2020年10月31日土曜日

「金無垢の正論」?

 昨日の「私たちが身を置くコミュニティ性とは何か?」に関して、やはり長年逢っていない大学の先輩から次のようなコメントがあって、驚くと同時に、これは何だろうと考えている。


《F様 なるほど端倪すべからざる金無垢の正論ですね。というような言い方が漱石の『それから』に父に対する主人公代助の言葉として出て来ます。Mさん(メールをくれた大学の後輩)がどう御意見に応対するか、それも興味深いです。結局、当事者同士で解決するか、自治体が仲立ちして解決するか、個人が解決するか(撤去)という簡単な問題に変わりがありませんが。W拜》


 なんだか揶揄われているみたいですね。『それから』の代助がどのような場面でいかような思いを込めて父親にその言葉を吐いたのか思い出せませんが、「なるほど端倪すべからざる金無垢の正論ですね。」というセリフは、ほとんど浮世離れした世迷言というニュアンスで響きます。

 いま私が浮世離れしているのは間違いありませんが、おおよそ「正論」を吐いているという感覚を持っていませんでしたから、不意を突かれたように、ちょっと驚いています。そうか、そこまで私は、ズレているのか、と。

 ひょっとしたら「コミュニティ性」という言葉が、いまさら何をというのかと思われたのかもしれません。というのも、1年少し前になりますが、私が身を置く団地の管理組合の理事長を務めたときに感じた感懐を、『団地コミュニティの社会学的考察』としてまとめたとき、最初にそのタイトルを目にした同世代の友人二人が、「高度成長時代の遺物の廃墟? の話ですか」とか「……高齢化、そして、そもそも論として空き家だらけではコミュニティなんて言葉は成立しないですよ」と反応したからです。つまり「コミュニティ」という言葉を、もはや実態どころか、とりあげる意味もないほどの抜殻の概念とみていたのです。


  『団地コミュニティの社会学的考察』で私がとりあげたのは、一年間の管理組合理事長としての経緯とその都度の感懐でした。400字詰め原稿用紙にするとおおよそ80枚ほどのエッセイです。要点は、ごく簡略にいうと、以下のような点です。


(1)築後30年のわが団地は大規模な改修を前にして、修繕積立金の値上げをしなくてはならない。どこかの管理会社にお任せするのではなく自前管理をタテマエとしてやって来たわが管理組合は、戸建て住宅の改修管理をするときの判断や資金や改修依頼を、管理組合という公の場で審議決定して、しかも組合員多数の同意を得てすすめなければならない。つまり、戸建て住宅住民が、独りで、あるいは家族でやっていることを、公然の会議で(それなりの意を尽くして)やりとりすることになる。

(2)ところが居住者は、それぞれの人生を何十年もかけて紡いできた言葉や感性や感覚、価値観をもっているから、言葉を交わす舞台を共有することからして、大仕事になる。30年同じ団地でくらしていても、それらを共有する機会は、理事を同期で務めて顔見知りになるくらい。それも、十年に一度となると、互いに子細を忘れてしまって、馴染にすらならないことが多い。

(3)つまり(2)の状況のもとに(1)の協議や決定を行うというのは、互いの言葉や感性や感覚を擦り合わせて、ズレや距離を推し量り、団地の建物の補修管理という局面において言葉を重ね合わせていくことが必要になる。その実務を取り仕切る所作と関係が「コミュニティ性」である。

(4)上記の(3)を組み込まないと、たいした論議をすることもなく、あるいは、「建物維持管理に関する専門家」に任せて、あとはよしなに、とお任せするしかない。それでは修繕積立金の大幅な値上げは承認してもらえまいと考えたとき、建物の修繕管理と費用というコスパ的合理性だけでは話がすすまないことに突き当たった。

(5)上記の(4)のモンダイが、コミュニティ性の消失という高度経済成長期から辿った私たちの社会の特徴なのではないか。私たちの戦後過程は、経済一本やりですすめてきたけれども、自分の暮らしの周辺を整えることを地方行政にお任せにして、せいぜい町内会という旧時代的な行政の下請け的な末端組織に担わせて、知らんふりをしてきたのではないか。

