真藤順丈『宝島HERO's ISLAND』(講談社、2018年)を読む。
1952年から1972年の沖縄が舞台。戦中生まれ戦後育ちの私たち世代なら、心当たりのある20年ほどである。そう、日本が独立してから沖縄を「取り戻す」までの年数を指している。その間、私は自身が生きていくのに懸命で、沖縄のことを気遣う余裕がなかったなあと、思う。いや、気遣うという余裕自体が、本土(ヤマトゥ)の心もち。気遣ってなんかいらんワ、とこの小説に登場する人々は思っている。
アメリカ世(ユ)が本土世(ヤマトゥ-ユ)になったからと言って、沖縄人の心裡が晴れるわけではないと、島津の時代から強烈に感じ続けてきた人たちにとって、アメリカ世は複雑な思いを抱かせる。だが、基本的には戦争の「混沌」がつづいている。暴力的に占領する米軍に盗みでもって生活必需品を奪うのは、いわば生きる必然。略奪品を人々に配って暮らしに役立てる心粋(=心意気)こそ、人々の「英雄」。その心粋(=心意気)、魂にこそ、命が宿る。命が宝(ヌチドゥ タカラ)という俚諺を想い起せば、それが繰り広げられているシマこそ「宝島」。
絶対的な国家権力が牛耳る「民主社会」は、統治する方も支配される方も「混沌」に投げ出されている。暴力に裏づけられた圧倒的権力支配は、犯罪的暴行を生み、偶発的事故をも治外法権的に処理されて不公正な暴虐と化す。本国の貧困と差別の集積としての年若い兵士たちとベトナム戦争での疲弊、そのはけ口としての沖縄という構図も、おおよそ近代的な合理性と法の支配という条理を絵空事にしてしまう現実展開。「宝島」は、人類史が培ってきた制度や仕組みや観念を吹き飛ばして、原初の「混沌」に足をつけて歩き始めた地平の心粋を探り当てていかねばならない。生きる原初のマグマが、制度や観念の表層を取り払って噴き出してくるしか、道が残されていない。
そこで作動する「ちから」は、高度経済成長にドライブをかけていた平穏な社会からみると、不条理と不合理と盗みと暴力の行使であり、暴虐の支配であり、犬猫と同じあしらいの人々の暮らしにおかれて見棄てられて、蠢いている。おおよそ「本土」の気遣いが届いていないというよりも、独立した本土の人々が、まったく知らない世界が展開していたのであったが、(今となって)一皮むけば、実は本土も同じ統治支配の構図があったのであり、近代的な制度や観念は、それらを隠す覆いでしかなかったことが、暴かれている。
この作家は、原初のマグマは、渦巻いて再生していくと展開する。1972年に「本土復帰」してのちに、「宝島」は再生するのかへ疑念を提示して、物語は終わる。そのとき読んでいる私の胸中には、「沖縄」というより「琉球」という地名が色濃く印象付けられていた。明快にその言葉がつかわれてはいないが、心粋(=心意気)のなかに垣間みられる独立不羈の心もち、自分たちのことは自分たちで決める強い意思が、自ずともたらした印象であろう。
ひょっとすると、本土はとっくに、そうした心粋(=心意気)を喪ってしまったのかもしれないと思わせた。いや違う。ひとたびそう見えたとしても、その心粋(=心意気)は渦巻き再生していくのだと、この作家は叫んでいるように思った。
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