2023年3月31日金曜日

ふらっと遍路の旅(4)危険

 ただただ歩くだけなのに、身の危険を感じることがあった。その一つは、車とトンネル。恐らく9割以上、国道か県道を歩いていたのだと思う。高知県も愛媛県も、大きな車道にはたいてい、歩道というほど広くなくても歩行者の歩けるスペースが設えられていた。道路の広さにもよるが山間部を抜ける車道では、左右のどちらかにある。道路建設の地形的な関係でそれが、左側から右側へ、あるいは逆に、と代わる。その代わる所には横断歩道が記されていて、歩行者が渡るような気遣いが為されている。

 だが、山肌に沿ってカーブしながら走る山間道で車が止まってくれることを期待しても、ほぼ無理。ま、というほど車の通行量が多くはないから、それほど気にならなかった。むしろ私自身が考え事をしていたというか、歩くのに夢中で、「歩道」ということを意識しないで、気が付くと歩道ではない側溝の上を歩いていて、歩道が入れ替わっていることに気づかないことが、何回かあった。

 それとは別に2回、身の危険を感じたことがある。1回は歩道のないトンネル。昔の狭いトンネルをそのまま使っているのだろう、側溝だけで歩道がない。上下二車線の向こうから来る車のシルエットはトンネル内の灯りに浮かんでみえる。ところが、トラックが来ると車線いっぱいに広がっている。私が身体をトンネルの壁に押しつけるようにしてやっと車を躱せるかなというほどしか余地がない。そこでトラック同士がすれ違うことになると絶体絶命だなと思うようであった。だがそこがお遍路。大きな笠を被っているこちらのシルエットもみえるのだろう、正面から来るトラックが止まる。後ろから轟轟と音を響かせて(たぶん)トラックが来ているのであろう、待っている。当然私も壁にへばり付いて待っている。トラックがすれ違い、正面のトラックは大きく対向車線にはみ出して私とすれ違う。そんなことがあった。

 もう一回は、歩道というほどではないが、幅50センチくらいの側溝の水抜きと歩道とを兼ねた設えのトンネル。そのトンネルの中ほどの照明が切れている。行く前に私は懐中電灯をリュックに入れてはいたが、電池を抜いてある。トンネルの途中でリュックを降ろして電池を入れるのは面倒。だが、暗い所をどう通過するか。私は金剛杖は重くて持てないが、代わりに軽いストックを二本持ち歩いた。お接待のときにノルディックスタイルですねと揶揄われたが、いや80歳ともなるとバランスが悪くてねと遣り取りした。そのストックの片方を、トンネルの壁の一番下、20センチくらい高い擬歩道との接点に当て、別のストックを擬歩道と道路との段差に当てて、その間をゆっくりと進む。前から車でも来てくれれば足元がみえるのだが、そういうときに限って一台もやってこない。恐る恐るゆっくりと歩を進めた。この時くらい、ワタシが目に頼る暮らしにすっかり依存していると思ったことはない。昔灯りが今ほど豊かでなかった頃には、トンネルといえば暗いのが当たり前であった。そこをどう歩いたのだろう。そもそもトンネルに灯りがあって当たり前になったのは、ほんの21世紀になってからではないかと思うほどだ。それ以前は、暗闇でも感じ取れるほどに、耳や皮膚の感覚が鋭かったのではないか。明るい日常の中で、ヒトはどんどん感性を変えてきてしまったと、昔日の「ふるさと」を思うようにわが身の変容を思った。

 お遍路がほぼ全部「歩き遍路」であった頃は、遍路に出る方も送り出す方も、永久の別れと思っていたそうだ。中には、姥捨てと言われては風が悪いから遍路へ送り出す、まさしく片道切符の片路道だったとしるされていたことも、どこかで読んだ覚えがある。行き倒れである。88番札所にはいまでもそうしたお遍路さんを供養する無名の墓があり、それを守り世話をしている方をTVが報じていたこともある。今治の五十何番目かの札所の遍路道を歩いているとき「四国遍路無縁墓地」と記された2メートルほどの高さの墓柱が立てられ、その脇に十いつくかの小さな石の地蔵が置かれ、まわりには花や木が植えられている、奥行き一間、幅四間ほどの土地があった。周りは住宅地。ご近所の方が世話をしているのだろう。

 今回も私は宿を確保して経巡ったが、野宿のお遍路も少なからず目にした。たいていは大きなザックにテントや自炊の用具を入れているのであろう、ゆっくりと歩いている。最初に出逢ったのは30歳くらいの若い男だった。愛媛の45番札所へ向かっているときには「逆うち」と呼ばれる反時計回りに札所を経巡っている野宿のお遍路さんにであった。この方は私と同じくらいの年齢ではなかったか。実はその頃既に私は、歩くのが人生ただただ歩くのが遍路と思っていたから、何度もお遍路をする人の心持ちが少し判るように思っていた。つまり、繰り返し繰り返し、ひたすら歩く、それには札所という「導き」のある方が煩わしくない。お大師さんに惹かれて歩くってこういうことなんだと、私も思っていたから、「逆うち」のお遍路さんに出逢って、究極はこうなるんだと感じ入って、少し言葉を交わしたりもした。これは、行き倒れるまでお遍路を続けるということに外ならない。無縁墓地となるかどうかはわからないが、死ぬまで生きるという意味では、ついにお大師さんと出逢うまで歩き続ける人生そのもの。案外信仰の精髄なのかもしれない。

 お遍路かどうかはわからないが、ベッドくらいの大きさの曳き手の着いた台車に荷物を載せ、歩いてくる人とすれ違ったことがある。40歳くらいの男性。別の日には同じように歩く還暦を過ぎの男性も見掛けた。そのうちのアラフォーの方とは立ち話をした。野宿をして(お遍路とは逆に)回っているという。脊椎のすべり症という持病で歩ける身体はもう限界。歩ける今のうちに歩いておこうと四国の輪郭をたどるように隅から隅へと回っているという。これも、今風お遍路じゃないか。私は「野ざらし紀行」を思い浮かべて聞いていた。

 危険といえば、今治の宿がそうであった。今回遍路の旅のラス前の宿を今治ステーションホテルにとった。その名からして、今治駅のすぐ傍とみた。ここで帰りのJRの切符を買う。最終日は今治市内の一番東の端か西条市に宿を取り、ゆっくり骨休めをして翌々日の西宮での法要に出かけるという算段であった。ところがその日、35㌔を歩いて今治駅のすぐ傍に着いてみても、目的のホテルがない。Google-mapのスマホ案内は「目的地に着きました。案内を終了します」と言って沈黙してしまった。えっ、こりゃあ、どういうことだ?

