2020年9月1日火曜日

三猿・四猿の教えは、何処へ?

 桐野夏生『猿の見る夢』(講談社、2016年)を読む。2013年から2014年にかけて週刊誌に連載した作品だから、この作家の胸中には、2011・3・11の残響が残っていたはずだ。にもかかわらず、一切そういう社会的気配は描き込まれていない。書かないことが、最も伝えたいこと。

 

 舞台は、現在。週刊紙ばかりか、TVでも街でもヒトの欲望満開の話題ばかり。

 登場人物も、普通の人たち。というか、大きな企業の会長、社長、秘書、安定企業に勤める40歳代の奔放な独身女性、大した資産を受け継いだ老母の世話をする娘夫婦に取り囲まれた、ファッション企業に銀行から出向してきた平取役員とその奥さま。普通というよりは、そのちょっと上の階層の人たち。切りとる場面は、ごくごくの日常。老母の葬儀くらい。つまり今の世の中を動かしている主流の人たちの日常が取り出されて、平凡なリビングやレストランや会長室や愛人宅などなどの、ごく普通の場面でのやりとり。今の時代の断片を切りとって、提示する。

 

 それのどこが「サルの夢なの?」と、タイトルをみて手に取った読者は思う。

 人びとは自分の欲望のままに生きている。オシャレなものを身につけ、おいしいものを食べ、ゴルフやセックスを楽しみ過ごす。ちょっと心裡に掘り下げてみると、美人に目が行き、出世を望み、お金にはいつ知らず心惹かれ、でもその「わたし」が世に広まるのは迷惑する。そこにこだわる自分がなんともみっともなく現れている。なんだ、これって、サルそのものじゃないか。「サルの夢」って何よ。

 

 桐野夏生の「夢」への跳躍は、日光東照宮の「三猿」に隠された「四猿」があったと「うわさ」投げ込んで、物語りを展開する駆動力による。「三猿」も隠された「四猿」も、左甚五郎が何を託し、何を意味し、なぜ隠されたのか? むろんこの小説は、ちらりとこの辺りに触れるだけで、すべては隠される。どこが読む者の愉しみでしょ、と作者が語り掛けているようである。

 そういうわけで、「サルの夢」はただ単に舞台回しに過ぎないから、物語りが終結するところで、すべてが揮発するように消えてしまうというのも、ストーリーテラー・桐野の真骨頂というところか。

 

 さて、で、なにが本書のテーマか。それは「三猿」「四猿」に触れないでは語れない。でも触れると、この作品を読んで読者が愉しむところを謎解きしてしまう。それではあまりにラチもない。今の時代、あまりに「三猿」「四猿」から遠くなってしまった。

 そんなことを、間もなくこの世をサル立場の私が眺め渡しながら、ヒトもサルもたいして変わりないなと振り返って遠望している次第。いや、はや。

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