もう19年も経つのか。2001年の9・11は、まだ現役仕事をしているときでした。職場の、ふだんそんなことに関心を示したこともない狷介な高齢者が、興奮して何度も、しかも一日中同じことを話しているのを目にしたとき、貿易センタービルへの旅客機の激突は何を象徴しているのだろうと考えていました。
アメリカの貿易センタービルという世界経済の頂点に現代技術の頂点を象徴する旅客機が、ともにそれらの活動が進行中の最中に、その担い手である人間まるごと衝突する。まさしく“矛盾”を象徴していました。それを画策・実行したハイジャック犯の側からすると“告発”だったでしょうが、人類史的な贅沢の極みに身を置いていた側からすると、“テロ”にほかならなりませんでした。
“告発”にせよ“テロ”にせよ、どちらかの側に身をおくと決めてかかっています。そのどちらにも(気持ちの上では)属すと決めることができない者からすると、“矛盾”の象徴でした。でもその狷介な高齢者の興奮は、“矛盾”に気づいているのではありませんでした。贅沢とは言え変わらぬ日常に飽き飽きしているヒトと思いました。小説よりも奇なる現実に興奮していたのです。
でもそれが、19年目の現在地点からみると、それも単なる断片にしか過ぎないと、明らかに見えてきます。今、私たちが遭遇している“新型コロナウィルス禍”は、もっとまるごとです。経済とか技術という次元ではなく、ホモ・サピエンスの存在それ自体が“モンダイ”とされている象徴。
謂うならば“HLM”、Human Lives Matter。BLMでいうmatterと同じ「モンダイ」というニュアンスで私は遣っているつもりなのですが、人によっては「大切だ」と受け取るでしょう。むろん「モンダイ」と言わず「大事(おおごと)」と日本語にすれば、「大切」の意味も含まれますから、どうでもいいのですが。
ホモ・サピエンスの過剰――人数の過剰、住まう密度の過剰というだけではありません。暮らし方の過剰、贅沢とか度が過ぎた遊興とか振る舞いの過剰。どのような暮らしがスタンダードなのかと決めてかかる人には、何を言っているかわからないでしょう。
ですが、敗戦前後の昔風の暮らしとか戦後の窮乏生活を体験してきたものにとっては、立ち居振る舞いも、言葉も、物質的な暮らし向きも、これほど過剰でいいのだろうかと“不安”を感じるほど、過剰です。ホモ・サピエンスは、明らかに度を越した暮らし方に身を置いている。いうまでもなく、ホモ・サピエンスの全員がというわけではありません。にもかかわらず、なぜ今になってホモ・サピエンスをもちだすのか。
ひとつ。歴史過程がすすむにつれて、ヒトの「せかい」は広くなり、その度に「ひと」として視界に収める範囲は広まってきました。家族が一族となり、氏族となり部族となり、「くに」となったり「藩」となったり、国家となって考えたり、近隣諸民族を分け隔てなくと考えたり、グローバリズムのようにすっかり一体化して(実のところ先進国社会の優位性を世界標準にして)考えたりするというふうに、次第に考える単位が大きくなってきました。
9・11が象徴する現代社会の“矛盾”も、せいぜい「人間」が単位。実際のところは、経済的な先進国と低開発の後進国(途上国)という視界におかれたものでした。
だが“新型コロナウィルス禍”は、明らかに途上国でも先進国でもなく、政治的な民主主義でも独裁的専制政治でもなく、でも、それら政治や経済や社会のかたちづくって来た社会的エートス(気風)をも俎上に上げながら、まさしくホモ・サピエンスが何をしてきたか/こなかったかを問うています。全人類史を振り返って、いま何が“モンダイ”かを考えなければならないところに立たされています。
たとえば、山へ向かいながら「もう日本は、まるで亜熱帯ですよ」とおしゃべりをしていたら、「このまま温暖化がすすむと永久凍土が解け始めるから、封じ込められていた新手のウィルスが出て来ますよね」と同乗者が口にする。そうか、“新型コロナウィルス禍”は、そこまで視野に入れて考えなさいと教えているのかと感服したことがあります。
“新型コロナウィルス”が終息へ向かうのか、拡大へ向かうのかとこれまでは論議してきました。でももうそろそろ、その次元を離れて、“新型コロナウィルス”とともにやっていくには、ホモ・サピエンスの次元で、ということは少なくともここ2~5万年ほどを視野に入れて、実存の仕方を振り返ってみる必要があるのではないかと痛感します。
「サステイナブル」と言葉を添えて経済の専門家は論題に載せますが、もし現在の暮らしの質を保とうとすれば、少なくとも量を削らなければなりません。量を保とうとすれば、質を落とすことが欠かせません。資本家社会的には、前者と後者を同時に競争原理に基づいて進めようとしています。
前者は、金持ちが生き延びて貧しいものはますます貧しくなる。格差の拡大です。後者は、貧しいものが混沌に投げ込まれ、いずれ滅び死に絶えていくという構図です。にもかかわらず、その現実に目をつぶって資本家社会的な競争原理に任せるのに、「経済を回復しなければ」と言葉をついで、結局のところ、夢よ再びというイメージをくり返しているのが、現今の政治家や経済の専門家たちです。
ヒトの暮らす単位が大きくなり過ぎています。経済にせよ政治にせよ、もっと小さな単位で、そこに住まう人々の顔がわかる範囲の広さ程度で、暮らしの営みが「そこそこ出来上がる」かたちを基本形にして、社会を編み直す。そうしなければ、ホモ・サピエンスは近代の人間の暮らしさえ、営めなくなっているのです。
面白いことに、その機会はすでに訪れていました。これまで快適な都市の暮らしへと人口集中がすすんできました。それが“新型コロナウィルス”によって、修正を迫られています。
かつて私が小中学生のころは、「日本は人口が多い」とモンダイ視されていました。海外移民とか産児制限とかは、暮らしが貧しかったこともあって、切実に響くフレーズでした。ところが今や、一転して少子化社会がモンダイになっています。限界集落の出現をどうするか、あちらこちらの地方自治体が悲鳴を上げるようにしています。それこそ、“新型コロナウィルス禍”後の「withコロナ」時代の鳥羽口です。ゴリラ研究者の山際寿一が説くように、「一人のヒトは150人の知り合いが限度」です。おおよそ150人を基本にしたかたちをイメージして、暮らしを考えてみてはどうでしょう。もちろん今の仕事を棄てることはすぐにはできないでしょうが、リモート事業とか、テレ・ワークなどという新機軸もあれこれと考案されているようです。
なぜこんなふうに、とりとめもなく、あいまいに口にするか。私のような後期高齢者にとっては先々のことが考えられないからです。せいぜい寿命も、あと五年。そう思うと、いまさら新しい暮らしの形なんて、バカなんじゃないのと身の裡からさえ声が聞こえてきます。
“新型コロナウィルス”もそれを察知してか知らでか、高齢者から身罷るように手順を踏んでいるようにみえます。だから私は、不運とも考えません。ほど良くお迎えが来たくらいに思って、withコロナです。
ただ私たちの子どもや孫のような若い人たちが、この先何十年も狭隘で偏狭なフラグマンに頭を悩ますのかと思うと、なんとも切なく思えて、いたたまれない気持ちになります。9・11は、もう遠い昔。ホモ・サピエンスの新しい時代を“新型コロナウィルス”とともに、まるごと考えていくことにしては、もらえまいか。そう、思っています。
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