2021年2月2日火曜日

ウソの有効範囲と尊敬のまなざし

 国会議員が、コロナ渦中に夜の町へ行ったということで、議員職を辞任したり、離党したりしている。そのうちの一人、松本潤議員が「一人で行ったとウソをついていた」と表明し「有望な後輩議員を気遣って」と釈明した。それが「釈明」になると思っているところが、この議員にとっての「ウソの有効範囲」である。つまり、こう釈明することで、ウソの正当性が明かしだてられると思っている。

 だが、モンダイが週刊誌にとらえられたのは、緊急事態宣言によって国民に「自粛」を要請している最中に、議員が逸脱行為をしていいのかという「特権意識」である。つまりウソの正当性は、議員と国民との関係の次元においてはじめて有効性も認められ、正当性

も保障されるのである。

 ウソをついているのが許せないという感覚は、たぶん(日本の庶民は)もっていない。ウソをつくなと子どもに教えるのは、親兄弟というか、身近な共同性を裏切るなと言っているのである。ウソがうそであるとばれるのは、その弁明が「事実を語っていない」と判明したときだが、「語れない事実」もあり、にもかかわらず、何がしかのことを語らざるを得ないときに、ウソが発せられる。それがウソと分かった時にも、聞いている方が、ま、それはそれで致し方ないわなと、腑に落とすからだ。ウソの有効性とは、そういう嘘も方便として許容されることを示している。

 その有効性の範囲が、「有望な後輩議員」をかばってというウソは、同じ派閥か同じ党かは知らないが、その議員の関係範囲においてに限定されるにすぎない。それを、マスメディアの前で公言するというのは、彼の思い及ぶ「関係範囲」が派閥か党の範囲に限定されているからだ。「離党」というのも、党に迷惑はかけられないという言い訳をしているが、それもせいぜい、「党」との関係に限定される。つまり、夜の町で遊んだことやウソをついていたことが「迷惑をかける」範囲にある「党」は、じつは、その議員の行動についてなにがしかの「責任」を負う立場にある(と承知している)と語っているのである。だからじつは、「党」はそれについて何がしかの「責任」をとらなければならない。それが論理的必然であるが、「国会議員の進退はご本人が決めることだ」という決まり文句で、「党(の責任者)」は頬被りしている。

 そうだから他方で、同様の行動をした公明党の議員は、議員辞職した。これは、議員辞職させたと受け止めることによって、「党」が責任をとったと(国民は)受けとめる。別に私たち国民の範たれなどと期待してはいない。だが「みっともない真似はするなよ」とは思う。

 では「みっともない真似」とはどういうことか。もちろん市井のオジサンが「みっともない真似」をすることを咎める「国民」はいない。庶民はバカな真似をするものだし、愚かであることは「人間だもの」と承知している。だが国会議員となると、少なくとも私たちを統治する立場にいる。統治する立場の者が、派閥や党や、ご自分の選挙区や身の回りのことしか考えていないという「実存の次元」に、落胆するのである。なんだこいつら、ワシらとおんなじじゃないかというのが、「みっともない真似」に見える。だから「国民の範たれ」というのとは、次元が違う。

 マス・メディアは、実はそのあたりを抉り出して、庶民の思考を整理する役割がある。それが報道の役割であり責任である。議員の振る舞いの示す次元は奈辺になるのか。それを解き明かして、市井のオジサン・オバサンが喋々していることと橋を架ける。それを果たしてこそ、マス・メディアも尊敬を得るであろうし、報道される政治家たちも、その振る舞いを言い訳するのではなく、語れないことには沈黙を以って応じることができる。

「ウソをついていました」と公言する議員には「うそつき議員」と綽名をつけて呼ぶ。市井のオジサンはそういう応対を望んでいる。

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