2020年9月16日水曜日

静かに屹立する十二ガ岳

 「女心と秋の空」というと、差別表現だと非難されるかもしれないが、あれにはじつは、「女心」は男にはわからないという敬意が含まれている。「わかる」と言ってもらいたいのが女心だと先日読んだ脳科学研究を自称する女性の書いた本を読んだが、「ひと(他人)にはわからない」というのがもっとも敬うかたちの心もちだと、長年の「人間研究者」である私は、自信をもって言う。その「秋の空」が、文字通り長雨となって山歩きを阻害している。山の候補を四方八方のいくつかを挙げ、その方面が曇りか晴ならば行きましょうと、山の会の同行者に声をかける。そうして見つけた処へ足を運んだ。

 

 富士五湖の一つ、西湖の北側に富士山と向き合うように峰を連ねる御坂山地。その一角にある毛無山、十二ガ岳に登ってきた。コースタイムは約7時間。日帰りの行程だが、こちらは年寄りを自覚し始めたから、1泊2日。前日(9/14)西湖湖畔キャンプ場にテントを張り、翌日(9/15)早朝から登ってお昼過ぎに下山、帰宅するという手筈。

 お昼頃ゆっくり家を出るというのは、車の運転にとっても気楽である。西湖にはキャンプ場がずいぶんたくさんある。平日だが久しぶりの晴とあってか、そのどちらにも大勢のテントが張られ、草地や砂地や木陰に料理をしたり本を読んだり、お喋りをする姿が見える。湖畔キャンプ場の受付の方はこちらが登山目的と知ると、受付裏手の、湖と少し離れた樹林に囲まれた草地を「まだ誰も来ていない」と教えてくれた。落ちあうkw夫妻の車も着いて、そちらにテントを張る。彼らにとっては、3回目のテント生活である。

 湖北側の毛無山への稜線と十二ガ岳の一角がみえている。毛無山から西へ向かって一ガ岳、二ガ岳・・・と十二の岩嶺が連なるので、この名がついたといわれる。その峰の凸凹が木々に覆われてなだらかな山容をみせる。富士山は雲の中だ。テントを張り、kw夫妻はテーブルと椅子を整え、これまでの3回同様に、ビールとワインを出して、お喋りをしながら夕食までの3時間ほどを過ごす。これがまた、山同様に至福の時になる。堪らない。

 浜辺のキャンプ場は夜遅くまで賑やかであった。夜中に起きてトイレに行くときに見上げた空には、星が瞬いていた。朝3時ころか、ピーッピーピャイポイという切れのいい鋭い鳥の声が3回ほど響いて、眠りから引き出されそうになった。隣のテントの声が聞こえて時計を見ると4時2分。起きだしてシュラフをたたみ、山用の服に着替え、テント前のグランドシートの上に食材とガスコンロと水などを出して、外へ出る。雨は落ちなかったようだ。

 

 5時過ぎ、私の車には荷を積み込み、kwさんの車と一緒に下山口へ向かう。目的地の住所をnaviに入れるが、「河口湖町西湖***」という住所が表示されない。googke-mapでみたときには、根場民宿の中央部に大きな駐車場があったはずなのに、集落にそんなものはない。狐に化かされたみたいと思いながら、ホテルの裏側に駐車場に置かせてもらった。そうしてテント場にもどり、kwrさんの畳み終えたテントや用具一式を積み込んで、車はそこに置いたまま山へと出発した。5時45分。

 500メートルほど離れた文化洞トンネル東側の登山口から登り始める。道は人が入らないためか、草ぼうぼう、標識も朽ち果てて倒れそうになっている。急斜面を登る。地面は策や雨が落ちたかのようにしっとりと濡れている。湿度90%というのが実感できる。6時前だが、朝陽がアカマツの樹林を突き抜けて差し込む。1300m辺りは雲の中。上へ向かうとますます霧が濃くなる。

 ヤマボウシが大きな丸い実をつけている。足元にはキバナノアキギリが黄色の花を霧のなかにみせる。シモバシラのような花が咲いている。ハクサンフウロが、背の高い草の間から身を迫り出している。

 ?キク科、?**ハグマ、、?ハギに似た花、?タツナミソウ、?アケボノソウ、トリカブトの山


 7時19分。毛無山1500mの山頂に着く。出発して1時間半の、ほぼコースタイム。富士山も雲の中。上空の一部に青空が見える。マユミがたくさんの実をつけている。ほんの少し稜線を行くと「一ガ岳」の表示がある。「なんだ、こんな峰なら平気だね」とkwrさん。彼が見たTV番組ではタレントのソロ登山としてこのルートを登っていたが、岩があって大変な様子だったという。キク科の白い花が道筋を飾る。

「二ガ岳」「三ガ岳」と越えていく。だんだん岩場を上り下ることが多くなる。大岩を回ったりする。「七ガ岳」は小さなこぶのようなピーク。表示板も割れてテープで止めてある。その次の「八ガ岳」は大きな山体を登る。

 「はちがたけ!」

 と先頭を歩くkwrさんが声をあげる。その表示板をみて、

 「やつがたけと呼んでくださいよ、ボクも」

 と口にする。kwrさんは昨年から八ヶ岳の縦走を願っていたのに、去年は槍ヶ岳の縦走でくたびれ切ってダメ、今年はコロナウィルスのせいで、行けなくなってしまった。「ガ」と「ヶ」の違いはあるが、表示板と並んで記念写真を撮った。思わぬリベンジだ。


