2020年10月8日木曜日

山歩きと沈黙

 昨日(10/7)、袈裟丸山1878mに登った。山の会の人たち、高齢者の5人。順調に登り、快適に下山した。登っているときは、列の中ほどからひっきりなしにおしゃべりが聞こえた。植物のこと、山歩きのこと、日頃のトレーニングのこと、コロナ禍になってから姿が見えない山の会の人たちのこと。元気だなあと思いながら最後尾を私は歩く。

 山頂は霧の中。お昼を済ませ、少しばかり雨滴が混ざるようになった。私の前を歩く小柄なysdさんは、段差の大きい急傾斜の足の置き場を細かく探って、ストックを着いて一歩で片足を降ろす私に較べて、苦労している。わりと平坦な尾根歩きになった下山中、暫くおしゃべりが絶えた。

「おしゃべりが絶えましたね」

 とysdさん。皆さんが草臥れてきたことを言おうとしたのだろうか。それとも彼女自身が、疲れてきたことを漂白しようとしたのだろうか。

「山歩きは・・・」

 と言いかけて、ふと、何か大切なことに気づいて、ことばを止めた。それが夜中に思い起こされて、何を言おうとしたんだっけと気になったわけを、今考えている。

                                            *

 草臥れてくると沈黙が訪れるというのは、ま、あたりまえのこと。パッと頭に浮かんだのは、山歩きは「祈りに似ている」ということだったか。どうしてと問われると言葉が継げない。俳人でもあるysdさんは、自分の思いを口にすることはめったにない。後を歩いているからよくわかるのだが、彼女の感懐が、視線と身のこなしに現れる。立ち止まる。身を乗り出すようにしてのぞき込む。その先に、縮こまったような葉をたくさんつけた灌木が楚々と立っている。

「何でしょうね」

 と問う。kwmさんが

「コメツツジって、以前言ってましたよね」

 と、私を振り返る。私はうんうんと頷く。

 石裂山のいくつかあるピークの一つでみつけて「これなんでしょう?」と言葉を交わしたことを思い出す。6月の末の晴の日、翌週の山の下見に行ったら、駐車場にkwさんの車が止まっていた。後を追いかけては追いつけないかもしれない。そう思って私は、予定と逆のルートをたどった。そうして偶然出会ったピークで一緒にお昼を取りながら交わした言葉のひとつが、コメツツジのことであった。もちろん私が知る由もない。写真にとって帰宅後、植物の師匠に訊ねて、そうだろうと同定した。その葉を想い起したわけではない。kwmさんの記憶と慧眼に感嘆していた。

 その先でysdさんは、縮こまっていた茎と葉を伸ばしたのを見つけ、

「ああ、こうなるとわかりますよね」

 と、うれしそうであった。

                                            *

 「祈りに似ている」とはどういうことか。山を歩いていると瞑想しているような気分に陥る。運動生理を専門にする方は、ランニング・ハイと同じという。意識は明瞭。歩いている足元は、しっかりと見ているが、そこに意識を集中している以外のことは、何も考えていない。無念無想というのは何も考えないことだというが、眠っているわけではない。明晰な、一つことに集中した意識の外は、何も胸中にとどめていない様子のこと。それが「祈りに近い」というのは、「なにをお祈りしたのですか」と問われた伊勢神宮の研究者から聞いた言葉だ。

「祈りというのは何も考えていないことです」

 神に何かをお願いするとか、平安を祈るというのは、それ自体が人の分際として過ぎたこと。むしろ何も考えないことこそが、清浄な心持だ、と。

 では、どうして山歩きが「何も考えない」ことに通じるのか。

 山が大自然を現すものであることは、いうまでもない。そこを歩くものは、自らをも大自然の中に組み込んで、その要素として身を溶け込ませる。もちろん無念無想という観念はない。大自然の、さまざまな現れ方が要求してくる足の運び、身の平衡のとり方、呼吸の仕方、溜まる疲れや痛みをとる休憩のとり方などなど、いわば大自然と対峙し、身を馴染ませ、無事の通過を祈るようになる。もちろん大自然は、応えてはくれない。沈黙したままに、向き合うわが身の懸念を浮き彫りにし、不安を増したり、安堵の一呼吸を受け容れたりする。

 人はそれを、レジャーとかリクリエーションと呼んだり、スポーツと名づけたり、場合によっては冒険と褒め称えたりするが、基本的には、大自然にわが身を溶け込ませている作法である。その核心のところが「祈り」と呼ぶほかないたたずまいだと、私は思うようになった。

