昨日(10/7)、袈裟丸山1878mに登った。山の会の人たち、高齢者の5人。順調に登り、快適に下山した。登っているときは、列の中ほどからひっきりなしにおしゃべりが聞こえた。植物のこと、山歩きのこと、日頃のトレーニングのこと、コロナ禍になってから姿が見えない山の会の人たちのこと。元気だなあと思いながら最後尾を私は歩く。
山頂は霧の中。お昼を済ませ、少しばかり雨滴が混ざるようになった。私の前を歩く小柄なysdさんは、段差の大きい急傾斜の足の置き場を細かく探って、ストックを着いて一歩で片足を降ろす私に較べて、苦労している。わりと平坦な尾根歩きになった下山中、暫くおしゃべりが絶えた。
「おしゃべりが絶えましたね」
とysdさん。皆さんが草臥れてきたことを言おうとしたのだろうか。それとも彼女自身が、疲れてきたことを漂白しようとしたのだろうか。
「山歩きは・・・」
と言いかけて、ふと、何か大切なことに気づいて、ことばを止めた。それが夜中に思い起こされて、何を言おうとしたんだっけと気になったわけを、今考えている。
*
草臥れてくると沈黙が訪れるというのは、ま、あたりまえのこと。パッと頭に浮かんだのは、山歩きは「祈りに似ている」ということだったか。どうしてと問われると言葉が継げない。俳人でもあるysdさんは、自分の思いを口にすることはめったにない。後を歩いているからよくわかるのだが、彼女の感懐が、視線と身のこなしに現れる。立ち止まる。身を乗り出すようにしてのぞき込む。その先に、縮こまったような葉をたくさんつけた灌木が楚々と立っている。
「何でしょうね」
と問う。kwmさんが
「コメツツジって、以前言ってましたよね」
と、私を振り返る。私はうんうんと頷く。
石裂山のいくつかあるピークの一つでみつけて「これなんでしょう?」と言葉を交わしたことを思い出す。6月の末の晴の日、翌週の山の下見に行ったら、駐車場にkwさんの車が止まっていた。後を追いかけては追いつけないかもしれない。そう思って私は、予定と逆のルートをたどった。そうして偶然出会ったピークで一緒にお昼を取りながら交わした言葉のひとつが、コメツツジのことであった。もちろん私が知る由もない。写真にとって帰宅後、植物の師匠に訊ねて、そうだろうと同定した。その葉を想い起したわけではない。kwmさんの記憶と慧眼に感嘆していた。
その先でysdさんは、縮こまっていた茎と葉を伸ばしたのを見つけ、
「ああ、こうなるとわかりますよね」
と、うれしそうであった。
*
「祈りに似ている」とはどういうことか。山を歩いていると瞑想しているような気分に陥る。運動生理を専門にする方は、ランニング・ハイと同じという。意識は明瞭。歩いている足元は、しっかりと見ているが、そこに意識を集中している以外のことは、何も考えていない。無念無想というのは何も考えないことだというが、眠っているわけではない。明晰な、一つことに集中した意識の外は、何も胸中にとどめていない様子のこと。それが「祈りに近い」というのは、「なにをお祈りしたのですか」と問われた伊勢神宮の研究者から聞いた言葉だ。
「祈りというのは何も考えていないことです」
神に何かをお願いするとか、平安を祈るというのは、それ自体が人の分際として過ぎたこと。むしろ何も考えないことこそが、清浄な心持だ、と。
では、どうして山歩きが「何も考えない」ことに通じるのか。
山が大自然を現すものであることは、いうまでもない。そこを歩くものは、自らをも大自然の中に組み込んで、その要素として身を溶け込ませる。もちろん無念無想という観念はない。大自然の、さまざまな現れ方が要求してくる足の運び、身の平衡のとり方、呼吸の仕方、溜まる疲れや痛みをとる休憩のとり方などなど、いわば大自然と対峙し、身を馴染ませ、無事の通過を祈るようになる。もちろん大自然は、応えてはくれない。沈黙したままに、向き合うわが身の懸念を浮き彫りにし、不安を増したり、安堵の一呼吸を受け容れたりする。
人はそれを、レジャーとかリクリエーションと呼んだり、スポーツと名づけたり、場合によっては冒険と褒め称えたりするが、基本的には、大自然にわが身を溶け込ませている作法である。その核心のところが「祈り」と呼ぶほかないたたずまいだと、私は思うようになった。
欧米的な人間観からすると、自然から切り離された人は、自然を支配する、神から与えられた「意思」として、自らを際立たせる。それは闘いであり、征服であり、「意思」のままに大自然を操る振る舞いである。まず、沈黙はない。いかにして状況を克服するか、言葉にならないものは、ことごとく無用であり、「意思」を体現しないものは、無駄というほかない。そこには、(自然に対する)「祈り」はない。自らが創造した「神」に対する祈りしかない。
日本人の(と限定していいのかどうかはわからないが)「祈り」は、自らが大自然に溶け込み、一体化する作法が備わっている。そこに、自らを超越する「思念」の根拠がないことを、欧米の知識人は論題として批判するが、逆に彼らは、大自然に対する敬意を(人の卑小さというかたちで)もつことがない。
自らを溶け込ませた大自然への「祈り」には、大自然に生まれながらそこから身を引きはがし、なおかつ、その一角に自身を溶け込ませようとする、大いなる矛盾が内包されている。そういう矛盾的存在体として現在しているがゆえに、山に向かわないではいられない「思い」が絶えることなく湧き起って来るのではないかと、大自然から離れて都会暮らしをしている私は、思わないではいられない。
昨日、山を歩きながら、ふと、口を突いて出る言葉を、中途半端にとどめざるを得なかったことを、そのように解きほぐしてみた。
単独行のときは、もちろんお喋りはしない。だが友人と一緒に登るときには、言葉が交わされる。それが山歩きの中盤どころで沈黙に変わるのは、皆さんの体が大自然に馴染み、祈りに似た沈黙に身も心もひたひたと浸るからではないのか。ただ単に、疲れたからというよりも、沈黙こそがふさわしい次元に到達したからではないのか。そう思うと、黙々と歩くのが、なんとも愛しく、麗しく思えてくる。
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