2020年10月27日火曜日

慥かさの確信

  昨日(10/26)、1年半ぶりに一人の友人と会った。昔は山へ一緒に登ったりしていたが、私が仕事をリタイアしてからは、年に1回、逢うか逢わないか。逢うと酒を飲み、カラオケに行き井上陽水を歌うことが多かった彼が、3年前に連れ合いを亡くし、消息を交わす程度の行き来であった。

 どこかで会いませんかというお誘いに、天気のいい日に、コロナもあるから荒川の河川敷でお昼を一緒にどうか、飲み物食べ物は買っていくよと応じていた。明日はどうかと電話を入れたら、荒川の河川敷はちょっと遠いじゃないか。一杯やるのだろうから、帰りの自転車も危ないし、電車で行きますよというので、北浦和公園で落ち合うことにした。

 家から歩いて7kmくらいか。伊勢丹でワインやつまみ代わりの寿司などを買い込んで、歩いて行った。約束の時間より早かったので、入口の石垣に座って本を読んでいたら、公園のなかにある美術館の方から彼はやってきて、「やっぱりここだったか」と笑う。もう何年も姿が変わらない。ひざを痛めて少しびっこを引いている。1年半の懸隔が、一挙に解れる。声の響きがに馴染む。

 彼もお昼を買ってきていた。太巻きや稲荷寿司や和風の煮物などが、私の買ってきたものとほぼ重なる。食べ物の感覚も似ているんだと、可笑しい。


 彼は1年半前に正多面体の透視図を描いていると話していた。その話をすると、「ああ、それがひと段落したのでね」と、プリントしてきたものを取り出す。全部でA4版50枚を超えていたろうか。カラー印刷である。私はてっきり手書きしているのだと思っていたが、コンピュータの正多面体の透視図を平面に落としている。当然線が入り混じるから、奥行きに応じて色を変えて透視図がそれとして認知できるように工夫している。アルキメデス正対とかアルキメデス双対とか、もう一つ何とか・・・いうらしい。五角120面体というのが、最後の透視図であったが、どういう「せかい」のことなのか、とんと見当がつかない。数学だね、これは、と言葉を交わす。彼はこれを出版社に持ち込んだらしい。担当する人は数学を専門とする編集者らしく、感嘆してみながら、「しかし今は、こういうのをコンピュータに(数値入力して)操作して描いたり、AIに描かせたりしますからね」と、人力でやったことに感心したそうだが、「しかし需要がありませんからね。ネットに乗せて同好の士にみてもらうってとこでしょうか」と、けんもほろろであったという。

 そういえば、数学の「難問」を解いたという数学者の解析書を読み解くのに何年もかけて、やっと正解だよと専門家の声が上がったという話も聞いたことがある。逆にいうと、AIなどに描かせていると、そういうトポロジーというか、空間イメージを思い描く能力がヒトの脳中から消えてしまうんじゃないかと話しがすすむ。彼は一仕事終え、肩の荷を下ろしたようであった。でも需要がないってことは、仙人の世界のようだね、彼が身を置いてきたのは。


 仕事がわが身に遺した痕跡って何? とか、言葉のもつ有無を言わせぬ概念性の根拠とか、沈黙が祈りから生まれているとか、人の暮らしというのが商品経済の中ですっかり揮発してしまっているんじゃないかとか、でも、自分がほんとうにつまらない存在だと感じている人しか世界の基点に足をつけることができないのではないかなどと、話しが転がる。私自身が考えるともなく思っていることの慥かさを、彼との応答を通じて確信に換えていったような気がした。

 気が付くと3時間半も過ぎていて、持ってきた飲み物も食べ物もあらかた片づけた。ほろ酔い加減で駅に向かい、上りと下りの電車に乗って、ホームで別れた。

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