 巨大な岩を回り込んですすむ。「九ガ岳」の表示がなかったが、たぶん、回り込んだ大岩がそれだったのだろう。「十ガ岳」への上りと下りは岩場であった。いよいよ岩の本番になる予告編のよう。「十一ガ岳」の先に、「キレット」と名づけられた大下りがあり、谷間に吊橋がかかる。最初の足場が突き立つように宙に浮いている。先頭のkwrさんが脚をかけると、足場が沈むとともに橋全体がぐらりと沈み揺らぐ。おおっ、と声をあげてバランスを取りながら、両サイドのロープをつかみ踏み板を辿る。十何メートルか下は渓になっている。行きつく先に道はない。岩が屹立し、ロープが垂れ下がっているから、そこを上るしかない。岩の先は上へと連なってみえない。kwmさんが吊橋を渡る。その頃にkwrさんは岩に取り付く。

 この岩上りが標高差でいうと150メートルはあったのではなかろうか。この山全体が岩でできていると実感させる。

 「こんな長い岩を登ったのは初めてだよ」

 とkwrさんは溜息をつくように繰り返す。

 こうして落ち着いた地面、山頂から100mというところに、西湖の中ほどの集落「桑留尾(くわるび)」に降りる分岐があった。ここから下れば1時間半。でも私たちは御坂山地の富士山を取り巻く外輪山のような山稜を辿ることにしている。トリカブトの群落がそちらこちらにあって、このあと歩いた鍵掛峠まで、絶えることなく咲き乱れていた。トリカブトの山だねとkwrさんはいう。

 

 「山梨百名山」十二ガ岳山頂1686m、9時7分着。出発して3時間10分ほど。コースタイムより10分余計にかかっていることを、kwrさんは気にしている。眼下に西湖とその南側に小さな尾根を連ねる、紅陽台から足和田山への山嶺が珠海との間に立ちはだかる。富士山は、相変わらず雲の中に顔を隠している。

 十二ガ岳から金山へ向かうところにも、岩場を下る長いロープが設えられている。ますます岩峰らしさが実感できるが、大部分がこんもりした木に覆われていて、歩いてみなければわからない。

 十二ガ岳と同じ標高の金山に着く。コースタイム通り。広い稜線に方向指示のトタン板が木に張り付けてある。ここで御坂山地の主稜線に出たとわかる。少し北に「山梨百名山・節刀ガ岳」があるので、行ってくることにする。稜線は広く、よく踏まれている。山頂近くには岩を上ることもあるが、十二ガ岳を歩いてきた身にとっては、なんでもない。

 節刀ガ岳1736m着、10時05分。ここでお昼にする。雲はかかり、青空も見えない。風があるというほどではないのに、汗ばんだ上体が冷える感じがする。一枚長袖シャツを着る。風向きが変わったのだろうか。20分足らずで、じゃあ行こうか、と起ちあがる。一息ついたせいか、kwrさんの脚は軽快である。鬼ガ岳への途中で、単独行の60年配とすれ違う。根場民宿から登って来たという。「今日初めて出逢った人ですよ」とkwrさんが言葉を交わしている。

 11時5分、鬼ガ岳山頂。山頂名と標高を記した表示が木に取り付けてあるが、文字は薄れ、消えかけている。「山名表示板くらい、ちゃんとしてやるといいよな」と、kwrさんはだれにいうともなく口にする。じつはこちらの標高が、先ほどの節刀ガ岳より2メートル高い。にもかかわらず、向こうは山梨百名山になり、こちらは百名山から外されている。むろん山は高いから尊いわけではない、とは思う。十二ガ岳も山梨百名山だが、背は高くない。また、山梨には、高い山ならいくらでもあるわけだから、鬼ガ岳だけを取り上げて云々するつもりはないが、でもなぜだろうと思わせる。富士山は、相変わらず見えない。ここから根場民宿にじかに下るルートも地図にはある。トタン板の方向表示板は「雪頭ガ岳→」と根場民宿の方を指している。音だけを聴くと、節刀ガ岳と間違ってしまうなと思う。

 

 御坂山地の稜線も、アップダウンは大きく、大岩が道を塞ぎ、回り込んだり岩場を下ったりする。12時4分、鍵掛峠。コースタイム1時間で来てるよと、kwrさん。富士山の西側の雲が取れ、山頂は見えないが、山麓の大室山1468mがポッコリと盛り上がって、独立峰のように見てとれる。富士山の側火山だ。樹海の広がりも精進湖の一部もみえている。

 「あとは1時間半の下り」とkwrさんの元気も出たようだ。ジグザグの安定した踏み跡が長く続く。途中で、一組の還暦ほどのペアと出逢う。

 「これから上りですか」

 「いえ、ここから、もう引き返そうかと思ってます」

 「気を付けて」

 根場民宿から鍵掛峠1500mまでの標高差は600mほどある。ジグザグの樹林の中の道を上りつづけるのは、根気がいる。日頃歩きなれていないと、へこたれると思う。

 その先に、大下りがあった。標高差で300m余下の渓はみえるが、明るくまばらな木々の間は小さな草しかついていない。渓の水音が聞こえるように思ったが、風音だったかもしれない。渓までのジグザグ道を滑らないように気を付けて下りに降る。渓に降りてみて気づいたのだが、そこから山体を回り込むように下る道の大木が、倒れている。中には、大石を根っこが抱えたまんまど~んと斜面を転がって、谷に向かって落ちている。小さい木の枝が道を塞ぐように折れて吹きだまっている。昨年の台風や今年の大雨が来ると、南西に向いたこの斜面は直接強い風が当たって、木々を倒してしまったのではなかろうか。その手入れをするほどの余裕もない。そんな感じであった。

