公安委員会から「お知らせ」のハガキが届いた。運転免許証更新に必要な「認知機能検査」のお知らせと表書きしたある。圧着したあるページを開けてみると、《集合日時、検査場所、検査手数料、持ち物など》が記されている。
相変わらずだなと思う。毎日が日曜日のような私でも、このところ飛び飛びであるが「予定」が入っている。来週だけでも、野球観戦、歯医者、ワクチン接種、勉強会、ストレッチ、知り合いの来客と6つも入っている。もちろん一つひとつは短時間で済むこともあるが、勝手に変えられるものではない。それなのに、「○月○日○時○分、○○警察署に集合」と決めつけてくる。呼出状だ。「免許」を授けているという居丈高な姿勢が相変わらず「お上」だなあと思わせる。そう言えばドラマでも、「公安」というのは「刑事捜査」を問答無用で押さえつける役回りをしている。絵に描いたような「お上」である。
国土交通省の退職上級役人が民間の事業に天下りすることを相変わらずやっていて、組織ぐるみだと新聞が報じている。報道は「公務員法違反」と言っているにもかかわらず国土交通大臣は「違法とは言えない。再発防止に努める」と平身低頭だ。与党の傍流政党の大臣だからなのか、イヤそうじゃあるまいとわたしら庶民は心裡で読み取っている。彼らは、相変わらずなのだ。彼らだけではない。私らも相変わらずなのかもしれない。この相変わらずが積み重なって(無意識の)身の習いとなり、変化が必要な状況に接しても身を固めて縮こまってしまう。
そうだ、これだ、と思った。失われた三十年の「日本人の不思議」は、相変わらずを心地よしとしてきた日本人の無意識が、ガイジンに対する斥力を強く働かせ、見知らぬ都会人が移住してくるのを「都会風を吹かすな」ととらえ、抑も1980年代の経済隆盛の折にも科学技術の振興には力を入れたものの、その基底部分を大きく培う所へまでは思いが及ばず、1985年のプラザ合意で(アメリカからの要請に応えて)円高ドル安へ舵を切り替えるときにも、じつは産業構造を高度消費社会向けに切り換えていかねばならないのに、一つひとつの産業部門への補助金とか融資とかでジャブジャブと資金を投入できるようにして、構造転換を図るのではなく、延命措置を施す。結局遊ぶ資金を不動産に向け、バブルの崩壊を引き起こした。これも、「相変わらず」のなせる業であった。イヤそれ以上に、、そういうことは当時から指摘されていたのに、政界・官庁・産業界の鉄のトライアングルが「相変わらず」のまま出合ったが故に、ますます狭い状況適応的・場当たり的な弥縫策を講じて問題を先送りするだけになってきたのではなかったか。無責任の体系と丸山真男に言わしめた日本組織の特性が、本当に身に染みこんで抜けなくなっている。一人一人が、その構造の下で無意識に染みこませて人柄を形成するから、それが何世代も通じて国民性になってきた。「お上」のすることを「しょうがねえな、奴ら」と思いながらも、直にワタシに振る掛かる災厄になるまでは、「知らぬ顔の半兵衛」を決めこむ。それが庶民ってものよと気取っている。気が付いたら傘寿になってわが身を守るのに精一杯。後に続く世代に全部ツケを回してしまうことになった。「後は野となれ、山となれ」って、山歩きの好きな私ならそれでも構わないが、子や孫に山で暮らせ、海で生きよとは育ててこなかった。
そう考えてみると、山で暮らし海で生きるとは、ワタシたちが子どもの頃に見た風景ではないか。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と言ったこと、そのものではないか。「帰れない山」のブルーノが「山で牛を飼って暮らしたかっただけなのに」といったのと、同じではないか。ワタシたちはそれを忘れて、別の夢を見て走っているんじゃないか。目を覚ませと、コロナウイルスが呼びかけ、異常気象が扉を叩き、失われた三十年が如実となって人類史に問いかけている。そう思えてならない。
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