2021年2月8日月曜日

渦巻き再生するマグマ

 真藤順丈『宝島HERO's ISLAND』(講談社、2018年)を読む。

 1952年から1972年の沖縄が舞台。戦中生まれ戦後育ちの私たち世代なら、心当たりのある20年ほどである。そう、日本が独立してから沖縄を「取り戻す」までの年数を指している。その間、私は自身が生きていくのに懸命で、沖縄のことを気遣う余裕がなかったなあと、思う。いや、気遣うという余裕自体が、本土(ヤマトゥ)の心もち。気遣ってなんかいらんワ、とこの小説に登場する人々は思っている。

 アメリカ世(ユ)が本土世(ヤマトゥ-ユ)になったからと言って、沖縄人の心裡が晴れるわけではないと、島津の時代から強烈に感じ続けてきた人たちにとって、アメリカ世は複雑な思いを抱かせる。だが、基本的には戦争の「混沌」がつづいている。暴力的に占領する米軍に盗みでもって生活必需品を奪うのは、いわば生きる必然。略奪品を人々に配って暮らしに役立てる心粋(=心意気)こそ、人々の「英雄」。その心粋(=心意気)、魂にこそ、命が宿る。命が宝(ヌチドゥ タカラ)という俚諺を想い起せば、それが繰り広げられているシマこそ「宝島」。

 絶対的な国家権力が牛耳る「民主社会」は、統治する方も支配される方も「混沌」に投げ出されている。暴力に裏づけられた圧倒的権力支配は、犯罪的暴行を生み、偶発的事故をも治外法権的に処理されて不公正な暴虐と化す。本国の貧困と差別の集積としての年若い兵士たちとベトナム戦争での疲弊、そのはけ口としての沖縄という構図も、おおよそ近代的な合理性と法の支配という条理を絵空事にしてしまう現実展開。「宝島」は、人類史が培ってきた制度や仕組みや観念を吹き飛ばして、原初の「混沌」に足をつけて歩き始めた地平の心粋を探り当てていかねばならない。生きる原初のマグマが、制度や観念の表層を取り払って噴き出してくるしか、道が残されていない。

 そこで作動する「ちから」は、高度経済成長にドライブをかけていた平穏な社会からみると、不条理と不合理と盗みと暴力の行使であり、暴虐の支配であり、犬猫と同じあしらいの人々の暮らしにおかれて見棄てられて、蠢いている。おおよそ「本土」の気遣いが届いていないというよりも、独立した本土の人々が、まったく知らない世界が展開していたのであったが、(今となって)一皮むけば、実は本土も同じ統治支配の構図があったのであり、近代的な制度や観念は、それらを隠す覆いでしかなかったことが、暴かれている。

 この作家は、原初のマグマは、渦巻いて再生していくと展開する。1972年に「本土復帰」してのちに、「宝島」は再生するのかへ疑念を提示して、物語は終わる。そのとき読んでいる私の胸中には、「沖縄」というより「琉球」という地名が色濃く印象付けられていた。明快にその言葉がつかわれてはいないが、心粋(=心意気)のなかに垣間みられる独立不羈の心もち、自分たちのことは自分たちで決める強い意思が、自ずともたらした印象であろう。

 ひょっとすると、本土はとっくに、そうした心粋(=心意気)を喪ってしまったのかもしれないと思わせた。いや違う。ひとたびそう見えたとしても、その心粋(=心意気)は渦巻き再生していくのだと、この作家は叫んでいるように思った。

2021年2月7日日曜日

埋もれた社会規範のマグマ

 コロナウィルスによる世界の大慌ては、人類史がどのように「社会規範」を紡いできたかを、よく示しています。コロナウィルスの「脅威」をどう受け止めるかというとき、目前の暮らしを立てる立て方によって、その評価が異なったのです。むろん、どれが正しいやり方かもわからなかったわけですし、やたらと感染者や死者が多くても、それは外部から持ち込まれた「脅威」であって、それを排除すればいいとばかり「チャイナウィルス」呼ばわりしていたのは、「神のご意思」を奉って、迫る事態に(打つ手はないとして)ある種観念するのと同じ、心理的な働きをしている。「陰謀論」である。

