烈しい雨の音で目が覚める。台風10号はまだ奄美・吐噶喇群島の辺りなのに、関東地方にも雨をもたらしている。朝4時。起きて新聞を開く。このところ新聞は朝刊も夕刊も、毎日薄いビニールに包まれている。予報が雨だと、配達のときに濡れてしまうと想定するからだろう。気象関係者は「私雨」と呼ぶらしい。ごく限られた地域に降る雨のことらしい。観測技術が詳細化してきて、綿密な予報が可能になったからのようだが、天気予報をみて山歩きをするようにしていると、その予報表示がほんの夜中の一瞬であっても「70%」とか「80%」と出されるから、腰が引けていけない。やはり山歩きは、「雨男」と言われようと、若干の雨は覚悟して歩くようでなくてはダメだなと思う。
朝刊を読む。今朝の訃報は、73歳と78歳。前者は国際的な活躍をした男性のダンサー、後者はハウステンボスの創業者だという。団塊の世代の弟と同年生れと私と同年生れ。私たちの寿命が近づいてきていることを、こうやって予告され、予感する。ぼちぼちだんな。
その脇に、志村けんに関する誰かのコメントがあった。近頃志村けんの姿をTVでも、よく見かける。昨日もチンパンジーと手をつないで、旅をしている映像が流れていた。死ぬといきなり評価が固まるというか高まるというか。お笑いの下地に芸術的な達観があったとか、人柄が好ましいとなる。生前彼の出演する番組のやんちゃぶりが度を越していると非難轟轟出会ったのが、嘘のように。でも、これこそ、彼岸からの目線で此岸をみるから。遠近法的消失点から現在を観ている自分を、意識しなさいということではないか。つまり、その視線が良いとか悪いとかいうことではなく、日ごろ私たちが忘れていることを、死者が思い出させてくれている。単なるセンチメンタリズムと謗るなかれ。むしろ伝統的な自己対象法として、哲学的な評価をした方が良いとさえ思う。
日曜日とあって、一週間のコロナウィルスの広がりがまとめられている。じつは隔月に開催していた「36会Seminar」の3月開催予定が、5月、7月と延期になってきた。では、9月は開催できるか。7月の「案内」では開催目安を(会場のある東京都の数値で)、①感染者数が20人以下、②感染経路不明が20%未満、③実行再生産数が1.0以下、と明示した。①は、けた違いになっている。②も、58.7%と、お話しにならない。かろうじて③だけが「0.88」と「1.0」を下回った。東京都は相変わらず「感染拡大」「警報発令」の姿勢を崩していないから、Seminarの開催はムツカシイ。ところが政府は、山を越したとでもいうような受け止め方をしている。どうして?
昨日、政府の専門家会議に参加している大阪大学の行動経済学者が、この夏のウィルス対応を総括して「新型コロナウィルスはある程度制御可能」とする記事があった。要点は以下の通り。
(1)3月には専門家が危機感を強く持っていたのに対して、国民は軽く受けとめていた。だが、7月以降は、それが逆転している。専門家は「ある程度制御できる」と考えるようになったのに、国民は危機感を強めている。
(2)感染クラスターは、夜の町やカラオケなど特定の業種に絞ることができる。スポーツジムや感染対策をしている業種、あるいは公共交通機関では、それほど感染拡大がみられない。湿度が高いと飛沫感染の拡散が抑えられる。
(3)50歳未満では重症化することはほとんどなく、高齢者や重症化する人への重点的な対応が必要。事態がひっ迫している現場医療機関の負担を軽減するための財政支援が、ピンポイントで必要だ。
なるほど「ある程度制御可能」となると、経済振興にも乗り出せる。山を越したような気配の根拠が、これか。だが、現場の地方自治体の首長たちはそれほど楽観していない。たぶん、「ある程度制御可能」というには、その制御に携わる自分たちの行政システムやそれを社会的に浸透させる社会環境やシステムが整っていなければならない。「制御」は机上の理屈じゃない。実務的な展開をするだけの社会的身体と財源をもっていなければ、机上の空論になってしまう。全国民への十万円配布もそう。「接触確認アプリ」を広めるのもそう。安倍政権が交代する今ごろになって政府は、「デジタル化をすすめる」と「公約」している。つまり地方自治体の首長と政府の違いは、実務的な運びができるかどうかの見通しを感じているかどうかによる。とすると、自己判断が求められている私たちは、首長の方を実際的だとみるしかない。
ただ、こうはいえる。
(a)新型コロナウィルスは、高齢者には厳しいが若い人にはさほどの打撃を与えない。
(b)ホモ・サピエンスのスタート地点からみて、何が過剰かを、経済、文化、政治にわたって鳥瞰し、過剰なものを整理して出直せというのが、コロナウィルスが齎した「天の啓示」だ。
(c)ニンゲンの過剰を調整するとしたら、高齢者から身罷るのが順当だ。
つまり、ニンゲンを滅ぼすことなく、ニンゲン社会を再編成をするのに、この新型コロナウィルスは最適な「啓示」となっている。となると私たち高齢者は、静かに退出しようではないか。自らすすんでコロナウィルスの餌食になることはないが、コロナウィルスに見舞われたからといって、騒ぐことではない。静かに受け入れて、彼岸へ旅立とうではないか。カッコよく、そんなことをウィルスとの共生だと考えている。
巨大な台風がやってきている。ニンゲンは自然の子だ。高齢者には、ぼちぼちその秋(とき)が訪れている。
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