(6)いまさらコミュニティ性の復活という無いものねだりはできないかもしれないが、それに代わる「かんけい」を組み込むことをしないと、地方自治も含めて、自分たちのことを自分たちで取り仕切るという自律的な社会構築はできない。


 とまあ、そういう考察をしてきました。「正論」を述べて良しとするようなセンスは、微塵も感じていません。そこへ、Mさんのケースが飛び込んで、昨日のような感懐を綴ることになった次第です。まさか大先輩のWさんから、代助のセリフを使ってまで揶揄われるとは思いもよりませんでした。

 とは言え、浮世離れして暮らしているのは、間違いありません。まして、Mさんが今後どう対応するかについて、何かサジェストをしようなどという意図も見識も持ち合わせていません。

 ただ、日本全国、何処へ行っても似たような事象が起きているなあと、わが経てきた時代を岡目八目で、社会学的にみているだけです。何をもって「正論」と思われたのでしょうかね。

2020年10月30日金曜日

私が身を置くコミュニティ性とは何か?

 学生時代の後輩が、近況を知らせるメールに、要約以下のようなことを記していた。


(1)彼の家の敷地に設置されているカーブミラーが樹木によって見えずらいので伐採してほしいとご近所の方が市役所に申し入れ、市の職員が伐採を依頼しに来た。去年にも同様のことがあり、応じている。

(2)このカーブミラーは、彼の父親が「はるか昔に」行政からの依頼を受けて「好意で…場所を提供した」もので、その維持管理に責任を負ったものではない。

(3)ご近所の方が(直接)依頼するならまだしも、市役所を通じるというのなら、市役所として対処するべきではないのか。その結果(市役所が伐採したの)かどうかはわからないが、最近(家に)立ち寄ってみると、生け垣が無残にも切り払われていた。これも不快である。

(4)「カーブミラーがみずらくなっている」とご近所の方が、ほかのご近所の方へお話しし、話しを聞いた方がわが家へそれを伝えた。出逢ったとき、最初のご近所さんが「ありがとう」と見下したような挨拶をしたのも、何だか腑に落ちない。

(5)(今はそこに定住していないため)年に何回か訪れている程度なのと敷地内の改造を考えているので、カーブミラーの撤去をお願いすることになる。


 とまあ、こんな具合だ。

 実家を維持するかどうかは、後継ぎ世代としては大きなモンダイだが、東京に暮らしてきて、実家が田舎にあるような場合、この後輩のようなことに出くわすことになる。別荘のように使えばいいと都会暮らしは考えるかもしれない。

 しかし、地元の人にしてみると、公が設置したカーブミラーが、個人宅の樹木の生長で見えなくなるというのを「なんとかしてほしい」と要望するのも、無理からぬこと。当然、市役所に要請することになる。

 ふだんから顔見知りの親しいご近所ならば、家を訪ねて「依頼」することもできようが、それも個人宅の植栽が公の設置物を利用を邪魔しているとみているに違いない。まして、年に何回かの訪問者である人には(ご近所さんも)そうはできない。つまり、公を介在させた関係しか紡がれていない。それなのに伐採に応じてくれたので「ありがとう」とご挨拶をした。見下したわけではない。率直に感謝したのだが、「好意で場所を提供」していたのであれば、伐採は市役所の役割、そりゃあ申しわけないことをしたと、思っているかもしれない。

 ということは、市役所が(後輩の許諾を得て)費用負担をして伐採するということか、カーブミラーの撤去をしてもらうしか、穏やかな解決方法はない。日頃「関係がない」からだ。

 これは、個々住民の「関係構築」をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティをかたちづくって来たツケが回ってきているのではないか。ご近所さんからすると、カーブミラーがまさか個人宅の「好意によって」維持されているとは思ってもいないであろう。むしろ、公共物のカーブミラーが私邸の植栽によって見ずらくなるというのは、植栽の持ち主が整備すべき負担とみるのは、当然である。

