門家は認識している。


 ◇ 今後は国民の認識も変わるだろう


これに対して、一般の人々は「感染が増えている」と連日ニュースで聞かされ、「コロナはどこにいても、普通に生活していても感染してしまうのか」と危機感を高めてしまった。これは、春とは逆方向の認識ギャップだ。もっとも、夏の再拡大では重症者の少なさが明確になったため、これからは国民の認識も変わってくると思う。


――予防対策の有効性もわかってきたということですね。


        大竹文雄(おおたけ・ふみお)/大阪大学大学院経済学研究科教授。 1961年京都府生まれ。1983年京都大学経済学部卒業、1985年大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了。2018年より現職。博士(経済学)。専門は労働経済学、行動経済学。著書に『日本の不平等』『経済学的思考のセンス』『競争と公平感』『競争社会の歩き方』など多数(撮影:今井康一)


「夜の街」やカラオケなど感染リスクの高いところを避けるようにすれば、かなり防げるというのが専門家の認識だ。また、高リスクのところでも、予防のガイドラインを守っている事業者では、クラスター(感染者集団)はほとんど起きていないのも事実だ。


最近の研究では、AI(人工知能)などを活用した気流シミュレーションや感染者数シミュレーションも盛んになっている。アクリル板は何センチメートルまで高くすれば飛沫の拡散防止効果が高いとか、湿度を高くするとあまり飛沫が飛び散らないといった知見が報告されている。2月の流行初期にクラスターを発生させたスポーツジムではその後、感染が起きなくなった。これも対策がしっかりしたことが要因と考えられている。


残念なのは、対策がうまくいき、クラスターを起こしていないところをメディアが積極的に報道しないことだ。スポーツジムの成功例はもっと取り上げていい。分科会の発表資料でも「電車に乗ってもコロナはうつらない」というメッセージを夏から出し始め、大規模イベントでも屋外なら感染リスクは低いこともわかってきている。こうした科学的なファクトが伝わっていけば、人々の新型コロナへの見方もよい方向に収斂されていくだろう。


一方で、新型コロナの流行を制御するため、いつまでも国民の自主的な行動変容に頼っているのにも限界がある。国や地方自治体は、店舗などの対策とその効果について個別事例の情報を収集し、事業者向け予防ガイドラインをより精緻化していくべきだ。そうすれば、国民1人1人は特に気をつけなくても、世の中全体で感染対策が機能するような状況を作っていくことができるだろう。


――春に大打撃を受けた経済の立て直しも急務です。


コストとベネフィットの比較考量が重要だと思う。人の移動を完全に止めれば感染リスクが下がるのは当然だが、経済社会の悪化で健康を害する人もいる。世の中のリスクはコロナだけではないことを認識すべきだろう。確かに春の段階では、ウイルスのリスクがどの程度かわからなかったため、予防的に押さえ込んだのは正しかった。しかし、もうそこまでしなくてもいいのではないかというのが、今夏の経験の結論だろう。


新型コロナは、無症状者が感染源になったりするなど厄介な病原体だが、50歳未満では重症化リスクはほぼなく、それ以上ではあるなど世代によって随分影響が違う。加えて、重症化するとかなり長期間の入院が必要となり、医療資源を占有してしまうのも特徴だ。それによってほかの患者さんの医療を提供できなくなるリスクがある。だが、逆に言えば、これらのことにしっかり対処すれば、さほど新型コロナを恐れる必要はない。つまり、リスクの高いところに集中投資することが重要で、そうすれば経済との両立は可能ということだ。


――国民全体にまんべんなくではなく、的を絞った対策が重要ですね。


1つは、ウイルスの拡散源となる「夜の街」での対策。もう1つは、重症化リスクの高い人に感染が広がらないようにする対策。後者のためには、医療機関や高齢者施設などで予防用の設備や検査機器・体制に集中してお金を投じる必要がある。クラスター対策や検査などの業務でパンクしがちな保健所の体制強化も重要だ。


