2020年9月13日日曜日

苛烈な暮らしを視野に入れる哲学的なワケ

 先日(9/10)の朝日新聞に小熊英二が《「有色の帝国」の呪縛》とタイトルを振って、見出しに応じているのが掲載された。米国でBLMが取りざたされているが、「日本人は人種差別がない」というのはほんとうか? という問いに応えて、面白い指摘をしている。


(1)「人種」という言葉は近代日本では(優位な白人に対する)「有色人種」という意味合いだったからあまり使われず、かわって「民族」という概念が発明された。被差別の隠蔽である。

(2)近代日本の「民族」概念は「千年単位の歴史を共有している集団」とみなし、そこから同じ有色人種の韓国や台湾、東南アジア諸国民に対する差別を、作り出していた。支配の正当化である。

(3)米国の人種差別は、肌の色による階級差別のひとつ。だが、日本の「差別」はピラミッド型の社会的属性(=国のお荷物、社会の異質物というレッテル)による差別である。これは、差別や支配という意識をもたない民族概念の所産である。「じねん:自然意識」の正当化であり、肯定・安住である。


 言葉を換えていうと、(1)で黄色人種として差別されている現実を自ら隠蔽し、(2)によって被差別的状況から自らを解放し、差別的主体を起ち上げる道筋をつくる。その根底には(3)の「差別や支配という意識をもたない」自己意識が底流している。自分を直視していない。だからもしBLMに共感しようとするならば、まず、自分を対象としてみる(鏡に照らして自己省察を重ねる)必要がある、と言える。

 

 ホモ・サピエンスが人間に変わる過程には、「自然意識」の意識化が欠かせない。大自然に包まれたままの存在から自らを切り分けたときに、ヒトが自然を作り替える道筋が開けた。余剰生産物の蓄蔵と略奪を産む過程で生み出された社会システムに乗りつつ、構成員の実存を保証しようと考えたとき、人権が生まれた。近代の人間の権利意識は、「自然意識」を一つひとつ対象として乗り越えていくときに生み出されてきたものである。「じねん」のままでは、視界に収まらないことだといえる。

 

 大災害や大事件を「○○から××年」というかたちで振り返る記事や番組を多く見かける。あれは災害や事件で亡くなった人やその関係者の身柄に視点を移して、その当時と今との社会の仕組みや人々の在り様を対象としてみようとする企画だといいかえることができる。それは、ただ単に、亡き人を想い、愛おしみ慈しみ懐かしむということではない。死者に思いを致す地点に目を移すことで、生きている現在(の自分)を対象としてみる視点を手に入れている。自然に身を置いて「じねん」に生きる日本人の(と一般化していいかどうかはわからないが)智恵ではないか。

 ときどきそこへ身を置いてわが身を振り返る。後ろ向きのようにみえて、案外、近代へ踏み込むときのジャンピングボードになっていたんではないか。そんな気もする。

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