 近くで建物の内装工事をしていたお兄さんに訊ねる。彼は自分のスマホを取り出し仕事を中断して、「こちらですよ」と先に立って案内する。先程私が立っていたところへきて、「えっ、ないよ。ここ」と平地になっている所を指さす。小さく出ている看板をみると「改築工事中」とわかる。じゃあ、4日前に「予約した」ときの遣り取りは何なんだ?

 スマホに記録していた電話へかけると、相手はちゃんと出る。状況を話すと、「改築中っていったはずです」という。鉄道で隣の西条市まできてくれ、そちらで宿泊の用意をしていると返事。冗談じゃない、こちらは歩き遍路だ、初めからそれがわかっていたら、予約はしないよと怒るが、向こうさんは「言ったはず」と譲らない。そんな口論をしていても拉致があかない。キャンセルして、宿を探そうと駅へ行く。ステーションホテルっていうのだから駅に責任があると感じていたのだろうか。今考えると可笑しい。観光案内所を紹介してくれる。

 ところが今治市というのは、三番目の本四架橋「しまなみ海道」の四国側の起点。乗り捨てることができるというので、サイクリングで賑わう。コロナ禍の往来自粛が解禁となって、外国人がわんさと押しかけている。宿はどこも満杯と観光案内所は話して、駅近の第一ホテルを紹介してくれた。いやはやラッキーであった。素泊まりだが、泊まることができ、予定通りの運びに辿り着いた。もし宿がなかったらどうしたろう。駅の待合室で野宿でもしたろうか。それも変ロになって面白かったかもと思わないでもないが、齢傘寿にしてそういう冒険は、少し無理かなと思うようになっていたのでした。

 おっと大事なことを忘れるところであった。今回のふらっと遍路の旅は高知の窪川から歩き始め、足摺岬を目指して太平洋の南東に面した四国の輪郭をたどったのだが、時も時、3月の上旬、(2011年の)3・11の直前であり、かつ、南海トラフ地震がいつ起こっても不思議ではないと報じられていたこともあって、最も高い津波が襲ってくると想定されている黒潮町などの通過地点はピリピリと緊張した雰囲気にあった。歩いている道には「ここは標高*m」と記す看板が立てられている。宿の79歳の亭主も、「35mもの津波って、いったいどこに逃げればいいのかわからないよ」と溜息をつく。避難場所とされている(車でも上がれる)すぐ裏の山の標高は20mくらい。35mの津波となると、その北側にあるもう一つの山、と指さして、そこでなくては避けられないが、車道はないと愚痴る。宿のTV番組は、シミュレーション画像を取り入れた「もしもドラマ」をみせて警告しているが、海辺にまで迫り出している山の「避難路」は、果たして20分くらいで辿り着けるだろうか。そのピリピリは、四国の南へ向いた海辺の輪郭を離れて山道へ入るまで続いた。

 山を越え、宿毛を過ぎてまた、豊後水道に面した愛媛県へでてやっと、35mの「脅威」から解放され、20m程度の緊張へとほぐれていった。なにがワタシにピリピリした緊張をもたらしたのか。シミュレーションの予測する津波の高度が想像力を経由して身に響いたのであろうか。道路沿いに立てられた標高や避難路という警告表示看板の数がワタシの身に伝わっていたのだろうか。瀬戸内海に面した松山市に入った頃にはすっかり南海トラフのことは忘れていたのは、地震による津波が瀬戸内に回ってくるには時間がかかり、高さも10m程度になるというのが安心に変わったのか。それとも瀬戸内という子どもの頃から馴染んだ地理的感触が「危険」とか「逃げ道」というのを摑んでいるからなのか。ワケはわからなかったが、身体から遠ざかっていったのは間違いない。「想定以上の津波」と考えて行動せよとTVは警告していたが、身体そのものが感知しているものを、理知的に頭で動かそうというのは、「訓練」しかないのかもしれない。

 いつも「もしも」をかかえて暮らすというのは、ストレスがかかる。海辺に暮らす人たちは古来からどうしてきたのだろう。ひょっとすると「仏教的な諦念」が心落ち着かせ、万一の時は「仕方がない」と肚を決めることによって日常を営んでいたのかなあと思いながら歩いたのであった。 

2023年3月30日木曜日

ふらっと遍路の旅(3)体調

 歩くときいつも体調を気にしていた。国道や県道沿いを歩いたことも関係していようが、ああ、これは危ないかもと思ったのは、気管支が傷んだことだ。咳き込む。疲れを感じる感官が鈍っていて、オールアウトになるまで歩いてしまう。去年がそうであった。お遍路から帰ってきて二、三日は何もする気にならず、ボーとして過ごした。年をとるってことは、そんなにも全体的に劣化するのだと肝に銘じている。それが何日目に出てきたか、もうすっかり忘れたが、二度ほどあった。

 歩きながら感じていたのは、胃腸が丈夫なこと。宿で出される食べものはいつも完食した。美味しかったこともある。これはちょっと量が多いなと思ったこともある。だが、こいつを消化できなくなったら歩くのは無理だと自分に言い聞かせて、全部食べるように心がけた。

 何より毎日宿に到着して少し休むと、すっかり脚が草臥れていることがわかる。足裏はヒリヒリし、腰掛けていたら、次に起ち上がるとき、ふらついて仕舞う。腰に来ては大変と思っていたから、腰痛ベルトをいつも締めていた。たぶんそれに扶けられたのだと思う。そうそう、ズボン下のようなつもりで筋肉補助スパッツをいつも履いて歩いたのも、大いに扶けになった。それでも、それを取ると身体を真っ直ぐ立てていることが覚束なくなり、用心して歩くようにしていた。

