ただただ歩くだけなのに、身の危険を感じることがあった。その一つは、車とトンネル。恐らく9割以上、国道か県道を歩いていたのだと思う。高知県も愛媛県も、大きな車道にはたいてい、歩道というほど広くなくても歩行者の歩けるスペースが設えられていた。道路の広さにもよるが山間部を抜ける車道では、左右のどちらかにある。道路建設の地形的な関係でそれが、左側から右側へ、あるいは逆に、と代わる。その代わる所には横断歩道が記されていて、歩行者が渡るような気遣いが為されている。
だが、山肌に沿ってカーブしながら走る山間道で車が止まってくれることを期待しても、ほぼ無理。ま、というほど車の通行量が多くはないから、それほど気にならなかった。むしろ私自身が考え事をしていたというか、歩くのに夢中で、「歩道」ということを意識しないで、気が付くと歩道ではない側溝の上を歩いていて、歩道が入れ替わっていることに気づかないことが、何回かあった。
それとは別に2回、身の危険を感じたことがある。1回は歩道のないトンネル。昔の狭いトンネルをそのまま使っているのだろう、側溝だけで歩道がない。上下二車線の向こうから来る車のシルエットはトンネル内の灯りに浮かんでみえる。ところが、トラックが来ると車線いっぱいに広がっている。私が身体をトンネルの壁に押しつけるようにしてやっと車を躱せるかなというほどしか余地がない。そこでトラック同士がすれ違うことになると絶体絶命だなと思うようであった。だがそこがお遍路。大きな笠を被っているこちらのシルエットもみえるのだろう、正面から来るトラックが止まる。後ろから轟轟と音を響かせて(たぶん)トラックが来ているのであろう、待っている。当然私も壁にへばり付いて待っている。トラックがすれ違い、正面のトラックは大きく対向車線にはみ出して私とすれ違う。そんなことがあった。
もう一回は、歩道というほどではないが、幅50センチくらいの側溝の水抜きと歩道とを兼ねた設えのトンネル。そのトンネルの中ほどの照明が切れている。行く前に私は懐中電灯をリュックに入れてはいたが、電池を抜いてある。トンネルの途中でリュックを降ろして電池を入れるのは面倒。だが、暗い所をどう通過するか。私は金剛杖は重くて持てないが、代わりに軽いストックを二本持ち歩いた。お接待のときにノルディックスタイルですねと揶揄われたが、いや80歳ともなるとバランスが悪くてねと遣り取りした。そのストックの片方を、トンネルの壁の一番下、20センチくらい高い擬歩道との接点に当て、別のストックを擬歩道と道路との段差に当てて、その間をゆっくりと進む。前から車でも来てくれれば足元がみえるのだが、そういうときに限って一台もやってこない。恐る恐るゆっくりと歩を進めた。この時くらい、ワタシが目に頼る暮らしにすっかり依存していると思ったことはない。昔灯りが今ほど豊かでなかった頃には、トンネルといえば暗いのが当たり前であった。そこをどう歩いたのだろう。そもそもトンネルに灯りがあって当たり前になったのは、ほんの21世紀になってからではないかと思うほどだ。それ以前は、暗闇でも感じ取れるほどに、耳や皮膚の感覚が鋭かったのではないか。明るい日常の中で、ヒトはどんどん感性を変えてきてしまったと、昔日の「ふるさと」を思うようにわが身の変容を思った。
お遍路がほぼ全部「歩き遍路」であった頃は、遍路に出る方も送り出す方も、永久の別れと思っていたそうだ。中には、姥捨てと言われては風が悪いから遍路へ送り出す、まさしく片道切符の片路道だったとしるされていたことも、どこかで読んだ覚えがある。行き倒れである。88番札所にはいまでもそうしたお遍路さんを供養する無名の墓があり、それを守り世話をしている方をTVが報じていたこともある。今治の五十何番目かの札所の遍路道を歩いているとき「四国遍路無縁墓地」と記された2メートルほどの高さの墓柱が立てられ、その脇に十いつくかの小さな石の地蔵が置かれ、まわりには花や木が植えられている、奥行き一間、幅四間ほどの土地があった。周りは住宅地。ご近所の方が世話をしているのだろう。
今回も私は宿を確保して経巡ったが、野宿のお遍路も少なからず目にした。たいていは大きなザックにテントや自炊の用具を入れているのであろう、ゆっくりと歩いている。最初に出逢ったのは30歳くらいの若い男だった。愛媛の45番札所へ向かっているときには「逆うち」と呼ばれる反時計回りに札所を経巡っている野宿のお遍路さんにであった。この方は私と同じくらいの年齢ではなかったか。実はその頃既に私は、歩くのが人生ただただ歩くのが遍路と思っていたから、何度もお遍路をする人の心持ちが少し判るように思っていた。つまり、繰り返し繰り返し、ひたすら歩く、それには札所という「導き」のある方が煩わしくない。お大師さんに惹かれて歩くってこういうことなんだと、私も思っていたから、「逆うち」のお遍路さんに出逢って、究極はこうなるんだと感じ入って、少し言葉を交わしたりもした。これは、行き倒れるまでお遍路を続けるということに外ならない。無縁墓地となるかどうかはわからないが、死ぬまで生きるという意味では、ついにお大師さんと出逢うまで歩き続ける人生そのもの。案外信仰の精髄なのかもしれない。
お遍路かどうかはわからないが、ベッドくらいの大きさの曳き手の着いた台車に荷物を載せ、歩いてくる人とすれ違ったことがある。40歳くらいの男性。別の日には同じように歩く還暦を過ぎの男性も見掛けた。そのうちのアラフォーの方とは立ち話をした。野宿をして(お遍路とは逆に)回っているという。脊椎のすべり症という持病で歩ける身体はもう限界。歩ける今のうちに歩いておこうと四国の輪郭をたどるように隅から隅へと回っているという。これも、今風お遍路じゃないか。私は「野ざらし紀行」を思い浮かべて聞いていた。
危険といえば、今治の宿がそうであった。今回遍路の旅のラス前の宿を今治ステーションホテルにとった。その名からして、今治駅のすぐ傍とみた。ここで帰りのJRの切符を買う。最終日は今治市内の一番東の端か西条市に宿を取り、ゆっくり骨休めをして翌々日の西宮での法要に出かけるという算段であった。ところがその日、35㌔を歩いて今治駅のすぐ傍に着いてみても、目的のホテルがない。Google-mapのスマホ案内は「目的地に着きました。案内を終了します」と言って沈黙してしまった。えっ、こりゃあ、どういうことだ?