 つまり、「はるか昔」のコミュニティ性では、「好意によって提供」してもらうこともありうることであったし、そうであることをご近所も当然承知の「習い」だったにちがいない。市役所がその周知を図る必要もなかったのであろう。だが、世の中がすっかり一変した。人びとは(私たちも)須らく公共性が媒介して「関係を取り結」んでいると思っている。

 公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっているのだ。それが都会暮らしの気軽さと、田舎育ちの私なども好感を持って、田舎を棄てた。そのツケが、今になって回ってきている。もちろん高度消費社会を経過したからに違いない。暮らしの多くを「商品交換」に廻すようになった。いわゆる生活インフラと呼ぶもの以外も、調理から住まいの掃除・洗濯まで、「外注」に出すことができる。家族も解体気味であるから、昔日の自助・共助の受け皿は、消えてしまってどこにも見当たらない。

 自助、共助、公助と新しい政権は口に乗せたが、それをアテにできるような実態は、見当たらない。介助や介護も、「共助」はなくなり、「自助」というのは、「外注に出す」ことにほかならない。政府も、自助や共助の実態が、ほぼ交換経済の市場に任せになっているのを、承知しているから、市場への刺激という文脈では政策とするけれども、コミュニティ性に基づいた自助・共助の「関係」を構築するイメージには、辿りつけない。

 「公助」があるようなイメージを持っているかもしれないが、今の行政の水準からすると、「公助」というのは最低限度の暮らし方も保障されない場に身を置くことを意味している。つまり「身を棄てる」に等しいと私は思っている。

 上記のような実態の社会に身を置いて暮らしていることを、コロナウィルスの蔓延が、図らずもあらわにして見せている。もう何年も逢っていない後輩のメールが、そんなことを考えさせてくれた。

2020年10月29日木曜日

ひっち・ハイクの三方分山

 昨日(10/28)は「午前中・晴れ、午後・曇」の予報。富士山を見に行こうと精進湖へ向かった。浦和駅で二人を乗せ、kw夫妻とは現地で落ち合う。約2時間20分で精進湖畔に到着した。だが富士山は、雲の中。下山口の県営駐車場から見上げても、手前の大室山の盛り上がりはかろうじて見えるが、その後ろの富士山は何処にあるかわからない。

 8時40分、歩き始める。寒くもなく暑くもない。10分足らずで登山口に着き、沢沿いに山へ向かう。緑の多い山肌のところどころに黄や赤に色を変えた木の葉がみえ、焚火の煙がたなびく。すぐに沢を越える、今にも折れそうな丸太橋を渡り、渡り返し、山道へと踏み込む。トリカブトの小さい花が目に入る。

「そう言やあ、十二ガ岳もトリカブトの山だったなあ」

 とkwrさんがつぶやく。面白い山だった。西湖畔にテントを張って9月半ばに登ったのに、もう遠い昔のことのように感じる。沢を離れ、砂防ダムの堰堤の手前からジグザグの急傾斜を上る。30歳代の一組に道を譲る。stさんの元気な声が聞こえる。根を剥き出しにして倒れた大木の枝葉が、まだ緑を保って頑張っている。マムシグサの実が明るい朱色で目立つ。太い木が踏路を覆い、前方の山肌の緑が朝日に照らされて緑の色を軽くしている。その中に色づいた紅葉も、なかなか乙なものだ。樹間から今日の最高点の山が姿を現す。樹間の向こうの紅葉が柔らかい色合いを湛えて秋の到来を感じさせる。三方分山1422m。「さんぽうぶんざん」と読む。なんとも風情の無い読み方だ。かつての精進村、八坂村、古関村の結界をなしていたのがこの山の名になったらしい。いまや合併で名が変わってしまった。