 欧米的な人間観からすると、自然から切り離された人は、自然を支配する、神から与えられた「意思」として、自らを際立たせる。それは闘いであり、征服であり、「意思」のままに大自然を操る振る舞いである。まず、沈黙はない。いかにして状況を克服するか、言葉にならないものは、ことごとく無用であり、「意思」を体現しないものは、無駄というほかない。そこには、(自然に対する)「祈り」はない。自らが創造した「神」に対する祈りしかない。

 日本人の(と限定していいのかどうかはわからないが)「祈り」は、自らが大自然に溶け込み、一体化する作法が備わっている。そこに、自らを超越する「思念」の根拠がないことを、欧米の知識人は論題として批判するが、逆に彼らは、大自然に対する敬意を(人の卑小さというかたちで)もつことがない。

 自らを溶け込ませた大自然への「祈り」には、大自然に生まれながらそこから身を引きはがし、なおかつ、その一角に自身を溶け込ませようとする、大いなる矛盾が内包されている。そういう矛盾的存在体として現在しているがゆえに、山に向かわないではいられない「思い」が絶えることなく湧き起って来るのではないかと、大自然から離れて都会暮らしをしている私は、思わないではいられない。

 昨日、山を歩きながら、ふと、口を突いて出る言葉を、中途半端にとどめざるを得なかったことを、そのように解きほぐしてみた。

 単独行のときは、もちろんお喋りはしない。だが友人と一緒に登るときには、言葉が交わされる。それが山歩きの中盤どころで沈黙に変わるのは、皆さんの体が大自然に馴染み、祈りに似た沈黙に身も心もひたひたと浸るからではないのか。ただ単に、疲れたからというよりも、沈黙こそがふさわしい次元に到達したからではないのか。そう思うと、黙々と歩くのが、なんとも愛しく、麗しく思えてくる。

2020年10月7日水曜日

目の付け所に舌を巻く

 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』に踏み込もう。

 まず驚いたのは、「動態的平衡」を説くまでに至る彼の関心の在処とその探究の航跡がかっちりと物語り化されていることであった。物語り化するというと、作者の設えた舞台でそれぞれに配置された役者が立ち回り、出来レースのように話が収斂していくと考えがちだが、これはそうではない。

 福岡伸一の関心の置きどころは「生命とは何かという問題」。それについて彼は、


《結局、明示的な、つまりストンと心に落ちるような答えをつかまえられないまま今日に至ってしまった気がする》


 と率直に吐露する。そう言っておいて、こう続ける。


《生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである》


 感嘆したのは、後者の引用のような「結論」に至りながら、なお、前者の引用のように「答えをつかまえられないまま今日に至っている」という自己認識をもっていることに、である。これは見事に開かれた知的展開を自身が用意している。

 学者が自らの研究成果をもとに著書を書いてなにがしかのことを提示するとき、たいていはその論展開の根拠を縷々論理的に述べ立て、ときには優しく噛み砕いて説明して、ご自分の所論を開陳する。しばしば読者である私は、何か取り込まれるような窮屈さを感じる。

 もちろん、これらの著者の所論が、私の理解していない世界から伝えられてくるわけであるから、その異世界の端緒に取り付くまでは(小説を読むのと同様に)ややこしい世界を歩いているんだなあと思いながらも我慢して、異世界の舞台の端っこにたどり着かねばならない。しかし、辿りついた世界で見事に自己完結する話を聞かされると、なんだか陋屋に取り込まれてしまったような気がして、窮屈になる。

  ところが福岡伸一は、あたかも読者がどの地点から読みはじめているかを承知しているかのごとく、話しをはじめる。それが、彼の関心の置きどころにある。つまり彼の関心の置きどころが、ただの市井の老人である私の関心事から出立している。しかもそれをDNAの二重ラセンとそこに記された四つの文字とその組み合わせへと展開する運びは、まるで福岡伸一と一緒に、自分もその探究の旅に出ているような気分にさせてくれる。生物研究者というよりもストーリーテラーとしての福岡伸一の才能に助けられて、わが世界を視界に収めて眺望しながら、極めて狭い世界の探求に乗り出していく。

 アメリカの研究機関の仕組みが日本のそれとどう異なるのか、そこにおける研究者が、日本の大学における研究者の胸中に去来する「思惑」とどうズレるか、なぜズレるかも一望できる。それがしかも、DNAの二重ラセンと絡まって、どうノーベル賞に結びつき、あるいは、その発見に行きつきながら、それと知らずに埋もれていく研究者のいたことを発掘するように、書きとどめていく。そこにこの著者の、この研究分野における人々へのまなざしの慥かさを感じる。なぜか「動態的平衡」の説明に行きつく前に、すでに福岡伸一の所論の慥かさを確信している「わたし」を見いだしているという具合だ。