 幸いにも殆どの宿では、着くとすぐに風呂を立ててくれた。汗を流し、脚を伸ばし、足裏を手でほぐしてやると、強張りが解けてくる。足裏の三箇所が堅くなり、これで翌日歩けるだろうかと心配したことは、毎日のようであった。にもかかわらず翌日朝には、それをすっかり忘れるほど脚の疲れは回復していた。これは有難かった。

 遍路のお接待をしている人が明日のルートを聞いて、えっ? あの峠を越えるの! と驚きの声を上げる。でも三原村の民宿に予約しているから(そこを通るしかない)というと、前夜どこで泊まるかと聞く。ルート沿いの民宿はほとんど「おかけになった電話番号は使われていません」というアナウンスで拒まれ、お遍路地図上のホテルも「風呂が壊れてねえ」といわれ、近くのもう一軒の海沿いのホテルを紹介してくれた。そのことを話すと、それじゃあ4㌔も外れるから往復8㌔もよけに歩かなくちゃならないと心配してくれた。峠というのは、今ノ山864mの肩を越える立派な車道。クネクネと山肌を縫うように高度を上げ、標高670mの峠を越える。山を歩くとき、高度百メートルは平地の1㌔と換算していたから、その日の行程29kmに6㌔くらい加えた歩行距離になったと思う。足摺岬の東、竜串の海を望むホテルから峠を越え、標高150mくらいの三原村に入ったのだが、天気は快晴、暑いというほどでなく、今みると時速4.9km/hで歩いている。山には強いのだと思った。

 そうだ、3/11、41㌔歩いた日のことだ。宇和島の街中のホテルに泊まり風呂に入って汗を流していて、鏡に映るわが身体の鳩尾の辺りに横に長く赤い斑点があるのに気づいた。痛くも痒くもないが、発疹だ。思い出したのは25年も前の帯状疱疹。その時は熱も出て痛みがひどく、近所のクリニックに一晩入院して点滴をする羽目になった。えっ、歩いていてあんな痛みが起こったらどうしたらいいんだろう。看護師をしている知り合いにメールを打ち相談したら、こんな発疹かと、写真が送られてきた。そうそう、それよりももう少し横幅が広く繋がっていると応答したら、帯状疱疹かもしれない、疲れが出ると発症するからねと悠長な応答。じゃあ、熱や痛みが始まったら救急車を呼ぶわと返事をしたら、「帯状疱疹で救急車を呼んだりするもんじゃない。今、救急車はそれどころではないのだから」と叱られた。幸い発疹はそれ以上大きくならず、たしかに疲れが軽いとやや小さく凋んでいくようにみえた。やれやれ、であった。

 疲れの恢復に睡眠が大いに役立っていると感じた。宿に着き風呂に入り、洗濯などをして、夕食は6時頃から。それが終わると後は寝るだけ。終わりの方にはWBCをやっていたが、観る元気はない。結局7時半くらいから5時、6時までぐっすりと眠った。一度のトイレに起きないこともあれば、二度ほど起きたこともある。水分摂取が足りなくて便秘になるんじゃないかと心配したが、朝夕にせっせと水分を補ってなんとかクリアした。毎日10時間は眠ったろうか。山小屋やテントでの寝泊まりに慣れていたこともあろうが、正体なく寝る技が身についているんだとわが身を発見した。

 普段家に居るときには、起きている間の殆どをパソコンの前にいてタイプしているか、本を読んで過ごしている。何もしないで過ごせるだろうかと、行く前には心配して、小さなタブレットをもって歩いて日々の記録でも書き残そうかと思わないでもなかったが、荷物になるので、持っていかなかった。それが正解であった。もちろんいろんなことを忘れちゃ困るからスマホで自分宛のメールを打った。夜中に目を覚まして2時間くらいそうして過ごしたこともあったから、10時間全部を睡眠に使ったわけでもない。何も書かなくてもちっとも退屈しないことも判った。案外ワタシはシンプルにできている。ボーッとしていてちっとも退屈しない。これって、年寄りの特権なのだろうか。

 そう考えてみると、去年「飽きちゃった」と感じたのは、なんだったのだろう。ワタシの欲望というか幻想がつきまとい、それが満たされないことが「飽きちゃった」という表現をとったのだろうか。そんな気もするし、そうじゃないのかもしれないとも思う。ともかく今年は「飽きも」せず、坦々と歩けたわけだ。

 そうだ、帰って後に計った体重だが、僅か1㌔減っただけであった。ところが、体重計が表示する「体内年齢」は相変わらず「65歳」のままであったが、「足腰年齢」は5歳若返っていた。体脂肪を良く絞って筋肉に代えたってことか。よく食べ、よく寝て、良く歩いた。お大師さんに感謝しなくちゃならない。

2023年3月29日水曜日

ふらっと遍路の旅(2)歩く

 信仰心がないことがわかり、気が楽になって、歩きに歩いた。といって歩くことをもっぱらにしたわけではない。去年の「ぶらり遍路の旅」のことがあったから、出発前には、疲れを残さないように考えて計画した。去年は、16日間で422km。ほぼ26km/日であった。疲れは残ったものの、これくらいは歩けるが、これくらいが限度かなと思っていたから、平均して25km/日の計画というわけであった。

 ところが実際に歩いてみると、19日間、575km。30km/日というペースであった。計画より2割多い。去年はしかし、途中で飽きが来て区切りを付けた。今年は知り合いの法事があって、最初から19日間で区切ると決めて臨んだ。いやじつは、19日間の途中で飽きが来たり、草臥れてどこかに逗留したりするんじゃないかという心配をしていた。それなのに、このハイペースは、何だ? 

