2020年10月6日火曜日

わが身に問う「生命とは何か」

 今日は年1回の健康診断。山を歩く意欲はあるか、お酒が美味しいか、熟睡できているか、こうしてパソコンに向かってなにがしかのことを書きつける心もちのわだかまりを感じるか。これらの一つひとつが、私自身の日々の自己診断。それを外から、生理学的な側面から医療に診てもらおうというのが、今日の健康診断というわけだ。

 その都度、思う。わがことなのに、「生命(いのち)」について、何にも知らない、と。

 身体を動かしているとき、随伴している呼吸を意識すると、身のこなしがこわばったりしなやかになったりしていることが、よくわかる。こわばる身体が吐く息によってほぐされ、力が抜けていく心地よさを感じると、身と心とが切り離せないもの、そこにこそわが実存が明かされていると思う。「実存」というのは「生命(いのち)」のこと、「生命の現実形態」を指している。

 山を歩いていると、呼気と吸気とそのリズム、水と汗とその摂取の仕方、カロリーの摂取とエネルギーの消耗のことにも気遣う。過度の運動が、身に「わだかまり」をもたらし、それがなんであるかを感じとって対応していないと、力が抜けて歩けなくなったり、脚が攣ったり、それ以前に、バランスを崩したり、転倒してしまうことになる。ふだんと違う身の遣い方をすることによって、わが身の裡がどのように動いているかを感知する機能が作動するようだ。

 「生命とは何か」と問うことも、どの次元でその問いを発するか、どの切り口でその問いに応えるかによって、引きだされてくる言葉はさまざまになる。

 わが身の裡の動きを感知する機能とは、宇宙を観察するのに似ている。観察したことがらは、ことごとく宇宙の内側において感じとられたことである。にもかかわらず、宇宙の生成から四十数億年の流れをつかみ、銀河系がいくつくらいあるか、天の川銀河が宇宙の奈辺に位置するか、太陽系は天の川銀河のどこに位置しているかなどを描くとき、その視点は何処に仮構しているのであろうか。そう思うのと同じ「わだかまり」がわが身をのぞき込むときの「わたし」にも感じる。

 「どの次元でその問いを発するか、どの切り口でその問いに応えるか」が、じつは仮構点。仮にそこに身を置いていると想定して鳥瞰している。いわば、わが身は宇宙。その外側にたくさんの宇宙があり、それとのかかわりがわが身をつくっている。人間だけではない。ホモ・サピエンスだけでもない。地球上の生命誕生以来の積み重ねが、今この身に結晶し、なおかつ今も、崩れ解れてエネルギーを吸収・運搬し、次なる結晶へとかたちを為してゆく。その核心部を遺伝情報の受け渡しと限定すれば、DNAやRNAの「わがままな」継承になるであろうが、それが「生命(いのち)」と本質規定されると、あんた、何処をみてんのやと非難されることになる。実存が遺伝情報の継承だけで語られては堪らない。だから「動態的平衡」という「生命(いのち)」の概念が際立って目立つことになる。

 そう思って、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)を手に取った。意外な記述に、私の興味のポイントが引きずられて揺らぎ変わるのを感じる。この方は、まさに、生命の実存形態の発見過程を、まるごととりあげることによって、科学的には限定的な「生命」の起源や移ろいを、展開世界をふくめた「実存」として取り出して提示してみせる。

 まずはそこに感動していることをご報告するにとどめる。いずれ機会をみて、踏み込んでみたい。

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 いま、健康診断を受けて帰ってきた。検査結果は3週間後。とりあえず、悪いところはない。明日は、この先崩れる天気を前にした、十月上旬最後の晴の日。袈裟丸山へ登る。

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