 女坂峠1210mに着く。9時45分。登山口910mからのコースタイムは1時間20分だが、55分で歩いている。「いつもより、ゆっくりですよ」とkwmさん。「阿難坂(女坂)」と木の標識がある。かつて甲府と河口湖を結ぶ峠道の一つであったと記す。「精進湖3km→」とある。

「3キロも来たかね」

 とkwrさん。

「3キロを55分なら、街歩きのペースだね」

 と応じる。かなり適当だが、それはそれで困るわけじゃない。

 北の方へ抜ける標識に「上九一色村古関」とある。「サリンじゃなくてトリカブトを使えばよかったのにね」と誰かが言う。「サティアンって、今もあるんだろうか」と言葉が加わる。そう言えばもう、四半世紀にもなる。その末裔はいまも健在らしい。これも時代が生み出したものなのだろうか。

 木々の色づきが鮮やかになってくる。東へ向かう稜線のところどころに綱が張られ、北側が大きくえぐられて、踏路の下が空洞になっている。踏み込まないようにルートを手直ししている。このところの台風や大雨のせいだろうか。そういうところが何箇所もあった。

 センブリが白い花をつけて楚々としている。アザミの残り花が一輪だけ咲いていた。落ち葉が散り敷き、見上げると色づいた木の葉が移り行く季節を感じさせる。オオカメノキの朱い実がたわわについている。向こうに見えるピンクのはマユミですよと、誰かが指さす。白いキクの仲間が花を咲かせて毅然としている。薄緑のコシアブラが一本、すっくと立ちあがる。一息入れようと立ち止まる。樹間に富士山が見える。「ええっ、あんな高いところにあるんだ」と誰かが言う。雲が取れ、姿を現した。みえた、見えた。これをみるために来たんだからと思う。

 10時半、今日の最高点、三方分山の山頂に着く。コースタイムより20分も早い。ま、早い分にはモンダイはない。下の方で追い抜いた一組の二人が、南の方の富士山を眺めている。

「みえて良かったですね」

 と言葉を交わす。精進湖と富士山が一視に入る。

 今度は私たちの方が先行する。ここから先は150m下っては100mほど上るというアップダウンをくり返しながら、1300mの稜線を南へ辿る。湖西山(精進山ともいうらしい)を越え、三ツ沢峠(精進峠と名を変えたらしい)に出る。コースタイムは30分とあったところが、35分。まあまあか。でもそこから次の根子峠(ねっことうげ)まではコースタイム30分なのに、45分もかかってしまった。どういうことなんだろう。根子峠の先のパノラマ台で追いついてきた件の二人連れも、エラク時間がかかったとコースタイムのことを口にしていたから、私たちのペースが落ちたわけではなさそうであった。

 そうそう、ひとつ触れておくことがある。根子峠への稜線の紅葉は、陽ざしもあってか見事なものであった。その途中に「←至・根子峠 ひっち 精進峠・至→」という標識が太い木に取り付けてあった。「ひっちって、なんだ?」と口々に。「ヒッチハイクかね、こんなところで」と言葉を交わして通り過ぎた。気になったので帰宅して辞書で調べたら、「ひっち」には「筆池」「筆致」「櫓」の三つがあった。最後の「櫓」は「ひつじ」とある。そちらの項目へ目を移すと、次のように詳しい解説があった。


《ひつじ【櫓・稲孫】(古くは「ひつち」)刈った後の株から、また生える稲。または、それになる実。…古今集「かれる田におふるひつちのほにいでぬは世を今更に秋はてぬとか〈よみ人しらず〉」……》


 とあった。「ひこばえ」のことを指すようだ。たぶん、これが地名の「ひっち」に近いのではなかろうか。まさかこんな高所で「田」をつくったわけではあるまいが、古今集の歌は、世に出ることもかなわぬままに生涯を終える哀しさを謳ったのであろうか。ここを通過したのが、今まさに秋。世に出たことなどどこ吹く風と、彼岸のお迎えが来るのを、ただただボーっと待つ身にすると、そういうこともあったわなあと懐かしい感懐に浸る。まさに「ひっち・ハイク」の三方分山だと思った。

