2020年9月2日水曜日

自己完結する話は、なぜ面白くないか

 ご近所の方が「こんな面白い本がありましたが、いかがでしょう」と、山際寿一の書いた本をうちのカミサンに手渡し、それを私も読んで、返信を書いたことは、先月記した。すると次いで、「こんな本もありますが」と2冊渡して来た。活字そのものに中毒のようになっているせいもあるが、やはり山際寿一の本と脳科学の本と分かり、カミサンが読んでいた。黒川伊保子『脳成熟』(新潮文庫、2018年)。読みながら「でも、この人のは嫌いだな」という。

「どうして?」

「う~ん、どうしてだか。自己完結している。」

「うん? どういうこと?」

「うまく解析できないけど、でも、いやだな」

「その、いやだなというわけを言葉にできたら、批評が成立するんだよね」

「・・・・」


 そういうわけで、カミサンが読み終わってから私が目を通した。あっ、自己完結するってこういうことだったのか、と思った。

 まず、脳科学の本だと思ったのは、タイトルをみた私の誤解。「女性脳」はこれこれこういう傾きがある、「男性脳」にはかくかくしかじかの特性があると紹介し、その特徴を踏まえて女性や男性と向き合うのに、このようなすれ違いが生じる、誤解が生まれると、披瀝する。この方は脳科学の専門家ではないのかと、改めて経歴を見返す。

 大学は物理学科、メーカーでAIの研究に携わるとある。本文中に言葉や感性に関する関心をもって仕事をしてきたとか、ドイツの何かで研究活動をしていたらしいとわかる。だが、脳科学の研究結果をどのように汲み取って、そう考えてきたか、そう信じてきたかということには、何処にも触れていない。黒川伊保子の脳科学研究結果の何を信頼しているかは書きこまれいるが、そのプロセスは一切現れないから、読者にとっては「信じるか信じないか」しかない。しかもそこから繰り出されることばは、男と女のこと、夫と妻のこと、親と子のこと、力関係のことなどなど、世間話の話題に振って、脳の特性からしてこうした方がいい、ああするのはまずいと教えてくれている。

 上から目線ということについても、人を保護的に見る立ち位置に立てば、相手に合わせて自らを処することができるから、悪いわけじゃない。通常謂われる「上から目線」は、むしろ他者と対応になって五分に構えているのに優位に立とうとするから、いやらしい「上から目線」にみえる。他者を保護的にみなさいと、しっかり論理的に展開する。その視線が欠かせないことは、自分を対象としてみるときに最も強く感じる。つまり保護的にみている「わたし」は、仮構点だという忸怩たる自戒である。

 起点が「信じるか信じないか」からはじまって、世俗の読み物らしく、いかにも俗受けするような話に振りながら、脳科学のことを何も知らない読者に教えてくれる。この方に強い関心を持つ人でなければ、何でこんな決めつけるようなお説教をよんでるんだ、オレって思うわ。私なら、脳科学の研究結果のどのようなプロセスを経て「男性脳」「女性脳」の特性が割り出されてきたかを、効かせてもらいたかった。脳の7年ごとの構造変化というのも、面白い。それを伝統的な小学校入学6~7歳、中学の3年14~15歳、大学卒業の21~22歳とか、「7歳までは神の裡」という俚諺に託してしまわないで、56歳からの脳の本番まで論証的に進めてもらうと、読みごたえもあったろう。言語学を勉強したのであれば、7年毎に脳が変化展開する過程で、言語がどう組み込まれ、組み替えられ、どの地点で「こども脳」が「大人脳」にどう変わってくるのかを、もう少し構造的に教えてもらいたかったなあ。ぴょんぴょんとご自分の世界を跳んで、ホラって、見栄え良く見せるのが、この方の今経営する会社にとっては重要なのかもしれないが、モノを読むというのは、セッションである。知的世界をベースにするのなら、その世界を歩いている魅力を提示して、読者がそれを鏡にして自らの「せかい」を対象化するようになってこそのセッションではないか。

 ま、これも、新潮社の、あるいはその元になった雑誌などの編集者の企画に応えたものだから、どなたにも興味を惹くようには書けませんねというのかもしれない。だが、著者紹介の欄に記載された既刊書のタイトルをみる限りでは、そうした深みに踏み込んだ書名は見当たらなかった。

 この方は、脳科学と世俗世界とをつなぐ語り部ではない。脳科学の高みから世俗世界の右往左往しているのを睥睨して、正解を提示してみせている宗教的リーダーだと思った。無論そういう存在が無意味というわけではなかろう。むしろ私のように「信じる根拠」を求める方が稀有なのかもしれないから、当然私の主張が少数派かもしれない。読む人が読めば、黒川伊保子の世界も楽しむことができるに違いない。

 

 そうしてひとつ気づいたこと。作家のモノする作品というのは、読後であれ、読みながらであれ、読者の内心と言葉を交わす必要がある。作家の設定するフィクション世界が、読者の抱いている現実世界とどこかで交差し、どこかにその展開の蓋然性に頷きながら読みすすめてもらう仕掛けが欠かせない。しかもそれが、読者の世界を批判する要素を持っていて、後はご自分の(考える)世界よと突き放してこそ、読んだ甲斐があろうというものだ。

 自己完結する世界というのは、自己を対象化してみせていない。展開する世界の、外とか下とかに別様の営みがあることを、しかもそれがそれなりの根拠をもって存在することを、そこはかとなく想定していることが、人が生きるということには欠くことができないと思う。

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