 一つの社会の規範は、外部からの脅威によって意識され、かたちづくられる。

 思えば社会が人類規模に広がったのは、遠く見えはじめたのが五百年前、繋がりが切実になって絡み合いはじめてからはせいぜい百数十年、資本家社会的な市場が一つの影響力を及ぼしはじめたと考えると、まだほんの数十年です。いや現在であってもまだ、資本家社会的な市場経済の世界規範が確立しているわけでないことは、市場経済交渉が二国間であったり多国間であったりしながら、未だに揺れ動いて落ち着きどころを探っています。

 逆にいうと、原初(世界には)、社会は小さいのがたくさんあった。社会規範は、その小さい社会それぞれの中の、安定的関係としてかたちづくられていたのです。そこに生じる「脅威」は、何時でも外部から持ち込まれたといえます。もちろん「脅威」ばかりでなく、新しい「刺激」も外部から持ち込まれましたから、「外部」は「脅威」と「刺激」の両義性を持っていたといえます。両義性のそれが、どちらに転じるかは、受け容れる社会の規範の流動状況によることでした。

 つまり、待ち望むことであると同時に、用心して向きあわねばならないものであったわけです。

「脅威」は、外部からの力による攻撃だけではありません。外部からの「刺激」によって、小さな社会の安定的関係(=規範)が揺らぐことでもありました。つまり「外部」と触れあうことによって、小さい社会で自然発生的にかたちづくられてきた内部の規範が意識され、これでいいのか、どう変える必要があるのかと思案する対象になったといえます。

 それは同時に、内部と外部が、その端境のところで溶け合って共有する規範を新たにかたちづくることでもありました。そのようにして、小さな社会が、隣接する、あるいは遠方から接触してくる小さな社会とふれあって、少し大きな社会に変容していくことです。世界が広がることでした。

 そのとき、元の小さな社会の規範は無用になるのではなく、そこに生きている人々の心裡深くに堆積して、社会としての紐帯のマグマのように作用しています。次々と出会う新しい社会との接触によって、小さな社会が大きく変容していくことがくり返されていくとは言え、いつでも新規に塗り替えられてはいても、心裡に堆積する「規範」の原形(=マグマ)を参照しながら、適合的かどうかが問われ続けています。頭で判断するより一足早く、身が反応していると、進化生物学的にも明らかにされています。同時に、その社会においては、規範は多様性を帯び、分岐が生じるマグマの動きを保ってしまいます。それを一つにつないで、「くに」とか「連帯」と感じる地点のマグマには、新たに加わった「安定的関係」の規範もあります。「民主主義」とか「自由」とか「独立不羈」というのも、古いマグマの心裡から紡ぎだされてきた、後付けの規範だといえます。

 それを発生的にみると、原初は混沌でした。

 善し悪しの別もなく、小さな社会の中で安定的関係を模索していたのでしょう。どうして「安定的関係」を模索したのか。そもそも「安定的関係」とはなにか。持続的関係と言ってもいいでしょう。家族、氏族という保護的な関係の中で人は育ちますから、親や兄弟、縁戚の人たちとの保護的な関係が、まず身に沁みつきます。自らに関わる保護的な関係は、他者に対する利他的な関係です。でもその根底には、自己に対する保護的な関係(=利己的関係)も包み込まれていますが、それが剥き出しでは受け容れられません。その、生育中の、利他的=利己的関係が同時進行的に成立する規範こそが、身に沁みて培われたものと言えます。

 利他的と利己的が対立するのは、他者と自己が分裂するからです。それは別様にいうと、自己の保護的な障壁が薄くなり、「外部」がすぐ身の傍に屹立するようになるからです。「自由」とか「独立不羈」というのも、小さな社会=自分という、「外部」との関係が崩れて、「家族」ですらが「外部」の抑圧のように感じられる時機を、生物学的な生育歴中に抱え持ち、身の裡に堆積していたからだと、大人になってから振り返って気付くというわけです。

 原初は混沌であったというのは、自己が自己として小さな社会から分岐して後に、振り返って見てとった、後付けの解釈です。そうやって後付けで解釈してみると、混沌はアナーキーであり、規範に対する反抗であり、掟破りであり、無茶苦茶であり、規範とか秩序という収束的な社会関係を壊すことと同義にみえるわけです。その衝動は、ヒトが人間になることによって乗り越えられているわけではなく、堆積して身の裡に沈み、なおかつ、生きていく生命体のマグマとしてつねに身の裡に渦巻いてエネルギーの再生をしている。そうみるのが、人間的とか動物的とか区分けするよりも、一番適切に、社会的な事象とヒトとしての「わたし」とをつないで理解する地平ではないか。そう思っています。