 と同時に、ポスドクという日本の研究者の不遇、研究システムの閉鎖性、あたら深く広い関心と興味をもっていたがためにポスドクという従属的立場にほぼ永続的におかれ続ける多数の優秀な研究者がいることを痛切に思う。かと思うと、アメリカにおいては、自らテクニシャンという研究助手的な位置に身を置きつづけ、まったく別の音楽世界でプロとして名を売っているひともいる。その自由さが、ノーベル賞ものの研究者ばかりが名を連ねる世界の物語の行間に挟まれて浮かんでくる。まるで、小説を読んでいるような自在さに舌を巻く。

 こうも言えようか。福岡伸一のこの物語の語り口こそが、「生命とは何か?」をまるごと提示してみせているとはいえまいか。もはや「動的平衡」の理論がどういうものかは、どうでもよくなっている私自身を感じながら、読みすすめているのだ。

2020年10月6日火曜日

わが身に問う「生命とは何か」

 今日は年1回の健康診断。山を歩く意欲はあるか、お酒が美味しいか、熟睡できているか、こうしてパソコンに向かってなにがしかのことを書きつける心もちのわだかまりを感じるか。これらの一つひとつが、私自身の日々の自己診断。それを外から、生理学的な側面から医療に診てもらおうというのが、今日の健康診断というわけだ。

 その都度、思う。わがことなのに、「生命(いのち)」について、何にも知らない、と。

 身体を動かしているとき、随伴している呼吸を意識すると、身のこなしがこわばったりしなやかになったりしていることが、よくわかる。こわばる身体が吐く息によってほぐされ、力が抜けていく心地よさを感じると、身と心とが切り離せないもの、そこにこそわが実存が明かされていると思う。「実存」というのは「生命(いのち)」のこと、「生命の現実形態」を指している。

 山を歩いていると、呼気と吸気とそのリズム、水と汗とその摂取の仕方、カロリーの摂取とエネルギーの消耗のことにも気遣う。過度の運動が、身に「わだかまり」をもたらし、それがなんであるかを感じとって対応していないと、力が抜けて歩けなくなったり、脚が攣ったり、それ以前に、バランスを崩したり、転倒してしまうことになる。ふだんと違う身の遣い方をすることによって、わが身の裡がどのように動いているかを感知する機能が作動するようだ。

 「生命とは何か」と問うことも、どの次元でその問いを発するか、どの切り口でその問いに応えるかによって、引きだされてくる言葉はさまざまになる。

 わが身の裡の動きを感知する機能とは、宇宙を観察するのに似ている。観察したことがらは、ことごとく宇宙の内側において感じとられたことである。にもかかわらず、宇宙の生成から四十数億年の流れをつかみ、銀河系がいくつくらいあるか、天の川銀河が宇宙の奈辺に位置するか、太陽系は天の川銀河のどこに位置しているかなどを描くとき、その視点は何処に仮構しているのであろうか。そう思うのと同じ「わだかまり」がわが身をのぞき込むときの「わたし」にも感じる。

 「どの次元でその問いを発するか、どの切り口でその問いに応えるか」が、じつは仮構点。仮にそこに身を置いていると想定して鳥瞰している。いわば、わが身は宇宙。その外側にたくさんの宇宙があり、それとのかかわりがわが身をつくっている。人間だけではない。ホモ・サピエンスだけでもない。地球上の生命誕生以来の積み重ねが、今この身に結晶し、なおかつ今も、崩れ解れてエネルギーを吸収・運搬し、次なる結晶へとかたちを為してゆく。その核心部を遺伝情報の受け渡しと限定すれば、DNAやRNAの「わがままな」継承になるであろうが、それが「生命(いのち)」と本質規定されると、あんた、何処をみてんのやと非難されることになる。実存が遺伝情報の継承だけで語られては堪らない。だから「動態的平衡」という「生命(いのち)」の概念が際立って目立つことになる。

 そう思って、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)を手に取った。意外な記述に、私の興味のポイントが引きずられて揺らぎ変わるのを感じる。この方は、まさに、生命の実存形態の発見過程を、まるごととりあげることによって、科学的には限定的な「生命」の起源や移ろいを、展開世界をふくめた「実存」として取り出して提示してみせる。

