《外国人も「特別扱い」しない》と一面トップに大見出しをつけた記事が載った。朝日新聞(5/14)の1面と2面を使った「多民社会tamin shakai」という企画記事。群馬県大泉町にブラジル人を受け容れ、後にベトナムやネパール、アジア出身とその家族も加わり、今人口4万人の2割を占めるという。1万人ほどだ。「お隣の群馬太田市にも1万2千人の外国人が暮らす」とある。こちらの市は人口が22万人だから、比率でいえば5%というところだが、日本全国の2%に比べると各段に多い。大泉町はヨーロッパとほぼ似たような様相と言えようか。その大泉町の取り組みや抱える「共生模索の35年」を追っている。そのリードに「数年後には人口の1割になる」と、日本全国の問題として取り上げる記事。つまり読者であるあなたも当事者よって呼びかけている。
これはseminarが2月来取り上げてきた問題と重なる。BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」として提起したのも、なぜ日本人はガイジンを「特別視するのか」が発端。それに対して大泉町は「特別扱い」しないと臨んでいるという。だが、やっていることには、文化の違いを解消しようという細かい尽力がみられる。ゴミ出しのルールの外国語表記や日本語教育に力を入れ、「言葉が通じれば本人の努力で道が開ける」とみる。つまり「特別扱いしない」ということは、「特別に意識して気を配る」ことを介在させる。労働力としてガイジンを擁している企業も、一緒に交流するイベントを催して人々が言葉を交わし、文化の相違を身で感じる試みをしている。この経由点の、行政や企業や地域活動家の「特別に意識する」が実は、「外国人に適応を迫る」というだけでなく、在住している日本人も(外国人に)適応していく努力を必要とすることを意味している。
従来、郷に入っては郷に従えと思ってきた。異質なガイジンを鬼神のように受け止めてきたから、何かワルイことが起こると異質なものの闖入によって引き起こされたと考えるのは、原始時代のセンスをそのままナイーブに押し出すだけ。畏れ敬うという次元を「振る舞い方の作法が違う」と受け止め、その違いを補正して行くには、これまでの伝統社会が保持してきた以心伝心の方法では上手く行かない。文化・振る舞いの違いを言葉にし、遣り取りを交わす場を設定して、ぶつけ合う必要がある。
実は日本人どうしだって、そういう問題を抱えている。大雑把に言うと、伝統文化は気心知れた空間に住まう(立ち居振る舞いや作法を共有する)人たちが、(個々人の差異は当然にしてあるものだから)互いに頃合いを測りながら差異を察知して振る舞い方を調整する作法であった。大相撲の立ち合いのようなものだ。何度も仕切り直しをし、呼吸が合った所で立ち合いが始まる。
苦言も直に言えば角が立つという伝統的対人作法は、それに相応しい場が設定されなければならないことを意味している。苦言を言い交わすということは、それに対する審級者を必要とする。身分社会の場合は、お上がそうであったし、街場に於いては長屋の大家がいなくてはならない。四民平等となった平場ではどうであったか。あるときまでは亀の甲より年の功が効き目があった。そう言って考えてみると、このあたりまでは権威主義社会であった。お上とか、大家とか、年の功と謂う権威が共有されていたから、そこにいる人達が審級者となって場をつくり、争い事を始末してきた。だが近代の民主主義社会は、その権威も取っ払ってしまった。
近代というのは、そもそも異質な人たちが空間を共にして構成する社会である。狭い「くに/郷里」を出るだけでも文化作法の違いに驚いていた。近代社会になって列島中の人々の往き来が激しくなった。人々の気質も考え方も変わってきた。そこへさらにガイジンが参入する。呼吸を合わせて立ち合うという作法さえ知らないものがいても不思議ではない。
