2020年10月7日水曜日

目の付け所に舌を巻く

 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』に踏み込もう。

 まず驚いたのは、「動態的平衡」を説くまでに至る彼の関心の在処とその探究の航跡がかっちりと物語り化されていることであった。物語り化するというと、作者の設えた舞台でそれぞれに配置された役者が立ち回り、出来レースのように話が収斂していくと考えがちだが、これはそうではない。

 福岡伸一の関心の置きどころは「生命とは何かという問題」。それについて彼は、


《結局、明示的な、つまりストンと心に落ちるような答えをつかまえられないまま今日に至ってしまった気がする》


 と率直に吐露する。そう言っておいて、こう続ける。


《生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである》


 感嘆したのは、後者の引用のような「結論」に至りながら、なお、前者の引用のように「答えをつかまえられないまま今日に至っている」という自己認識をもっていることに、である。これは見事に開かれた知的展開を自身が用意している。

 学者が自らの研究成果をもとに著書を書いてなにがしかのことを提示するとき、たいていはその論展開の根拠を縷々論理的に述べ立て、ときには優しく噛み砕いて説明して、ご自分の所論を開陳する。しばしば読者である私は、何か取り込まれるような窮屈さを感じる。

 もちろん、これらの著者の所論が、私の理解していない世界から伝えられてくるわけであるから、その異世界の端緒に取り付くまでは(小説を読むのと同様に)ややこしい世界を歩いているんだなあと思いながらも我慢して、異世界の舞台の端っこにたどり着かねばならない。しかし、辿りついた世界で見事に自己完結する話を聞かされると、なんだか陋屋に取り込まれてしまったような気がして、窮屈になる。

  ところが福岡伸一は、あたかも読者がどの地点から読みはじめているかを承知しているかのごとく、話しをはじめる。それが、彼の関心の置きどころにある。つまり彼の関心の置きどころが、ただの市井の老人である私の関心事から出立している。しかもそれをDNAの二重ラセンとそこに記された四つの文字とその組み合わせへと展開する運びは、まるで福岡伸一と一緒に、自分もその探究の旅に出ているような気分にさせてくれる。生物研究者というよりもストーリーテラーとしての福岡伸一の才能に助けられて、わが世界を視界に収めて眺望しながら、極めて狭い世界の探求に乗り出していく。

 アメリカの研究機関の仕組みが日本のそれとどう異なるのか、そこにおける研究者が、日本の大学における研究者の胸中に去来する「思惑」とどうズレるか、なぜズレるかも一望できる。それがしかも、DNAの二重ラセンと絡まって、どうノーベル賞に結びつき、あるいは、その発見に行きつきながら、それと知らずに埋もれていく研究者のいたことを発掘するように、書きとどめていく。そこにこの著者の、この研究分野における人々へのまなざしの慥かさを感じる。なぜか「動態的平衡」の説明に行きつく前に、すでに福岡伸一の所論の慥かさを確信している「わたし」を見いだしているという具合だ。

 と同時に、ポスドクという日本の研究者の不遇、研究システムの閉鎖性、あたら深く広い関心と興味をもっていたがためにポスドクという従属的立場にほぼ永続的におかれ続ける多数の優秀な研究者がいることを痛切に思う。かと思うと、アメリカにおいては、自らテクニシャンという研究助手的な位置に身を置きつづけ、まったく別の音楽世界でプロとして名を売っているひともいる。その自由さが、ノーベル賞ものの研究者ばかりが名を連ねる世界の物語の行間に挟まれて浮かんでくる。まるで、小説を読んでいるような自在さに舌を巻く。

 こうも言えようか。福岡伸一のこの物語の語り口こそが、「生命とは何か?」をまるごと提示してみせているとはいえまいか。もはや「動的平衡」の理論がどういうものかは、どうでもよくなっている私自身を感じながら、読みすすめているのだ。

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