2021年2月6日土曜日

大きな公園とビオトープ

 一昨日(2/3)と今日(2/5)、二つの公園を案内してもらった。先日の、さいたま市西区の秋葉の森自然公園と同じ、師匠の探鳥地である。

 一昨日の一つは、上尾丸山公園。今日のそれは、坂戸市にある浅羽ビオトープ。

 上尾の丸山公園は、都市公園といおうか、児童遊園地や運動公園、遊具のある広場やバーベキュウ場まで設えられている森に囲まれた区域。荒川沿いに南北に2kmほど伸びる公園の西側には、並行して小川も流れる湿地がある。川の水は、目下、涸れ気味だが、葦や萱が生い茂り、その向こうには荒川の河川敷が広がっている。

 坂戸の公園は高麗川の河川敷に広がる東西約2kmに広がる原野。いや精確にいうと、西の日高市から鶴ヶ島市を経て坂戸市に至る10km余の高麗川ふるさと遊歩道の一部だが、ビオトープという名の通り、自然保護地区のような景観を保っている。どちらかというと、見沼田んぼのトラスト地に近い感じの地域が、大きく広がっている。こちらは上尾丸山公園と違って、いつ行っても鳥数が多いということであった。

 丸山公園を訪れたのは水曜日。すでに駐車場にはたくさんの車が止まっていて、子どもを連れた家族が遊具のまわりに群がっている。あるいは日当たりのいい広い芝生に敷物を敷いて、小さな子ども兄弟を遊ばせたり、滑り台を懲りずに何回も上り下りする子どもに付き合って、親も滑り降りたりしている。傍らを、ラジオをぶら下げて、のったりのったりと歩きまわるお年寄りもやってくる。ご近所の方なのであろう。

 望遠カメラを持った鳥観の人も、何組か、先行している。コゲラがクヌギの木の幹に取付いて、木肌の溝をほじくっている。虫を見つけたのだろうか。木の幹に「虫取りをする人へ 掘った穴は戻してください」と書いた小さな標識が取り付けてある。カブトムシやクワガタの幼虫を取りに来る人がいるのだろう。下にみえる湿地の水が涸れかけている。今年は雨が少ない。それにこの公園は武蔵野の平地にある高台。水を供給するのは荒川だから、地下水をくみ上げでもしないと水はすぐに枯渇するのかもしれない。そういえば、思い出した。1970年のころ、4年ほど、この上尾に住んだことがあった。そのとき、ここの水は美味しいと言ったら、そりゃあここの上水道は地下水を汲み上げてっからだよと教えられたことがあった。関東北辺にふった雨や雪が関東ローム層とその上に降り積もった黒土に沁み込み、地下水となって大宮台地へゆったりと流れ込んでいるというのだ。表層を流れる川の水よりも、地下を流れる浸透水の方が水量が多いかもしれないと思った。

 残った水路の水をのぞき込んでいるカワセミが一羽。それを遠巻きにしてカメラを構えている4人の人たち、それに背中を向けた師匠が指さすところの、入り組んだ枯木に身を隠すようにヨシゴイが背を向けてじっとしている。背に陽ざしを受けて日向ぼっこか。傍らの茂みを飛び交う小鳥がいる。出て来た。ヤマガラだ。色合いが美しい。

 さらに先、じっと何かをみているカメラマンがいる。師匠が「あれ、なんだかわかる?」と指さす。頭が白い? わからない。「ほらっ、お腹にオビがあるじゃない」と言われて、ノスリだとわかる。私は視力が落ちているのか。カメラに収めておいたのを今見ると、たしかに、腹にだんだら模様がある。ノスリだ。近づいてシャッターを押す。ノスリはこちらを見下ろして、目が合ったように思った。