 根子岳からパノラマ台へはコースタイム通りであった。右手下方に本栖湖を見やりながら、徐々に富士山に近づいていく。途中に「千円札の逆さ富士はこの先」と本栖湖の方への道標もあった。パノラマ台にはたくさんの人がいて、ちょうどお昼をとっていた。ススキの穂が揺れる向こうに、富士山がすっくと立っている。意外にも雪は山頂部から抉れた谷間に白い筋になってついているだけ。雲は富士の北側、五合目当たりに漂っているが、富士山のお中道は、山腹を仕切るように横一線についているのがわかる。

 少し東を見やると、足元の精進湖から西湖、その向こうの河口湖が、両側から迫る樹海と山並みとの間に一望できる。「湖の水面の高さがそれぞれ違うんだね」と、新発見のようにkwrさんが口にする。河口湖の上に連なる稜線の左の端には、山頂に通信塔が立ち、三ツ峠だとわかる。9月に登った毛無山や十二ガ岳、根場民宿から登る王岳への御坂山嶺も、鮮明に見える。stさんは「密度が濃い」という。いい山だったという意味らしい。30分も山頂に滞在した。

 下山路は根子峠に戻って、緩やかに刻まれた、落ち葉散り敷くふかふかの道をジグザグに下ってゆく。斜度は45度くらいあるみたいと下方の湖をみながらysdさんは言う。そう思うくらい、傾斜が急なのだが、ルートは緩やかに刻まれて、調子よく降る。

 駐車場に着いたのは1時半。行動時間は4時間50分。コースタイム4時間半のところを、4時間20分で歩いた。いかにもコースタイム男の先導であったが、これくらいの軽い「ひっち・ハイク」が好ましく感じられるようになったのかもしれない。

2020年10月27日火曜日

慥かさの確信

  昨日(10/26)、1年半ぶりに一人の友人と会った。昔は山へ一緒に登ったりしていたが、私が仕事をリタイアしてからは、年に1回、逢うか逢わないか。逢うと酒を飲み、カラオケに行き井上陽水を歌うことが多かった彼が、3年前に連れ合いを亡くし、消息を交わす程度の行き来であった。

 どこかで会いませんかというお誘いに、天気のいい日に、コロナもあるから荒川の河川敷でお昼を一緒にどうか、飲み物食べ物は買っていくよと応じていた。明日はどうかと電話を入れたら、荒川の河川敷はちょっと遠いじゃないか。一杯やるのだろうから、帰りの自転車も危ないし、電車で行きますよというので、北浦和公園で落ち合うことにした。

 家から歩いて7kmくらいか。伊勢丹でワインやつまみ代わりの寿司などを買い込んで、歩いて行った。約束の時間より早かったので、入口の石垣に座って本を読んでいたら、公園のなかにある美術館の方から彼はやってきて、「やっぱりここだったか」と笑う。もう何年も姿が変わらない。ひざを痛めて少しびっこを引いている。1年半の懸隔が、一挙に解れる。声の響きがに馴染む。

 彼もお昼を買ってきていた。太巻きや稲荷寿司や和風の煮物などが、私の買ってきたものとほぼ重なる。食べ物の感覚も似ているんだと、可笑しい。


 彼は1年半前に正多面体の透視図を描いていると話していた。その話をすると、「ああ、それがひと段落したのでね」と、プリントしてきたものを取り出す。全部でA4版50枚を超えていたろうか。カラー印刷である。私はてっきり手書きしているのだと思っていたが、コンピュータの正多面体の透視図を平面に落としている。当然線が入り混じるから、奥行きに応じて色を変えて透視図がそれとして認知できるように工夫している。アルキメデス正対とかアルキメデス双対とか、もう一つ何とか・・・いうらしい。五角120面体というのが、最後の透視図であったが、どういう「せかい」のことなのか、とんと見当がつかない。数学だね、これは、と言葉を交わす。彼はこれを出版社に持ち込んだらしい。担当する人は数学を専門とする編集者らしく、感嘆してみながら、「しかし今は、こういうのをコンピュータに(数値入力して)操作して描いたり、AIに描かせたりしますからね」と、人力でやったことに感心したそうだが、「しかし需要がありませんからね。ネットに乗せて同好の士にみてもらうってとこでしょうか」と、けんもほろろであったという。

