お遍路をしながらいつも頭を離れなかったのは、3/26の36会seminarをどう運ぶかということであった。BBC東京特派員氏の「日本人の不思議」に関するコメント、それに対する傘寿老人の共感と二人の感情的反発とを、同じ舞台に乗せて遣り取りするには何が必要か。傘寿老人の経てきた時代と人生を重ねながら思案してきた。そのseminarの「次第」をつくりながら湧いてきた感懐は、次のようなものであった。
***
今回から、素材を皆さんで共有して読み、そこから、私たちの共通する「お題」を拾って語り合おうというやり方を採用しています。二ヶ月に一度顔を合わせて言葉を交わすと言うだけでなく、その間にも素材を巡って言葉が取り交わされます。つまりseminarを日常化しようというわけです。行き交う言葉は、私たち自身のたどってきた航跡を振り返り、オオガ君の表現を借りれば「うちらぁとわいらぁの時代と人生」がなんであったかを探ることにほかなりません。年寄りの特権は、そのように経てきた時代と人生を総覧するようにして言葉にすることです。
もちろんこれまでのように、どなたかが「お題」を提供してお話し下さり、それを共有しながら言葉を交わすのもアリですから、どうぞ遠慮なく講師を引き受け、「お題」を提示して身を乗り出して下さることを歓迎します。ただ結局、語り合うのは「うちらぁとわいらぁの時代と人生」なんだと思います。
今回は、BBC東京特派員ヘイズさんの離任に際して「日本人の不思議」を綴った文章です。別添の(資料1)をご覧下さい。それに対して【返信1】から【返信6】までの応答がありました。その都度、事務局のFがコメントを加えて皆さんにお送りしてきましたから、既に目を通されていることと思います。その中にはトキくんの「この馬鹿特派員はなにもわかっちゃいねぇ」という反発やマンちゃんの「イギリス人よ! よく覚えておけ!! 日本は劇的に変われるんだよ」という居直りもありましたが、keiさんやオオガ君から返信のように、くっきりとご自身の経てきた時代や人生と重ねて、この文章を読み取って考えてみようという共感的コメントもあります。
これをどう、今回のseminarで取り上げるか。私は、相矛盾する(ようにみえる)二つの視座を据えたいと考えています。
一つは、世の中をどう変えていくかという視点です。既に私たち傘寿世代の時代は終わりを迎えています。だからいまさら私たちが、ああしたらいいとかこうしたらどうかなどと云々しても、それは叶わぬことです。にもかかわらず世の中をどう変えていくかと話をするのは、ああ、このように世の中を見て生きていった世代がいたんだと(もし後にこれを読み取る人たちがいたとしたら)言い残しておくためとも言えます。
でも、私たちは所詮、単なる庶民大衆の一人。そんな非力な庶民の一人が何かを言ったとしても、世の中を変えるような力にはなりません。そうなんです。これが二つ目の視座です。非力な庶民が世の中を変えて行くにはどうしたらいいかを、80年の人生と時代を振り返って言葉にすることです。まさしくこの世の当事者として、この世をどうしていったらいいかを話し合う。民主社会日本の文字通り主権者が「当事者研究」をしていく。
上記二つの視座をもって「当事者研究」するということは、じつは、自分たちがなしえなかったことを振り返って反省することでもあります。
では無能な政治家たちを選んだことを反省するのか?
日本のエリートと言われた官僚機構が、いまや目も当てられないほど劣化していることを、主権者国民の所為にして総懺悔でもせよというのか?
人類史上はじめて大衆的な一億総中流という時代を経て高度消費社会を成し遂げたことが、「茹でガエル」と呼ばれる軟弱な国民を創ってしまったことを、どういう言葉で「反省」するのか?
先進国が資本家社会的な交換システムでグローバル化という名の単一化を推進したことがもたらした世界的な経済関係の変化に、日本社会の文化的・構造的な改革が追いつかず、先進国間でも少し置いてきぼりを食らうことになってしまいました。でも、1980年代の資産を食い潰しつつも、その後30年の間なんとかそれなりにやってきました。
他方で、アメリカの一極支配は崩れ、ヒラリー・クリントンに代表されるアメリカ民主党系の戦後理念はタテマエに化し、トランプ的な自己ホンネ中心主義が世界の気風を覆うようになりました。アメリカの主権者大衆の半数近くも鬱憤を晴らすかのようにトランプに加担しています。アメリカ支配に対する後発新興勢力は権威的・強権的な統治システムのデジタル的操作と囲い込みとによって、覇権を拡げていくことへと乗り出しています。WWⅡの人類史的反省として展開されていた戦後秩序もすっかり寂れ、世界秩序の再編がどの方向へ向かうのかさえ混沌として見通せない時代を迎えています。単なる資源国になってしまったロシアが、冷戦時代の「大国の夢よ再び」と古い物語を持ち出して力勝負に乗り出していますが、これも私たち日本の傘寿世代の庶民にとっては世界の変わり目に立ち会っていると自覚することはできても、それに代わる未来図を描く立場はどこを探してもありません。
いえいえ、たぶんそういう次元で話を考えていくと、結局、巧く行かなかったことを誰かの所為にして、其奴を非難することに終わってしまいます。それではとうてい主権者とは言えません。
この世の中の当事者としての私たち庶民は、日常の立ち居振る舞いの中で良きものを残し、善きことへ向かうように日々の一挙手一投足を、誰にということではなく、身近な人たちとの関係に取り込んでいくことしかできません。ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすという気象学者の指摘のように、世界のあらゆることは関わり合って影響を及ぼし合っています。そのように私たちの立ち居振る舞いも一挙手一投足も、一つひとつが社会の気風に作用を及ぼしていると考えれば、わが身の日々のそれらを意識的に繰り出して、社会の気風を創り、保ち、伝え、受け継いでいく。そう考えていくことが、まさしく世の中を変えていく振る舞いだと言えると思います。
(もし後にこれを読み取る人たちがいたとしたら)と先述しましたが、そういう人が居ようといるまいと、世の中を変える志を抱いた傘寿の人たちが「当事者研究」をしていることが、即ち、世の中を変える第一歩だと強く思います。
「失われた*十年」という決め台詞は、時代を誰かがそうしてしまったと指弾する責任追及の言葉です。それはそれで、そうしたことに言及する立場の方々にお任せしておきましょう。私たちは、そんな台詞は傍らに置いて、一羽の蝶の羽ばたきをする当事者として、どう羽ばたくか、なぜいまそうするのか、それがどのような世の中の気風を創ることに作用するのか、そうした一つひとつを考えていきたいと願っています。
「うちらぁとわいらぁの時代と人生」を、BBC東京特派員氏とそれにまつわる【返信】を参照しながら、語り出してみようではありませんか。
0 件のコメント:
コメントを投稿