 あら、富士山、と師匠が言うので目を上げると、遠方に、雲を少しからげた白い富士山が、霞に溶け込むように姿を見せている。良い日和だ。

 端の方まで歩き、荒川をのぞき込んでから、中央の芝地でお昼にしようと引き返す。風が強くなった。水路を覗きこんでいるカメラマンがいる。みると、お立ち台に立ったカワセミが水面をにらんでいる。私もカメラを構えてシャッターを押す。ピンとは運まかせだから、ま、記録ってところだが、こちらを向いたカワセミの目がちゃんと写っていた。

 お昼を済ませ、帰路を歩く。少なくなった池の一羽のカワウが陽ざしを受けて青光りする羽根を広げている。普段見ているウと違い、威勢の良さがみなぎっている。ダイサギがいた。脚で水中をかき混ぜては、覗き込んで、ときどきくちばしを差し込み、小魚であろうか、虫であおろうかを啄ばんで呑みこんでいる。少し離れたところの石垣に身を寄せるようにコサギが佇んでいる。池中央の噴水台の上にアオサギが乗って周りを睥睨しているようだ。

 この上尾の丸山公園でみた鳥の数が少なかったので、昨日(2/5)に浅羽ビオトープへ案内してくれたというわけであった。

 上尾よりはちょっと遠い。倍くらいの時間がかかる。上尾から川越に向けて荒川を渡る開平橋を超えると、橋の上から西側の山が一望できる。左の方に雪をかぶった富士山、中央にはっきりかたちがわかるのは武甲山、そして右の方には、やはり雪をまとった浅間山が一目に収まる。やあ、すごい。これをみただけで、この道を走った甲斐があったというものだ。

 どこを走ったかは、naviまかせで分からない。ビオトープ近くの浅羽野小学校を目印にしていたが、その近くで師匠が、ああ、あそこよ、と指さす所に何台かの車が止まっている。ビオトープ駐車場とあり、トイレも設置されている。

 たぶん高麗川の土手を超えて河川敷に入る。ビオトープを紹介するイラスト看板には「国土交通省荒川上流河川事務所」とある。へえ、荒川と高麗川は関係があるのかと思う。この高麗川の下流には越辺川がある。一昨年の大雨によって越辺川が氾濫し、老人ホームが浸水被害を受けたのではなかったか。「こまがわふるさとの会」が活動報告の新聞を掲示している。その脇に「武蔵野銀行緑の基金、セブンイレブン記念財団、武州入間川プロジェクト」の協賛団体が名を連ねている。なるほど、こういった人たちの支援を得て、ボランティアがビオトープを管理しているのだなと分かる。見沼田んぼのトラスト地と同じだ。

 高麗川の本流と並行して、そこから分流している細い川がビオトープの中を流れている。その水流も少なく、下流でついに伏流してしまい、本流に合流するところで水面が現れている。川に挟まれたところの灌木の下地に鳥影が動く。みると目の周りを白くしたガビチョウだ。いつもは賑やかな鳥だが、落ち葉をつついて何をか啄ばんでいる。ダイサギがいる。師匠が足の色に注目しろという。人肌色をしていてアオサギほどに大きいのをダイサギ、これまでダイサギと呼んでいた、それより少し小さく脚の黒いのをチュウダイサギとして区別するようになったと教えてくれる。

 シメがいる。イカルの群れが右手の林から現れ左の灌木へ飛び移る。シロハラの声がする。木の枝をカシラダカが飛び交う。茂みに現れた小鳥に陽ざしが当たり、縞模様の入った黄色い腹を見せつける。マヒワか? 師匠に告げてそちらを指さしたときには、もう飛び去っていた。いても不思議ではないけど…と師匠は、慎重だ。帰宅して図鑑をみるとマヒワもそうだが、アオジも縞模様のある黄色い腹をしている。でも、正面から腹を撮った図鑑の写真は、どちらもなく、判別が出来なかった。

 ベニマシコが対岸の茂みの中にいた。これも、私だけが見て、師匠はみていない。赤い腹をみただけなので、これも同定できていない。ま、慌てず、ぼちぼちと憶えていこう。カワラヒワが枝から飛びさる。細い川から離れ、高麗川を下にみながら西へと歩く。ジョウビタキが枯木の突端に止まる。アオジが現れる。シジュウカラが飛び交う。セグロセキレイが、河原を行き来している。キジが3羽、声を立てて飛び上がった。