 まずはそこに感動していることをご報告するにとどめる。いずれ機会をみて、踏み込んでみたい。

                                            *

 いま、健康診断を受けて帰ってきた。検査結果は3週間後。とりあえず、悪いところはない。明日は、この先崩れる天気を前にした、十月上旬最後の晴の日。袈裟丸山へ登る。

2020年10月5日月曜日

世界への私的な馴染み方

 しばらく前、スマホがロックされてしまった。どう解除して良いかわからない。サービスセンターやサポートセンターへ問い合わせていろいろとやってもらったが、治らない。とうとう機器補償サービスへ送って、修理してもらったものを送り返してもらった。SIMカードの受け皿が壊れていたとの説明があり、スマホは「初期化」されていた。

 さてそれを起動してみると、「データを読み込みますか/初期化しますか」と聞いてくる。えっ、データが残ってるの? どこに? と思う。そこから先、どうしていいかわからない。やむなく、販売店に相談に行く。若い女の子が対応してくれたが、彼女は私のスマホに触ろうとはしない。こうやったら、ああしたらと口を添えて私の動きをみている。だがLINEのPWとなったところで、私がいくつか入れてみるが、動かない。「忘れたとき」とあるのをクリックして初めからやり直そうとするが、応答しない。女店員は、2階のカウンターへもっていけと言ってお手上げにした。

 2階にもっていく。「忘れたとき」のメールアドレスがパソコンのものだとわかると、家へ帰らないとできませんという。ははあ、暗証番号も何度かた試して失敗すると、スマホは30分とか、半日とか時間を置かないとロックされてしまったんだっけと、いつかどこかでやってしまった失敗を思い出す。持ち帰るが、トライできない。

 一昨日、近所にある家電店へ行って、そこのスマホ販売員に「この先、どう操作したらいいだろう」と訊ねる。パソコンではなく、このスマホのメールアドレスを「わすれたとき」に送信して、「そう、そこを開いて、これこれ、ここの数字を入力して・・・ 」と手順よく教えてくれる。見事に次の段階へすすむ。SIMカードにあったデータなのだろうか、古いLINEの相手先が保存されていたことがわかる。でも、ここ一年のは消えてしまっている。かかってきた/かけた電話番号もあるが、誰のものだかわからない。なにより、山の地図を読みこんだとき、「現在地点を読み込めません」と表示が出て、これがどうやっていいかわからない。スマホ販売員は私のスマホを手元に引き寄せ、何か操作をして「ここが節約モードになっていると、GPSを読み込めないんですよ」と言いながら、「精細モード」に切り替えると、山の地図がパッと表示された。見事な手際。でもねえ、そんなこと私には、思いつきもしない。

 これまで私が身につけてきたコトゴトは、見よう見まねでいろいろとやってみて、失敗すると少し戻って別のやり口にトライするというふうにやってきた。つまりそれが私流の身に馴染むやり方であったのかもしれない。ところがデジタル化がどんどん進むと、身に馴染まない手法が採用されていっていて、次のステップに進むときの手順(アルゴリズム)が霧の中に入ってしまうと言えそうだ。世界が私の「せかい」からどんどん遠ざかってしまう。当然、時代遅れになっている私は、世の片隅に身を置くしかなく、受け身的にしか世界に位置することができない。参ったねえ。

                                            *

 今日は長兄の7回忌。亡くなって満6年になる。でも、7回忌の法事は開かれない。むろん長兄の連れ合いや長男が執り行うものではあるが、コロナウィルス禍もあって、少し前に予定していたものが、揮発してしまった。兄弟は皆高齢者だから、ことに移動と密集を避けて自己防衛するほかない。「天の啓示」と受け止めて、わが部屋の祭壇にお水を上げ、お線香を点けた。わが部屋の祭壇には父親と母親と末弟と長兄の祈念誌や写真や著作物も置いてある。いつのまにか大勢になったなと、わが胸中のひとりひとりと言葉を交わすように、考えるともなく思っている。こちらの方の「せかい」が、離れていく世界よりも馴染を感じる。

 そうか、そういうふうにして私も、彼岸へ近づいて行っているのか。これも悪くない。

2020年10月3日土曜日

天晴の会津駒ケ岳

 会津駒ケ岳に登ってきた。2泊3日。何とも時間をゆったりと使った贅沢な山行。9/29(火)に現地登山口の檜枝岐村見通に入ってテントを張った。見通が「みづうり」と読むことを、地元の土産物売り場で知った。「ミヅーリ」とカタカナで書いていたから、アメリカのミズーリ州と縁でもあるのかと思ったほど、意外な読み方だ。この檜枝岐村も「桧枝岐」といれると、「検索」が反応(ヒット)しない。