 そういえば、数学の「難問」を解いたという数学者の解析書を読み解くのに何年もかけて、やっと正解だよと専門家の声が上がったという話も聞いたことがある。逆にいうと、AIなどに描かせていると、そういうトポロジーというか、空間イメージを思い描く能力がヒトの脳中から消えてしまうんじゃないかと話しがすすむ。彼は一仕事終え、肩の荷を下ろしたようであった。でも需要がないってことは、仙人の世界のようだね、彼が身を置いてきたのは。


 仕事がわが身に遺した痕跡って何? とか、言葉のもつ有無を言わせぬ概念性の根拠とか、沈黙が祈りから生まれているとか、人の暮らしというのが商品経済の中ですっかり揮発してしまっているんじゃないかとか、でも、自分がほんとうにつまらない存在だと感じている人しか世界の基点に足をつけることができないのではないかなどと、話しが転がる。私自身が考えるともなく思っていることの慥かさを、彼との応答を通じて確信に換えていったような気がした。

 気が付くと3時間半も過ぎていて、持ってきた飲み物も食べ物もあらかた片づけた。ほろ酔い加減で駅に向かい、上りと下りの電車に乗って、ホームで別れた。

2020年10月26日月曜日

過ごしやすい季節

 昨日(10/25)も晴。気温も20℃前後と過ごしやすい。図書館へ本を返却に行き、借りて帰ってくる。道々は行き交う人もさほどなく、マスクなどの気遣いがない。図書館の人の集まり具合もほどよく、三々五々、本を読む人、調べものをする人、スマホを覗く人、ぼんやりとしている人。日曜日というのに、いかにも年寄りの多い社会の風景だなと、わが身も年寄りであることを忘れて思っている。皆さんマスクをしている。入口の消毒薬も、使われている。そう言えば、子どもの数を以前ほど見かけない。用心しているのだろうか。

 長袖一枚で、寒さを感じない。陽ざしが暑く感じられ、日陰を伝って歩いたほどだ。「感じなくなってるんじゃない?」とカミサンが言うのも、わからないでもない。半袖のアンダーウェアも、カミサンに言われて今朝、長袖に取り換えたばかり。鈍くなっているのが、わがことながら実感している。

 風もなく、住宅街の人のたたずまいも静か。コロナウィルスのお蔭で、私好みの気風が広がっているように思う。

 

 人の暮らしというのは、本来、こういう静かなものではなかったか。「本来」というのは、「原初」とか「日常」というほどの感触。騒ぐのは文字通り「お祭り」のとき。年に2回か3回ほどの非日常だったはずだ。日常が「つまらない」が「たいせつ」ということを、身につけていたように思う。なにかの歌にもあったが、「♪・・今日の業をなし終えて・・・♫」という「業」が、大切にしなくてはならない日常を意味していた。「暮らし」という営みが「業」。代々受け継がれ、一つひとつを丁寧に天から与えられた人の業として受け止められていた。

 それが、資本家社会的な商品経済が隆盛になってから、「暮らしの業」も交換に付されるようになっていった。高度経済成長を経て高度消費社会になるにつれて、「暮らしの業」もお金を払って交換されることが普通になった。「天から与えられた暮らしの業」という観念も蒸発し、お金を出せば「買える」こととなってしまうと、「人の営みの大切なこと」という祈りに似た感懐はなくなってしまった。

