2023年5月17日水曜日

日本の『失われた三十年』から何を学ぶか(2)日本経済の構造転換って、なあに?

 2023/05/11のブログ記事に続けます。バブル崩壊に際して行うべきであった日本経済の構造転換とはなんでしょうか。マイクロソフトの「AI を利用した Web向け copilot」に再度こう訊ねると、日経電子版やプレジデントonlineなどを参照して、こんな応えが返ってきました。


Q:あなたは経済学の専門家です。失われた三十年を回避するために1990年代以降に日本が行うべきであった構造改革とはなんですか。

A:経済学の専門家というわけではありませんが、失われた三十年を回避するために日本が行うべきであった構造改革について、私なりに説明してみます。

  失われた三十年とは、1990年代以降、日本経済が低成長に陥り、国際競争力や生活水準が低下した期間のことです。この原因は、バブル崩壊後の金融危機や不良債権問題、少子高齢化や人口減少、グローバル化やデジタル化に対応できなかったことなどが挙げられます。

  日本が行うべきであった構造改革とは、経済の活力を取り戻すために、市場の自由化や規制緩和、イノベーションや新産業の創出、社会保障や税制の改革、教育や人材育成の強化などを行うことです。これらの改革は、企業や個人の競争力を高めるとともに、経済成長を持続可能にすることを目指します。


 見事簡略にまとめています。これについては、4/11に私が皆さんに送った「2023年5月28日(日)第傘期 36会seminar のご案内」に対するオオガさんからの返信が、さらに広く現情勢を捉えて的確に検証するようです。まずそれをご紹介します。

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 フジタさん/4月13日

 返事が大変遅くなって申し訳ありません。桜もすっかり萌葱色の葉桜となって、小庭の草木も冬を完全に征服したようです。夜は8時を目処に布団に入り、自然の夜明けに目を覚まされています。今朝5時の空は黄砂の影響が明らかでした。北京の空は日本の比でなく、孫の学校は昨日は休みだったそうです。

 フジタさんが出状したメールにトキさんやkeiさん等の返信が早速あったようで、当然、皆さんはフジタさんの至誠を判ってないはずはありません。トキさんの少しはにかんだ、申し訳なさそうな福顔が思い浮かびます。ミヤケさんから連絡がないのは気になりますが、暫くは、会合のあり方は変わろうともフジタさんに頑張ってもらわねば、会の品格?を損ないかねません。

 フジタさんから戴いたメールに対して、小生の異見はほぼありません。特にパンデミックは「天啓」と受け止めるべきとは全くその通りだと思います。このことを前提に、keiさんの素朴で至当なご下問のGDPについては、(たかがGDP、されどGDP)と考えることが大切だと思います。<うちらあの人生わいらあの時代>は戦争中の艱難辛苦を実感することもなく、戦後の高度成長期―バブル期とその崩壊に至るまで、分厚い中間層の真綿の中で、総じて心地の良い人生だったと言っていいのではないでしょうか。旧ソ連の脅威の無くなった世界に後進国であった中国をILOに引き入れ、正しくアメリカ一強の完成を図ったものの、裏目に出て鬼子を世に放ってしまうことになってしまいました。その中国が「中進国の罠」から抜け出ることができないままに、インドに人口で抜かれ、高齢化も進み、多分中国はアメリカをGDPで追い抜くことはなくなったでしょう。アメリカが世界の警察国家の旗を降ろし、中東を中心に世界が流動化して、いまや「サブサハラ」の国々も纏めて「グローバルサウス」なる是々非々の第三勢力の中心がインド。このインドはかっての宗主国である英国を22年にGDPで抜き去り、ドイツに次ぐ世界で五位となった。27年には日本、ドイツをも抜いて三位になることは確実。勿論人口が全てではないが、大きな要素であることには変わらない。くどくど記しましたが、GDPは日々の生活実感に直結はしないが、激動の時代にその中身を冷静に解剖しておくことは、次世代にバトンを渡す傘寿世代には欠かせないと思う。GDPは経済活動の結果の数値化であったとしても、弾け散るその中身は社会保障、安全保障、少子化対策、国土強靱化、エネルギー問題、文化、科学技術、等々日本人として生きてゆくあらゆるテーマに直結する。

 フジタさんの言われる資本家社会的市場経済は終焉しないでしょうが、特に日本においては経済社会構造のパラダイムシフトを指向する必要がある。サービス業も製造業も労働生産性を上げて、一定のインフレに耐えうる労働分配率を高めてゆくことは必要不可欠です。同時に今更ブータンではないが、日本の芳潤な伝統を活かし、日本に相応しいQOLを確立したいものです。

 フジタさんの言われるポストコロナ世界において、コロナを天啓として受け止め、この次世代に引き継ぐ<うちらあの人生、わいらあの時代>が今やるに相応しい36会を創り上げてください。名古屋の田舎から勝手放題を申しました。言い足らない点もありますが、関東の黄砂を気遣いながら、自愛されますように念じています。 オオガ記

