2021年4月12日月曜日

ミャンマーに対する日本の責任

 マル激トーク・オン・ディマンドの2021/4/10号で、表題の件が論じられている。ミャンマー国軍の暴力的支配を、日本政府はやめさせる責任があるという。


「(日本は)ODAの供与国として世界最大であるばかりか、ミャンマーの民主化の進捗をしっかりと監視することを条件に、2000億円もの債務帳消しにも応じてきた」


 しかもそれは、日本国民の税金を投入しているのだから、国民に対しても説明責任を負っているぞと、NPO「メコンウオッチ」の元代表理事で東南アジア地域の開発問題に詳しい松本悟・法政大学教授を招いて、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司とが議論している。

 そうか、そういうことをほとんど気にも留めないで、ミャンマーの国軍クーデターを「武家政権」と(まるで対岸の火事のように)評していたのは申し訳なかったと、振り返ってお詫びしなくてはならない。主張の論旨が間違っているというのではない。他人事のように見ていた自分を恥じて、お詫びしている。

 じつは少し前に、高橋昭雄『ミャンマーの国と民――日緬比較村落社会論の試み』(明石書店、2012年)を読んで考えるところがあった。ミャンマー研究者の高橋昭雄が1986年ころから30年以上にわたってミャンマー現地に研究調査に入り、村落に住み着き、ミャンマーの人々の結びつきと村落の共同性の在り様を考察して、彼の育った日本の村落のそれと比較しながら「共同体と人々のつながり」を論じている面白い本だ。「調査」が、社会主義時代から国軍の軍政時代、そしてとりあえず民主化へ舵を切り始めたころに亘るから、彼の実体験が、まるでドキュメンタリーのリポートのように伝わってくる。そうして、ミャンマーの人々の「村落」との結びつきが日本のそれと極めて異なり、それゆえに、軍政という強権的な締め付けにさほど影響されず、自在な心持ちを以って暮らしているという。

 それは、逆にいうと(この本の中では触れていないが)、村落ではなく(その村落の心性を残して受け継いできた)町場では軍政の締め付けに強く反発する思いが募り、十年余のとりあえず民主化に踏み出したことが、ますますその思いを定着させて来たことを、容易に想定させる。国軍が議席の三分の一を保障されている現行憲法そのものを、民主派と呼ばれる抵抗者の民を代表する「議員たち」が廃棄しようとしているのも、理の当然だと納得できる。

 まるで、明治維新後の四民平等(の理念)に元気づけられた民が、すでにそれまで経済的にも社会的にも力を得ていたことに根拠を得て、発言し始めたようである。それと逆に、維新後の欧風万民平等思想によって、特権的身分を失い生活の基盤をあらためて作り出さなければならなかった武士たちが、うろたえた果てに西南戦争や「不平士族の反乱」に突入していったのと同じ道を、いまの国軍がとっていると思わせるものであった。もっとも(それを制圧する)「官軍」がいませんがね。

 高橋昭雄が「共同体の失敗」という表現で提起している、村落への帰属性の希薄さと逆に個々の民の自由や独立性の高さに相互に関係しながら、しかし、そこにコミュニティ・フォレストリーが入ってきたり、NGOのマイクロ・ファイナンスが行われるようになって、(利得関係を明快にした自主管理的結びつきが生まれ)「共同体の失敗」と言われてきた(日本の場合のような)人格的拘束や倫理的束縛を抜きにして、村落の民の関係が安定的に構築されてくると、(日本の場合と比較してみると)いわば、固定電話のインフラもなかった地域に携帯電話が一挙に広がり、後進的通信状況がひと段階先行するようになっているような、そんな印象を持つ。

 高橋昭雄のリポートが面白いのは、つねに日本の場合と比較することによって、どちらがより進んでいるか遅れているかという価値軸が消えてなくなり、それぞれがもっている特長をみてとることが出来るということだ。しかも「共同性」に関する視線が細やかに分節化して深まりを持っていることに気付かされる。こんな双方向的な批評性を持った問題提起を明示的に記したドキュメンタリーを目にしたことがあったろうか。そんな気がして、わが身を振り返るような心持で、ミャンマーの事態を見つめていた。