 信仰心がないんだという「覚醒」がひとつ目、ワタシは歩くだけでいいんだという「悟り」が二つ目。そう思ったことが、歩く秘訣といえば秘訣であった。それ以外には、靴を変えた。去年は軽登山靴であった。いや今年も直前まで同じ登山靴で行こうと思っていた。だが、去年、お遍路から帰ってから手に入れたウォーキングシューズが、巧い具合に足にフィットする。たいした山道があるわけじゃないから、こちらの方がいいかもと出発の玄関先で考えて、その軽い方にした。それが、当たったといえば当たった。

 靴擦れが6日目に起きた。去年は4日目に靴擦れの水疱が足指の間に二つ三つできて、針と絆創膏と小さい綿とテープを同宿者に貰って、難なくクリアした。今年も同じように足指の間に二つでき、それは去年同様に処置してその後何の問題もなかったのだが、もう一つ右親指の付け根の上にできた水疱が面倒であった。何でこんなところにとはじめ思った。ほかの水疱と同様に処置したが、その後も踏み出す時に折れ曲がる靴の、その部分が当たって痛みが走るんじゃないかと気遣いをする必要があった。痛かったと言うよりもその気遣いに草臥れた。とうとう13日目の宿出発の時にフロントの方に相談したら、消毒とオロナイン軟膏を塗って処置してくれ、その後すっかり解消した。それもあって、毎日ウォーキングシューズの紐を解き、毎朝出発の時に結ぶという手間暇をかけて足と靴との相性を調整することにも気を遣った。

 距離が伸びたわけを考えてみると、ひとつは宿が休業していたり廃業していたり、なぜか電話が通じなかったりして、予定通りに運ばなかったことがある。もう一つは、「遍路道」の地図にある四万十川河口の「渡し船」を使おうと思ったら、もう半世紀前に廃業していた(といわれていたが、実は復活し、予約電話を入れれば使えたはずと、後に聞いた)ということもあり、上流の橋まで7kmほども遠回りをしなければならなかったというアクシデントもあった。もう一つが、「古い遍路道」をたどったために、トンネルを抜けると短縮できたのに遠回りになったこともあった。それがあったため十日目、逆に、「遍路道」を避けて国道をたどったせいで、(後で聞くと)山を越えていれば7kmのところを、15kmも遠回りをしてしまったヘマもあった。この時は、なんと41kmも歩いていたのだが、それほどの距離とは思わないほど疲れを感じなかった。

 信仰心がないというのを去年は、これじゃスタンプラリーではないか、何をやってんだワタシはと慨嘆したのであったが、今年は、信仰心のない私にとってはスタンプラリーでいいのだ、歩くことがわたしの人生なのだと「達観」したことで、心裡のざわざわはなくなり、気持ちよく歩くことができたと思っている。本当に人は気の持ちようで、身を処すことができると体感した次第であった。

 違いを探るために去年と今年の歩く距離と日数を出した。

歩距離/日(km)   今年(日数)  去年(日数)

 35km超             5日         1日

 30km超             4日         0日

 28km超             4日         7日

 25km超             4日         4日

 21km               1日         1日(17km)

 11km               1日         1日(13km)

 歩数計がGPSで計測した歩行総時間は、今年は114時間と6分、去年は92時間46分。歩いた距離を時間で割ると、今年は時速5km/hだが、去年は4.5km/h。去年重い荷物を担いでいたことを考えると、さもあらんと思う。今年歩くのが軽くなったというのは、やはり「悟り」を開いた御蔭というべきか。

2023年3月28日火曜日

seminar進行者の心得べきこと

 昨日のこの欄の末尾で「仕切り直し」と記した。今朝になってみた1年前(2022-03-27)の本欄の記事「定期観測の老人会」が、同じseminarの感懐を綴っている。そこに、「仕切り直し」の必要な要点が示されていると思った。

(1)取材者という観点を、今回の私はなぜもたなかったのか。

(2)みえないものをみるというとき、一番みえないのは、じつは「自分」だ。

 昨年の記事では、seminarを見ている目とseminarの参加者とを取材者と当事者として対照させ、《取材するされるという関係が非対称的なのは、取材を受ける方は当事者であり、取材する方は超越的傍観者である》と記している。去年、講師を務めた私は2020年に刊行した『うちらぁの人生 わいらぁの時代』とネタにseminarの7年を振り返ろうというものであった。皆さんのおしゃべりを聞きながら、私の苦手な「世間話」を眺めている。

 つまり《取材記者の方はたぶん、「傍観者」という言葉に文句を言うであろう。そうじゃないから取材しているんだと。だが、客観報道とマス・メディアという記者の立場を考えると、「傍観者」という立ち位置がもっとも相応しい》と、突き放している。自分の著書が素材になっていることを(恥ずかしげに)突き放して、「傍観者」という立場に身を擬している。ところが今年は、司会進行担当者として、BBC東京特派員氏に罵声を浴びせたトキくんやマンちゃんと、特派員氏との30年間の同時代を生きた共有体験を振り返って、日本社会の盛衰の謎を解いてみようというkeiさんやオオガさんらとの、共通の遣り取りをする舞台を設営しようとしていたから、「傍観者」のようには振る舞えなかったとも言える。つまり私も「当事者」として加わり、視座を提示して臨んだわけだった。それが(1)のようにみることを妨げた。

 もし(1)のようにみることができれば、「そんな統治的な視点とか何とか難しいことを考えてやしないよ。その時に思いついたことを書いただけ」というトキくんの言葉も、「わたしの住んでる団地では自治会活動に非協力的なんてないわよ」というTさんの「反論」も、じつは特派員氏の「不思議」や「池田暮らしの七ヶ条」がいう「都会風を吹かすな」に対して、実に当事者として向き合っていると見て取ることができたはずだ。彼等の身の反応のベースには、日本人とか、日本社会で起こっていることというのを我がこととして感じている身の共通感覚が流れている。そこから、特派員氏の不思議とか池田町の協働感覚というのとを対照させて、踏み込むと話はもっと楽に展開したのではないか。

 それを、傘寿ってこういうことなんだと受け止めるってことが、そもそも言葉の接ぎ穂を失わせてしまうバカの壁ではなかったか。司会進行役というのは、当事者でありつつ、かつ、座談に参加している人たちの立ち位置を超越的に見て、言葉を噛み合わせる技を駆使しなければならないのだ。そういう自覚が、身に染みていないことが私の失敗の本質だったと気づいた。

 去年の記事では、seminarの《それ(おしゃべり)が世間話的に展開したのが、面白かった。講師を務めた私からすると、やっと世間話の入口にたどり着けたという感じ》と、苦手な世間話に持ち込んで記していたのに、今年は、世間話的に展開したことを「失敗」と感じている。この対象もまた、私の非力を示しているようにみえる。