近くで建物の内装工事をしていたお兄さんに訊ねる。彼は自分のスマホを取り出し仕事を中断して、「こちらですよ」と先に立って案内する。先程私が立っていたところへきて、「えっ、ないよ。ここ」と平地になっている所を指さす。小さく出ている看板をみると「改築工事中」とわかる。じゃあ、4日前に「予約した」ときの遣り取りは何なんだ?
スマホに記録していた電話へかけると、相手はちゃんと出る。状況を話すと、「改築中っていったはずです」という。鉄道で隣の西条市まできてくれ、そちらで宿泊の用意をしていると返事。冗談じゃない、こちらは歩き遍路だ、初めからそれがわかっていたら、予約はしないよと怒るが、向こうさんは「言ったはず」と譲らない。そんな口論をしていても拉致があかない。キャンセルして、宿を探そうと駅へ行く。ステーションホテルっていうのだから駅に責任があると感じていたのだろうか。今考えると可笑しい。観光案内所を紹介してくれる。
ところが今治市というのは、三番目の本四架橋「しまなみ海道」の四国側の起点。乗り捨てることができるというので、サイクリングで賑わう。コロナ禍の往来自粛が解禁となって、外国人がわんさと押しかけている。宿はどこも満杯と観光案内所は話して、駅近の第一ホテルを紹介してくれた。いやはやラッキーであった。素泊まりだが、泊まることができ、予定通りの運びに辿り着いた。もし宿がなかったらどうしたろう。駅の待合室で野宿でもしたろうか。それも変ロになって面白かったかもと思わないでもないが、齢傘寿にしてそういう冒険は、少し無理かなと思うようになっていたのでした。
おっと大事なことを忘れるところであった。今回のふらっと遍路の旅は高知の窪川から歩き始め、足摺岬を目指して太平洋の南東に面した四国の輪郭をたどったのだが、時も時、3月の上旬、(2011年の)3・11の直前であり、かつ、南海トラフ地震がいつ起こっても不思議ではないと報じられていたこともあって、最も高い津波が襲ってくると想定されている黒潮町などの通過地点はピリピリと緊張した雰囲気にあった。歩いている道には「ここは標高*m」と記す看板が立てられている。宿の79歳の亭主も、「35mもの津波って、いったいどこに逃げればいいのかわからないよ」と溜息をつく。避難場所とされている(車でも上がれる)すぐ裏の山の標高は20mくらい。35mの津波となると、その北側にあるもう一つの山、と指さして、そこでなくては避けられないが、車道はないと愚痴る。宿のTV番組は、シミュレーション画像を取り入れた「もしもドラマ」をみせて警告しているが、海辺にまで迫り出している山の「避難路」は、果たして20分くらいで辿り着けるだろうか。そのピリピリは、四国の南へ向いた海辺の輪郭を離れて山道へ入るまで続いた。
山を越え、宿毛を過ぎてまた、豊後水道に面した愛媛県へでてやっと、35mの「脅威」から解放され、20m程度の緊張へとほぐれていった。なにがワタシにピリピリした緊張をもたらしたのか。シミュレーションの予測する津波の高度が想像力を経由して身に響いたのであろうか。道路沿いに立てられた標高や避難路という警告表示看板の数がワタシの身に伝わっていたのだろうか。瀬戸内海に面した松山市に入った頃にはすっかり南海トラフのことは忘れていたのは、地震による津波が瀬戸内に回ってくるには時間がかかり、高さも10m程度になるというのが安心に変わったのか。それとも瀬戸内という子どもの頃から馴染んだ地理的感触が「危険」とか「逃げ道」というのを摑んでいるからなのか。ワケはわからなかったが、身体から遠ざかっていったのは間違いない。「想定以上の津波」と考えて行動せよとTVは警告していたが、身体そのものが感知しているものを、理知的に頭で動かそうというのは、「訓練」しかないのかもしれない。
いつも「もしも」をかかえて暮らすというのは、ストレスがかかる。海辺に暮らす人たちは古来からどうしてきたのだろう。ひょっとすると「仏教的な諦念」が心落ち着かせ、万一の時は「仕方がない」と肚を決めることによって日常を営んでいたのかなあと思いながら歩いたのであった。