 水場を過ぎ砂防ダムの堤防が見えてくると広い林道に出る。13時。あと30分で根場民宿だと足取りも軽くなった。水場から水をとっている太いゴム管が林道沿いに走る。林道は荒れているが、やがて舗装がしてあり、大型車の轍も残る。車が出入りしているようだ。と、ヒョイと開けたところで茅葺屋根が何棟も建っている古民家風の集落に出た。半鐘もある。その向こうに、富士山が全身を表している。「ごほうびだね」とkwrさんは到着を喜ぶ。観光客が来ていて、茅葺民家と富士山を見て喜んでいる。

 こうして、ほぼコースタイムで歩いて無事に下山したのだが、じつはここからが大変であった。私の車を置いたところがわからない。それよりも、朝探した大きな駐車場が林の向こうに垣間見えるではないか。ええっ? じゃあどこに置いたのだろう。たしか「ホテル西湖」の駐車場であった。通りかかった車の運転手に「ホテル西湖を知らないか」と訊ねた。彼はnaviを操作して「レイクホテル西湖ですよね。ここから3キロほど先ですよ」と教えてくれた。なんと、十二ガ岳からじかに降る下山口。西湖の中ほどにある集落だったから、根場民宿からまだ3キロも歩かねばならなかった。いやはや、申し訳ない。駐車場もなかったはずだ。バカだねえと反省しきりの御帰還であった。

2020年9月14日月曜日

with-コロナ時代のモデル

 黒野伸一『脱限界集落株式会社』(小学館、2014年)を読む。図書館の書架にあるのが目に止まった。

 人口減少によって「限界集落」がまちがいなく多数出来する。さあどうする? と論題になったのは、21世紀に入るころであった。あれから20年。今年はもう、そのような騒ぎ方はしなくなった。新型コロナウィルス禍が「天の啓示」のように教え諭していることは、人口減少の方が良いということだ。

 良いか悪いかは、当然立ち位置によって変わってくる。経済活動の隆盛こそが「解決策」と考える人たちは、人口の集中によって地方中核都市を構想し、過疎地と都会地との差異を浮き彫りにして経済活動の活性化を促進しようとする。そのイメージは、新しいものを歓迎し、賑やかな人の集まりを良しとする、人々の身の反応を誘う。と同時にそうした動きが忘れていくことに焦点を当てて、「限界集落」のありようにこそ「暮らし」の基本があると考えていくイメージが、この作品をつくっている。

 

 つまり、with-コロナ時代の将来モデルを描き出したと、いま読んでみて思う。お話しは人為の物語だから、仮構している地区や人や展開の筋道は変わるけれども、似たような事態に遭遇することは容易に想像できる。そのときに「忘れてきたこと」が浮かび上がる。都会の暮らしに草臥れたりはじき出されてきた人たちが、こちらの「限界集落」では受け容れられていく。そのかたちは、ヒトがいかにちゃらんぽらんであることか、計算づくではうまくいかないことかを、つくづく思い知らせる。計算づくというのは、計算できることに動きも考えも傾いていく。しかしヒトは計算できることばかりで生きているわけではない。むしろ、ちゃらんぽらんであることが、見落としているさまざまなことを拾い上げ、大事にしていくこともある。

 資本家社会の基本、あらゆることの商品化がすなわち利益の最大化と同義とする「原理」が、ありようも、設計イメージも、現実展開も貫く。労働力の商品化とマルクスが表現した「矛盾」が、もはや何の抵抗もなく受け容れられている社会システムを、根底から考え直してみようと訴える物語となる。それを読み取るとき、モデルを仮構する物語りに読み手も参画することになる。

 

 ライトノベルふうな文体が、いま読むと、with-コロナ時代のモデルの「習作」とみることができる。作者と一緒になって、「習作」に「習作」を重ねて、モデルを膨らませる。それはヒトの再生への道を探ることへつながる。面白い。ちゃらんぽらんの年寄りがいい加減なことを口にして、物語展開の駆動力になっているのは、オモシロイと同時に、こんな「せかい」に誰がしたと振り返ると、忸怩たるものを私は感じる。だが、忸怩もものかは、何もかも笑い飛ばして抱え込んでしまう共感性こそ、ヒトの生きる「じねん」だと言えるのかもしれない。

 

 今は曇り。今日はこれから、富士山の麓へ出かける。西湖のテント場に泊まり、明日早朝から御坂山塊の縦走に取りかかる。75歳までは日帰りの山であったが、ゆっくりと前日テントに泊まり翌朝登って帰宅するというwith-コロナ時代の、後期高齢者の山歩きだ。こうやって、いろいろな登り方を探るのも、楽しみの一つになった。

 ではでは。

2020年9月13日日曜日

苛烈な暮らしを視野に入れる哲学的なワケ

 先日(9/10)の朝日新聞に小熊英二が《「有色の帝国」の呪縛》とタイトルを振って、見出しに応じているのが掲載された。米国でBLMが取りざたされているが、「日本人は人種差別がない」というのはほんとうか? という問いに応えて、面白い指摘をしている。


(1)「人種」という言葉は近代日本では(優位な白人に対する)「有色人種」という意味合いだったからあまり使われず、かわって「民族」という概念が発明された。被差別の隠蔽である。