 おっ、畑がある。ビニールの覆いをかけて何かを栽培しているようだ。少し先に看板が立ててある。「この場所は国道交通省が管理している河川区域(国有地)です。この場所を耕作することは河川法**条に違反します。撤去してください。云々」と書いてある。ビオトープの管理をしている「こまがわふるさとの会」と(この畑の耕作者とは)どういう関係にあるのだろうか。私の感覚では、いいじゃないか。(国土交通省が必要となれば)いつでも壊して撤去すればいいと思うが、そうもいかないのだろうか。公平平等に反するって言っても、何も手をつけないで放棄地にしておくよりは、なにがしかの耕作をしている方がいいじゃないかと思うが、何かまずいか。

 エナガも現れた。カシラダカが草地の何かを啄ばんで群れている。イカルが小川に水を飲みに来て群れている。と思うと、林の中の草叢に降りてちょいちょいと嘴を動かしている。おっと、その左の方にはカメラを持った鳥観の人が二人、じっと佇んでいる。

 お昼を済ませて、東の方へ行ってみる。すぐに行きどまる。小川を渡り、土手と小川のあいだの踏み跡をたどる。向こうに関越道の橋が架かり、通過する車の音が轟轟と響いてくる。ハクセキレイが2羽、縺れあって飛び遊んでいる。

 高速道の橋の下を超えると、水辺にシギがいる。師匠はクサシギよという。イソシギがよく目につくが、首のところに食い込みがあるかないかをよく見てねという。私の双眼鏡では見えない。カメラに収めたが果たして、それを観察できるようにとれたかどうかは、わからなかった。

 こうして、ビオトープの探鳥は終わった。おおよそ3時間半。ずいぶんいろんな鳥の、いろんな姿を観ることができた。

2021年2月5日金曜日

超モダーン・システムに適応する人々

 東京に、春一番が吹いたそうな。2/5、一面青空の晴。自転車に乗って9km先にある、さいたま日赤病院へ行った。この病院、2014年に弟が亡くなったときは、国道17号沿いにあった。駅から遠く不便であったが、いつであったか現在の、新都心駅のすぐ脇に移転した。もちろん電車で行けば、駅から徒歩3分だからアクセスがいいと評判だったが、これまでご縁がなかった。

 先日、ご近所のかかりつけ医でホルター心電図をつけたとご報告した。24時間の心電図を計測した。やはり昼間は2秒ほどの空白が生じている。不整脈だ。夜寝ているときには、その空白が4秒になっている。気分が悪くなったりしないかと問われ、別に~と応じると、不整脈の専門医がいるから診てもらいましょうかと、日赤を紹介されたというわけ。

 でも電車に乗るのがいやだなあと調べてみたら、わが家から何と9kmの距離。なんだ、これなら自転車で行ける。そして晴れわたる街。セーター一枚。午後北風に変わると聞いていたので、ウィンドブレーカーを持参したが、使わなかった。

 第二産業道路を外れ、浦和西高校近くの住宅街を抜けて、新都心駅に近づき、駅北側の地下道をくぐると、日赤病院の脇にぽんと出る。のんびり走って40分足らずであった。

 驚いたのは、患者の数。最初入ったビルは静かであった。と思っていると、そこは小児科病棟。案内係の人に、ご本人ですかと聞かれ、ハイそうですと応じたら、出口の向こうにある建物を指さして、別棟へ案内された。受付の2階フロアも、3階も1階も人で一杯。これは「密」だ。9時10分。

 「総合案内」で手続きの仕方を教わると、あとはほとんど口を利かないも済む。「診察券」ができると、一緒に渡された書類の記載にしたがって、3階の検査へ、1階の検査へ、再び3階の診察室で医師に診てもらい、2階の会計処理へとすすむ。大きく表示された番号に従い、それぞれの部屋の中の検査処理室の入口に表示される呼び出し番号にしたがって検査を受ける。その結果は、たぶんデジタル送信されて医師の元に届けられ、診察の資料として使われている。

 では、全くデジタルまかせかというと、そうではない。看護師やスタッフが声をかけ、何百人という、40科に及ぶ患者が右往左往しなくても済むように手際がいい。想定通りに運ばない人がいることを、十分組みこんで、人の言葉と動きがうまく作用している。15階建てほどもあるビルの5階分を検査と診療につかい、上部に入院加療の病室を配置したつくりは、ごった返すのではなく整然と「密」であった。座る場所もないところが、過剰な治療と期待感を湛えている。車椅子の患者もいるが、その方たちの通行が塞がれるようなことはない。入院している方と思われるパジャマ姿の患者もいる。