 現地で午後3時に落ちあう。道路検索を掛けると、4時間55分と出る。だが昨年行ったときは、4時間で登山口に入った記憶があるから、午前10時ころに家を出た。涼しくなっている。ラッシュも過ぎて、のんびりと年寄りのgo-to。秋の交通安全週間とあって、高速道路も皆さんゆったりと走っている。那須塩原ICから一般道に入り、日光国立公園の北端を越える。道路は塩原の中心街を通らないでいいようにバイパスができている。冬に備えて、道路工事が行われている。片側通行が何ヶ所にもあったが、それも苦にならないくらい、順調に抜けた。会津西街道に入って「道の駅たじま」でお昼にしようと休憩をとる。そこで、同行のkw夫妻と出逢う。彼らも、お昼を採ろうと立ち寄っていた。かき揚げ蕎麦を食べた。「その混ぜご飯も美味しいよ」というオバサンの声につい買ってしまって、それは夕飯になった。

 キャンプ場は、国道のわきにあるのだが、カラマツの林の中。テント場の先には伊南川が流れ、その向こうは会津駒ケ岳につづく山体が迫り出してきている。道を挟んだ向こうにはアルザと名づけられたレストランが並び、その先に村営の温泉施設が午後だけ営業している。ひっそりとしていた。私たち以外に、後から2組のテントが入ったが、キャンプ場全体は、静かなたたずまいであった。さっそくトイレをチェックしたkwrさんはシャワートイレだと喜びの声をこぼす。水場もある。キャンプ場管理のオジサンが計算た料金は、車2台、人3人の二日間で、9000円。kwrさんは「安いんじゃないの?」とオジサンに言うが、笑顔で、「これも」と、温泉の入浴券を3人分くれた。後で分かるが、無料の入浴券であった。

 テントを張る。kwさんたちはもうひとつブルーシートをもってきて、食事宴会用に敷いて椅子とテーブルを据える。私もディレクターズチェアを手に入れてきて、鼎談がはじまる。kwmさんが選んだという会津の純米吟醸酒が美味しい。まだ午後2時。

 「こんな調子じゃ、たいへんだよ」と、お酒が美味しいと言っていたkwrさんが警戒をする。何しろ明日の山は、標高差1100m。行程は7時間半ほど。それを日帰りするわけだから、心配するのも無理はない。でも、3時間もかけて3人で、日本酒4合だから、つつましやかなものだ。何をしゃべったか覚えていないが、ふと気づくともう5時前。夕飯の準備にかかり、私は道の駅たじまで買った混ぜご飯に、ちょっと変わった味付けのレトルトカレーをかけて頂戴した。

 7時には寝袋に潜り込んでいた。深夜11時ころトイレに起きたとき、カラマツ林の合間から漏れ来る月明かりの明るさに驚き、見上げると十三夜の月が煌々と照り輝いていた。沢音がその明かりをちりばめるように響いている。

                                            *

 第二日目(9/30水)、目が覚めたのは3時48分。おおむねこの時間に起きようと考えていると、その頃に目が覚める。とはいえ、9時間近く横になっているのだから、ま、目が覚めて当然か。起きだしてトイレに行き、顔を洗い、朝食の準備にかかる。今日はテントをそのままにしておけるから、時間はかからない。生姜入りの甘酒と温かいインスタントの素麺。それに真空パックした卵のサンドイッチ。朝の空気が冷たくない。気温は7℃。こんなものか? ちょっと体感が狂っているのかもしれないと思う。

 5時半前に車1台で出発。まだ暗いうちから登山口へ向かう車が通る。会津駒ケ岳ばかりでなく、この先には御池という登山口もある。さらにその先には尾瀬沼へ向かう最短の沼山峠登山路もある。人気の登山エリアなのだ。滝沢登山口はすぐに分かった。林道に入り込んでくねくねと下の沢に沿って2kmほど登る。林道の空き地に車が止まっている。その一番上まで詰めてスペースに車を置く。すでに十何台かの車がある。人気の山なのだ。後から来た車の女性が「トイレありますか」と訊ねる。なかった。「青空トイレですね」と応じる。

 歩き始める。5時45分。足元はすでに明るい。すぐに急傾斜の階段を上って登山道に踏み込む。ここからしばらくは、急傾斜がつづく。「ゆっくりね」と先頭のkwrさんに声をかける。朝陽がシラカバの林を抜けて差し込む。オオカメノキが赤と黒の実をたわわにつけて、野鳥を歓迎しているみたいだ。ほぼ1時間以上の急登。その間に、後から登って来た登山者が追い越してゆく。遠慮する方もいるが、「若い人は先に行きなさい」と道を譲る。すぐに姿が見えなくなる。