 「人の営みの大切なこと」というのは、人と人との関係のもたらす心もちに重心を置いた感懐である。それが「交換」に付されることによって、機能的な面だけがとりだされてコミュニケーションとして論題にはなったが、人と人との関係のもたらす心もちが内包していた「祈り」に似た「大切さ」の思いは、機能的な作用に取ってつけなくてはならない人間的要素のように扱われはじめた、とは言えまいか。そして、お金が介在して売買されることによって、人間的要素自体も、余計な心情となっていったように思える。

 さらにその傾向を加速したのが、ITによるデジタル社会であった。YES/NOの二答式応答法は、人間的な不安定要素をわざわざ組み込まなければ、回路に入り込まないこととなった。人間的な不安定要素というのは、迷いとか、決断できないこととか、わからないことを棚上げする人の恒である。それを私は「人間定数」 と呼ぶが、デジタル化社会がいつ知らず人間定数を排除して、かくあるべしという人間イメージを前提にして、モノゴトをすすめる手順を決めてしまう。YES/NOの世界においては、上昇するか/脱落するかの回路に入ってしまう。もはや人間定数は、余計なもの、バグになった。そういう社会に、私たちは身を置くようになった。それを離れては、暮らせなくなってしまっているともいえる。

 コロナウィルスがもたらした静かなたたずまいは、「暮らしの業」へ立ち戻れという天啓のように響く。じつはそれは、私の世代が子どものころに身につけた「原風景」でもある。70年以上の径庭をおいて再会し、季節の移ろいとともに「過ごしやすい」と感じているのである。

2020年10月25日日曜日

なぜ食べると力になるのか

 山を歩くと腹が減る。行動食と呼ぶが、飴を口にしたり、羊羹を食べたり、餡パンを頬張ったりして、カロリーの補給をする。栄養分の吸収はどうやっているんだろうと思ったことがある。そりゃあ胃腸が吸収してるのさと誰かに言われて、そうだよなあと思って、長く納得してきた。

 いつであったか、その栄養分の吸収のたびに細胞が壊れ、新しい細胞が生まれてんだよ。だから75日かなんかで、お前さんの体は全部新しくなってるんだぜと、訳知り顔の知人にいわれて、驚いたことがあった。後に、全部新しくなるには7カ月とか7年とかを要すると、これまた訳知り顔のTV番組が話していて、私の知人よりはTVの方が正しいのだろうと、そちらを信用することにしてきた。


 でもどういうふうに、細胞が壊れ、どういうふうに更新されているのか。それが、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』を読むと子細に展開している。細胞の内部と外部がどう接合して、どう分離するのか。その過程で栄養素などがどのように運ばれるのか。その精妙な仕組みとそれに目を付けて極めていく研究者のものの見方と、そこに分け入るための技法に感嘆しながら、読みすすめる。

 すでに記したが、福岡伸一の逆説的な仕組みを受け容れるセンスの奥行きの深さに、彼の人間認識の繊細な広がりを感じて、ストーリーテラーとしての才覚に惚れこんでしまった。「動的平衡」という彼の造語が、ただ単に、そのメカニックな仕組みだけではなく、福岡伸一の持つ複雑さと繊細さと豊潤さの周縁部が一つになって、わが身の裡に揺蕩うようになっている。それは、わが身の複雑さと繊細さと豊潤さを言い当てられているようで、でもまるでそれに気づいていない「わたし」と、しかしいつしかそれを身につけて作用と振る舞いをしていることに、何か大きな力に支えられていると感じる。それが「生物としてのわたし」であり、自然の力なのだと思う。「識る」こと以上に「存在」することの(生物の)力強さに、思い及ばぬ不可思議さと感動を覚える。福岡伸一のいう「動的平衡」が、私にとっては「動態的平衡」と言い換えることができるほどの感懐をともなっている。まさに、天に感謝したい思いだ。

 この場合の「天」とは、生命誕生以来の37億年の全経過と、生命種の99.9%が絶滅したにもかかわらず、偶然にも1/1000の幸運に恵まれてここに至ったという運と、それらを自らの認識としてとらえることのできる知的な力をホモ・サピエンスに培ってくれた何かを指している。