(2)近代日本の「民族」概念は「千年単位の歴史を共有している集団」とみなし、そこから同じ有色人種の韓国や台湾、東南アジア諸国民に対する差別を、作り出していた。支配の正当化である。

(3)米国の人種差別は、肌の色による階級差別のひとつ。だが、日本の「差別」はピラミッド型の社会的属性(=国のお荷物、社会の異質物というレッテル)による差別である。これは、差別や支配という意識をもたない民族概念の所産である。「じねん:自然意識」の正当化であり、肯定・安住である。


 言葉を換えていうと、(1)で黄色人種として差別されている現実を自ら隠蔽し、(2)によって被差別的状況から自らを解放し、差別的主体を起ち上げる道筋をつくる。その根底には(3)の「差別や支配という意識をもたない」自己意識が底流している。自分を直視していない。だからもしBLMに共感しようとするならば、まず、自分を対象としてみる(鏡に照らして自己省察を重ねる)必要がある、と言える。

 

 ホモ・サピエンスが人間に変わる過程には、「自然意識」の意識化が欠かせない。大自然に包まれたままの存在から自らを切り分けたときに、ヒトが自然を作り替える道筋が開けた。余剰生産物の蓄蔵と略奪を産む過程で生み出された社会システムに乗りつつ、構成員の実存を保証しようと考えたとき、人権が生まれた。近代の人間の権利意識は、「自然意識」を一つひとつ対象として乗り越えていくときに生み出されてきたものである。「じねん」のままでは、視界に収まらないことだといえる。

 

 大災害や大事件を「○○から××年」というかたちで振り返る記事や番組を多く見かける。あれは災害や事件で亡くなった人やその関係者の身柄に視点を移して、その当時と今との社会の仕組みや人々の在り様を対象としてみようとする企画だといいかえることができる。それは、ただ単に、亡き人を想い、愛おしみ慈しみ懐かしむということではない。死者に思いを致す地点に目を移すことで、生きている現在(の自分)を対象としてみる視点を手に入れている。自然に身を置いて「じねん」に生きる日本人の(と一般化していいかどうかはわからないが)智恵ではないか。

 ときどきそこへ身を置いてわが身を振り返る。後ろ向きのようにみえて、案外、近代へ踏み込むときのジャンピングボードになっていたんではないか。そんな気もする。

2020年9月12日土曜日

メルクマールとドグマ

 昨日(9/11)のTV番組を観ていて、映画監督の大林信彦が4月10日に亡くなったことを知った。82歳という。私の長兄と同じかと思い調べてみたら、1938年1月の生まれ。私の長兄は1937年の今日(9/12)。生誕83年だが、6年弱前、77歳で故人となった。学齢が一緒だ。私とわずか5年ほどしか違わないから、この歳になると同世代と思うかもしれないが、そうではない。敗戦を目安に採ると、ほぼ8歳であったのと3歳未満だったのとでは、記憶に残る戦争体験が格段に異なる。さらに敗戦後の混沌の中の生活と父や母の振る舞いをとどめる「個人的な体験」は、物心ついているのとまるで上の空であったのとでも、格別の内面形成に落差がある。そればかりは適わないと私は、子ども心に長兄への敬意を忘れたことがない。大林信彦の映画作品をそれほど意識的に観たわけではないが、TV番組の綴るコメントには、長兄との同世代感が滲み出ていた。

 まもなく7回忌を迎えるときになっても、私の内面を覗き見るときの反照というか鏡というか、一つのメルクマールのように屹立して、浮かび上がる。「弟は生涯兄に適わない」と誰であったか脳科学者がいっていたが、つくづくそう思う。私の自己形成の、間違いなく一角を占めてきたのだ、と。

                                            *

 昨日のこの欄で、「9・11は、今となっては狭隘なフラグマン」と題して"新型コロナウィルス禍"が教えるホモ・サピエンスへの天の啓示に触れた。そのことを書いているときに、久しく音信の無い息子から珍しくメールが入った。


 「同僚の知人が新築の家を売りに出そうとしている。家が出来上がったころに離婚となって手放したいそうだ。常念岳が見える安曇野の一角、明科駅から500メートル。駅までの間に図書館もありスーパーもある。犀川の傍だが、比高差があるから洪水の心配はない。もしリタイアまであと五年とでもいうのなら、いずれ故郷にするつもりで自分が買いたいくらいだが、いかんせんまだ15年程もある。そちらが、どこかに移り住む意向があるなら、子細を送る。」


 明科駅の近辺をgoogle-mapで覗いていみると、なるほど犀川の傍ら、篠ノ井線の線路との間に住宅地が位置している。図書館も交番も消防署も小中学校も高校も配置されていて、犀川の流れがつくる幅広い河川敷が快適な田舎暮らしを漂わせている。う~ん、もう18年早ければ、この話に乗ったかもしれない。いかんせん、もうリタイアしてからの暮らしの型は、決まったようなものだ。それとともに顔を合わせてつきあっている(せいぜい150人よという)人間関係も、5~7分類できるネットワークの100人余に固まってきた。つまり私の「余生」のパターンを崩せない限り、いまさら動くわけにはいかない。

 カミサンに話すと、息子に怒っている。ふだん連絡もしてこないで、何を見当違いのノー天気なことを。「ケア付きの住宅というのなら検討する余地があるからと、言っといて」とお冠だ。私の返信。


