2020年9月3日木曜日

パターン化する人間認識

 昨日(9/2)の「自己完結する話は、なぜ面白くないか」に少し続ける。

 ベースとしている領野は脳科学とか言語学とかヒトの感性領域の解析であり、とりあげている素材はまさしくニンゲン。私の関心領域とも重なるのだが、読みすすむにつれて(なんだかなあ)という違和感が膨らむのは、なぜか。昨日はそれを、私の期待からズレると見立てた。だがよく考えてみると、ベースと素材の見立てとの間の乖離というよりも、素材のニンゲンに対する見方が出口のないパターンに封じ込められているからではないか。

 黒川伊保子の体験というのならエッセイとは言え、一片の小説を読むように読みすすめることができる。実際そのように思われる男と女の話、夫と妻の話は各所に現れる。思い入れや傾きがあっても一向にかまわない。その人の考えなのだから。

 ところが脳科学や言語学の研究成果として語りだされると、どうしてニンゲンは「モテるモテない」に集約されるのかが、わからない。「機嫌を損なう損なわない」が主題になるのかもわからない。もちろん、そういう限定場面だけを取り上げているというのなら、それはそれで構わないと思うのに、なぜか、そこに閉じ込められるような息苦しさを感じる。その「主題」そのものに私の内部の何かが反応しているのだろうか。それらがいつしか「7年毎の脳の大転換」と結びつくと、もっとちゃんと根拠を聞かせてよとも思う。

 

 音韻学的な言語論へのアプローチは面白い。ドイツ語の、子音を主とする発音と日本語の母音を軸とする言葉の形成とが、乳児のときのミルクの吸い口(「乳首」と黒川伊保子はいう)の形と硬さの違いの考察も面白い。日本語の音訓の音の違いと言葉の公私の違いへの着想も興味深い。にもかかわらず、日本語とイタリア語の近接を「麺の茹で方の違い」が分かるかわからないかとか、「食感の好みの一致」とかに終結すると、この人は何を実人生としたうえで研究活動をしているのだろうと思ってしまう。単なる関心の違いが、私と合わないだけなのだろうか。

 そんなことを考えていたら、今朝(9/3)の新聞の「折々のことば」にこんな言葉が引用されていた。


《シャレルとジャレルと発音の区別を意識することにより、意義が分かれて来た。――鈴木棠三》

                                                                                         

 そして引用者の鷲田清一は、こう続ける。


《平安語のザル(戯)には①ふざける、②機転がきく、③くだけた感じ、④風雅な趣などの意味があったが、清音化してサル(曝・晒)とも交わっていた。中世になるとそれがジャレルとシャレルになり、前者は①に、後者は②③④へと意味を分化させたと、国文学者はいう。おしゃれは戯れにも髑髏(しゃれこうべ)の晒(さ)れにも通じる。死と遊びがそこで結びつく。深い。『ことば遊び』から》


 黒川伊保子の音韻の展開の行きつく先と、鈴木棠三の言葉に触発された鷲田の解釈の行きつく先の違いは何か。黒川のそれは、ふ~ん、オモシロイ、で終わる。だが鷲田のそれは、そこから「わたし」の裡側での広がりがはじまる。その、「終わるかはじまるか」の違いが、自己完結するだけの話か、その話の提示者とのやりとりが引き続き心裡に抱かれるかの違いだ。同じようにオモシロイと感じても、その先が解き放たれるか、閉じて終わるかで、本の印象ってのは、ずいぶんと違ったものになる。著者に対する印象も、すっかり異なってくる。

 そこで感じるオモシロイは、じつは自分の姿をみていることだということも、尾を引く感懐である。

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