コロナウィルスによる世界の大慌ては、人類史がどのように「社会規範」を紡いできたかを、よく示しています。コロナウィルスの「脅威」をどう受け止めるかというとき、目前の暮らしを立てる立て方によって、その評価が異なったのです。むろん、どれが正しいやり方かもわからなかったわけですし、やたらと感染者や死者が多くても、それは外部から持ち込まれた「脅威」であって、それを排除すればいいとばかり「チャイナウィルス」呼ばわりしていたのは、「神のご意思」を奉って、迫る事態に(打つ手はないとして)ある種観念するのと同じ、心理的な働きをしている。「陰謀論」である。
一つの社会の規範は、外部からの脅威によって意識され、かたちづくられる。
思えば社会が人類規模に広がったのは、遠く見えはじめたのが五百年前、繋がりが切実になって絡み合いはじめてからはせいぜい百数十年、資本家社会的な市場が一つの影響力を及ぼしはじめたと考えると、まだほんの数十年です。いや現在であってもまだ、資本家社会的な市場経済の世界規範が確立しているわけでないことは、市場経済交渉が二国間であったり多国間であったりしながら、未だに揺れ動いて落ち着きどころを探っています。
逆にいうと、原初(世界には)、社会は小さいのがたくさんあった。社会規範は、その小さい社会それぞれの中の、安定的関係としてかたちづくられていたのです。そこに生じる「脅威」は、何時でも外部から持ち込まれたといえます。もちろん「脅威」ばかりでなく、新しい「刺激」も外部から持ち込まれましたから、「外部」は「脅威」と「刺激」の両義性を持っていたといえます。両義性のそれが、どちらに転じるかは、受け容れる社会の規範の流動状況によることでした。
つまり、待ち望むことであると同時に、用心して向きあわねばならないものであったわけです。
「脅威」は、外部からの力による攻撃だけではありません。外部からの「刺激」によって、小さな社会の安定的関係(=規範)が揺らぐことでもありました。つまり「外部」と触れあうことによって、小さい社会で自然発生的にかたちづくられてきた内部の規範が意識され、これでいいのか、どう変える必要があるのかと思案する対象になったといえます。
それは同時に、内部と外部が、その端境のところで溶け合って共有する規範を新たにかたちづくることでもありました。そのようにして、小さな社会が、隣接する、あるいは遠方から接触してくる小さな社会とふれあって、少し大きな社会に変容していくことです。世界が広がることでした。
そのとき、元の小さな社会の規範は無用になるのではなく、そこに生きている人々の心裡深くに堆積して、社会としての紐帯のマグマのように作用しています。次々と出会う新しい社会との接触によって、小さな社会が大きく変容していくことがくり返されていくとは言え、いつでも新規に塗り替えられてはいても、心裡に堆積する「規範」の原形(=マグマ)を参照しながら、適合的かどうかが問われ続けています。頭で判断するより一足早く、身が反応していると、進化生物学的にも明らかにされています。同時に、その社会においては、規範は多様性を帯び、分岐が生じるマグマの動きを保ってしまいます。それを一つにつないで、「くに」とか「連帯」と感じる地点のマグマには、新たに加わった「安定的関係」の規範もあります。「民主主義」とか「自由」とか「独立不羈」というのも、古いマグマの心裡から紡ぎだされてきた、後付けの規範だといえます。
それを発生的にみると、原初は混沌でした。
善し悪しの別もなく、小さな社会の中で安定的関係を模索していたのでしょう。どうして「安定的関係」を模索したのか。そもそも「安定的関係」とはなにか。持続的関係と言ってもいいでしょう。家族、氏族という保護的な関係の中で人は育ちますから、親や兄弟、縁戚の人たちとの保護的な関係が、まず身に沁みつきます。自らに関わる保護的な関係は、他者に対する利他的な関係です。でもその根底には、自己に対する保護的な関係(=利己的関係)も包み込まれていますが、それが剥き出しでは受け容れられません。その、生育中の、利他的=利己的関係が同時進行的に成立する規範こそが、身に沁みて培われたものと言えます。
利他的と利己的が対立するのは、他者と自己が分裂するからです。それは別様にいうと、自己の保護的な障壁が薄くなり、「外部」がすぐ身の傍に屹立するようになるからです。「自由」とか「独立不羈」というのも、小さな社会=自分という、「外部」との関係が崩れて、「家族」ですらが「外部」の抑圧のように感じられる時機を、生物学的な生育歴中に抱え持ち、身の裡に堆積していたからだと、大人になってから振り返って気付くというわけです。
原初は混沌であったというのは、自己が自己として小さな社会から分岐して後に、振り返って見てとった、後付けの解釈です。そうやって後付けで解釈してみると、混沌はアナーキーであり、規範に対する反抗であり、掟破りであり、無茶苦茶であり、規範とか秩序という収束的な社会関係を壊すことと同義にみえるわけです。その衝動は、ヒトが人間になることによって乗り越えられているわけではなく、堆積して身の裡に沈み、なおかつ、生きていく生命体のマグマとしてつねに身の裡に渦巻いてエネルギーの再生をしている。そうみるのが、人間的とか動物的とか区分けするよりも、一番適切に、社会的な事象とヒトとしての「わたし」とをつないで理解する地平ではないか。そう思っています。
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