 「面白い物件ですね。リタイアまであと5年ならまだしも、彼岸まであと5年ほど。いまさらの感。お母さんはケア付きの物件なら検討しますと言っていますよ」


 折り返し返信があった。「了解です。ご放念ください」。

 おいおい、「ケア付きの物件」というのは、放念しないでね。

                                            *

 家というのは、ドグマである。それがないと不安になる。あると安定する。しかし安住すると、とらわれる。とらわれると意識するのは、安定している日常に「飽き」がきている「秋」でもある。もちろん私にも「秋」は来ている。それを振り払うために、毎週のように山へ向かう。山へ向かうのはドグマを棄てるためだが、ドグマというのは、私が日頃纏っている日常の暮らし。山へ入ると、還る処があることに心安らぐ。暮らしに飽きが来たら、彼岸に旅立つというほど、「秋」は意思選択的に位置していない。だから毎週(山に)旅立って、(無事)帰還して、ホッとしている。なんとも小心な「秋」であり、彼岸志向だと言わざるを得ない。

 つまり、今の人間関係を振り捨ててドグマを変えるほど、大きな変転に乗り出す気概はない。せいぜい、山と季節の移ろいを感じて、「飽き」を癒し、「秋」を先送りする。その程度の凡俗の暮らしなんだとわが身を見つめている。

2020年9月11日金曜日

9・11は、今となっては狭隘なフラグマン

 もう19年も経つのか。2001年の9・11は、まだ現役仕事をしているときでした。職場の、ふだんそんなことに関心を示したこともない狷介な高齢者が、興奮して何度も、しかも一日中同じことを話しているのを目にしたとき、貿易センタービルへの旅客機の激突は何を象徴しているのだろうと考えていました。

 アメリカの貿易センタービルという世界経済の頂点に現代技術の頂点を象徴する旅客機が、ともにそれらの活動が進行中の最中に、その担い手である人間まるごと衝突する。まさしく“矛盾”を象徴していました。それを画策・実行したハイジャック犯の側からすると“告発”だったでしょうが、人類史的な贅沢の極みに身を置いていた側からすると、“テロ”にほかならなりませんでした。

 “告発”にせよ“テロ”にせよ、どちらかの側に身をおくと決めてかかっています。そのどちらにも(気持ちの上では)属すと決めることができない者からすると、“矛盾”の象徴でした。でもその狷介な高齢者の興奮は、“矛盾”に気づいているのではありませんでした。贅沢とは言え変わらぬ日常に飽き飽きしているヒトと思いました。小説よりも奇なる現実に興奮していたのです。

 

 でもそれが、19年目の現在地点からみると、それも単なる断片にしか過ぎないと、明らかに見えてきます。今、私たちが遭遇している“新型コロナウィルス禍”は、もっとまるごとです。経済とか技術という次元ではなく、ホモ・サピエンスの存在それ自体が“モンダイ”とされている象徴。

 謂うならば“HLM”、Human Lives Matter。BLMでいうmatterと同じ「モンダイ」というニュアンスで私は遣っているつもりなのですが、人によっては「大切だ」と受け取るでしょう。むろん「モンダイ」と言わず「大事(おおごと)」と日本語にすれば、「大切」の意味も含まれますから、どうでもいいのですが。

 

 ホモ・サピエンスの過剰――人数の過剰、住まう密度の過剰というだけではありません。暮らし方の過剰、贅沢とか度が過ぎた遊興とか振る舞いの過剰。どのような暮らしがスタンダードなのかと決めてかかる人には、何を言っているかわからないでしょう。

 ですが、敗戦前後の昔風の暮らしとか戦後の窮乏生活を体験してきたものにとっては、立ち居振る舞いも、言葉も、物質的な暮らし向きも、これほど過剰でいいのだろうかと“不安”を感じるほど、過剰です。ホモ・サピエンスは、明らかに度を越した暮らし方に身を置いている。いうまでもなく、ホモ・サピエンスの全員がというわけではありません。にもかかわらず、なぜ今になってホモ・サピエンスをもちだすのか。

 ひとつ。歴史過程がすすむにつれて、ヒトの「せかい」は広くなり、その度に「ひと」として視界に収める範囲は広まってきました。家族が一族となり、氏族となり部族となり、「くに」となったり「藩」となったり、国家となって考えたり、近隣諸民族を分け隔てなくと考えたり、グローバリズムのようにすっかり一体化して(実のところ先進国社会の優位性を世界標準にして)考えたりするというふうに、次第に考える単位が大きくなってきました。

 9・11が象徴する現代社会の“矛盾”も、せいぜい「人間」が単位。実際のところは、経済的な先進国と低開発の後進国(途上国)という視界におかれたものでした。

 だが“新型コロナウィルス禍”は、明らかに途上国でも先進国でもなく、政治的な民主主義でも独裁的専制政治でもなく、でも、それら政治や経済や社会のかたちづくって来た社会的エートス(気風)をも俎上に上げながら、まさしくホモ・サピエンスが何をしてきたか/こなかったかを問うています。全人類史を振り返って、いま何が“モンダイ”かを考えなければならないところに立たされています。

 たとえば、山へ向かいながら「もう日本は、まるで亜熱帯ですよ」とおしゃべりをしていたら、「このまま温暖化がすすむと永久凍土が解け始めるから、封じ込められていた新手のウィルスが出て来ますよね」と同乗者が口にする。そうか、“新型コロナウィルス禍”は、そこまで視野に入れて考えなさいと教えているのかと感服したことがあります。

 

