2020年9月4日金曜日

後期高齢ステイホームズの冒険

 昨日(9/3)、何ヶ月ぶりかで電車に乗った。埼玉の東京出張所「いけぶくろ」で、映画を見るため。何しろ、コロナウィルス騒ぎになった3月から一度、やむを得ず大宮まで乗っただけ。

 それ以前は、70歳ころには月に1000km使っていた車も月400kmほど。できるだけ電車やバスを使うようにしてきた。高齢者の運転が危ういと世間様からうるさく言われはじめたからでもあった。山の会の人たちも、私が75歳を超えてからは私の車に同乗しなくなった。それはそれで、運転する私としては気持ちがいいことだったが、山行計画は電車やバス、せいぜい現地に近い地点からレンタカーを借りることが多くなった。それもコロナウィルスで一転した。移動は、車ばかりになった。

 

 ステイホームズの後期高齢者にとって今、電車に乗って池袋に行くことは大した冒険である。そんなに面白い映画なの? 

 そうなんです。池袋の映画館でイギリスの劇場で観る演劇を映像化して上映している。ナショナル・シアター・ライブ(NTL)の『リーマン・トリロジー』(原題:THE LEHMAN TRILOGY)。

 ロンドンのピカデリー劇場で上演されたものの「録画」といえば録画なのだが、歌舞伎座のそれを映像化したと言えば、分かるかもしれない。じっさいの劇場でみているよりも間近に、特等席で、ときにオペラグラスを目に当ててみているような迫力があった。映画の料金も通常の2倍。なるほどそれだけ払ってもしょうがないと思う出来栄えであった。

 

 舞台そのものが素通し矩形の骨格だけの立体。それが、まわる。その背景の画像が大画面の海であり、荒野であり、大都会であり、綿花畑であるという自在の展開によって、置かれている状況を見事に象徴する演出が舞台に集中させる。ときどき右下に生の演奏をするピアニストの姿が映る。観劇する人々の拍手や笑いが響き、「休憩」に入ると劇場の二階席をふくめた人々の様子と喧騒も、あたかもその場にいるように垣間見せる。

 「こんな映画をやってるよ」という友人の紹介を受けて、カミサンが行かないかと誘う。私のコロナ電車忌避症を知っているからだ。7月以来、映画館に足を運んでいない。

 もう一つ私には動機があった。コロナウィルスがやってきて、友人の脚本家・舞台監督の主宰する劇団ぴゅあの今年2月公演が中止になった。2019年1月の公演を見過ごしていたから、私にとっては2年の空白の後のピュア公演だったのだが、それがコロナ禍の関係でみられなくなった。今度観ることのできる期間も、この先見当がつかない。この後演劇界はどうするだろうと考えていたとき、劇団ぴゅあが画像を使っていたことに思い当たった。あれを上手に使えば、無観客で上演して画像にすればできるんじゃないか。

 でもそうしたとき、テレビドラマとどこが違うか。それが浮かび上がる映像でないと、二番煎じになる。そんなことを考えていたから、そのあたりも見てこようと重い腰を上げたわけだ。

 

 面白かった。素材そのものは19世紀半ばにニューヨークに渡ってから21世紀初めころのリーマン・ショックまでの、リーマン・ブラザーズの辿った道を凝縮したものである。ユダヤ人という背負った重荷と新天地アメリカの対比、南北戦争、世界大戦、1929年の世界大恐慌と辿り、大富豪の仲間入りをしてきたリーマンブラザーズが、2008年の「リーマン・ショック」で破綻するまでの流れを追うとなれば、主舞台は映像の世紀。当然残された映像もあまたあったはず。

 しかし、映画やテレビドラマであれば取り入れたであろう場面を切り捨てて、言葉と出演者の動きで補って素早い展開を仕掛けていく。ほとんど絶え間なしに舞台の素通し矩形が回転して、わずか3人しか登場していない俳優の、いま誰がどこへ向かって言葉を継いでいるかを示すように、画面は変わる。ピアノのバックミュージックが「4人目の登場者」のように、舞台回しの役を務めている(と後で、ピアニストを評価するコメントが組み込まれている)。

 

 演劇というのは、省略の芸術だ。省略の間を、出演者と観客の共有する「空気/せかい」がつなぐ。その橋渡しを読み取るのが、台本と演出と役者の演技といえようか。観客の拍手や笑いが画像に組み込まれるわけが分かる。あれは、「空気/せかい」のレベルの確認なのだ。映像で観ている人にも、それを求めている。

 その省略が極端になるほど、観客の加担する領分が増える。それは、演者にとっても観ているものにとってもスリリングな遊びにほかならない。ぼんやりしていては、置いていかれる。ぼんやり演じていては、浮いてしまう。


 第一部から第三部までの幕間の間に「休憩」が2回含まれる。映画には「休憩」に加えてピアニストや出演者の制作秘話が差しはさまれ、いかにも今風のつくりにしている。221分と、舞台の公演時間を記しているが、実際の映画は11時半に始まり、3時20分に終わった。制作秘話や予告のコマーシャルなどもあったから3時間50分となったのだろう。ぼんやりする暇もない緊迫感が持続した。日本語字幕があったから分かりやすく受け止めることができたことは、いうまでもない。

 それにしても観客には、若い人たち、ことに女性が多い。池袋の映画館は、ひと席ずつ開けて座るようにセットしており、チケットの予約・購入、あるいは入口で消毒したりすることも、すっかり定着している。コロナウィルス時代の映画館の営業スタイルが決まってきているようであった。

 そうそう、一つ印象的なコト。シネ・リーブル池袋という映画館はルミネ八階にあると、ネットで確かめて出かけた。ルミネの8階で、はてどこだろうと、手近の店番をしている女の子に聴いた。彼女は「えっ、ここにはないですよ。違う階じゃないですか」と応える。「まいったねえ」と探そうとしたら、後からエプロンをした女性が「この先、左側にありますよ」と教えてくれた。ほんの20メートル先の映画館のことを、おしゃれなレストランの店員が知らない! これは、ひとつの発見であった。都会って、そういうものなんだよね。

 知る人ぞ知る。知らない人は知らない。

 だから、何? ってわけね。

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