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 オオガさんが(たかがGDP、されどGDP)と記したGDP。その一角を占める規制緩和やイノベーションについて、PRESIDENT Online(2023/05/15)の記事が目に止まりました。湯之上隆《技術者が「日本の半導体の凋落原因」として国会で陳述したこと》。筆者は1980年代に日立製作所において半導体の微細加工技術開発に従事していたが、日本の半導体凋落に伴って退職し、同志社大学の専任フェローとして研究生活を送ったのち微細加工研究所の所長を務めていて、一昨年国会に呼ばれて意見を聞かれた専門家。半導体については、中国との取引に関わる半導体のサプライチェーンの再編が政府で取り沙汰され、台湾企業の鴻海が熊本に工場を設置し、政府が何千億円かの支援をするとなっている。その前段の国会の聴聞でした

 子細はこの人の著書を参照して貰いたいが、彼が退職することになった日立製作所時代の半導体製造にみる「ガラパゴス化」が表現されています。世界の半導体生産に於いて当時、日本企業は世界トップ10社の6社くらいを占めていた。今は1社だけ。日本企業の半導体は大型の汎用コンピュータ用の半導体で耐用年数が25年と際だっている。ところが世界の趨勢は80年代半ば頃からPCの大量生産時代。耐用年数が5年ほどの、安く手軽に製造できる半導体に席巻された。なにしろ年々加速度的に技術が更新される世界。耐用年数が長くても、それを搭載する機器本体の更新速度が速いから、25年もの長期物は無用の長物となります。にもかかわらず、「世界に誇る技術」を切り換えることができず、日本の半導体生産は凋落していったというのです。この辺りは、半導体生産にかかわっていたと思われる、ツナシマさんやマサヒロさんに伺ってみたいものです、

 先のブログで紹介した岩崎博充の記事「日本人は「失われた30年」の本質をわかってない)」(2020/01/26東洋経済online)は、

《構造改革に対して消極的であり、積極的な研究開発に打って出ることができなかった。/日本はある分野では、極めて高度な技術を持っているのだが、マーケティング力が弱く、それを市場で活かしきれない。過去、日本企業はVHSやDVD、スマホの開発といった技術革新では世界のトップを走ってきた。しかし、実際のビジネスとなると負けてしまう》

 と経営面の弱さ、新しい趨勢を読み取る戦略的視野に欠けると指摘する。

 加えてそうした企業経営に補助金を出して、当面している問題を先送りする政府の業界支援策。株式市場には「PKO(Price Keeping Oparation)相場」という言葉があるそうな。政府が補助金で株価を保持することを揶揄する響きを(私は)感じるが、相場師たちがそれを揶揄っていたのかどうかは分からない。政界・財界・官僚が現状保守のスクラムを組んで、新しい芽を摘むことさえやってきた。それをガラパゴス化と呼んでいる。私には「島国根性」の代名詞のように聞こえます。

「日本の科学技術力も1989年前後には世界第3位だったのだが、2015年にはすでに第9位」と岩崎は指摘しています。別のonline記事では、「既得権益を守るために、IT乗り換えを潰した」とする事例が紹介されていました。ひとつは、堀江貴文のライブドアがフジTVやソニーの買収を企図したこと。それを政府、財界が寄ってたかって潰ししてしまったと。そう言えばホリエモンは、何かの会計不正で逮捕拘留されたんではなかったか。「もし(フジTVやソニーを任せていれば)ホリエモンなら、netflixやiphonの対抗機種をつくれていたかも」と期待を持ったことを記しています。あるいはまた、Winyという音楽や映画を無料でダウンロードできるソフトウェアの技術を開発していた金子さんという天才のことを述べている。「P2Pという技術、SkypeやBitcoinに使われている」技術だそうだ。その金子氏を微細な案件で逮捕して、これも潰してしまったと記しています。この真偽は検証していないが、なるほどそうまでして業界と現体制を護ろうとするのはよくある話とこれまでの長い政財官界史を振る返ると思っています。

 鋳物の鋳造に携わってきたイセキさんがseminsrで見せた「こだわり」に感じたことを記したことがああります(2021-8-21「36会第二期第12回seminarご報告(5)大自然への敬意が消えていた」)。そのとき私はもっぱら「自然」との関係で、彼の述べる「鋳物工業」を考えていたのだが、チラリと彼が零した言葉が頭の片隅をよぎりました。

「安けりゃいいっていうけど、どれほどの技術がその製品に籠められているか(発注元の大企業にも)みてもらいたいんだよね」

 そうなんだ。日本経済風土は、すっかり資本家市場経済脳になってしまっている。経世済民という語源の清新はどこかに吹っ飛んでしまった。そこそこ豊かな暮らしをしているバブル遺産の食い潰し世代は、それを忘れていますね。経済計算だけをして、技術もそれを担う技術者をも、海外へ駆逐するか、列島から消滅させてしまうっていうのは、「教育は百年の計」ということに相反している。だがそういうモンダイを誰も考えていないってことを慨嘆する言葉であったと、今思います。

 keiさんが「どう私たちの暮らしに関係してくるの?」という問いに応えるまでには、まだまだ距離がありますが、「失われた三十年」の日本人の体質には、だいぶ迫っているんじゃないか。やっぱり「日本人の不思議」と改めて思う次第です。