 さらに、keiさんから「GDPが増えたら私たちの暮らしにどういう変化が生まれるの?」という疑問を提示し、特派員氏の取り上げた日本の経済的停滞をもっときっちり考えてみようという提案もあった。これも30年史を振り返るときに、いきなり社会的な当事者問題に飛び込む前に共通認識としておくべき客観的事態であるように思った。つまり、【返信4】と【返信6】にあったオオガくんの指摘する日本社会の当面している事態を、事実関係だけでいいから押さえてすすめる必要があった。

 みえないことをみるというのは、とどのつまり「自分を対象としてみる」ことを意味する(2)。その時、皆さんがそうすることを策動するのではない。ジブンがそうであろうとすることを、ほかの人たちに押しつけてはいけない。ほかの方々がどうするかはその人たちの当事者研究のもたらす結果であって、それは会の進行を担当するお前さんの意図することでも策定することでもない。にもかかわらずワタシは、学校の教師のように皆さんにもそうなることを期待し、そうするように啓蒙的に振る舞ってはいなかったか。

 いま、そんな反省をしている。

2023年3月27日月曜日

みえないものは存在しない

 昨日(2023/03/26)、seminarを行った。コロナは4年目、駅ですれ違う人の2割はマスクをしていない。電車の中は1割くらいか。気にならない。昨年、一覧にした「定点観測」は、毎年3月下旬のCOVID-19に対する(私の)受け止め方をみている。

 今年は発表される「感染数」も、果たしてしっかりした数値なのかどうか疑わしい。どっちが先なのかわからない。政府や行政組織への信頼が揺らいでいるから疑わしいのか、抑々発表される「感染数」の扱いが怪しいから行政への信頼が揺らいできたのかわからないが、今やどちらにも信をおけない気分だけは間違いなく私の中に定着している。TVの数字も、従って、増えようと減ろうとどっちでも気にならない。

 ウイスルはみえない。インフルエンザと同じと思えば、感染によって重篤になる人が居ても、自分が当事者になるまでは、気にならない。高齢者とか血圧とか気管支に持病をもつ人はといわれると、何だ私は該当者じゃないかと思うが、それすらもインフルエンザ同様というレトリックが、気分を和らげてくれる。気にしなければ当事者になるまで気にならない。自助というのは、結局個人責任。自分が当事者にならなければ、そのこと自体も知らないで済む。

 これでは、seminarで取り上げた「日本人の不思議」も「池田暮らしの七ヶ条」も、他人事になる。遣り取りしている時に、Tさんが「私の住んでいる団地では理事会も自治会も機能していて、世代交代は進んでいるが、加入しないなどというトラブルはない」と言ったのに続いて、「(池田暮らしの七ヶ条」が取り上げる移住してくる都会者が)町内会に加入しないというのは、一部を誇大に取り上げていて公平じゃない」と同意する意見が続き、「情報メディアって、特異なケースを取り上げるのが常だから、そんなことは取り上げるに値しない」という趣旨の発言へと繋がった。

 司会進行を担当していた私は、えっ、どうしてここで「公平ってことがモンダイになるの?」と思ったが、「日本人の不思議」も「移住者と田舎との齟齬」も、これではモンダイにすらならない。ああ、これが、傘寿seminarの遣り取りなのか。みえないものは存在しないっていうのは、COVID-19のことばかりじゃないんだと、心裡ではすっかりしょぼくれてしまった。

 冒頭で「seminarの心意気」を発表して、傘寿世代の存在意味を共有しようとした。傘寿世代の私達が世の中に発現することを、年寄りの繰り言だとか、老害だとかと批判する方がいるから、年寄りにしかできない「当事者研究」を提起して、seminarの意味を浮き彫りにしようしたつもりであった。だが、どうもそういう次元の話ではなかった様だ。

 テーマの設定がまずかったのだろうか。あるいは、運び方が悪かったのだろうか。問題をともに考えるというときに、文章をメールで送り、読んだものとして話を進めようとしてきたが、実は目を通してもいないのかも知れない。seminarの場で一緒に読み合わせをして、逐一受け止め方を確認してすすめるようにしなくてはならないのだろうか。

 みえないものをみていこうというのが「研究」ではないのか。どうしたらいいかという以前に、目前の問題を先ずみえる様に浮き彫りにして、それが私たちの問題であるという当事者性を確認することが必要なのではないか。それほどに、私たちは、かけ離れている。卒業後62年も別々の道を歩み、やっと十年ほど前からseminarを始めただけではないか。しかも古稀を過ぎてからの私たちが、別々の道を歩んでいることなど、考えなくともわかることじゃないか。それを、何をお前は勘違いして、傘寿という年齢だけで共通の言葉が語り合えるって思い込んだんだよ。

 仕切り直し。自助ですすめるしかないことだけは間違いない。

            ***

 「感染経路不明の発症者が半数を超えた」(2020/3/25)

 「ワシら知らんもんねえの底力」(2021/3/25)

 「家畜化するヒト」(2020-3-23)

 「定点観測の自問自答」(2022-03-26)

2023年3月26日日曜日

経済市場に乗らない営み

 今朝ボンヤリとTVを観ていたら、「Dear日本選 十勝の大地で生き直す」という去年放映した番組の再放送があった。少年院やらを出た青年たちに住まいを提供し、畑仕事をし、冬場、出稼ぎをしてそれなりに稼ぎながら、彼らの人生の再生を試みているNPO法人の活動を紹介している。寄宿する青年たちの顔はぼかしてあるが、それ以外のその事業に携わる人たちは素顔を晒している。その主宰者の人たちが、なぜこの事業に取り組み始めたのかも紹介する所で、かつて暴走族の頭をしていたことなどを写真付きで披露しつつ、しかし、人生ってやり直しが利くことを身を以て示しながら、青年たちの活きていく機会を保ちつづけようとする。

 同じように受け容れられていた年下の青年に、今回のメインに据えられた青年・Rが「おまえ、うざい」と腹を立てる場面があった。悪罵を投げかけられた青年は、何にRが腹を立てているかわからない。「えっ、おれ、なにか(悪いことを)しましたか?」と問う。Rはますます怒り狂って、でも手を出すことなく、自分の部屋へ引き上げる。

