2023年5月11日木曜日

不思議に手が届かない

 今日も映画を見に行った。この五月に公開された『銀河鉄道の父』。宮沢賢治の父を主人公に賢治が創作に踏み出した航跡を辿って、生きた時代の気配を取り出している。宣伝チラシに書かれるような「家族愛」とみると平凡な作品。だがそこからどう飛躍するかと思ってみると、だがちょうど昨日のイタリア映画『帰れない山』の残像と重なって、ちょっと面白い発見があるかもと期待した。

 長男が家業を継ぐという時代風潮がある中で賢治に教育を受けさせる父の視線は、明治という時代の、新しいコトに挑戦する気配を身に混在させている。映画はその父の子である賢治とトシ兄妹の不思議世界への飛翔がトシの死によって中断されたことを契機に、父親が主体となって(賢治の世界を)読み取る世界となり、父の微細な変わりようが不思議世界への扉に手を掛ける時代の変化。父を主人公とみるとここでお話は終わる。

 だが16歳の賢治が青年になっていく大正時代の日本はWW1(第一次世界大戦)の勢いを得て(国としては)世界の一等国になっていく調子づいた時機であり、社会的には所謂デモクラシーという文化的な変化を迎える時代であった。適応せざるべからずという気風があったのか、父親が息子賢治の世界を追う(継承流転の物語としては逆転した)姿が描かれる。

 子どもの頃から宮沢賢治の作品を読んでいた私は、異世界へ入っていく彼の語り口に強烈な印象を抱いていた。誰が書いたものか彼の評伝を読んで、小学校の教師をしていた頃、野原に児童を連れ出ていて、何かのインスピレーションに取り憑かれてか子どものことを忘れて異世界へ入り込んだとイメージが広がってわが心裡に沈んでいた。この映画ではそういう異世界は描かれない。

 賢治がトシの死に際して狂気のようにホッケの太鼓を叩くシーンが差し込まれている。だが、これもなぜ、宮澤家の浄土真宗を捨てて、かくも深く日蓮宗に傾倒していったかは、読書遍歴と現世利益の、仄めかされるほんの欠片のような僅かのイメージでしか示されていない。

 賢治が、創作以上に力を注いでいた土地の改良や暮らしの改善のために働いていたと思われるが、彼が農民の暮らしを軸に据えてヒトの生きるということの意味を問い始めた過程も実は余り描かれていない。彼がチェロを何時どこで弾くようになったのかもわからないまま、集まった農民の大人や子どもたちが彼の作詞した歌を、彼の弾くチェロ似合わせて歌うプロットが描かれる。これは「帰れない山」の山に籠もる一人の主人公ブルーノの姿を彷彿とさせる。「帰れない山」はブルーノの幼い頃からの友人がその父親の思いを受けとるとともに見届ける運びを物語にしている。だがこの「銀河鉄道の父」は、その息子が腰を据えようとした原点を父親が感知し見届けるお話であった。

 その辿り着いた地点に置かれたのが、「雨ニモマケズ」。賢治の末期の枕元で父が訥々と詠いあげる「雨ニモマケズ」は、父・役所広司の声音に伴って観るものの心に響く。土地を改良し田を耕し畑を起こして食べものをつくって暮らしていくしかない農民を原基に据えてともに生きるようとする賢治の願いが、諄々と静かに伝わってくる。

   ……

  アラユルコトヲ

  ジブンヲカンジョウニ入レズニ

   ……

  東ニ病気ノコドモアレバ

  行ッテ看病シテヤリ

  西ニツカレタ母アレバ

  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

  南ニ死ニサウナ人アレバ

  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

  北ニケンクヮヤソショウガアレバ

  ツマラナイカラヤメロトイヒ

   ……

  サウイフモノニ

  ワタシハナリタイ

 ヒトが生きる基底はここにあるぞと賢治が発見し、明治の前半期に生まれ日本の近代化と共に市井の民として生きてきたその父が、子を亡くして永久に心裡に刻むしかない形で受け継いだ神髄。それが映画「帰れない山」のモチーフと重なるのであった。父親が「宮沢賢治全集」を手にして映画は終わるが、「ほれ、手にして読んでけれ」と世の中に受け渡しているように見えた。

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