 ◇ コロナ重症者用病床の確保にインセンティブを


――重症者用の病床確保策についても提言されていますね。


高リスクのところで対策を行っても、どこかで漏れが生じれば重症者は一気に増えかねない。重症者に対応する病床が不足することが医療崩壊を引き起こす最大の原因であるため、そこへの対応も不可欠だ。医療崩壊まで行ってしまうと、地域経済を止めざるをえなくなる。経済停止のコストを考えれば、コロナに対応できる病床を確保することのベネフィットの大きさがわかるだろう。


残念ながら現在は、コロナ対策用に病床を空けることと、ほかの疾患のために病床を空けることでは、後者のほうが医療機関の収益にとってメリットが大きい制度になっている。そのため、私は医療機関のインセンティブ構造を変える財政支援が必要だと提言している。


――コロナ禍によって受診抑制が起き、経営難に陥る町のクリニックも増えています。破綻が相次げば、地域医療の受け皿が毀損してしまいます。


そうしたクリニックになぜ患者が行かないかと言えば、感染症対策に不安があるからだろう。クリニックや医療機関が感染症対策をしっかり行うことを目的としてお金を使うべきだと分科会で議論している。経営危機だから一律にクリニックへ補助金を出すというのではなく、財政支援のあり方を考えるべきだろう。

2020年9月4日金曜日

後期高齢ステイホームズの冒険

 昨日(9/3)、何ヶ月ぶりかで電車に乗った。埼玉の東京出張所「いけぶくろ」で、映画を見るため。何しろ、コロナウィルス騒ぎになった3月から一度、やむを得ず大宮まで乗っただけ。

 それ以前は、70歳ころには月に1000km使っていた車も月400kmほど。できるだけ電車やバスを使うようにしてきた。高齢者の運転が危ういと世間様からうるさく言われはじめたからでもあった。山の会の人たちも、私が75歳を超えてからは私の車に同乗しなくなった。それはそれで、運転する私としては気持ちがいいことだったが、山行計画は電車やバス、せいぜい現地に近い地点からレンタカーを借りることが多くなった。それもコロナウィルスで一転した。移動は、車ばかりになった。

 

 ステイホームズの後期高齢者にとって今、電車に乗って池袋に行くことは大した冒険である。そんなに面白い映画なの? 

 そうなんです。池袋の映画館でイギリスの劇場で観る演劇を映像化して上映している。ナショナル・シアター・ライブ(NTL)の『リーマン・トリロジー』(原題:THE LEHMAN TRILOGY)。

 ロンドンのピカデリー劇場で上演されたものの「録画」といえば録画なのだが、歌舞伎座のそれを映像化したと言えば、分かるかもしれない。じっさいの劇場でみているよりも間近に、特等席で、ときにオペラグラスを目に当ててみているような迫力があった。映画の料金も通常の2倍。なるほどそれだけ払ってもしょうがないと思う出来栄えであった。

 

 舞台そのものが素通し矩形の骨格だけの立体。それが、まわる。その背景の画像が大画面の海であり、荒野であり、大都会であり、綿花畑であるという自在の展開によって、置かれている状況を見事に象徴する演出が舞台に集中させる。ときどき右下に生の演奏をするピアニストの姿が映る。観劇する人々の拍手や笑いが響き、「休憩」に入ると劇場の二階席をふくめた人々の様子と喧騒も、あたかもその場にいるように垣間見せる。

 「こんな映画をやってるよ」という友人の紹介を受けて、カミサンが行かないかと誘う。私のコロナ電車忌避症を知っているからだ。7月以来、映画館に足を運んでいない。

 もう一つ私には動機があった。コロナウィルスがやってきて、友人の脚本家・舞台監督の主宰する劇団ぴゅあの今年2月公演が中止になった。2019年1月の公演を見過ごしていたから、私にとっては2年の空白の後のピュア公演だったのだが、それがコロナ禍の関係でみられなくなった。今度観ることのできる期間も、この先見当がつかない。この後演劇界はどうするだろうと考えていたとき、劇団ぴゅあが画像を使っていたことに思い当たった。あれを上手に使えば、無観客で上演して画像にすればできるんじゃないか。