 標高1650mほどの「水場」に着く。歩き始めてから1時間半。本当にkwrさんはコースタイム男だと思う。ベンチに眼鏡を忘れた人がいる。帰りに気づくだろうと、ベンチの目につくところに置き直す。涼しいが冷えない。いちばん山歩きにいい季節だ。ブナや巨大なダケカンバが目につく。

 ここから上は、ところどころに木の土留めが設えられて、階段のようになっている。雨で土が崩れ落ちないようにしている。黄色や赤に色を変えているカエデやオオカメノキ、ガマズミ、ウルシなどが目につくようになる。秋だ。木陰から見える東の方は、雲海が広がり、ところどころに帝釈山や田代山など、山の頂た姿を見せている。雲海の下は、会津から檜枝岐村に南下する国道沿いの町々があるはずだ。

 標高が2000mを越える辺りから木の背丈が低くなり、会津駒ケ岳の山体が緑の木々をまとって大きく広がっていくのが見える。ところどころに朱色が点在しているのは、ナナカマドだろうか。池塘のある手近の草付きは、すっかり色を変えて草モミジになっている。秋が深まる。駒の小屋が青空に浮かぶように姿を見せる。まるでスタジオ・ジブリの映画の一場面の絵のように感じられる。脇に盛り上がる駒ケ岳よりもランドマークのようだ。

 おや? テントがあるぞ、とkwrさん。近づいて分かるが、木道を補修する資材の運び上げたものであった。ヘリコプターが往来したのであろう。小屋に近づくと、大きなテントが張ってあり、電気を起こす発動機の音が聞こえる。脇の池にはビールを冷やしてある。その向こうに目をやると、十人ほどの若い人たちが木道をとりかえている。たしかに木道は、あちらこちらで傾き、崩れ、朽ち果ててとても足を乗せるようではなくなっている。

 「環境省かな?」とkwrさん。国交省じゃない、と私。駒の小屋下の特設テントの脇に「檜枝岐村施工工事」とあった。国の補助金は入っているのであろうが、冬前にこうした工事を終えてしまおうとするのは、たいへんな事だ。コロナの影響もあって、工事が遅れているのかもしれない。古い木道を取り除き、新しいのを設置して、その木道の上に滑り止めの金具を打ち付けている。それで思い出した。去年同じ時期に駒の小屋に泊まった私が、日の出を観ようと外へ出たとき、木道が凍りついていて、2度ほど転んだのだった。人気の山だから、こうして取替工事を急いでいるのであろう。

 小屋から15分ほど登ると会津駒ケ岳。山頂は背の高い木々に囲まれて見晴らしは良くない。だがしっかりとした山頂表示の柱が立てられ、古く朽ち果てそうな、山名表示板が西と東に向いて設置されている。那須連山、奥日光、谷川岳、武尊山、尾瀬の山々、平が岳や越後駒ケ岳など、登ったことのある山の名が記されている。「あちこち行っていて良かったねえ」と言葉を交わす。

 駒ケ岳の山頂から北西の方へ下る。ここも木の階段が設えられていて、補修されている。滑り止めもついているが、歩幅に合わなくて歩きにくい。眼下に中門岳への大きな山体が一望できる。草モミジに覆われ、ところどころの針葉樹の緑と相まって、箱庭の景観を観ているようだ。

 駒ケ岳を下りきったところの展望が開ける。尾瀬の燧岳がどっしりとした姿を間近に見せる。遠方に至仏山、景鶴山、平が岳、越後駒などの山が重なり合うように連なっている。振り返って駒ヶ岳の方を見ると、笹原が午前9時の陽ざしにキラキラと輝いてまぶしい。草付きと池塘を若干の上り下りをくり返してすすむと、大きな池があり、「中門岳 あたり一帯をこう呼ぶ」と名づけた大きな標柱がたっている。ベンチもあって、ここが山頂かと思ってしまうが、地理院地図だとその先に2060mの山頂が記されている。山頂にもいくつも池塘があり、広い平坦な草付きと周りを取り囲む背の低い針葉樹があり、東側が開けて木製のベンチが四つ。6人ほどの人がすでに座っている。東の方に那須の山々が見える。南の方には奥日光の女峰山、小真名子、大真名子山、太郎山と男体山、三つ岳も凸凹の山頂を並べてそれと分かり、その西に、以北最高峰の日光白根山の独特の山頂が際立つ。

