昨日(9/11)のTV番組を観ていて、映画監督の大林信彦が4月10日に亡くなったことを知った。82歳という。私の長兄と同じかと思い調べてみたら、1938年1月の生まれ。私の長兄は1937年の今日(9/12)。生誕83年だが、6年弱前、77歳で故人となった。学齢が一緒だ。私とわずか5年ほどしか違わないから、この歳になると同世代と思うかもしれないが、そうではない。敗戦を目安に採ると、ほぼ8歳であったのと3歳未満だったのとでは、記憶に残る戦争体験が格段に異なる。さらに敗戦後の混沌の中の生活と父や母の振る舞いをとどめる「個人的な体験」は、物心ついているのとまるで上の空であったのとでも、格別の内面形成に落差がある。そればかりは適わないと私は、子ども心に長兄への敬意を忘れたことがない。大林信彦の映画作品をそれほど意識的に観たわけではないが、TV番組の綴るコメントには、長兄との同世代感が滲み出ていた。
まもなく7回忌を迎えるときになっても、私の内面を覗き見るときの反照というか鏡というか、一つのメルクマールのように屹立して、浮かび上がる。「弟は生涯兄に適わない」と誰であったか脳科学者がいっていたが、つくづくそう思う。私の自己形成の、間違いなく一角を占めてきたのだ、と。
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昨日のこの欄で、「9・11は、今となっては狭隘なフラグマン」と題して"新型コロナウィルス禍"が教えるホモ・サピエンスへの天の啓示に触れた。そのことを書いているときに、久しく音信の無い息子から珍しくメールが入った。
「同僚の知人が新築の家を売りに出そうとしている。家が出来上がったころに離婚となって手放したいそうだ。常念岳が見える安曇野の一角、明科駅から500メートル。駅までの間に図書館もありスーパーもある。犀川の傍だが、比高差があるから洪水の心配はない。もしリタイアまであと五年とでもいうのなら、いずれ故郷にするつもりで自分が買いたいくらいだが、いかんせんまだ15年程もある。そちらが、どこかに移り住む意向があるなら、子細を送る。」
明科駅の近辺をgoogle-mapで覗いていみると、なるほど犀川の傍ら、篠ノ井線の線路との間に住宅地が位置している。図書館も交番も消防署も小中学校も高校も配置されていて、犀川の流れがつくる幅広い河川敷が快適な田舎暮らしを漂わせている。う~ん、もう18年早ければ、この話に乗ったかもしれない。いかんせん、もうリタイアしてからの暮らしの型は、決まったようなものだ。それとともに顔を合わせてつきあっている(せいぜい150人よという)人間関係も、5~7分類できるネットワークの100人余に固まってきた。つまり私の「余生」のパターンを崩せない限り、いまさら動くわけにはいかない。
カミサンに話すと、息子に怒っている。ふだん連絡もしてこないで、何を見当違いのノー天気なことを。「ケア付きの住宅というのなら検討する余地があるからと、言っといて」とお冠だ。私の返信。
「面白い物件ですね。リタイアまであと5年ならまだしも、彼岸まであと5年ほど。いまさらの感。お母さんはケア付きの物件なら検討しますと言っていますよ」
折り返し返信があった。「了解です。ご放念ください」。
おいおい、「ケア付きの物件」というのは、放念しないでね。
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家というのは、ドグマである。それがないと不安になる。あると安定する。しかし安住すると、とらわれる。とらわれると意識するのは、安定している日常に「飽き」がきている「秋」でもある。もちろん私にも「秋」は来ている。それを振り払うために、毎週のように山へ向かう。山へ向かうのはドグマを棄てるためだが、ドグマというのは、私が日頃纏っている日常の暮らし。山へ入ると、還る処があることに心安らぐ。暮らしに飽きが来たら、彼岸に旅立つというほど、「秋」は意思選択的に位置していない。だから毎週(山に)旅立って、(無事)帰還して、ホッとしている。なんとも小心な「秋」であり、彼岸志向だと言わざるを得ない。
つまり、今の人間関係を振り捨ててドグマを変えるほど、大きな変転に乗り出す気概はない。せいぜい、山と季節の移ろいを感じて、「飽き」を癒し、「秋」を先送りする。その程度の凡俗の暮らしなんだとわが身を見つめている。
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