 “新型コロナウィルス”が終息へ向かうのか、拡大へ向かうのかとこれまでは論議してきました。でももうそろそろ、その次元を離れて、“新型コロナウィルス”とともにやっていくには、ホモ・サピエンスの次元で、ということは少なくともここ2~5万年ほどを視野に入れて、実存の仕方を振り返ってみる必要があるのではないかと痛感します。

 「サステイナブル」と言葉を添えて経済の専門家は論題に載せますが、もし現在の暮らしの質を保とうとすれば、少なくとも量を削らなければなりません。量を保とうとすれば、質を落とすことが欠かせません。資本家社会的には、前者と後者を同時に競争原理に基づいて進めようとしています。

 前者は、金持ちが生き延びて貧しいものはますます貧しくなる。格差の拡大です。後者は、貧しいものが混沌に投げ込まれ、いずれ滅び死に絶えていくという構図です。にもかかわらず、その現実に目をつぶって資本家社会的な競争原理に任せるのに、「経済を回復しなければ」と言葉をついで、結局のところ、夢よ再びというイメージをくり返しているのが、現今の政治家や経済の専門家たちです。

 

 ヒトの暮らす単位が大きくなり過ぎています。経済にせよ政治にせよ、もっと小さな単位で、そこに住まう人々の顔がわかる範囲の広さ程度で、暮らしの営みが「そこそこ出来上がる」かたちを基本形にして、社会を編み直す。そうしなければ、ホモ・サピエンスは近代の人間の暮らしさえ、営めなくなっているのです。

 面白いことに、その機会はすでに訪れていました。これまで快適な都市の暮らしへと人口集中がすすんできました。それが“新型コロナウィルス”によって、修正を迫られています。

 かつて私が小中学生のころは、「日本は人口が多い」とモンダイ視されていました。海外移民とか産児制限とかは、暮らしが貧しかったこともあって、切実に響くフレーズでした。ところが今や、一転して少子化社会がモンダイになっています。限界集落の出現をどうするか、あちらこちらの地方自治体が悲鳴を上げるようにしています。それこそ、“新型コロナウィルス禍”後の「withコロナ」時代の鳥羽口です。ゴリラ研究者の山際寿一が説くように、「一人のヒトは150人の知り合いが限度」です。おおよそ150人を基本にしたかたちをイメージして、暮らしを考えてみてはどうでしょう。もちろん今の仕事を棄てることはすぐにはできないでしょうが、リモート事業とか、テレ・ワークなどという新機軸もあれこれと考案されているようです。

 なぜこんなふうに、とりとめもなく、あいまいに口にするか。私のような後期高齢者にとっては先々のことが考えられないからです。せいぜい寿命も、あと五年。そう思うと、いまさら新しい暮らしの形なんて、バカなんじゃないのと身の裡からさえ声が聞こえてきます。

 “新型コロナウィルス”もそれを察知してか知らでか、高齢者から身罷るように手順を踏んでいるようにみえます。だから私は、不運とも考えません。ほど良くお迎えが来たくらいに思って、withコロナです。

 ただ私たちの子どもや孫のような若い人たちが、この先何十年も狭隘で偏狭なフラグマンに頭を悩ますのかと思うと、なんとも切なく思えて、いたたまれない気持ちになります。9・11は、もう遠い昔。ホモ・サピエンスの新しい時代を“新型コロナウィルス”とともに、まるごと考えていくことにしては、もらえまいか。そう、思っています。

2020年9月10日木曜日

秋の長雨? を愉しむ

 一昨日(9/8)山に行ったばかりだのに、もう来週の山を探っている。方角の違うところにある候補を三つ上げ、その地点の天気をみて、何処に行くか決めようというわけ。

 昨日のお昼、ひとつ見つけた。富士五湖のひとつ、西湖。火曜日と水曜日の天気が良い。降水確率10~30%の曇り。降水量は0mm。参加はしたいが水曜日に予定があるという方もいたため、火曜日に登って、テント組は下山後、現地のキャンプ場に泊まって祝杯を挙げ、翌日帰ってこよう。日帰り組は、域は一緒に行き、下山後現地の鉄道駅まで送ると、午後7時半には帰宅できるという。

 それだ、それだと、地図を打ち出して準備に取りかかった。

  ところが、夕方の予報をみると、どちらの日も降水確率が70~80%、雨のち曇りに変わっている。別の地点を探ると、野反湖方面が月曜日と火曜日が良い。野反湖のキャンプ場のバンガローは、水曜日と木曜日は閉鎖しているからちょうどいい具合だ。

 日帰りではどうかと探ってみると、みどり市東町沢入の火曜日が良い。こちらは袈裟丸山の登山口にあたる。どっちでもいいなと、参加希望者に知らせる。

 そうして今朝、予報をみると、野反湖もみどり市も全部「雨、70~80%、降水量1mm」と悪化している。これはどうしたことだ?