 でもそうしたとき、テレビドラマとどこが違うか。それが浮かび上がる映像でないと、二番煎じになる。そんなことを考えていたから、そのあたりも見てこようと重い腰を上げたわけだ。

 

 面白かった。素材そのものは19世紀半ばにニューヨークに渡ってから21世紀初めころのリーマン・ショックまでの、リーマン・ブラザーズの辿った道を凝縮したものである。ユダヤ人という背負った重荷と新天地アメリカの対比、南北戦争、世界大戦、1929年の世界大恐慌と辿り、大富豪の仲間入りをしてきたリーマンブラザーズが、2008年の「リーマン・ショック」で破綻するまでの流れを追うとなれば、主舞台は映像の世紀。当然残された映像もあまたあったはず。

 しかし、映画やテレビドラマであれば取り入れたであろう場面を切り捨てて、言葉と出演者の動きで補って素早い展開を仕掛けていく。ほとんど絶え間なしに舞台の素通し矩形が回転して、わずか3人しか登場していない俳優の、いま誰がどこへ向かって言葉を継いでいるかを示すように、画面は変わる。ピアノのバックミュージックが「4人目の登場者」のように、舞台回しの役を務めている(と後で、ピアニストを評価するコメントが組み込まれている)。

 

 演劇というのは、省略の芸術だ。省略の間を、出演者と観客の共有する「空気/せかい」がつなぐ。その橋渡しを読み取るのが、台本と演出と役者の演技といえようか。観客の拍手や笑いが画像に組み込まれるわけが分かる。あれは、「空気/せかい」のレベルの確認なのだ。映像で観ている人にも、それを求めている。

 その省略が極端になるほど、観客の加担する領分が増える。それは、演者にとっても観ているものにとってもスリリングな遊びにほかならない。ぼんやりしていては、置いていかれる。ぼんやり演じていては、浮いてしまう。


 第一部から第三部までの幕間の間に「休憩」が2回含まれる。映画には「休憩」に加えてピアニストや出演者の制作秘話が差しはさまれ、いかにも今風のつくりにしている。221分と、舞台の公演時間を記しているが、実際の映画は11時半に始まり、3時20分に終わった。制作秘話や予告のコマーシャルなどもあったから3時間50分となったのだろう。ぼんやりする暇もない緊迫感が持続した。日本語字幕があったから分かりやすく受け止めることができたことは、いうまでもない。

 それにしても観客には、若い人たち、ことに女性が多い。池袋の映画館は、ひと席ずつ開けて座るようにセットしており、チケットの予約・購入、あるいは入口で消毒したりすることも、すっかり定着している。コロナウィルス時代の映画館の営業スタイルが決まってきているようであった。

 そうそう、一つ印象的なコト。シネ・リーブル池袋という映画館はルミネ八階にあると、ネットで確かめて出かけた。ルミネの8階で、はてどこだろうと、手近の店番をしている女の子に聴いた。彼女は「えっ、ここにはないですよ。違う階じゃないですか」と応える。「まいったねえ」と探そうとしたら、後からエプロンをした女性が「この先、左側にありますよ」と教えてくれた。ほんの20メートル先の映画館のことを、おしゃれなレストランの店員が知らない! これは、ひとつの発見であった。都会って、そういうものなんだよね。