2023年5月16日火曜日

特別扱い

《外国人も「特別扱い」しない》と一面トップに大見出しをつけた記事が載った。朝日新聞(5/14)の1面と2面を使った「多民社会tamin shakai」という企画記事。群馬県大泉町にブラジル人を受け容れ、後にベトナムやネパール、アジア出身とその家族も加わり、今人口4万人の2割を占めるという。1万人ほどだ。「お隣の群馬太田市にも1万2千人の外国人が暮らす」とある。こちらの市は人口が22万人だから、比率でいえば5%というところだが、日本全国の2%に比べると各段に多い。大泉町はヨーロッパとほぼ似たような様相と言えようか。その大泉町の取り組みや抱える「共生模索の35年」を追っている。そのリードに「数年後には人口の1割になる」と、日本全国の問題として取り上げる記事。つまり読者であるあなたも当事者よって呼びかけている。

 これはseminarが2月来取り上げてきた問題と重なる。BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」として提起したのも、なぜ日本人はガイジンを「特別視するのか」が発端。それに対して大泉町は「特別扱い」しないと臨んでいるという。だが、やっていることには、文化の違いを解消しようという細かい尽力がみられる。ゴミ出しのルールの外国語表記や日本語教育に力を入れ、「言葉が通じれば本人の努力で道が開ける」とみる。つまり「特別扱いしない」ということは、「特別に意識して気を配る」ことを介在させる。労働力としてガイジンを擁している企業も、一緒に交流するイベントを催して人々が言葉を交わし、文化の相違を身で感じる試みをしている。この経由点の、行政や企業や地域活動家の「特別に意識する」が実は、「外国人に適応を迫る」というだけでなく、在住している日本人も(外国人に)適応していく努力を必要とすることを意味している。

 従来、郷に入っては郷に従えと思ってきた。異質なガイジンを鬼神のように受け止めてきたから、何かワルイことが起こると異質なものの闖入によって引き起こされたと考えるのは、原始時代のセンスをそのままナイーブに押し出すだけ。畏れ敬うという次元を「振る舞い方の作法が違う」と受け止め、その違いを補正して行くには、これまでの伝統社会が保持してきた以心伝心の方法では上手く行かない。文化・振る舞いの違いを言葉にし、遣り取りを交わす場を設定して、ぶつけ合う必要がある。

 実は日本人どうしだって、そういう問題を抱えている。大雑把に言うと、伝統文化は気心知れた空間に住まう(立ち居振る舞いや作法を共有する)人たちが、(個々人の差異は当然にしてあるものだから)互いに頃合いを測りながら差異を察知して振る舞い方を調整する作法であった。大相撲の立ち合いのようなものだ。何度も仕切り直しをし、呼吸が合った所で立ち合いが始まる。

 苦言も直に言えば角が立つという伝統的対人作法は、それに相応しい場が設定されなければならないことを意味している。苦言を言い交わすということは、それに対する審級者を必要とする。身分社会の場合は、お上がそうであったし、街場に於いては長屋の大家がいなくてはならない。四民平等となった平場ではどうであったか。あるときまでは亀の甲より年の功が効き目があった。そう言って考えてみると、このあたりまでは権威主義社会であった。お上とか、大家とか、年の功と謂う権威が共有されていたから、そこにいる人達が審級者となって場をつくり、争い事を始末してきた。だが近代の民主主義社会は、その権威も取っ払ってしまった。

 近代というのは、そもそも異質な人たちが空間を共にして構成する社会である。狭い「くに/郷里」を出るだけでも文化作法の違いに驚いていた。近代社会になって列島中の人々の往き来が激しくなった。人々の気質も考え方も変わってきた。そこへさらにガイジンが参入する。呼吸を合わせて立ち合うという作法さえ知らないものがいても不思議ではない。

 さらにこんなモンダイもある。近代が進んだ都会地となると、法的規制が唯一の共通言語のようにみなされる。ゴミや騒音に問題を感じてお隣に注意をすると、逆恨みの逆襲を受けたという事件も起こっている。その発端は、どこにそういう法的規制があるのかということから始まっている。私有権では片づかない。「迷惑条例」を設える。でもそれに強制力が伴っていない。罰則が付いていても、お役所がそれを発動しない。発動しても、軽微な罰金だったらそれを支払っても、条例違反をして稼ぐ方が得だと居直る人もいる。政治家をみていたらよくわかるが、法に反しなければ何を非難されることがあるかと居直っている。あれが、他者モデルだ。

 争い事を街場で始末するには審級者がいるが、かつての長屋の大家は、いまや物件の所有だけ。お上は上意下達の機関としての町内会を利用するばかり。強制力はマイナンバーカードにしてから発動しない。ポイントでおカネをもらえるならマイナカードを登録しようかと欲得尽くで誘うだけ。国民の品性を落としている。国家がマイナンバーカードを使って一番有効に作動させたい収入の全量把握の、一番のターゲットである富裕層の人たちは、3万円程度の端金には目もくれない。やっと最後の切り札で「義務化」などと言いだしている。でも行政実務がお粗末で信頼性が全くない。使うにはつい腰が引けてしまう。事ほど左様に、日本の国家権力は富裕層に遠慮がちである。それに似通った地方政府が、強制力を発揮する力も持たされず、時と場合と人を見て居丈高になったり、知らぬ顔の半兵衛を決めこんだり、モンダイを先送りしてしまう。街場の異質さの争い事の場もつくらず、始末もできない。これって、法治国家なんだろうか。