 それを台所仕事をしながら聞いていた主宰者側の(これまたかつて暴走族の一員であったという)女性が、場を変えて、Rに腹立ちのワケを聞く。彼は、シングルマザーに育てられた過去を明かし、そんな育ちの違い(の苦労)を知らない年下の青年の言葉や振る舞いに無性に腹が立ったと自分を見つめ直す。東京に残している妻や子どもに仕送りをしていること、それを知った十勝の協力者女性が我が幼子をRに抱かせる。こわごわと抱いて涙を流すR。番組は「来年、妻と子を十勝に呼んで一緒に暮らすことにした」と、希望を仄めかして締めくくっていたが、そうだ、これこそが、昨日のこの欄で取り上げた、「当事者研究」だとおもった。

 統治的な大きな物語(ストーリー)のセンスでは、この話はただの断片にしか過ぎない。しかも、十勝の農業は商品交換の市場に乗る代物とは思えない。つまり資本家社会の市場経済過程からははみ出している。でもそこでの作業が、人の営みを見事に体現しており、そこでの人と人との関係が、生きる源を指し示している。個々個別の断片(ナラティヴ)としては、ここにこそ人が生きる諸相が表象されていて胸を打つ。

 つまり、このナラティヴの舞台に於いて焦点となることが、資本家社会の交換システムの中では、ほぼ無価値のものとして無視されている。そういうことに私たちは気づかないで、市場経済の恩恵を(資本家社会的交換システムばかりに限定して)享受していると思い込んで暮らしている。ここをコペルニクス的に大転換しないと、いつまで経っても私たちは、この社会の主役(つまり主権者)として登場することはできないであろう。

 もちろん金になる仕事と金にならない仕事とがあることは、世の中を見ていれば十分すぎるほどよくわかる。だが、金になる仕事がなくてはならないけれども、それがこの社会に暮らす私たち庶民大衆のメインになっていては、いつまでも私たちは労働力として(資本に)使われ、主権者としての立場を手に入れることはできない。

 そこを弁えて、たとえ断片の欠片といえども、私たちに日々の暮らしをナラティヴとして語り出し、そこから世の中を見つめる言葉を繰り出せるようにしていくしかない。もはや世の中の何かに資する力を持つどころか、世の中にあれこれ手を貸して貰わなければならない様な立場にいる齢傘寿の老人であるけれども、このスタンスを組み込んで生きることが、せめてもの、我が傘寿人生の償いであり、世の中への感謝の徴だと思う。

2023年3月25日土曜日

seminarの心意気

 お遍路をしながらいつも頭を離れなかったのは、3/26の36会seminarをどう運ぶかということであった。BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」に関するコメント、それに対する傘寿老人の共感と二人の感情的反発とを、同じ舞台に乗せて遣り取りするには何が必要か。傘寿老人の経てきた時代と人生を重ねながら思案してきた。そのseminarの「次第」をつくりながら湧いてきた感懐は、次のようなものであった。

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 今回から、素材を皆さんで共有して読み、そこから、私たちの共通する「お題」を拾って語り合おうというやり方を採用しています。二ヶ月に一度顔を合わせて言葉を交わすと言うだけでなく、その間にも素材を巡って言葉が取り交わされます。つまりseminarを日常化しようというわけです。行き交う言葉は、私たち自身のたどってきた航跡を振り返り、オオガ君の表現を借りれば「うちらぁとわいらぁの時代と人生」がなんであったかを探ることにほかなりません。年寄りの特権は、そのように経てきた時代と人生を総覧するようにして言葉にすることです。

 もちろんこれまでのように、どなたかが「お題」を提供してお話し下さり、それを共有しながら言葉を交わすのもアリですから、どうぞ遠慮なく講師を引き受け、「お題」を提示して身を乗り出して下さることを歓迎します。ただ結局、語り合うのは「うちらぁとわいらぁの時代と人生」なんだと思います。

 今回は、BBC東京特派員ヘイズさんの離任に際して「日本人の不思議」を綴った文章です。別添の(資料1)をご覧下さい。それに対して【返信1】から【返信6】までの応答がありました。その都度、事務局のFがコメントを加えて皆さんにお送りしてきましたから、既に目を通されていることと思います。その中にはトキくんの「この馬鹿特派員はなにもわかっちゃいねぇ」という反発やマンちゃんの「イギリス人よ! よく覚えておけ!! 日本は劇的に変われるんだよ」という居直りもありましたが、keiさんやオオガ君から返信のように、くっきりとご自身の経てきた時代や人生と重ねて、この文章を読み取って考えてみようという共感的コメントもあります。

 これをどう、今回のseminarで取り上げるか。私は、相矛盾する(ようにみえる)二つの視座を据えたいと考えています。

 一つは、世の中をどう変えていくかという視点です。既に私たち傘寿世代の時代は終わりを迎えています。だからいまさら私たちが、ああしたらいいとかこうしたらどうかなどと云々しても、それは叶わぬことです。にもかかわらず世の中をどう変えていくかと話をするのは、ああ、このように世の中を見て生きていった世代がいたんだと(もし後にこれを読み取る人たちがいたとしたら)言い残しておくためとも言えます。

 でも、私たちは所詮、単なる庶民大衆の一人。そんな非力な庶民の一人が何かを言ったとしても、世の中を変えるような力にはなりません。そうなんです。これが二つ目の視座です。非力な庶民が世の中を変えて行くにはどうしたらいいかを、80年の人生と時代を振り返って言葉にすることです。まさしくこの世の当事者として、この世をどうしていったらいいかを話し合う。民主社会日本の文字通り主権者が「当事者研究」をしていく。

 上記二つの視座をもって「当事者研究」するということは、じつは、自分たちがなしえなかったことを振り返って反省することでもあります。

 では無能な政治家たちを選んだことを反省するのか?

 日本のエリートと言われた官僚機構が、いまや目も当てられないほど劣化していることを、主権者国民の所為にして総懺悔でもせよというのか?

 人類史上はじめて大衆的な一億総中流という時代を経て高度消費社会を成し遂げたことが、「茹でガエル」と呼ばれる軟弱な国民を創ってしまったことを、どういう言葉で「反省」するのか?