 知る人ぞ知る。知らない人は知らない。

 だから、何? ってわけね。

2020年9月3日木曜日

パターン化する人間認識

 昨日(9/2)の「自己完結する話は、なぜ面白くないか」に少し続ける。

 ベースとしている領野は脳科学とか言語学とかヒトの感性領域の解析であり、とりあげている素材はまさしくニンゲン。私の関心領域とも重なるのだが、読みすすむにつれて(なんだかなあ)という違和感が膨らむのは、なぜか。昨日はそれを、私の期待からズレると見立てた。だがよく考えてみると、ベースと素材の見立てとの間の乖離というよりも、素材のニンゲンに対する見方が出口のないパターンに封じ込められているからではないか。

 黒川伊保子の体験というのならエッセイとは言え、一片の小説を読むように読みすすめることができる。実際そのように思われる男と女の話、夫と妻の話は各所に現れる。思い入れや傾きがあっても一向にかまわない。その人の考えなのだから。

 ところが脳科学や言語学の研究成果として語りだされると、どうしてニンゲンは「モテるモテない」に集約されるのかが、わからない。「機嫌を損なう損なわない」が主題になるのかもわからない。もちろん、そういう限定場面だけを取り上げているというのなら、それはそれで構わないと思うのに、なぜか、そこに閉じ込められるような息苦しさを感じる。その「主題」そのものに私の内部の何かが反応しているのだろうか。それらがいつしか「7年毎の脳の大転換」と結びつくと、もっとちゃんと根拠を聞かせてよとも思う。

 

 音韻学的な言語論へのアプローチは面白い。ドイツ語の、子音を主とする発音と日本語の母音を軸とする言葉の形成とが、乳児のときのミルクの吸い口(「乳首」と黒川伊保子はいう)の形と硬さの違いの考察も面白い。日本語の音訓の音の違いと言葉の公私の違いへの着想も興味深い。にもかかわらず、日本語とイタリア語の近接を「麺の茹で方の違い」が分かるかわからないかとか、「食感の好みの一致」とかに終結すると、この人は何を実人生としたうえで研究活動をしているのだろうと思ってしまう。単なる関心の違いが、私と合わないだけなのだろうか。

 そんなことを考えていたら、今朝(9/3)の新聞の「折々のことば」にこんな言葉が引用されていた。


《シャレルとジャレルと発音の区別を意識することにより、意義が分かれて来た。――鈴木棠三》

                                                                                         

 そして引用者の鷲田清一は、こう続ける。


《平安語のザル(戯)には①ふざける、②機転がきく、③くだけた感じ、④風雅な趣などの意味があったが、清音化してサル(曝・晒)とも交わっていた。中世になるとそれがジャレルとシャレルになり、前者は①に、後者は②③④へと意味を分化させたと、国文学者はいう。おしゃれは戯れにも髑髏(しゃれこうべ)の晒(さ)れにも通じる。死と遊びがそこで結びつく。深い。『ことば遊び』から》


 黒川伊保子の音韻の展開の行きつく先と、鈴木棠三の言葉に触発された鷲田の解釈の行きつく先の違いは何か。黒川のそれは、ふ~ん、オモシロイ、で終わる。だが鷲田のそれは、そこから「わたし」の裡側での広がりがはじまる。その、「終わるかはじまるか」の違いが、自己完結するだけの話か、その話の提示者とのやりとりが引き続き心裡に抱かれるかの違いだ。同じようにオモシロイと感じても、その先が解き放たれるか、閉じて終わるかで、本の印象ってのは、ずいぶんと違ったものになる。著者に対する印象も、すっかり異なってくる。

 そこで感じるオモシロイは、じつは自分の姿をみていることだということも、尾を引く感懐である。

2020年9月2日水曜日

自己完結する話は、なぜ面白くないか

 ご近所の方が「こんな面白い本がありましたが、いかがでしょう」と、山際寿一の書いた本をうちのカミサンに手渡し、それを私も読んで、返信を書いたことは、先月記した。すると次いで、「こんな本もありますが」と2冊渡して来た。活字そのものに中毒のようになっているせいもあるが、やはり山際寿一の本と脳科学の本と分かり、カミサンが読んでいた。黒川伊保子『脳成熟』(新潮文庫、2018年)。読みながら「でも、この人のは嫌いだな」という。