 町内会も古くさいお祭りなどは仕切るけれども、新しく参入してくる市民に対しては、旧来の慣習に馴染んでくれと、空間占有の優先権を主張する。新規参入してくる方が「郷に従え」という。自分たちが変わろうとはしないから、揉め事の仲裁や調整には役に立たない。当然ギスギスする。町内会はお上の権威を背景に、「市町報」配布の下請けをしているだけだ。

 機能的な人と人との社会関係には、法規制以前に言葉を交わし差異を調整していく当事者としての関係がなくてはならない。それがコミュニティってものだ。どちらがイイかワルイか以前に、互いに言葉を交わして心地よく暮らして行くには、法的な規制に沿っているかどうかよりも、互いにどうしたらいいかを共に考えていくスタンスが必要なのだ。その場をつくるのがコミュニティである。

 以心伝心は、その気風がいわずとも共有される時代の言葉である。暮らし方が多様化し、人それぞれの好みが押し出されて当然という社会規範の社会では通用しない。バブル時代を経て豊かになった所為もある。共有していたはずの気風は雲散霧消した。そこへ労働力不足という産業社会(富裕層)からの要請もあって、ガイジンを入れざるを得ない。あとはでも、各自治体で頑張ってねというだけの国策では、奴隷労働じゃないかというガイジン労働者への非人間的な扱いが起こるのは当然と言えば当然。

 明治維新から155年にもなる。敗戦から77年にもなる。一億総中流も経験した。食糧ばかりか日用品まで海外製品に依存する暮らしをしている日本人が、相変わらず人見知りをして内気に閉じこもるのは、不思議である。それならブータンみたいに辺境の地にあってほとんど制限的にしか人の出入りがないような「国」にしてしまえばいい。ブータンは、経済的な発展と豊かに暮らすことのズレを意識して、対外的な交通を制限している。

 それなのに、インバウンド観光客の増加に期待を寄せ、大谷翔平の活躍をまるで日本人の誇りのように伝える。だったらいい加減日本人も、ガイジンという言葉を取っ払うほどに「文化大革命」をしてみなさいよと思ったりもする。それの第一歩は、自分たちの文化を一つひとつ対象化して、遣り取りする場を平場に設けるしかない。私が今手がけているseminarがその一つだと思ってきた。だが、先月から書き散らしているように、傘寿を超えた年寄りには、もう無理だとワタシは見切りをつけている。

 それともこれって、戦中生まれ戦後育ち世代特有の「国民性」なの?

2023年5月15日月曜日

選択的耳働き

 四国のお遍路をしていて国道や県道を歩くことが9割ほどだった。後の1割が遍路古道といわれる昔ながらの遍路道。大雨などで道が崩れて「通行禁止」になった古道もあった。あるいはトンネルが抜けるようになって古道はすっかり遠回りとなった所もある。標高差をクネクネと曲がって上り下りする車道をショートカットする古道もあった。それもしかし寂れ、うっかり入口の案内標識を見落とすと車の通る脇を歩かなければならなかった。案内標識があったからといって、そちらに入るとトンネルではなくその上の山を超える古道に入ってうんと遠回りになることもある。かと思うと、古道は尾根の向こう側にある次の札所に着くのに、車道を行くと山裾をぐるりと回り込んで3倍も遠回りになる。この見極めはネットで取得した地図では分からない。地理院地図をスマホに取得してルートをチェックしながら歩いているお遍路さんもいた。なるほどこうすると、「遍路道保存協会」の設置している標識が距離と静けさを示すガイドになる。

 できるだけ静かな道を歩こうとは思う。だが、毎日平均30kmで遍路プランを立ててあると、山道の古道に踏み込むには、それがどれくらい遠回りになるか摑んでおかないと、予約した宿に辿り着かない憂き目に遭う。中には徹頭徹尾遍路古道を歩く人もいる。こういう人は野宿をしている。古道には「遍路休憩所」と名付けた東屋が設けられていたりする。トイレもあり水も確保できる。風は吹き抜けるから、東屋の中でツエルトを被ったりテントを張ったりする。安上がりに遍路する若い人には有難い施設である。

 傘寿の私には、もうとてもそのような歩き方はできない。車道を歩く。それでもできるだけ静かな方がいいから、少々遠回りでも新しい道路よりは旧道を選ぶようにした。当てにしていないが、お遍路カフェもそんな道沿いにあったりして、面白い話が聞けたりする。とは言え、国道や県道の主要道を歩くことが多く、狭くとも歩道があれば有難く、ない所は道路脇に必ずつくられている排水路の蓋の上を歩く。時々感じる身の危険には、すでに触れた。でもそれ以上に「音がうるさくなかったのか」と聞かれた。

 それを振り返ってみると面白いことに、騒音にはすぐに馴れて、気にならなくなった。車の走り寄り走り去る騒音を、耳が危険を含めて取捨選択しているかと思うほど、気持ちにとどまらない。車自体もトンネル内のトラックとすれ違う危険を感じるような場合を別とすると、ほぼ意識に上げることなく、身の判断に任せてやり過ごしていたと思う。これは、耳の働きではないか。環境のすべてに意識を向けることなく、重要度というか必要度に応じて意識外へ追いやって、肝腎なことに気持ちを集中できるように働いている。有難い耳働きである。