 40年程も前になる。ある出版社の編集者に「これから(の時代)は宗教ですかね、哲学ですかね」と、人の関心の重きをなす傾向について問われたことを、思い出す。そのときは(哲学と言いたいが、でもこの人は何を考えてるんだろうと思って)「う~ん、なんでしょうね」と言葉を濁し、彼は道元の著した「正法眼蔵」に関心があると話してくれた。それは哲学でもあり、ある種の修業をともなう宗教でもあると(私は)感じてはいたが、当時の私は未だ、その身と心のあわいを一つとしてとらえる境地には踏み込んでいなかったのだと、いま振り返って思う。

 その当時手に入れた『正法眼蔵啓迪(上)(中)(下)』(大法輪閣、1981年第十刷)三巻を書架から引き出し、眺めてみると、思い当たることごとが綴られている。道元といえば13世紀の半ばを生きた方。約800年昔の道元からの手紙(の解説書)と読み取れば、いつしかわが身に刻まれていた「身の記憶」が浮かび上がってくるかもしれないと、読み心がくすぐられる。

 知的であるとは、形而上学的に考えることではない。食べたものが力になる。その不思議を不思議と受け止めて、でも力にしている身の精妙さに思いを致す。操作し向けている自然の摂理と幸運に感謝をする。それが知的ではないかと、動態的平衡を思っている。知的であるとは、知識を身につけることではない。知らないことがいっぱいあることを知ること。知らないことのもっとも身近な最大のものがわが身であることに気づくこと。それこそが知的だと思う。

2020年10月24日土曜日

コロナ対応の宿

 紅葉と小鳥を堪能した奥日光の宿は、コロナウィルス対応をしっかりしているなあと、好印象を持った。何がそう感じさせたのか、記しておきたい。

 泊まった宿は休暇村日光湯元。毎年、山歩きやスノーシューの宿として利用してきた。湯ノ湖畔の立地は満点。清潔感も抜群の宿。だが、コロナウィルス対策は徹底していた。なるほど「滅菌」と「三密対策」を、こういうふうに工夫しているのかと感心したことを箇条書きにしておく。


(1)入口に消毒薬を置く。マスク着用の注意書き。各所に消毒薬は置いてある。

(2)モニター画面に向かって検温を行う。

(3)フロントの順番を待つよう係員を置き、順番が来ると呼ぶ。

(4)夕食も朝食も開始時刻が15分刻み。その時間差で座席が緩やかに埋まり、ビュッフェ方式の部分も混みあわない。

(5)マスクの「一時置き」用の挟み紙を用意。使い捨て手袋の箱を各テーブルに置き、ビュッフェに採りに行くときには、着用するようにウェイターが声をかける。

(6)夕食のメイン料理は係員がテーブルごとに配膳する。ご飯や汁物、飲み物、若干のお好みの品々はビュッフェ方式で各人が取りに行く。

(7)朝食はほぼすべてがビュッフェ方式だが、これも混みあわない。お二人様と団体様との会場を分けていたようにも思う。食事が終わったテーブルの片付けと消毒などは、一つひとつ念入りに行っていた。

(8)風呂の入口のスリッパ置き場を16人分に制限している。それ以上になると入らないで下さいと、注意を受けた。じっさいには8人くらいが入浴していたが、10人を超えることはなかった。

(9)部屋の清潔感は、いつもと同じであった。


 フロントや売店会計のビニールカバーなどは、街のスーパーなどと同じにあった。これが決め手というような大げさなことではないが、丁寧に「滅菌」と「三密」に気配りしていることが伝わる。宿が古いと、それだけで大丈夫かなという気持ちになりかねないが、建物の清潔感に加えてコロナウィルス対策をしていますという心持が加わり、安心して泊まることができた。

 なんとかこれで、この冬のスノーシューも実施したいものだと考えている。