 先進国が資本家社会的な交換システムでグローバル化という名の単一化を推進したことがもたらした世界的な経済関係の変化に、日本社会の文化的・構造的な改革が追いつかず、先進国間でも少し置いてきぼりを食らうことになってしまいました。でも、1980年代の資産を食い潰しつつも、その後30年の間なんとかそれなりにやってきました。

 他方で、アメリカの一極支配は崩れ、ヒラリー・クリントンに代表されるアメリカ民主党系の戦後理念はタテマエに化し、トランプ的な自己ホンネ中心主義が世界の気風を覆うようになりました。アメリカの主権者大衆の半数近くも鬱憤を晴らすかのようにトランプに加担しています。アメリカ支配に対する後発新興勢力は権威的・強権的な統治システムのデジタル的操作と囲い込みとによって、覇権を拡げていくことへと乗り出しています。WWⅡの人類史的反省として展開されていた戦後秩序もすっかり寂れ、世界秩序の再編がどの方向へ向かうのかさえ混沌として見通せない時代を迎えています。単なる資源国になってしまったロシアが、冷戦時代の「大国の夢よ再び」と古い物語を持ち出して力勝負に乗り出していますが、これも私たち日本の傘寿世代の庶民にとっては世界の変わり目に立ち会っていると自覚することはできても、それに代わる未来図を描く立場はどこを探してもありません。

 いえいえ、たぶんそういう次元で話を考えていくと、結局、巧く行かなかったことを誰かの所為にして、其奴を非難することに終わってしまいます。それではとうてい主権者とは言えません。

 この世の中の当事者としての私たち庶民は、日常の立ち居振る舞いの中で良きものを残し、善きことへ向かうように日々の一挙手一投足を、誰にということではなく、身近な人たちとの関係に取り込んでいくことしかできません。ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすという気象学者の指摘のように、世界のあらゆることは関わり合って影響を及ぼし合っています。そのように私たちの立ち居振る舞いも一挙手一投足も、一つひとつが社会の気風に作用を及ぼしていると考えれば、わが身の日々のそれらを意識的に繰り出して、社会の気風を創り、保ち、伝え、受け継いでいく。そう考えていくことが、まさしく世の中を変えていく振る舞いだと言えると思います。

(もし後にこれを読み取る人たちがいたとしたら)と先述しましたが、そういう人が居ようといるまいと、世の中を変える志を抱いた傘寿の人たちが「当事者研究」をしていることが、即ち、世の中を変える第一歩だと強く思います。

「失われた*十年」という決め台詞は、時代を誰かがそうしてしまったと指弾する責任追及の言葉です。それはそれで、そうしたことに言及する立場の方々にお任せしておきましょう。私たちは、そんな台詞は傍らに置いて、一羽の蝶の羽ばたきをする当事者として、どう羽ばたくか、なぜいまそうするのか、それがどのような世の中の気風を創ることに作用するのか、そうした一つひとつを考えていきたいと願っています。

「うちらぁとわいらぁの時代と人生」を、BBC東京特派員氏とそれにまつわる【返信】を参照しながら、語り出してみようではありませんか。

2023年3月23日木曜日

私には信仰心がない

 去年4月から5月にかけての「ぶらり遍路の旅」は、15日間で飽きてしまって切り上げてしまった。お遍路馴れしていなかった為に無用な物を持ちすぎていて、途中で荷物を送り返したりもした。計画も一日20km~25kmで立案し、終わってみると一日平均26kmほどを歩いていた。今回も立案の時には25km程度を考えていたが、後に述べるいろいろな事情もあって、一日平均30kmを歩いていた。これはちょっとした驚きであったが、同時に、ある種の悟りの境地を得たことが大きかったと思っている。

 それは、私には信仰心がないということに思い至ったのだ。去年「飽きてしまった」ひとつに、札所を巡って御朱印を貰って歩くのがスタンプラリーみたいだと思ったことであった。馬鹿だなあ、何でこんなコトをしてるんだオレは。そういう思いがつのった.それは疲れになってじわりじわりと身に溜まり、切り上げて帰る時には、やれやれと肩の荷を降ろしたような気分でもあった。

 ところが今回、札所を巡っている間に出逢った経巡っている人たちの中に、本当に札所を巡って何やらを訴え、何かを願い、あるいはそうした趣を携えてお詣りしていると思われる佇まいを見掛けた。その真摯さに圧倒され、つくづく私には信仰心がないという悟りを得た。

 札所の中に入ってきたアラサーと思われる若い男性。上下に作務衣を着し、金剛杖も丈夫に金物の装飾をつけた風格のあるものを手にし、被っている菅笠も渋い漆塗りのような趣の威厳を湛えている。私はちょうどベンチに座ってお昼にしていたから子細に観察することになったのだが、その青年は入り口のお大師像ばかりか、小さな地蔵様にもむかって手を合わせ、何やらを唱え、祈りを献げて本堂やお大師堂へ向かう。線香や蝋燭を入れる小さな肩掛けしかもっていなかったから、たぶん車で回っているのだろうと思ったが、なるほどこのように丁寧に礼拝して回っているのかと、我がスタンプラリーを恥ずかしく思ったほどである。

 あるいは途中で出逢った、やはりアラサーの歩き遍路青年。途中のお接待所で一緒になったのだが、お接待をしている人たちとは顔見知りのよう、8回目のお遍路だという。荷物が大きいので「野宿か」と聞くと、その通りだという。その都度頭を丸めて歩いているそうだ。何があったか知らないが、齢三十にして8度も歩き遍路をするというのは、余程の魅入られ方である。去年は50回以上経巡った人がもつ金色の札をもって歩いている、私と同年齢の方を見たが、そうした神仏への傾倒の仕方は、私がまだ出逢っていない世界である。

 あるいは、私の前にいて本堂に祈りを捧げている古希世代の女性は、般若心経を唱えるばかりか、真言をも口にし、さらに何やらお経をあげているようであった。それが終わるのを待って私は般若心経を唱えるのだが、本堂に続いてお大師堂でも同様にするばかりか、別棟の行動でも、あるいは小さな御堂でもそうしていた。なにをねがうのだろう。

 どこであったか、何を願っているのかと聞かれたことがあった。いや、何も願うことがなく、ただ、いまここにこうしていられる幸運を感謝しているだけですと私はわらって応えるしかなかったが、本当に私は不信心だなあとわが身を振り返って慨嘆したものであった。