 これが、家へ帰ってきてからの日常に生きていると思うことがある。私はいつごろからか、もうずいぶんになるから忘れてしまったが、リビングの広い食卓の半分くらいを占めて毎日パソコンに向かっている。十年以上にはなる。それ以前は私の部屋に籠もっていた。そうだ、2011年の3・11のときはその小部屋でPCに向かっていや。ぐらぐらっときて、本棚が倒れたらこれは大変だと部屋の入口に立って様子を窺ったことを覚えている。

 以来リビングで過ごしている。週に2日くらいは向こう側でカミサンがTVを観ている。ときどき「うるさくない?」と聞く。五月蠅くない。ボーッとドラマの筋を追いながらPCを打っていることもある。でもPCで書く中身に気が向かうとほとんどTVの音は消える。もちろん遍路の騒音よりこちらが先だった。こうした日常が十年ほど続いていたから車道歩きの音も気にならなかったのかもしれない。耳働きを鍛えていたってわけか。

 あるいはこうも言える。山歩きを瞑想と同じだといつか言ったことがある。意識は鮮明。足元の凸凹や岩場の足の置き場、手指の摑む所などは一つひとつ、本当に一挙手一投足の動きに気持ちが集中している。だがそこに、外のことは入り込めない。雑念を抱きながらそういう所を歩くと、ホントに思わず知らず転落することになる。そうして歩いていると、あっという間に時間が経ってしまう。2時間も3時間も歩いて、えっ、もうそんなに時間が過ぎているのかと気づいたことは何度もある。これは俗にクライミング・ハイとかウォーキング・ハイと謂われる状態ではないかと思うが、私はそれを瞑想だと思ってきた。

 集中していると、時間はすっかり空間に吸収されてしまう。もちろん躰のつかれも、その間は感じていない。それがあるから、すぐまた山へ行きたくなるのかもしれないと思ってさえいる。

 こうしたウォーキング・ハイの身の習いが、若い頃から積み重ねられ、仕事を辞めてからことに、時間の制約抜きに放浪するような山歩きをしてきたことで、耳働きまで鍛えていたってことじゃなかろうか。いや、うれしい発見であった。危険の感知さえも身の習いにできれば、もっと過酷な環境に身を置いても、生きては行ける。いまさらそんな必要も覚悟も要らないけれども。野宿のお遍路も、あと十日ほどのフィナーレを飾るには面白いかもしれないと思ったりしている。

2023年5月14日日曜日

ショータイムということ

 東京ドームへ「巨人-広島戦」を観に行った。雨の中、三々五々というより駅出口から列をなして押し寄せる。まだ試合開始の1時間前。知り合いから観戦チケットをもらった。カミサンは生憎、軽井沢の探鳥会の予定と重なった。探鳥地が雨になれば東京ドーム、と様子を窺っていたようだが曇りと分かって、私が友人と行くことになった。

 西武ドームの西武―阪神戦を観にいったのは、いつであったか。交流戦だから6月になっていたと思うが、西武ドームの屋根と壁の広い隙間から吹き込む風が冷たく感じられた。三塁側阪神ベンチの上の辺りにあった席で、ファール玉が飛び込んできやしないかと気をもみながら観戦した覚えがある。その時は明らかに試合を見に行っていた。

 ところが東京ドームは、試合の勝敗は二の次、ここに身を置いていることが面白いという雰囲気。まさしくショータイムであった。これは、何が違っていたのだろうか。

 試合は延長12回にもつれ込み、試合開始の14時から19時頃まで5時間以上をすごして飽きもせず、面白かったねえと話ながら地下鉄に乗って帰宅したのであった。巨人の逆転サヨナラホームランで終わったから巨人ファンは大喜びであったが、私は面白い試合を観たと思っていた。相棒は広島の出身。チケットの席は巨人ファンサイド。

 チケットには「ロイヤルウィング・バルコニー席」とあった。相棒が事前に調べた所ではと話してくれたことだが、年間契約になっているロイヤルの中央部席は300万円、一塁ベース辺りまでと、内外野を分けるポール辺りまでと230万円、170万円とランクがあるらしい。巨人のホーム戦は年間65試合だから2席セットのその料金は46000円ほど。貰ったというが、外野寄りのバルコニー席だって1席13000円ほどだよと驚く。ワンドリンク付きのビールが一杯では終わらなかったのは、貰った席料が無料ってこともあったかもしれない。

 バルコニー席からは球場全体が見渡せる。55000人定員のドームの特定箇所の席を除いて概ね埋まっている。声援も鳴り物も制限解除になったから応援はラッパも含めて賑やかである。それ以上に、外野席の上を覆うディスプレイとその音量は、音というよりも響きである。ずんずんと躰に伝わって身の奥底から会館が引き出されてくる。何日か前に観た映画館に感じた快適さが甦る。そうか、映画館も、あの画面、あの音量、あの響きがともなって感じられているのだ。野球も、同じ。全体が見渡せる高見から観ているのはベースボールゲームに違いないが、それにまつわる声援、選手の一投一打、捕球と送球、走塁とアウトセーフの判定など、進行する一挙手一投足に5万近い観衆のあげる溜息や応援、ときに一瞬の静謐。これらの間を埋めるように、ディスプレイ画面が移り変わり、繰り返され、大声のジャイアンツ応援のメッセージが流される。

