昨日(2023/03/26)、seminarを行った。コロナは4年目、駅ですれ違う人の2割はマスクをしていない。電車の中は1割くらいか。気にならない。昨年、一覧にした「定点観測」は、毎年3月下旬のCOVID-19に対する(私の)受け止め方をみている。
今年は発表される「感染数」も、果たしてしっかりした数値なのかどうか疑わしい。どっちが先なのかわからない。政府や行政組織への信頼が揺らいでいるから疑わしいのか、抑々発表される「感染数」の扱いが怪しいから行政への信頼が揺らいできたのかわからないが、今やどちらにも信をおけない気分だけは間違いなく私の中に定着している。TVの数字も、従って、増えようと減ろうとどっちでも気にならない。
ウイスルはみえない。インフルエンザと同じと思えば、感染によって重篤になる人が居ても、自分が当事者になるまでは、気にならない。高齢者とか血圧とか気管支に持病をもつ人はといわれると、何だ私は該当者じゃないかと思うが、それすらもインフルエンザ同様というレトリックが、気分を和らげてくれる。気にしなければ当事者になるまで気にならない。自助というのは、結局個人責任。自分が当事者にならなければ、そのこと自体も知らないで済む。
これでは、seminarで取り上げた「日本人の不思議」も「池田暮らしの七ヶ条」も、他人事になる。遣り取りしている時に、Tさんが「私の住んでいる団地では理事会も自治会も機能していて、世代交代は進んでいるが、加入しないなどというトラブルはない」と言ったのに続いて、「(池田暮らしの七ヶ条」が取り上げる移住してくる都会者が)町内会に加入しないというのは、一部を誇大に取り上げていて公平じゃない」と同意する意見が続き、「情報メディアって、特異なケースを取り上げるのが常だから、そんなことは取り上げるに値しない」という趣旨の発言へと繋がった。
司会進行を担当していた私は、えっ、どうしてここで「公平ってことがモンダイになるの?」と思ったが、「日本人の不思議」も「移住者と田舎との齟齬」も、これではモンダイにすらならない。ああ、これが、傘寿seminarの遣り取りなのか。みえないものは存在しないっていうのは、COVID-19のことばかりじゃないんだと、心裡ではすっかりしょぼくれてしまった。
冒頭で「seminarの心意気」を発表して、傘寿世代の存在意味を共有しようとした。傘寿世代の私達が世の中に発現することを、年寄りの繰り言だとか、老害だとかと批判する方がいるから、年寄りにしかできない「当事者研究」を提起して、seminarの意味を浮き彫りにしようしたつもりであった。だが、どうもそういう次元の話ではなかった様だ。
テーマの設定がまずかったのだろうか。あるいは、運び方が悪かったのだろうか。問題をともに考えるというときに、文章をメールで送り、読んだものとして話を進めようとしてきたが、実は目を通してもいないのかも知れない。seminarの場で一緒に読み合わせをして、逐一受け止め方を確認してすすめるようにしなくてはならないのだろうか。
みえないものをみていこうというのが「研究」ではないのか。どうしたらいいかという以前に、目前の問題を先ずみえる様に浮き彫りにして、それが私たちの問題であるという当事者性を確認することが必要なのではないか。それほどに、私たちは、かけ離れている。卒業後62年も別々の道を歩み、やっと十年ほど前からseminarを始めただけではないか。しかも古稀を過ぎてからの私たちが、別々の道を歩んでいることなど、考えなくともわかることじゃないか。それを、何をお前は勘違いして、傘寿という年齢だけで共通の言葉が語り合えるって思い込んだんだよ。
仕切り直し。自助ですすめるしかないことだけは間違いない。
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「感染経路不明の発症者が半数を超えた」(2020/3/25)
「ワシら知らんもんねえの底力」(2021/3/25)
「家畜化するヒト」(2020-3-23)
「定点観測の自問自答」(2022-03-26)
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