 ここで20分ほどお昼をとる。帰りの道は逆光になるが、来るときとまた違った風に景色が見えるから、面白い。崩れかけた木道にバランスを取りながらkwrさんの歩みは順調だ。やってくる人がいる。登山口でトイレの在処を聞いた人も来ている。単独行が多いねと、kwrさん。女の人たちも、ずいぶんと多くなった。駒ケ岳の山体を巻いて駒の小屋へ向かう。霧が出てきた。木道工事をしている人たちが雲のかかりはじめた下にみえる。これもまた、絵になる。小屋下には、コースタイムより少し早く着いた。

 光の加減だろうが、下るにつれ、紅葉が目に付く。カメラに収める。後から下山する人が来ると、道を譲る。そうだ私たちは、「喜寿コースタイム検証チーム」だと思う。kwrさんというタイムキーパーを先頭にして、歩く。昭文社の地図などに記されたコースタイムが妥当かどうかチェックして歩いているようなものだ。1時間10分のコースタイムを、2~3分しかたがわないペースを維持している。今回は壊れたスマホが機能しないので、高度計だけが私の頼り。それにkwrさんの歩度が地点を明示してくれる。ま、それほどにルートはしっかりとしていて、危なげがないということだ。

 林道の降り立つ。13時10分。出発してから7時間25分。休憩時間をふくめて、おおむねコースタイム通り。お見事でした。

 キャンプ場に戻り、風呂へ行く。温泉は13時から17時までの営業。なんとももったいない。お客はほとんどいない。露天風呂に浸かってゆったりと身をほぐす。風呂を出てすぐ脇のレストラン&土産物屋に、生ビールがあるというので注文する。なんと15分近くもまたされた。生ビールを注文する人がいなかったため、機器の操作をどうやるか、手馴れた人がいなかったとか。そういえば車で来る人ばかりのこのレストランで、生ビールを飲む人がいないのは当然か。

 檜枝岐歌舞伎の解説本とかそば打ちの大きな木のボール(器)などを売っている。一つが2万円もするなど、なかなかの力作。栃の木のハチミツもあった。

 こうしてご機嫌になってキャンプ場に戻り、椅子とテーブルを出して宴会の準備。明日は何時に起きてもいいから今日はゆっくりできるとkwrさんもご機嫌。そうはいっても、夕方7時には日が暮れて、明日朝6時まで寝ても11時間もあるよとおしゃべりをしながら、白ワインを空ける。kwさんがおつまみをつくってくれる。そのままテーブルで夕食のパスタをつくり、テントに潜り込んだのは7時ころであった。

  驚くなかれ私は熟睡して、途中二度ほど目を覚ましはしたがトイレにもいかず、気が付くとテントが明るい。時計を見ると、朝6時少し前。冗談じゃなく、11時間も熟睡した。こうして疲れをとっているんだと、わがことながら感心した次第。このスタイルの山行は、癖になりそう。テント泊なら、あとは寒さをどう防ぐかだけだね。

 7時過ぎに出発して順調に帰途に就き、10時45分頃には帰宅していた。関東平野も雨ではなく、そこそこ涼しい。まったく、天晴の会津駒ケ岳であった。

2020年10月2日金曜日

何言ってんだか

 山から帰って来てみると、アメリカの大統領候補の討論会が無茶苦茶であったとTVも大はしゃぎしている。昨日(10/1)の朝日新聞の天声人語は、とぼけたことを言っている。


《討論というより殴り合いである。口直しに往年の大統領選の動画を探した。……理性的なやりとりにホッとする▼心配なのは「トランプ氏はこんなもの」という気持ちが「政治家なんてこんなもの」に変わっていくことだ。皆が討論の正常化を望むのではなく、討論そのものを軽蔑するようになることだ。米国民主主義の行方を世界が見ている》


 何をいまさら。トランプが4年前に登場したことから何も学んでいない。取り澄ました「理性的な討論」が、口先だけの知的な人たちの独占域だと蹴とばしたのが、トランプの登場ではなかったか。天声人語氏は、いまだに近代的知の領域の幻想に身をとどめて「政治」を眺めている。私たち庶民は、4年前に近代知の底が抜けたとみなした。「政治家なんてこんなもの」という認識は、ことにトランプを取り上げるまでもなく、安倍晋三もプーチンも習近平も皆「こんなもの」と思わせてくれている。

 新しく日本の宰相になった菅首相も、学術会議の会員に会議側推薦の会員候補を6人、任命しなかった。その理由も「説明しない」としている。まさしく権力の発動 というのが、こういうものであることを国民に知らしめているのだ。この次元では、香港に対する習近平の振る舞いと、なにひとつ変わらない。

