2020年9月14日月曜日

with-コロナ時代のモデル

 黒野伸一『脱限界集落株式会社』(小学館、2014年)を読む。図書館の書架にあるのが目に止まった。

 人口減少によって「限界集落」がまちがいなく多数出来する。さあどうする? と論題になったのは、21世紀に入るころであった。あれから20年。今年はもう、そのような騒ぎ方はしなくなった。新型コロナウィルス禍が「天の啓示」のように教え諭していることは、人口減少の方が良いということだ。

 良いか悪いかは、当然立ち位置によって変わってくる。経済活動の隆盛こそが「解決策」と考える人たちは、人口の集中によって地方中核都市を構想し、過疎地と都会地との差異を浮き彫りにして経済活動の活性化を促進しようとする。そのイメージは、新しいものを歓迎し、賑やかな人の集まりを良しとする、人々の身の反応を誘う。と同時にそうした動きが忘れていくことに焦点を当てて、「限界集落」のありようにこそ「暮らし」の基本があると考えていくイメージが、この作品をつくっている。

 

 つまり、with-コロナ時代の将来モデルを描き出したと、いま読んでみて思う。お話しは人為の物語だから、仮構している地区や人や展開の筋道は変わるけれども、似たような事態に遭遇することは容易に想像できる。そのときに「忘れてきたこと」が浮かび上がる。都会の暮らしに草臥れたりはじき出されてきた人たちが、こちらの「限界集落」では受け容れられていく。そのかたちは、ヒトがいかにちゃらんぽらんであることか、計算づくではうまくいかないことかを、つくづく思い知らせる。計算づくというのは、計算できることに動きも考えも傾いていく。しかしヒトは計算できることばかりで生きているわけではない。むしろ、ちゃらんぽらんであることが、見落としているさまざまなことを拾い上げ、大事にしていくこともある。

 資本家社会の基本、あらゆることの商品化がすなわち利益の最大化と同義とする「原理」が、ありようも、設計イメージも、現実展開も貫く。労働力の商品化とマルクスが表現した「矛盾」が、もはや何の抵抗もなく受け容れられている社会システムを、根底から考え直してみようと訴える物語となる。それを読み取るとき、モデルを仮構する物語りに読み手も参画することになる。

 

 ライトノベルふうな文体が、いま読むと、with-コロナ時代のモデルの「習作」とみることができる。作者と一緒になって、「習作」に「習作」を重ねて、モデルを膨らませる。それはヒトの再生への道を探ることへつながる。面白い。ちゃらんぽらんの年寄りがいい加減なことを口にして、物語展開の駆動力になっているのは、オモシロイと同時に、こんな「せかい」に誰がしたと振り返ると、忸怩たるものを私は感じる。だが、忸怩もものかは、何もかも笑い飛ばして抱え込んでしまう共感性こそ、ヒトの生きる「じねん」だと言えるのかもしれない。

 

 今は曇り。今日はこれから、富士山の麓へ出かける。西湖のテント場に泊まり、明日早朝から御坂山塊の縦走に取りかかる。75歳までは日帰りの山であったが、ゆっくりと前日テントに泊まり翌朝登って帰宅するというwith-コロナ時代の、後期高齢者の山歩きだ。こうやって、いろいろな登り方を探るのも、楽しみの一つになった。

 ではでは。

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