 西武ドームで何年か前に観戦したのは、間違いなく野球の試合であった。派手な解説もなかった。だが東京ドームは、野球ゲームを観ている人たちが参加するショータイムとして構成されたエンタテインメントである。そう思うようなつくりであった。

 観ていて、私自身の野球を見る目が変わってきたのかと思うような気もした。どちらが勝つか負けるかはどうでも良い。選手のプレイの動き、身のこなし。優れた体幹の俊敏な動きが球を捕り傾く躰のままに送球してアウトを取る。見事なファインプレイ。かと思うと、駆け込んだ一塁がセーフとなったのに対するビデオ判定の要請。その瞬間の内野手のベースタッチと打者の駆け込みのどちらの足が早くベースに着いたか。繰り返されるビデも画像。ほんの一瞬早く野手の足が着いている。塁審のセーフの判定が覆る主審の手が上がる。途端に湧くわーっという声援。ゲームの進行にかかわるきわどい動きばかりではない。イニングの変わり目毎に位置に着く野手が、キャッチボールを何度か繰り返す。それが攻撃イニングに動かなかった躰を緩やかに動きモードに変えていく、身体技法のようにみえてきた。

 これらも、ご贔屓チームかそうでないかと敵味方分類をしてみていた野球ゲームを、明らかに人の身のこなしとしてどれほどの水準に達しているかを観て愉しむというレベルになっていると、後で思った。これは、近頃の大リーグ中継TVの大谷効果とでもいおうか。解説の仕方が、ゲームの勝敗はそっちのけにして大谷の振る舞いや選手としての身のこなし・技法に関心を向けていることに影響されているのかもしれない。

 地下鉄で帰る途中、乗り継ぎのホームに広島ファンのシャツを着た5歳くらいの男の子と8歳くらいの姉を連れたお父さんがいた。「残念でしたね」と挨拶をすると「いい試合でした」と返ってくる。男の子が広島の一番バッター菊池の赤シャツを着ている。「菊池のファンなんだ」と声をかける。「打てなかった」とチャンスにヒットが出なかったことを口にする。「でも2安打もしたじゃないか。よく打ったよ」と慰めて別れた。この子たちの目も、変わってくるのだろうか。

2023年5月13日土曜日

相変わらず

 公安委員会から「お知らせ」のハガキが届いた。運転免許証更新に必要な「認知機能検査」のお知らせと表書きしたある。圧着したあるページを開けてみると、《集合日時、検査場所、検査手数料、持ち物など》が記されている。

 相変わらずだなと思う。毎日が日曜日のような私でも、このところ飛び飛びであるが「予定」が入っている。来週だけでも、野球観戦、歯医者、ワクチン接種、勉強会、ストレッチ、知り合いの来客と6つも入っている。もちろん一つひとつは短時間で済むこともあるが、勝手に変えられるものではない。それなのに、「○月○日○時○分、○○警察署に集合」と決めつけてくる。呼出状だ。「免許」を授けているという居丈高な姿勢が相変わらず「お上」だなあと思わせる。そう言えばドラマでも、「公安」というのは「刑事捜査」を問答無用で押さえつける役回りをしている。絵に描いたような「お上」である。

 国土交通省の退職上級役人が民間の事業に天下りすることを相変わらずやっていて、組織ぐるみだと新聞が報じている。報道は「公務員法違反」と言っているにもかかわらず国土交通大臣は「違法とは言えない。再発防止に努める」と平身低頭だ。与党の傍流政党の大臣だからなのか、イヤそうじゃあるまいとわたしら庶民は心裡で読み取っている。彼らは、相変わらずなのだ。彼らだけではない。私らも相変わらずなのかもしれない。この相変わらずが積み重なって(無意識の)身の習いとなり、変化が必要な状況に接しても身を固めて縮こまってしまう。

 そうだ、これだ、と思った。失われた三十年の「日本人の不思議」は、相変わらずを心地よしとしてきた日本人の無意識が、ガイジンに対する斥力を強く働かせ、見知らぬ都会人が移住してくるのを「都会風を吹かすな」ととらえ、抑も1980年代の経済隆盛の折にも科学技術の振興には力を入れたものの、その基底部分を大きく培う所へまでは思いが及ばず、1985年のプラザ合意で(アメリカからの要請に応えて)円高ドル安へ舵を切り替えるときにも、じつは産業構造を高度消費社会向けに切り換えていかねばならないのに、一つひとつの産業部門への補助金とか融資とかでジャブジャブと資金を投入できるようにして、構造転換を図るのではなく、延命措置を施す。結局遊ぶ資金を不動産に向け、バブルの崩壊を引き起こした。これも、「相変わらず」のなせる業であった。イヤそれ以上に、、そういうことは当時から指摘されていたのに、政界・官庁・産業界の鉄のトライアングルが「相変わらず」のまま出合ったが故に、ますます狭い状況適応的・場当たり的な弥縫策を講じて問題を先送りするだけになってきたのではなかったか。無責任の体系と丸山真男に言わしめた日本組織の特性が、本当に身に染みこんで抜けなくなっている。一人一人が、その構造の下で無意識に染みこませて人柄を形成するから、それが何世代も通じて国民性になってきた。「お上」のすることを「しょうがねえな、奴ら」と思いながらも、直にワタシに振る掛かる災厄になるまでは、「知らぬ顔の半兵衛」を決めこむ。それが庶民ってものよと気取っている。気が付いたら傘寿になってわが身を守るのに精一杯。後に続く世代に全部ツケを回してしまうことになった。「後は野となれ、山となれ」って、山歩きの好きな私ならそれでも構わないが、子や孫に山で暮らせ、海で生きよとは育ててこなかった。

