今朝ボンヤリとTVを観ていたら、「Dear日本選 十勝の大地で生き直す」という去年放映した番組の再放送があった。少年院やらを出た青年たちに住まいを提供し、畑仕事をし、冬場、出稼ぎをしてそれなりに稼ぎながら、彼らの人生の再生を試みているNPO法人の活動を紹介している。寄宿する青年たちの顔はぼかしてあるが、それ以外のその事業に携わる人たちは素顔を晒している。その主宰者の人たちが、なぜこの事業に取り組み始めたのかも紹介する所で、かつて暴走族の頭をしていたことなどを写真付きで披露しつつ、しかし、人生ってやり直しが利くことを身を以て示しながら、青年たちの活きていく機会を保ちつづけようとする。
同じように受け容れられていた年下の青年に、今回のメインに据えられた青年・Rが「おまえ、うざい」と腹を立てる場面があった。悪罵を投げかけられた青年は、何にRが腹を立てているかわからない。「えっ、おれ、なにか(悪いことを)しましたか?」と問う。Rはますます怒り狂って、でも手を出すことなく、自分の部屋へ引き上げる。
それを台所仕事をしながら聞いていた主宰者側の(これまたかつて暴走族の一員であったという)女性が、場を変えて、Rに腹立ちのワケを聞く。彼は、シングルマザーに育てられた過去を明かし、そんな育ちの違い(の苦労)を知らない年下の青年の言葉や振る舞いに無性に腹が立ったと自分を見つめ直す。東京に残している妻や子どもに仕送りをしていること、それを知った十勝の協力者女性が我が幼子をRに抱かせる。こわごわと抱いて涙を流すR。番組は「来年、妻と子を十勝に呼んで一緒に暮らすことにした」と、希望を仄めかして締めくくっていたが、そうだ、これこそが、昨日のこの欄で取り上げた、「当事者研究」だとおもった。
統治的な大きな物語(ストーリー)のセンスでは、この話はただの断片にしか過ぎない。しかも、十勝の農業は商品交換の市場に乗る代物とは思えない。つまり資本家社会の市場経済過程からははみ出している。でもそこでの作業が、人の営みを見事に体現しており、そこでの人と人との関係が、生きる源を指し示している。個々個別の断片(ナラティヴ)としては、ここにこそ人が生きる諸相が表象されていて胸を打つ。
つまり、このナラティヴの舞台に於いて焦点となることが、資本家社会の交換システムの中では、ほぼ無価値のものとして無視されている。そういうことに私たちは気づかないで、市場経済の恩恵を(資本家社会的交換システムばかりに限定して)享受していると思い込んで暮らしている。ここをコペルニクス的に大転換しないと、いつまで経っても私たちは、この社会の主役(つまり主権者)として登場することはできないであろう。
もちろん金になる仕事と金にならない仕事とがあることは、世の中を見ていれば十分すぎるほどよくわかる。だが、金になる仕事がなくてはならないけれども、それがこの社会に暮らす私たち庶民大衆のメインになっていては、いつまでも私たちは労働力として(資本に)使われ、主権者としての立場を手に入れることはできない。
そこを弁えて、たとえ断片の欠片といえども、私たちに日々の暮らしをナラティヴとして語り出し、そこから世の中を見つめる言葉を繰り出せるようにしていくしかない。もはや世の中の何かに資する力を持つどころか、世の中にあれこれ手を貸して貰わなければならない様な立場にいる齢傘寿の老人であるけれども、このスタンスを組み込んで生きることが、せめてもの、我が傘寿人生の償いであり、世の中への感謝の徴だと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