 まるで日替わり定食のように、入れ替わっている。昔から秋の長雨って、こうだったっけ。と考えていて、思い違いに気づいた。

 昔は、こんなに細かく予報をしてはいなかった。大雑把な天気図が表示され、あるいは午後4時のラジオの天気概況を聴いて天気図に書きとり、勝手に登山地点の天気を予想していた。パラパラと雨が降りかかるのは、山だから当たり前。降水確率とか降水量なんて、考えたこともなかった。思えば、「山に行くようになって何が変わった?」と友人に問われて、「雨が平気になった」と応えていたではないか。だから私は、「雨男」の異名をとるようになり、初めから終わりまでずぶぬれの山歩きをガイドしたこともあった。そうだ、9月の平標山だったなあ。

 それが、気象衛星の性能も上がった。そのせいもあろうが、地点と時間とが細かくチェックされ、一日のうち、ちょっとでも雨が降るとなると、降水確率は60%とか80%と表示される。もちろん予報を観る方は、「1時間ごと」の予報もみることができるから、大雑把な表示に右往左往することはないが、表示が目まぐるしく変わるのは、きめ細かく予報できるようになったおかげでもある。

 でもまあ、こうして予報もふくめ、行き先もどちらにしようかと探しているのも、山歩きの愉しみの一つといえばひとつ。それをメールでやりとりして、愉しんでいる。

2020年9月9日水曜日

静かな祈りのような蕎麦粒山

 先月の25日の瑞牆山以来、2週間山へ足を運んでいなかった。平地では猛暑続きだったが、山の天気はほぼ毎日雨に見舞われる予報。山梨、新潟、群馬、栃木と埼玉各地の登山区域を毎日チェックして、晴れた日があれば行こうと、何カ所か候補に挙げて声をかけていたが、その何処もがダメだったのだ。そうして9/7の早朝、秩父市の浦山口の天気予報が「曇り、降水確率10%」とあるのを見つけた。さっそくkwさん夫妻にメールを入れる。合わせて「蕎麦粒山へ行きたい」と話をしていたstさんにも声をかける。友人と別の山に行く予定にしていたstさんが友人も一緒でいいかと応答がある。もちろん、もちろん。こうして、慌ただしく翌日(9/8)の山行が決まり、山の会の人たちにも広くお知らせした。

 秩父線影森駅で、8時に待ち合わせる。東浦和から2時間みていたが、1時間40分ほどで着いた。総長は高速も混んでいない。花園インターからの一般道も、通勤の車と逆向きなのでスムーズに運んだ。影森駅は主要道から少し引っ込んだところにあり、民家に囲まれてわかりにくい。駅前の駐車場は広い。通勤客がここに車を置いて熊谷方面へ出かけるのだろう。武甲山が朝陽を受けて目の前に屹立する。駅長らしい人が出てきて、削られる山の変貌を口にする。あと百年もするとなくなるかな、と。五十余年前にここに住んでいた知り合いは、「武甲が削られて、うちに朝陽が差すようになった」と喜んでいたのが思い出される。

 

 車で来たkwさんとも合流し、電車で来たstさんと友人を乗せて、浦山川の上流、川俣の大日堂へ向かう。大日堂入口の浦山川の右岸にある大きな仕舞屋(しもたや)風の家の前、道路を挟んだ空き地に車を止める。kwrさんが止めることを断ろうと家を覗くと、女将さんらしき人が出てきて、「浦山ダムができるときに、ごね得でね・・・」とこの家の由来を話す。息子は東京で仕事をしていてときどき帰って来るそうだ。久しく話し相手がいなかったかのような気配を感じた。

 歩き始める。8時25分。ほぼ予定の時刻だ。私のお知らせしたコースタイムは6時間10分。kwrさんが昭文社地図でチェックすると7時間5分という。そうだ、毎回そうしたコースタイムの違いを指摘される。私のみている「資料データ」が古いこともあるが、近年のGPSやネットの広がりのお蔭で、歩く人の「データ」が多くなり、時間も修正されていっているようだ。

 実際今日も、帰着時刻は15時31分。山頂のお昼に30分ほど割いたが、それをふくめて行動時間が7時間6分。ほぼコースタイムで動いていたということであった。

 

 古びた大日堂はひっそりと針葉樹林に囲まれて薄暗い。境内の裏側に登り口がある。昔は木の階段を設えたのであろうが、朽ち果てて緩み、ジグザグに切って急傾斜を上がる。この急な登攀が30分つづき、「60号鉄塔」に出る。一息つく。稜線に沿って高圧線の鉄塔は「59」「58」「57」とつづき、高圧線を表記しなくなった最近の国土地理院地図と違って、通過ポイントを示すのに便利だ。「58号鉄塔」883mで稜線に上がり、そこからは緩やかな上りになる。昭文社地図では稜線歩きのようにルートが記されているが、国土地理院地図では稜線を巻くトラバース道になっている。それが、あやしく崩れ、滑り落ちると面倒になると思われる。ほかの道は踏み跡もしっかりしているのに、ここばかりは注意を払った。

 その一角に「明治神宮」の署名の入った掲示板が二カ所たてられてあった。たぶん、ここからここまでという領域を記す必要から、立てられたのであろう。下の方は杉林、標高の上の方は檜の林になっていた。掲示板は、踏み込むな、持ち帰るな、荒すな、ここは明治神宮の所有林だという趣旨のことが記してあったが、林はみごとに整備され、なるほど植林してから80年くらいの年数がたつような気配。でも、秩父にそんな針葉樹林を持っているなんて話は、初耳だ。


 先頭を歩くのは、いつも通りのkwrさん。その後に、今日初参加のyokoyさん、stさん、kwmさんとつづく。彼女たちはいずれも草花に詳しいらしく、ときどき立ち止まっては言葉を交わしている。神宮の森を過ぎてしばらく稜線を辿ると、急峻な上りが待っていた。約標高差で300メートル登って仙元峠1444mに着く。この上りがきついとか、武尊山のそれに比べれば、そうでもないとか、kwmさんとstさんが話している。yokoyさんは黙々とkwrさんについてすすむ。ずいぶん強い人のようだ。途中の大木が根を残して、土がまるごと崩れ落ち、何十メートルも下へとえぐっている。

 

