一昨日(1/30)の朝日新聞の「悩みのるつぼ」には、時代の大きな変容を感じた。相談者は20代の女性。セックスフレンドと同棲して1カ月、心安らぐので結婚したい。でも相方は「非日常こそが面白い」と言っていて、結婚を言い出すと別れになるのではないかと心配、というもの。回答者の美輪明宏は相方のステージを考慮して、なにをしたいかを考えろ応えている。
相談者の、セックスフレンドと暮らしとをきっぱりわけて同棲していることに、隔世の感がある。つい先日、佐藤正午の小説に感じたこと、性を機能的に分節化してみている見方が、すでに若い人たちには社会的に定着しているのか。そういえば、この全国紙の欄は「悩みのるつぼ」。パッと見たときの私の受け取り方は「人生相談」であった。つまり前者は、分節化したままだが、後者は総合的である。私たち年寄り世代の「性」の受け止め方は「人生」と切り離せない総合的なものであった。総合性が前提にあるから、身と心との分裂と内心で煩悶していたのだが、端から「性」だけを分けて「性友」とみていると、なるほど、どう統合するかが、次なるステージの課題となるわけか。
ということは、同棲ということも、単なる生理的欲求部分での協調であって、暮らしという(全体的というか)総合的実存とは別物とみえる。いわば趣味の面での協調であって、山友とか鳥友とか観劇友というのと変わらないセンスで受けとめていると思われる。でも、そういうことなのか?
生理的欲求ということであれば、呑み友達とかランチ友だちとかお喋り友達というのと同じで、その場その場の愉しさが大事だが、それはそれで、その都度おしまいになる。断片である。SNSのネットワークと同じで、愉しめる間はつながっているが、つまらなくなれば離脱すればいい。関係を取り結ぶかどうかは自在となると、社会関係のつくり方も変わってくる。どう変わるか?
家族というのは、取り替えの利かない「紐帯」に結ばれている。この「紐帯」というのは、構成員の相互が拘束し合うことを必然とする。桃井かおり主演の映画『隣の女』で桃井が、「独立・自由って、恋愛すると全部なくしてしまうのよ」と呟く台詞があった。これは女に限らない。相互に関係を取り結ぶということは、互いに拘束することが生まれることを意味している。ただ、山友と性友は違うと、私たち年寄りは考えている。つまり山は、趣味の領域。その前提になる暮らしの領分が確固としてあり、暮らし領分の都合によって山友との協調は袖にされても仕方がないと了解している。だが性友は、趣味ではない、暮らしそのもの。実存と切り離せないと考えているから、他の性友に浮気したり二股掛けたりすることを、不実・不倫として、逸脱行為と考えてしまうのだ。進化生物学的に「性」を捉えても、そういうことができると、ジャレド・ダイヤモンドも展開していた(『性はなぜ楽しいか』)。「性」の相互性がもつ「拘束性」には、生理的な欲求を刹那的に満たすだけでなく、持続性・継続性が含まれ、その延長上には、「食」「住」をふくめた経済性も見え隠れしているのである。
ん? あっ、あっ、同じところをぐるぐる回っているか? ちがうよね。
「性」は、それ自体が相互性を持っているから、関係の紐帯として「拘束性」をもつ。性的欲求を個体の生理的欲求を満たすこと機能的に考えると相互性が欠け落ちる。ちょうど「食」が、腹が減ったからそれを満たすと考えると、個体のカロリーや栄養分の補給のモンダイになってしまう。だが、獲物の獲得や分配、調理や給餌が集団的に行われる行為であることを考えると、相互性が浮かび上がり、「紐帯」の相互性が(考えかたの基点によるが)「拘束性」と受け取られることも生じる。持てるものが持たないものに分ける、公平に分ける、小さい子にも飢えないように与えるという分配のやり方は、それぞれの属する集団によって違いはあるが、それぞれに「掟」をもっている。その掟を受け容れることが集団への参入の出発点である。
「セックスフレンド」という同棲の形は、相互性の前提となる「拘束性」を、「契約」として扱うことによって、棚上げしている。個人の独立と自由が整うにしたがって、ますます「契約」的関係が一般化している。それは「独立・自由って、恋愛すると全部なくしてしまうのよ」という桃井の台詞が込めている「性/愛」が(人の関係に)もっている溢れるような余剰部分を、どう人の豊かさとして組みとめるか。そういう時代的ステージに立たされていると思うのである。
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