 それを、さもこの先に起こることかのようにいうことによって、じつは、天声人語氏も、いまだ我が国の政治も、菅新宰相も、理知的に物事をすすめることができる同じテーブルについていると錯覚しているか、そうだと思いこもうとしている。それはしかし、自分を欺くことにしかならない。

 理知的に物事をすすめることができるステージを、どうやったら設えることができるか、そこから考えはじめなければならない。政治家がウソをつくのは、天下承知のこと。それが本質よということを知りながら、しかしそれでは日本の国の将来は明るくないよね、何とかしないといけないってところをどうやったら切り拓けるのか。そこを、マスメディアの大御所は、提示してみせなければならないと思う。それだけの影響力を持ってるんだから。

 本質を知るということと、それをそのまま発現させておいては、世の中はどうにもならないぞという予感とを、具体的に政治の世界に反映するには、どこから手を付けて世の気風を変えていくのか。何世代経ても変わらない人というものと、しかし、いつしか世は変わって、世の規範が移ろいゆくこととのどこに焦点を当てて、人々の心を動かしてゆくのか。

 天声人語氏のような「とぼけた口ぶり」で、果たしてどれだけの人が心を揺さぶられたであろうか。

 えっ? おまえが胡乱なのよって? どうして? 


 そりゃあ、ではどうするか、お前が提示してみろって(いつかのアベサンのように)言われても、できるわけがない。そういう立場にいたこともないし、今も立っていないし、ごまめどころか、ごみのような暮らしを世の片隅でしてきただけ。私が何かを言うなんて、口はばったいことこの上ない。でもね。野球はうまくなくても、プロ選手のプレーを見て批評はできるのよ。好き放題を言って、ごめんね。民主社会だもの、それくらい耳を傾けてよと、ぼやいているのでした。

2020年10月1日木曜日

秋を感じてきました

 一昨日から2泊3日で会津駒ケ岳に行ってきました。子細の山行記録は明日以降に記しますが、恵まれた晴天の中、檜枝岐村のキャンプ場にテントを張り、会津駒ケ岳に登り、中門岳まで足を延ばし、下山して後にさらにもう1泊してくるという贅沢な山行。

 標高2000メートルを超えるとは草モミジが広がっていました。落葉広葉樹の緑が覆う山腹のところどころに、黄色く色を変えた葉が陽ざしに生えて輝いていました。緑の合間に、ハッとするような赤色の葉が背丈を伸ばして陽の光を受けています。朱い木の実と黒く変色した木の実が一緒になって、たわわにぶら下がっているのも、圧巻でした。

 最低気温は7℃。今朝のテントの外は、11℃。まさに秋です。朝のひんやりが沢音とともに、秋を感じさせます。

 道の駅には栗の袋詰めが並べてありました。昨年あった新蕎麦の殻付き袋詰め20kgは「今年は雨がつづいて、収穫が始まったばかり。店頭に並ぶのは10月の半ば。また来てね」と言われました。キャンプ場傍のアルザという温泉入り口前の駐車場には山栗の毬がいくつも落ちていました。ほとんどの中身は持ち去られた後でしたが、それでも実が落ちていて、それを拾って持ち帰る人がいました。

 浦和に近づいて気温が22℃になっていることに気づきました。出発する日は25℃でしたから、こちらも10月の装いに切り替わっているのですね。

 帰宅してみると、山梨の友人から「令和2年の甲州ぶどう」が送られてきていました。


《勝沼の天候ッ茂例年にも増して異常でした。とくに下記の長雨で消毒ができず、葡萄には、晩腐病等の病気が蔓延しました。近所には、収穫を放棄した畑があり、子供のころから葡萄畑を観てきましたが、こんな光景は初めてです。》


 「わが夫婦は、痛い腰をさすりながらも、楽しく畑仕事を続けられており、これが今年の大きな成果です。」と言葉が添えられ、まだ緑の色をくっきりと遺したぶどうの葉が添えられていました。

 金融関係の仕事を退職後、親の持っていた畑を継ぐようにして葡萄栽培に携わり、売るというのではなく、大地と天候という大自然と格闘しながら、葡萄という生き物を育てているこの方の姿には、頭が下がります。わが身を省みると、すっかり年寄り気分で、山やキャンプを愉しむという消費的な過ごし方しかしていません。お恥ずかしい限り。

 美味しい葡萄を頂戴しながら、誰にともなく、お赦しを乞う気持ちになっていました。