さらにこんなモンダイもある。近代が進んだ都会地となると、法的規制が唯一の共通言語のようにみなされる。ゴミや騒音に問題を感じてお隣に注意をすると、逆恨みの逆襲を受けたという事件も起こっている。その発端は、どこにそういう法的規制があるのかということから始まっている。私有権では片づかない。「迷惑条例」を設える。でもそれに強制力が伴っていない。罰則が付いていても、お役所がそれを発動しない。発動しても、軽微な罰金だったらそれを支払っても、条例違反をして稼ぐ方が得だと居直る人もいる。政治家をみていたらよくわかるが、法に反しなければ何を非難されることがあるかと居直っている。あれが、他者モデルだ。
争い事を街場で始末するには審級者がいるが、かつての長屋の大家は、いまや物件の所有だけ。お上は上意下達の機関としての町内会を利用するばかり。強制力はマイナンバーカードにしてから発動しない。ポイントでおカネをもらえるならマイナカードを登録しようかと欲得尽くで誘うだけ。国民の品性を落としている。国家がマイナンバーカードを使って一番有効に作動させたい収入の全量把握の、一番のターゲットである富裕層の人たちは、3万円程度の端金には目もくれない。やっと最後の切り札で「義務化」などと言いだしている。でも行政実務がお粗末で信頼性が全くない。使うにはつい腰が引けてしまう。事ほど左様に、日本の国家権力は富裕層に遠慮がちである。それに似通った地方政府が、強制力を発揮する力も持たされず、時と場合と人を見て居丈高になったり、知らぬ顔の半兵衛を決めこんだり、モンダイを先送りしてしまう。街場の異質さの争い事の場もつくらず、始末もできない。これって、法治国家なんだろうか。
町内会も古くさいお祭りなどは仕切るけれども、新しく参入してくる市民に対しては、旧来の慣習に馴染んでくれと、空間占有の優先権を主張する。新規参入してくる方が「郷に従え」という。自分たちが変わろうとはしないから、揉め事の仲裁や調整には役に立たない。当然ギスギスする。町内会はお上の権威を背景に、「市町報」配布の下請けをしているだけだ。
機能的な人と人との社会関係には、法規制以前に言葉を交わし差異を調整していく当事者としての関係がなくてはならない。それがコミュニティってものだ。どちらがイイかワルイか以前に、互いに言葉を交わして心地よく暮らして行くには、法的な規制に沿っているかどうかよりも、互いにどうしたらいいかを共に考えていくスタンスが必要なのだ。その場をつくるのがコミュニティである。
以心伝心は、その気風がいわずとも共有される時代の言葉である。暮らし方が多様化し、人それぞれの好みが押し出されて当然という社会規範の社会では通用しない。バブル時代を経て豊かになった所為もある。共有していたはずの気風は雲散霧消した。そこへ労働力不足という産業社会(富裕層)からの要請もあって、ガイジンを入れざるを得ない。あとはでも、各自治体で頑張ってねというだけの国策では、奴隷労働じゃないかというガイジン労働者への非人間的な扱いが起こるのは当然と言えば当然。
明治維新から155年にもなる。敗戦から77年にもなる。一億総中流も経験した。食糧ばかりか日用品まで海外製品に依存する暮らしをしている日本人が、相変わらず人見知りをして内気に閉じこもるのは、不思議である。それならブータンみたいに辺境の地にあってほとんど制限的にしか人の出入りがないような「国」にしてしまえばいい。ブータンは、経済的な発展と豊かに暮らすことのズレを意識して、対外的な交通を制限している。
それなのに、インバウンド観光客の増加に期待を寄せ、大谷翔平の活躍をまるで日本人の誇りのように伝える。だったらいい加減日本人も、ガイジンという言葉を取っ払うほどに「文化大革命」をしてみなさいよと思ったりもする。それの第一歩は、自分たちの文化を一つひとつ対象化して、遣り取りする場を平場に設けるしかない。私が今手がけているseminarがその一つだと思ってきた。だが、先月から書き散らしているように、傘寿を超えた年寄りには、もう無理だとワタシは見切りをつけている。
それともこれって、戦中生まれ戦後育ち世代特有の「国民性」なの?
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