 そう考えてみると、山で暮らし海で生きるとは、ワタシたちが子どもの頃に見た風景ではないか。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と言ったこと、そのものではないか。「帰れない山」のブルーノが「山で牛を飼って暮らしたかっただけなのに」といったのと、同じではないか。ワタシたちはそれを忘れて、別の夢を見て走っているんじゃないか。目を覚ませと、コロナウイルスが呼びかけ、異常気象が扉を叩き、失われた三十年が如実となって人類史に問いかけている。そう思えてならない。

2023年5月12日金曜日

日本の『失われた三十年』から何を学ぶか(1)先ず指標の確認

 3月seminarの「日本人の不思議」が不評でした。参加の皆さんの関心外であったようだ。それについてこの欄の2023-03-28の記事「seminar進行者の心得べきこと」で一つ、こう反省しています。

    《keiさんから「GDPが増えたら私たちの暮らしにどういう変化が生まれるの?」という疑問が提示され、特派員氏の取り上げた日本の経済的停滞をもっときっちり考えてみようという提案もあった。これも30年史を振り返るときに、いきなり社会的な当事者問題に飛び込む前に共通認識としておくべき客観的事態であるように思った。つまり、【返信4】と【返信6】にあったオオガくんの指摘する日本社会の当面している事態を、事実関係だけでいいから押さえてすすめる必要があった》

 世情「失われた三十年」と謂われている事実だけでも共有してから話に入るべきだったと考えたわけです。そこで先ず近頃流行のAIに訊いてみました。GAFAMの一角、マイクロソフトの「AI を利用した Web向け copilot」は、こう答えてきた(冒頭のナンバーは引用者がつけた)。

   *

     失われた三十年とは、日本経済がバブル崩壊後の1990年代初頭から低迷を続けた約30年間のことを指す言葉です。この期間には、以下のような経済指標の変化がありました。

    1、名目国内総生産(GDP):1990年に2.4億ドルだったのが、2019年に5.1億ドルになりました。米国は3.5倍、中国は37倍になったのに対し、日本は1.5倍にとどまりました。

    2、国民1人当たりのGDP:1990年に1.9万ドルだったのが、2019年に4万ドルになりました。G7中6番目の低水準でした。

    3、平均賃金:1990年に3万6748ドルだったのが、2020年に3万8514ドルになりました。この30年で日本は4.4%増とほぼ横ばいだが、米国47.7%増、英国44.2%増、ドイツ33.7%増などと差は大きいです。

    4、貧困率:1990年に11.6%だったのが、2018年に15.7%になりました。主要国では高い方でした。

    5、消費税率:1990年に3%だったのが、2019年に10%になりました。

     以上のように、失われた三十年は経済成長や所得水準、格差問題などで他国に大きく遅れをとる時代でした。

   *

 要領よくまとめています。でも、AIは事実をも間違えると言いますので、東洋経済onlineの「経済ジャーナリスト・岩崎博充の記事(2020/01/26東洋経済online、日本人は「失われた30年」の本質をわかってない)」が指摘する事実項目を参照しました。次のように9箇条をあげています。


    ●平均株価(日経平均株価)……3万8915円87銭(1989年12月29日終値)⇒2万3656円62銭(2019年12月30日終値)

    ●株式時価総額……590兆円(1989年年末、東証1部)⇒648兆円(2019年年末、同)

    ●ドル円相場……1ドル=143.4円(1989年12月末、東京インターバンク相場)⇒109.15円(2019年12月末)⇒134.83(2023年5月)

    ●名目GDP……421兆円(1989年)⇒557兆円(2019年)

    ●1人当たりの名目GDP……342万円(1989年)⇒441万円(2019年)

    ●人口……1億2325万人(1989年、10月現在)⇒1億2618万人(2019年、11月現在)

    ●政府債務……254兆円(1989年度、国と地方の長期債務)⇒1122兆円(2019年度末予算、同)

    ●政府債務の対GDP比……61.1%(1989年)⇒198%(2019年)

    ●企業の内部留保……163兆円(1989年、全企業現金・預金資産)→463兆円(2018年度)


 この両者の「名目GDP」には、1990年と1989年、ドル表示と円表示の違いがありますので、ドル/円相場も調べてみました。1989年は1$=138円、1990年は1$=144円ですから、AIも間違えてはいないようです。因みに2019年は1$=109円。2023年現在の1$=134円は、1989年に近いですね。

 もう一つ違いがあります。東洋経済の経済ジャーナリストは株価や政府債務、企業の内部留保金に目をつけていますが、AIは平均賃金、貧困率、消費税を拾って、経済格差に目を留めています。keiさんの「わたしたちの暮らし」を組み込むと、AIの示す指標も大切になります。