 仙元峠は秩父と多摩を結ぶ唯一の峠だったそうで、江戸の人たちの三峰講、上州の人たちの富士講は、この峠を通って行き来したということが、峠の大きな看板に記されている。

「ここでお昼にしますか」とstさんが訊く。まもなく正午だ。

「いや、あと20分頑張って山頂まで行こう」とkwrさんが動き出す。

 標高差は、わずか30メートルだったのに、標高差50メートルくらいを下りに降る。そうして登り返す。それがきつい。こうして大きな岩が現れたところで、山頂に行きついた。

 12時15分。3時間50分かかった。山頂は巨岩がいくつか並び立ち、灌木に囲まれている。見晴らしは良くない。一組のご夫婦がお昼にしている。彼らは東日原の日原鍾乳洞の辺りからから登って来たという。往復するらしい。

「5時間半かかりましたよ、そちらは?」

 とstさんたちと言葉を交わしている。こちらは埼玉県民ですからと、蕎麦粒山を都県で分け合っている。

 

 お昼にする。20分ほどでkwrさんが身支度を整えている。おや、もう行くの? と訊くと、いやいや・・・と苦笑いをしている。kwmさんも、そろそろ終わるようだ。stさんとyokoyさんは上の岩で、お喋りをしている。上空には雲かかり、しかし向かいの山並みはよく見える。川苔山や鷹ノ巣山などが重なって西の方へつづいている。風が涼しく、心地よい。

 途中の林の途切れたあたりからは、東側の有間山や大持山などが、明るい日差しを浴びて見えていた。そちらも、しかし、山嶺が重なり、どれがどれかわからない。長沢背稜と呼ばれているのは、どこからどこまでのこと? とstさんはまるで高校生のような好奇心丸出しだ。ところが、先ほど上った仙元峠の表示板には「天目背稜」とあった。天目山が間近にあるからだ。その向こうには酉谷山もあり、去年9月に歩いた熊倉山も見えた(はず)。三峰山から雲取山に向かう山嶺と三差路のようにぶつかる。そこまでが長沢背稜かどうかはわからない。

 

 ご夫婦が先に出発し、私たちもそれを追うように下山にかかった。12時45分。30分の昼食タイムだ。ひとたび下り、標高差50メートルほどの上りがある。下るときほど、きつさを感じない。

 仙元峠に着く。表示板を読むと「仙元というのは水の源」とあった。そうか、そうだったのか。あちらこちらにある「仙元」の意味が、私の心裡で解きほぐされる。たしかに山は、水の源だ。明治神宮の森であっても、水こそが命の源。山に登るのも、祈りを捧げるような行為だ。泉源/仙元まで、山頂まで足を運んで、感謝をささげる。ことばにするとウソっぽくなる。沈黙の祈りこそ、心裡を伝えるのにふさわしい。それには無心で山に登るという好意こそ、相応しい。神も仏もない。自然こそが大いなる源。

 そう考えてみると、今日の私は、何も考えないでのぼっている。ただただ、前の方の後をついて歩いているが、足元の慥かさをみているだけ。ほとんど瞑想の状態だったなと、振り返って思う。静かな山であったが、同時に、祈りの山でもあったと感じる。

 

 下山中、先述の崩れかけたトラバース道を通っているときに、左太ももに攣るような緊張が入る。歩度を緩めても、攣りそうな気配は変わらない。歩くのをやめて、ザックからエアゾルを出し、太ももに吹きかける。そうして歩いても、緊張はすぐには解けない。ゆっくりと、皆さんより遅れてすすむ。水が足りなくなると足が攣るといつか耳にしたことがある。水を飲む。5分ほどすると気配が収まり、そのうちなんでもなかったかのように自在に足が動かせる。よかった。去年だったか、一人で山に入ったときに、足が攣りそうになって慌てたことがあった。それ以来、エアゾルを買い、kwmさんたちが遣っている漢方薬を薬袋に入れて歩いていたのが、幸いした。

 でも考えてみると、以前は攣ることもなかった。最初の攣りそうな感触がどういう状態で起こったのか、いまとなってはわからない。だが一つ言えること。2週間山に行かなかったこと、つまり身体を動かさなかったことが原因しているとしたら、どういうことなのか。私の脚の筋肉に行きわたって、つねづね引き攣りを防止していた潤滑油が、もう2週間以上は持たないと教えているようである。毎週山に入っていてこそ、トレーニング抜きに、身体が保たれている。それが間遠になると、たちまち潤滑油は切れて、今日のように千メートルの標高差を上り下りするのに耐えられない。

 59号鉄塔に来たとき、私のボトルの水が空っぽになった。あらっ、空っぽだと口にすると、stさんが甘いけどと言ってピーチ味のジュースを少し分けてくれた。それは口にするとほんとうに甘くて、益々水が欲しくなる態のものであったが、それで少しずつ口を湿らせて残りの1時間を歩き、最後の大日堂への急斜面を下って行った。

 車に乗せてあった、運転用のテルモスのお茶を飲んだときは、ほんとうに生き返るってこういうことなんだと思うほど、身の裡にお茶が染み渡るのを感じ、感動したほどだ。

 

 ともあれこうして、蕎麦粒山の山行が終わった。stさんとyokoyさんのお二人を影森駅まで送り、「無事下山」のメールを送ろうとしたら、「充電してください」と表示が出て、スマホの電源が切れた。しかし順調に浦和へ帰還。5時45分。長沢背稜まで行ってきたという充足感は、半端なモノじゃない。