「どうして?」

「う~ん、どうしてだか。自己完結している。」

「うん? どういうこと?」

「うまく解析できないけど、でも、いやだな」

「その、いやだなというわけを言葉にできたら、批評が成立するんだよね」

「・・・・」


 そういうわけで、カミサンが読み終わってから私が目を通した。あっ、自己完結するってこういうことだったのか、と思った。

 まず、脳科学の本だと思ったのは、タイトルをみた私の誤解。「女性脳」はこれこれこういう傾きがある、「男性脳」にはかくかくしかじかの特性があると紹介し、その特徴を踏まえて女性や男性と向き合うのに、このようなすれ違いが生じる、誤解が生まれると、披瀝する。この方は脳科学の専門家ではないのかと、改めて経歴を見返す。

 大学は物理学科、メーカーでAIの研究に携わるとある。本文中に言葉や感性に関する関心をもって仕事をしてきたとか、ドイツの何かで研究活動をしていたらしいとわかる。だが、脳科学の研究結果をどのように汲み取って、そう考えてきたか、そう信じてきたかということには、何処にも触れていない。黒川伊保子の脳科学研究結果の何を信頼しているかは書きこまれいるが、そのプロセスは一切現れないから、読者にとっては「信じるか信じないか」しかない。しかもそこから繰り出されることばは、男と女のこと、夫と妻のこと、親と子のこと、力関係のことなどなど、世間話の話題に振って、脳の特性からしてこうした方がいい、ああするのはまずいと教えてくれている。

 上から目線ということについても、人を保護的に見る立ち位置に立てば、相手に合わせて自らを処することができるから、悪いわけじゃない。通常謂われる「上から目線」は、むしろ他者と対応になって五分に構えているのに優位に立とうとするから、いやらしい「上から目線」にみえる。他者を保護的にみなさいと、しっかり論理的に展開する。その視線が欠かせないことは、自分を対象としてみるときに最も強く感じる。つまり保護的にみている「わたし」は、仮構点だという忸怩たる自戒である。

 起点が「信じるか信じないか」からはじまって、世俗の読み物らしく、いかにも俗受けするような話に振りながら、脳科学のことを何も知らない読者に教えてくれる。この方に強い関心を持つ人でなければ、何でこんな決めつけるようなお説教をよんでるんだ、オレって思うわ。私なら、脳科学の研究結果のどのようなプロセスを経て「男性脳」「女性脳」の特性が割り出されてきたかを、効かせてもらいたかった。脳の7年ごとの構造変化というのも、面白い。それを伝統的な小学校入学6~7歳、中学の3年14~15歳、大学卒業の21~22歳とか、「7歳までは神の裡」という俚諺に託してしまわないで、56歳からの脳の本番まで論証的に進めてもらうと、読みごたえもあったろう。言語学を勉強したのであれば、7年毎に脳が変化展開する過程で、言語がどう組み込まれ、組み替えられ、どの地点で「こども脳」が「大人脳」にどう変わってくるのかを、もう少し構造的に教えてもらいたかったなあ。ぴょんぴょんとご自分の世界を跳んで、ホラって、見栄え良く見せるのが、この方の今経営する会社にとっては重要なのかもしれないが、モノを読むというのは、セッションである。知的世界をベースにするのなら、その世界を歩いている魅力を提示して、読者がそれを鏡にして自らの「せかい」を対象化するようになってこそのセッションではないか。

 ま、これも、新潮社の、あるいはその元になった雑誌などの編集者の企画に応えたものだから、どなたにも興味を惹くようには書けませんねというのかもしれない。だが、著者紹介の欄に記載された既刊書のタイトルをみる限りでは、そうした深みに踏み込んだ書名は見当たらなかった。