 そのように「密」な状態であるのに、検査治療を待つ人たちは、まことに整然と静かであり、何をどうして良いかうろたえている様子は、ない。つまりこれは、これほど過剰な患者を抱えた大病院のシステムが、見事に働いていることをしめしている。また、ここにかかる患者の人たちが、私をふくめて、見事に適応していることを表している。座る椅子が足りないということを除いて、設計段階から、人の動線を組みこみ、デジタル機能を駆使して、遅滞なきように、また渋滞を起さないようにデザインするのは、大変なことではないか。

 9時10分に病院に着き、会計を終えて病院を出たのは13時少し前。滞在時間は3時間50分ほどになる。医師の診察時間は5分ほどではなかったか。運動中の心電図をとることを予約し、その結果を聞くための予約も一月後に組み込んで、私の診察は終わった。すぐにモンダイになるようなことはなかろうが、念のための検査ですと、医師は口にした。初診だからということもあるが、別にそれで文句をいうつもりはない。医師とのやりとりをプリントにした文書をもらって、次回来院の際の注意を高等で受けて、短時間にそれだけのことが処理されていく工程に目を瞠った。超モダーンな病院のシステムに驚嘆しながら、デジタルとアナログの混在する、人の動きを組みこんだ仕組みの組み立てにひとしきり感心したのであった。

2021年2月3日水曜日

春立ちぬ

 節分と立春に1日のズレがあることを忘れて、一緒くたに考えていた。昨日(2/2)の陽気は、文字通り春が来た気配に満ちていた。

 朝8時ころまで降っていた雨が上がり、気温はどんどん上がる。10時ころ家を出たとき、空にはまだ黒っぽい雲がかかり、ひょっとしたら傘もいるかなと思わせたのに、帰ってくる頃には青空が広がっている。歩いていても、何がどうということではないが、お湿りを得た大地が温かさを寿いでいるように思えるほど、春の気配になった。いいねえ、この季節、と連れと言葉を交わしながら裏道を抜けて歩く。畑や苗木の植栽が目を覚ましたように感じる。竹林の脇を通るときには、もうタケノコが顔を出しているんじゃないかと覗き込むほどの気分であった。買い物ついでの散歩。

 汗ばむ。お昼前に帰宅し、お昼を済ませ、一休みしてから、もう一度、歩きに出た。30年前、この地に越してきたころうっそうと生い茂っていた森は切り払われ、幹線道路が敷設されている。その道沿いの広い部分は、土盛りをして沈むのを待っているのか、もう何年も裸地のまんまだ。中には囲いをして「工事中」の看板を掲げたまま、20年ほども経過しているところも。一体どうしたんだろう。

 県営団地にぶつかる。脇の道を西へ抜けようとしたが、一段低くなった細い水路沿いの工事をしていて、通行止め。水路に沿って南北に連なる耕作地の向こう側の住宅地とこちら台地側の住宅地を結ぶ通路が見つからない。南へ進路をとり、中学校にぶつかって行き止まり。もう一度、旧幹線道路に戻って西へ向かうが、ここも何か大きなホールのような建物があって、迂回して、旧幹線道路に戻ってしまう。大きな紙袋を下げた着飾った女の人たちが次々と出てくる。畑地を流用したような駐車場があり、何人かの整理用員がでて、交通整理をしている。何だ、この建物は。ぐるりと回って正面の入口の「監視所」にでる。どこにも、何も書いていない。掲示板に、よく意味の分からない「標語のような言葉」が書いてある。宗教団体なのか。それとも「内観」とか「精神修養」と呼ぶ、何かの集まりがあるのだろうか。

 旧幹線道路を渡って自宅の方へ向かう。浦和神経サナトリュウムの看板をみる。そういえば、40年ほど前、引きこもりの生徒の相談で、歌人でもあったここの医師に会いに来たことがあった。そのときは森の中という印象であったのに、今は新しい幹線道路から病院の建物の全容が見える。そうか、これだったのかとあらためて認識する。