 AIは海外先進国との対比をしているのに対し、経済ジャーナリストは日本の国内指標だけです。でも本文中で海外との対比をして云々しています。そこを簡略に拾うと次のように書いています。

《アメリカの株価がこの30年で9倍…ドイツの株価指数もざっと7.4倍になっている》

《世界経済に占める日本経済のウェート●1989年……15.3% ●2018年……5.9%、その凋落ぶりがよく見て取れる/アメリカのウェートは1989年の28.3%(IMF調べ)から2018年の23.3%(同)へとやや低下/中国のウェートは2.3%(同)から16.1%(同)へと急上昇/新興国や途上国全体のウェートも18.3%から40.1%へと拡大》

 つまり、名目額でみると「国内総生産は順調に伸びてきたかのように見えるが」この30年間の世界経済の成長規模に照らすと、日本の停滞は際立っているというわけです。

 そう言われて考えてみると、今傘寿を迎えている私たち世代が還暦の定年を迎えたのは2002~2003年。まだ「失われた十年」でしたから、十分バブル時代の余韻に浸っていました。それが実は、日本経済の構造的転換を押しとどめる役を果たしていたのだと、21世紀になって指摘されるのでした。(つづく)

2023年5月11日木曜日

不思議に手が届かない

 今日も映画を見に行った。この五月に公開された『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父を主人公に賢治が創作に踏み出した航跡を辿って、生きた時代の気配を取り出している。宣伝チラシに書かれるような「家族愛」とみると平凡な作品。だがそこからどう飛躍するかと思ってみると、だがちょうど昨日のイタリア映画『帰れない山』の残像と重なって、ちょっと面白い発見があるかもと期待した。

 長男が家業を継ぐという時代風潮がある中で賢治に教育を受けさせる父の視線は、明治という時代の、新しいコトに挑戦する気配を身に混在させている。映画はその父の子である賢治とトシ兄妹の不思議世界への飛翔がトシの死によって中断されたことを契機に、父親が主体となって(賢治の世界を)読み取る世界となり、父の微細な変わりようが不思議世界への扉に手を掛ける時代の変化。父を主人公とみるとここでお話は終わる。

 だが16歳の賢治が青年になっていく大正時代の日本はWW1(第一次世界大戦)の勢いを得て(国としては)世界の一等国になっていく調子づいた時機であり、社会的には所謂デモクラシーという文化的な変化を迎える時代であった。適応せざるべからずという気風があったのか、父親が息子賢治の世界を追う(継承流転の物語としては逆転した)姿が描かれる。

 子どもの頃から宮沢賢治の作品を読んでいた私は、異世界へ入っていく彼の語り口に強烈な印象を抱いていた。誰が書いたものか彼の評伝を読んで、小学校の教師をしていた頃、野原に児童を連れ出ていて、何かのインスピレーションに取り憑かれてか子どものことを忘れて異世界へ入り込んだとイメージが広がってわが心裡に沈んでいた。この映画ではそういう異世界は描かれない。

 賢治がトシの死に際して狂気のようにホッケの太鼓を叩くシーンが差し込まれている。だが、これもなぜ、宮澤家の浄土真宗を捨てて、かくも深く日蓮宗に傾倒していったかは、読書遍歴と現世利益の、仄めかされるほんの欠片のような僅かのイメージでしか示されていない。

 賢治が、創作以上に力を注いでいた土地の改良や暮らしの改善のために働いていたと思われるが、彼が農民の暮らしを軸に据えてヒトの生きるということの意味を問い始めた過程も実は余り描かれていない。彼がチェロを何時どこで弾くようになったのかもわからないまま、集まった農民の大人や子どもたちが彼の作詞した歌を、彼の弾くチェロ似合わせて歌うプロットが描かれる。これは「帰れない山」の山に籠もる一人の主人公ブルーノの姿を彷彿とさせる。「帰れない山」はブルーノの幼い頃からの友人がその父親の思いを受けとるとともに見届ける運びを物語にしている。だがこの「銀河鉄道の父」は、その息子が腰を据えようとした原点を父親が感知し見届けるお話であった。

 その辿り着いた地点に置かれたのが、「雨ニモマケズ」。賢治の末期の枕元で父が訥々と詠いあげる「雨ニモマケズ」は、父・役所広司の声音に伴って観るものの心に響く。土地を改良し田を耕し畑を起こして食べものをつくって暮らしていくしかない農民を原基に据えてともに生きるようとする賢治の願いが、諄々と静かに伝わってくる。

   ……

  アラユルコトヲ

  ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ……

  東ニ病気ノコドモアレバ

  行ッテ看病シテヤリ

  西ニツカレタ母アレバ

  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

  南ニ死ニサウナ人アレバ

  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

  北ニケンクヮヤソショウガアレバ

  ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ……

  サウイフモノニ

  ワタシハナリタイ

 ヒトが生きる基底はここにあるぞと賢治が発見し、明治の前半期に生まれ日本の近代化と共に市井の民として生きてきたその父が、子を亡くして永久に心裡に刻むしかない形で受け継いだ神髄。それが映画「帰れない山」のモチーフと重なるのであった。父親が「宮沢賢治全集」を手にして映画は終わるが、「ほれ、手にして読んでけれ」と世の中に受け渡しているように見えた。