 では、なにが私にとってのお遍路なのか。歩いているうちにわが胸の内に去来したのは、私は歩くのが、言わば特技というか、取り柄のようなもの、私にとっては歩くことが人生。その時々に行き着く札所はただ単なる目安。札所は空海さんが設えてくれた歩き遍路の目安のようなものという「達観」であった。

 こうも言えようかと、歩きながら考えた。札所は人生の中の、その時土器のデキゴト。イベントのようなもの。小学校の入学、卒業、中学校や高校、大学の入学や卒業、あるいは就職や結婚、子どもの誕生などなどといった諸種のデキゴトだ。それは、人生を歩んでいる目安にはなるが、その間をひたすら歩くことが人生である。むろんデキゴトを言祝ぎ、イベントを心地良くクリアする為に懸命に歩くことも必要ではあるが、メルクマールは、しかし、人生そのものではない。そう考えたら、札所の御朱印を貰いながらスタンプラリーをしているというので、いいではないか。空海さんやお寺さんには失礼だが、信仰心がないのは、この歳になって、いまさらどうしようもない。それよりは、ひたすら歩くことがどこまでできるか、それにわが身がどのように適応し、どう変化を受け、どこまでつづけることができるか。それを味わってみようではないかと考えるようになった。

 こうして19日間に歩いた総距離が、約570km、一日平均30km。最少が21km、最高は41km。当初の計画は25km平均とみていたが、Googlemapの示す距離より実際に歩く距離は、なぜか2割ほど多い。中には歩き遍路道の子細を調べずに行った為に、事前に予約が必要という「下田の渡し」を使って、四万十川の河口を渡ることができず、上流の「大橋」をぎるりと7km余も回り込んでいかねばならなかったというヘマも含まれている。

 それと同時に、歩くことに関して私は、かなり能力があるのだと自己確認することもできた。それについてはまた、折を見て記していこう。

2023年3月22日水曜日

「ふらっと遍路の旅」から帰還しました。

 ご無沙汰しました。やっと今日先程、「ふらった遍路の旅/♭(ふらっと)変ロの旅」から帰ってきました。当初想定していた通り3/2から3/20まで歩き、3/21の知人の法要に参列して戻ってきました。果たしてどこまで歩けるか、途中で飽きてしまうんじゃないかという心配をよそに、最初の想定通りに歩き通すことができました。

 歩数計のデータをみると、19日間の歩数は、77万8千歩、距離にして574km。一日平均にすると、約30km、いや実によく歩いている。去年の「ぶらり遍路の旅」は約26km/日だったことを考えると、出来過ぎなほどよく歩いている。これが驚きである。子細は後日、ゆっくり振り返りながら考えてみますが、前回のように「飽きもせず」歩きつづけた。どうしてだろうと思いつくことをあげると、以下のようなことが言えるかなと、思います。

(1)私には信仰心がないと、よくわかった。

(2)スタンプラリーでいいんだと達観した。

(3)歩くのは私の特技といっていいほどである。

(4)歩くのが私の人生だ。

 以上です。つまり歩くのが私の人生であり、札所は、いわば人生の画期に当たる所のイベントのようなこと。イベントに熱意を持つことはなかったが、ただそこを目標的ないやに入れてひたすら歩く。それが人生と達観したことによって、飽きもせず、ただただ歩き通していた。その結果、去年の「ぶらり遍路の旅」のように15日間で飽きてしまうようなこともなく、♭変ロに調子づいておおよそ東京から大阪までの距離を歩いてことになる。江戸の時代の旅のような歩き方をしたワケですね。

 取り急ぎ、帰還のご報告をし、明日以降、ぼちぼちと子細を申し上げたいと思います。

2023年3月1日水曜日

春めいて、ふらっと遍路の旅

 高気圧に覆われ雲一つない。午後からは風が出てきたが、春の気配が感じられる。左手掌のリハビリに相変わらず通っている。随分よくなった。曲げるのはまだまだ不自由が残るが、指先はスッキリと伸びている。知らない人が見掛けたら何でもないと思うだろう。ところが、手掌というのは伸ばして使うことがほとんどない。せいぜい相撲取りが掌紋をペタペタと色紙に貼り付けて差し上げるくらい。普通の人の暮らしには、むしろ折り曲げて摑む、抓む、握る、力を入れる。それが、でも手術前の8割くらいは戻ったかな。今日握力を測ったら28kgになっていた。手術をしない右手の握力は35gだったから、8割くらいの恢復か。でも普段握力を計ることはなかったから、右手も10kg以上落ちている。歳をとるとこんなに落ちるのだと、改めて驚いた。

 医師もお遍路に出ると聞かされて、そこまでの気力恢復を喜んだのか、言葉が軽くなった。痺れがあると訴えても、薬を寄越さないくらいよくなったとみているのだろう。月末に次の診察を入れるのさえ、無用と言いたそうな顔つきをしていた。リハビリも3月末。こちらも、自助で日にち薬を飲みなさいと言わんばかり。ま、それでいいんだけれど。

 去年の4月、お遍路の宿を確保するのが大変だったことを思い出して、取り敢えず一週間分ほどの行程を計画して、泊地を決めた。電話する前にネットで調べた所、「休業中」となっていたり「廃業」とあったりした。電話を掛けても「この電話は使われておりません」とあったり、電話は通じたが風呂が故障していてやってませんという返事だったした。コロナ禍の影響もあるのだろうが、民宿や旅館は四苦八苦だったようだ。ホテルは逆に、コロナ後の旅行ブームを当て込んでか、結構人がやってくるようで、値段もなかなかのものだ。ま、適当な距離に宿がない所は、致し方ない。また、少しコースから外れるが、寄り道して宿を確保するようにしたところもあった。

 高知県を出た所からは、鉄道駅のある街に宿を取ることもできようから、歩きながら、ペースを考えて、宿を決めていくようにしようと考えている。

 そう言えば、啓蟄も近い。わが身も虫と同じかもしれない。身の裡が蠢動し、もぞもぞと引き籠もりの穴蔵から這い出そうとしているのかな。歳をとってもヒトのクセって変わらないんだ。ま、今回は愛媛県の松山から今治の辺りまで行ければいいかなと思いつつ、でも、飽きず急がず、♭変ロ長調のように、明るいテンポで、ふらっと経巡ってみよう。

 このブログもしばらくはお休み。皆様もお元気で。ではでは、行って参ります。