 冷たい風が吹き込んでくる。見上げると、ちょうど頭上に黒い雨雲が広がる。南の風と北風がちょうどこの頭上でぶつかっているのだと思う。妙なことに、立春に向けて温かい節分が追い払われて、北風が吹きこんできたのだ。固定観念を吹き飛ばすような自然の所業。面白いと思った。

2021年2月2日火曜日

ウソの有効範囲と尊敬のまなざし

 国会議員が、コロナ渦中に夜の町へ行ったということで、議員職を辞任したり、離党したりしている。そのうちの一人、松本潤議員が「一人で行ったとウソをついていた」と表明し「有望な後輩議員を気遣って」と釈明した。それが「釈明」になると思っているところが、この議員にとっての「ウソの有効範囲」である。つまり、こう釈明することで、ウソの正当性が明かしだてられると思っている。

 だが、モンダイが週刊誌にとらえられたのは、緊急事態宣言によって国民に「自粛」を要請している最中に、議員が逸脱行為をしていいのかという「特権意識」である。つまりウソの正当性は、議員と国民との関係の次元においてはじめて有効性も認められ、正当性

も保障されるのである。

 ウソをついているのが許せないという感覚は、たぶん(日本の庶民は)もっていない。ウソをつくなと子どもに教えるのは、親兄弟というか、身近な共同性を裏切るなと言っているのである。ウソがうそであるとばれるのは、その弁明が「事実を語っていない」と判明したときだが、「語れない事実」もあり、にもかかわらず、何がしかのことを語らざるを得ないときに、ウソが発せられる。それがウソと分かった時にも、聞いている方が、ま、それはそれで致し方ないわなと、腑に落とすからだ。ウソの有効性とは、そういう嘘も方便として許容されることを示している。

 その有効性の範囲が、「有望な後輩議員」をかばってというウソは、同じ派閥か同じ党かは知らないが、その議員の関係範囲においてに限定されるにすぎない。それを、マスメディアの前で公言するというのは、彼の思い及ぶ「関係範囲」が派閥か党の範囲に限定されているからだ。「離党」というのも、党に迷惑はかけられないという言い訳をしているが、それもせいぜい、「党」との関係に限定される。つまり、夜の町で遊んだことやウソをついていたことが「迷惑をかける」範囲にある「党」は、じつは、その議員の行動についてなにがしかの「責任」を負う立場にある(と承知している)と語っているのである。だからじつは、「党」はそれについて何がしかの「責任」をとらなければならない。それが論理的必然であるが、「国会議員の進退はご本人が決めることだ」という決まり文句で、「党(の責任者)」は頬被りしている。

 そうだから他方で、同様の行動をした公明党の議員は、議員辞職した。これは、議員辞職させたと受け止めることによって、「党」が責任をとったと(国民は)受けとめる。別に私たち国民の範たれなどと期待してはいない。だが「みっともない真似はするなよ」とは思う。

 では「みっともない真似」とはどういうことか。もちろん市井のオジサンが「みっともない真似」をすることを咎める「国民」はいない。庶民はバカな真似をするものだし、愚かであることは「人間だもの」と承知している。だが国会議員となると、少なくとも私たちを統治する立場にいる。統治する立場の者が、派閥や党や、ご自分の選挙区や身の回りのことしか考えていないという「実存の次元」に、落胆するのである。なんだこいつら、ワシらとおんなじじゃないかというのが、「みっともない真似」に見える。だから「国民の範たれ」というのとは、次元が違う。

 マス・メディアは、実はそのあたりを抉り出して、庶民の思考を整理する役割がある。それが報道の役割であり責任である。議員の振る舞いの示す次元は奈辺になるのか。それを解き明かして、市井のオジサン・オバサンが喋々していることと橋を架ける。それを果たしてこそ、マス・メディアも尊敬を得るであろうし、報道される政治家たちも、その振る舞いを言い訳するのではなく、語れないことには沈黙を以って応じることができる。

「ウソをついていました」と公言する議員には「うそつき議員」と綽名をつけて呼ぶ。市井のオジサンはそういう応対を望んでいる。

2021年2月1日月曜日

山友も性友も趣味なのか

 一昨日(1/30)の朝日新聞の「悩みのるつぼ」には、時代の大きな変容を感じた。相談者は20代の女性。セックスフレンドと同棲して1カ月、心安らぐので結婚したい。でも相方は「非日常こそが面白い」と言っていて、結婚を言い出すと別れになるのではないかと心配、というもの。回答者の美輪明宏は相方のステージを考慮して、なにをしたいかを考えろ応えている。