 この方は、脳科学と世俗世界とをつなぐ語り部ではない。脳科学の高みから世俗世界の右往左往しているのを睥睨して、正解を提示してみせている宗教的リーダーだと思った。無論そういう存在が無意味というわけではなかろう。むしろ私のように「信じる根拠」を求める方が稀有なのかもしれないから、当然私の主張が少数派かもしれない。読む人が読めば、黒川伊保子の世界も楽しむことができるに違いない。

 

 そうしてひとつ気づいたこと。作家のモノする作品というのは、読後であれ、読みながらであれ、読者の内心と言葉を交わす必要がある。作家の設定するフィクション世界が、読者の抱いている現実世界とどこかで交差し、どこかにその展開の蓋然性に頷きながら読みすすめてもらう仕掛けが欠かせない。しかもそれが、読者の世界を批判する要素を持っていて、後はご自分の(考える)世界よと突き放してこそ、読んだ甲斐があろうというものだ。

 自己完結する世界というのは、自己を対象化してみせていない。展開する世界の、外とか下とかに別様の営みがあることを、しかもそれがそれなりの根拠をもって存在することを、そこはかとなく想定していることが、人が生きるということには欠くことができないと思う。

2020年9月1日火曜日

三猿・四猿の教えは、何処へ?

 桐野夏生『猿の見る夢』(講談社、2016年)を読む。2013年から2014年にかけて週刊誌に連載した作品だから、この作家の胸中には、2011・3・11の残響が残っていたはずだ。にもかかわらず、一切そういう社会的気配は描き込まれていない。書かないことが、最も伝えたいこと。

 

 舞台は、現在。週刊紙ばかりか、TVでも街でもヒトの欲望満開の話題ばかり。

 登場人物も、普通の人たち。というか、大きな企業の会長、社長、秘書、安定企業に勤める40歳代の奔放な独身女性、大した資産を受け継いだ老母の世話をする娘夫婦に取り囲まれた、ファッション企業に銀行から出向してきた平取役員とその奥さま。普通というよりは、そのちょっと上の階層の人たち。切りとる場面は、ごくごくの日常。老母の葬儀くらい。つまり今の世の中を動かしている主流の人たちの日常が取り出されて、平凡なリビングやレストランや会長室や愛人宅などなどの、ごく普通の場面でのやりとり。今の時代の断片を切りとって、提示する。

 

 それのどこが「サルの夢なの?」と、タイトルをみて手に取った読者は思う。

 人びとは自分の欲望のままに生きている。オシャレなものを身につけ、おいしいものを食べ、ゴルフやセックスを楽しみ過ごす。ちょっと心裡に掘り下げてみると、美人に目が行き、出世を望み、お金にはいつ知らず心惹かれ、でもその「わたし」が世に広まるのは迷惑する。そこにこだわる自分がなんともみっともなく現れている。なんだ、これって、サルそのものじゃないか。「サルの夢」って何よ。

 

 桐野夏生の「夢」への跳躍は、日光東照宮の「三猿」に隠された「四猿」があったと「うわさ」投げ込んで、物語りを展開する駆動力による。「三猿」も隠された「四猿」も、左甚五郎が何を託し、何を意味し、なぜ隠されたのか? むろんこの小説は、ちらりとこの辺りに触れるだけで、すべては隠される。どこが読む者の愉しみでしょ、と作者が語り掛けているようである。

 そういうわけで、「サルの夢」はただ単に舞台回しに過ぎないから、物語りが終結するところで、すべてが揮発するように消えてしまうというのも、ストーリーテラー・桐野の真骨頂というところか。

 

 さて、で、なにが本書のテーマか。それは「三猿」「四猿」に触れないでは語れない。でも触れると、この作品を読んで読者が愉しむところを謎解きしてしまう。それではあまりにラチもない。今の時代、あまりに「三猿」「四猿」から遠くなってしまった。

 そんなことを、間もなくこの世をサル立場の私が眺め渡しながら、ヒトもサルもたいして変わりないなと振り返って遠望している次第。いや、はや。