山を歩くと腹が減る。行動食と呼ぶが、飴を口にしたり、羊羹を食べたり、餡パンを頬張ったりして、カロリーの補給をする。栄養分の吸収はどうやっているんだろうと思ったことがある。そりゃあ胃腸が吸収してるのさと誰かに言われて、そうだよなあと思って、長く納得してきた。
いつであったか、その栄養分の吸収のたびに細胞が壊れ、新しい細胞が生まれてんだよ。だから75日かなんかで、お前さんの体は全部新しくなってるんだぜと、訳知り顔の知人にいわれて、驚いたことがあった。後に、全部新しくなるには7カ月とか7年とかを要すると、これまた訳知り顔のTV番組が話していて、私の知人よりはTVの方が正しいのだろうと、そちらを信用することにしてきた。
でもどういうふうに、細胞が壊れ、どういうふうに更新されているのか。それが、福岡伸一『生物と無生物のあいだ』を読むと子細に展開している。細胞の内部と外部がどう接合して、どう分離するのか。その過程で栄養素などがどのように運ばれるのか。その精妙な仕組みとそれに目を付けて極めていく研究者のものの見方と、そこに分け入るための技法に感嘆しながら、読みすすめる。
すでに記したが、福岡伸一の逆説的な仕組みを受け容れるセンスの奥行きの深さに、彼の人間認識の繊細な広がりを感じて、ストーリーテラーとしての才覚に惚れこんでしまった。「動的平衡」という彼の造語が、ただ単に、そのメカニックな仕組みだけではなく、福岡伸一の持つ複雑さと繊細さと豊潤さの周縁部が一つになって、わが身の裡に揺蕩うようになっている。それは、わが身の複雑さと繊細さと豊潤さを言い当てられているようで、でもまるでそれに気づいていない「わたし」と、しかしいつしかそれを身につけて作用と振る舞いをしていることに、何か大きな力に支えられていると感じる。それが「生物としてのわたし」であり、自然の力なのだと思う。「識る」こと以上に「存在」することの(生物の)力強さに、思い及ばぬ不可思議さと感動を覚える。福岡伸一のいう「動的平衡」が、私にとっては「動態的平衡」と言い換えることができるほどの感懐をともなっている。まさに、天に感謝したい思いだ。
この場合の「天」とは、生命誕生以来の37億年の全経過と、生命種の99.9%が絶滅したにもかかわらず、偶然にも1/1000の幸運に恵まれてここに至ったという運と、それらを自らの認識としてとらえることのできる知的な力をホモ・サピエンスに培ってくれた何かを指している。
40年程も前になる。ある出版社の編集者に「これから(の時代)は宗教ですかね、哲学ですかね」と、人の関心の重きをなす傾向について問われたことを、思い出す。そのときは(哲学と言いたいが、でもこの人は何を考えてるんだろうと思って)「う~ん、なんでしょうね」と言葉を濁し、彼は道元の著した「正法眼蔵」に関心があると話してくれた。それは哲学でもあり、ある種の修業をともなう宗教でもあると(私は)感じてはいたが、当時の私は未だ、その身と心のあわいを一つとしてとらえる境地には踏み込んでいなかったのだと、いま振り返って思う。
その当時手に入れた『正法眼蔵啓迪(上)(中)(下)』(大法輪閣、1981年第十刷)三巻を書架から引き出し、眺めてみると、思い当たることごとが綴られている。道元といえば13世紀の半ばを生きた方。約800年昔の道元からの手紙(の解説書)と読み取れば、いつしかわが身に刻まれていた「身の記憶」が浮かび上がってくるかもしれないと、読み心がくすぐられる。
知的であるとは、形而上学的に考えることではない。食べたものが力になる。その不思議を不思議と受け止めて、でも力にしている身の精妙さに思いを致す。操作し向けている自然の摂理と幸運に感謝をする。それが知的ではないかと、動態的平衡を思っている。知的であるとは、知識を身につけることではない。知らないことがいっぱいあることを知ること。知らないことのもっとも身近な最大のものがわが身であることに気づくこと。それこそが知的だと思う。
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