 相談者の、セックスフレンドと暮らしとをきっぱりわけて同棲していることに、隔世の感がある。つい先日、佐藤正午の小説に感じたこと、性を機能的に分節化してみている見方が、すでに若い人たちには社会的に定着しているのか。そういえば、この全国紙の欄は「悩みのるつぼ」。パッと見たときの私の受け取り方は「人生相談」であった。つまり前者は、分節化したままだが、後者は総合的である。私たち年寄り世代の「性」の受け止め方は「人生」と切り離せない総合的なものであった。総合性が前提にあるから、身と心との分裂と内心で煩悶していたのだが、端から「性」だけを分けて「性友」とみていると、なるほど、どう統合するかが、次なるステージの課題となるわけか。

 ということは、同棲ということも、単なる生理的欲求部分での協調であって、暮らしという(全体的というか)総合的実存とは別物とみえる。いわば趣味の面での協調であって、山友とか鳥友とか観劇友というのと変わらないセンスで受けとめていると思われる。でも、そういうことなのか? 

 生理的欲求ということであれば、呑み友達とかランチ友だちとかお喋り友達というのと同じで、その場その場の愉しさが大事だが、それはそれで、その都度おしまいになる。断片である。SNSのネットワークと同じで、愉しめる間はつながっているが、つまらなくなれば離脱すればいい。関係を取り結ぶかどうかは自在となると、社会関係のつくり方も変わってくる。どう変わるか? 

 家族というのは、取り替えの利かない「紐帯」に結ばれている。この「紐帯」というのは、構成員の相互が拘束し合うことを必然とする。桃井かおり主演の映画『隣の女』で桃井が、「独立・自由って、恋愛すると全部なくしてしまうのよ」と呟く台詞があった。これは女に限らない。相互に関係を取り結ぶということは、互いに拘束することが生まれることを意味している。ただ、山友と性友は違うと、私たち年寄りは考えている。つまり山は、趣味の領域。その前提になる暮らしの領分が確固としてあり、暮らし領分の都合によって山友との協調は袖にされても仕方がないと了解している。だが性友は、趣味ではない、暮らしそのもの。実存と切り離せないと考えているから、他の性友に浮気したり二股掛けたりすることを、不実・不倫として、逸脱行為と考えてしまうのだ。進化生物学的に「性」を捉えても、そういうことができると、ジャレド・ダイヤモンドも展開していた(『性はなぜ楽しいか』)。「性」の相互性がもつ「拘束性」には、生理的な欲求を刹那的に満たすだけでなく、持続性・継続性が含まれ、その延長上には、「食」「住」をふくめた経済性も見え隠れしているのである。

 ん? あっ、あっ、同じところをぐるぐる回っているか? ちがうよね。

「性」は、それ自体が相互性を持っているから、関係の紐帯として「拘束性」をもつ。性的欲求を個体の生理的欲求を満たすこと機能的に考えると相互性が欠け落ちる。ちょうど「食」が、腹が減ったからそれを満たすと考えると、個体のカロリーや栄養分の補給のモンダイになってしまう。だが、獲物の獲得や分配、調理や給餌が集団的に行われる行為であることを考えると、相互性が浮かび上がり、「紐帯」の相互性が(考えかたの基点によるが)「拘束性」と受け取られることも生じる。持てるものが持たないものに分ける、公平に分ける、小さい子にも飢えないように与えるという分配のやり方は、それぞれの属する集団によって違いはあるが、それぞれに「掟」をもっている。その掟を受け容れることが集団への参入の出発点である。

「セックスフレンド」という同棲の形は、相互性の前提となる「拘束性」を、「契約」として扱うことによって、棚上げしている。個人の独立と自由が整うにしたがって、ますます「契約」的関係が一般化している。それは「独立・自由って、恋愛すると全部なくしてしまうのよ」という桃井の台詞が込めている「性/愛」が(人の関係に)もっている溢れるような余剰部分を、どう人の豊かさとして組みとめるか。そういう時代的ステージに立たされていると思うのである。