昨日(10/25)も晴。気温も20℃前後と過ごしやすい。図書館へ本を返却に行き、借りて帰ってくる。道々は行き交う人もさほどなく、マスクなどの気遣いがない。図書館の人の集まり具合もほどよく、三々五々、本を読む人、調べものをする人、スマホを覗く人、ぼんやりとしている人。日曜日というのに、いかにも年寄りの多い社会の風景だなと、わが身も年寄りであることを忘れて思っている。皆さんマスクをしている。入口の消毒薬も、使われている。そう言えば、子どもの数を以前ほど見かけない。用心しているのだろうか。
長袖一枚で、寒さを感じない。陽ざしが暑く感じられ、日陰を伝って歩いたほどだ。「感じなくなってるんじゃない?」とカミサンが言うのも、わからないでもない。半袖のアンダーウェアも、カミサンに言われて今朝、長袖に取り換えたばかり。鈍くなっているのが、わがことながら実感している。
風もなく、住宅街の人のたたずまいも静か。コロナウィルスのお蔭で、私好みの気風が広がっているように思う。
人の暮らしというのは、本来、こういう静かなものではなかったか。「本来」というのは、「原初」とか「日常」というほどの感触。騒ぐのは文字通り「お祭り」のとき。年に2回か3回ほどの非日常だったはずだ。日常が「つまらない」が「たいせつ」ということを、身につけていたように思う。なにかの歌にもあったが、「♪・・今日の業をなし終えて・・・♫」という「業」が、大切にしなくてはならない日常を意味していた。「暮らし」という営みが「業」。代々受け継がれ、一つひとつを丁寧に天から与えられた人の業として受け止められていた。
それが、資本家社会的な商品経済が隆盛になってから、「暮らしの業」も交換に付されるようになっていった。高度経済成長を経て高度消費社会になるにつれて、「暮らしの業」もお金を払って交換されることが普通になった。「天から与えられた暮らしの業」という観念も蒸発し、お金を出せば「買える」こととなってしまうと、「人の営みの大切なこと」という祈りに似た感懐はなくなってしまった。
「人の営みの大切なこと」というのは、人と人との関係のもたらす心もちに重心を置いた感懐である。それが「交換」に付されることによって、機能的な面だけがとりだされてコミュニケーションとして論題にはなったが、人と人との関係のもたらす心もちが内包していた「祈り」に似た「大切さ」の思いは、機能的な作用に取ってつけなくてはならない人間的要素のように扱われはじめた、とは言えまいか。そして、お金が介在して売買されることによって、人間的要素自体も、余計な心情となっていったように思える。
さらにその傾向を加速したのが、ITによるデジタル社会であった。YES/NOの二答式応答法は、人間的な不安定要素をわざわざ組み込まなければ、回路に入り込まないこととなった。人間的な不安定要素というのは、迷いとか、決断できないこととか、わからないことを棚上げする人の恒である。それを私は「人間定数」 と呼ぶが、デジタル化社会がいつ知らず人間定数を排除して、かくあるべしという人間イメージを前提にして、モノゴトをすすめる手順を決めてしまう。YES/NOの世界においては、上昇するか/脱落するかの回路に入ってしまう。もはや人間定数は、余計なもの、バグになった。そういう社会に、私たちは身を置くようになった。それを離れては、暮らせなくなってしまっているともいえる。
コロナウィルスがもたらした静かなたたずまいは、「暮らしの業」へ立ち戻れという天啓のように響く。じつはそれは、私の世代が子どものころに身につけた「原風景」でもある。70年以上の径庭をおいて再会し、季節の移ろいとともに「過ごしやすい」と感じているのである。
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