  そんなところへ、「ミャンマーに対する日本の責任」が問われた。つまり、日本の民の税金を使って(結果的に)国軍を増長させてきた日本の責任とは、他の自由主義的な国々が民主派への共感と同情を寄せるというのとは違った、具体的な「応答責任/リスポンス」が求められているのだと言える。日本政府が、国軍に遠慮して遠まわしに言及したり、民主化への過程を検証することを求めなかったりするのは、「応答責任」を放棄したものだ。それは、日本国民に対する「裏切り」であり、為政者が日本という国を私物化していることを示している。これはミャンマーのモンダイではなく、まさしく、日本のモンダイである。

 黙っていていいのか。

 おおっ、お前さんは、では何をしているのか?

 う~ん、いや、そうは言っても私などが・・・とは思うが、せめて非力な私ができる小さなこと、こうやってわが身を振り返って発言するくらいのことしかできないが・・・、ごにょごにょ。

 ごめん、ミャンマーの人たち。ごめんよ。

 同様に、ごめん、「わたし」よ。この程度にしかわが身のことをつかんでいないってことを。ごめん。

2021年4月11日日曜日

無意識の「自動増幅・再生」と陰謀論の世界

  昨日の話につづける。「トランプ危機」と命名された今年1月初めの、トランプ支持者たちによる議会襲撃事件が、集団的無意識のSNSを通じた増幅機能によって「自動再生」されたものだと昨日とりあげた。Qanonなどの「陰謀論」が信じられ広まる背景には、絶対神信仰が根づいている素地も強く影響しているといえるが、同時に、(絶対神信仰を持たない地域においても)善悪二元論的なものの考え方が世の中のすべてに行きわたる様相が作用していると思える。

 善悪二元論は、さまざまな事象を(立ち位置をベースにして)二つに分かち、その原因を探ろうとする志向性を持つ。つまり、二元のどちらに付くかを、まず明確にして「因」を探るから、腑に落ちる方向への傾きに導かれるのは、論理的に考えても至極当然のこと。「腑に落ちる」というのは、説明が最もわかりやすいこと。つまり単純明快であることだ。陰謀論は、もっとも単純明確にそれを指摘し、しかもそのトリック(陰謀)のネタは隠されている(だからこそ陰謀なのだが)。ネタが隠されていることが「根拠」であるから、「陰謀論」の想像は、いかようにも広がり深まる。昨日も記したことだが、SNSの広告ビジネスモデルに引きずられて、過激に増幅され再生される。広告ビジネスとしては、ますます儲かるから、そのSNSの設計思想は歓迎され、さらに促進される。

 じつは、中国の専制的統治センスも、絶対神信仰と同根である。共産党が民意を最もよく理解し、体現しているという前衛神話は、まさしく共産党が「神」であり、民はイデオロギーに惑わされて真理を手に入れることが出来ず、「神」によって導かれることを通じて、平安を手にすることが出来る。キリスト教は、やっと近代になって聖俗・政教分離を理念に取り込むことになったが、土台の、つまり身に沁みついた心の習慣としてのセンスは、変わらず絶対神信仰に浸ってきた。分離された「俗・政」の方は、単純化して言えば、「奴は敵だ、敵を殺せ」という二元論として、じつは、善悪二元論を増幅させるように純化してきたとさえ、言える。共産主義思想の「前衛理論」は、ヨーロッパ近代の生み出した民主思想の双生児である。だから、最も民主的な憲法下でナチスも誕生したし、資本主義思想も、倫理的なベースを忘れて、利益最大化の効率を求めて、ここまで暴走してきたのであった。トランプは、そのひとつの現象形態である。

 その、SNSの作用で気になるトピックを耳にした。「町山智弘のアメリカの今を知るTV」で、AIがその人の用いる言葉を解析して「信用調査」の判断をする機能を持つようになった。さらにAIは、人の顔の表情をみて、その人の感情を読み解く機能ももつに至ったというのである。前者の「信用調査」は、その人の書いた文章を読んで認知症状などを診断して、社会的な取引の「信用」の可否を保障するらしいのだが、そうなると、「わたし」の意識に関係なく突然預金が引き出せなくなったり、送金や受取りが拒否されたりするかもしれない。まして、後者のように表情を読み取って、社会的な秩序維持に用いられるようになると(中国社会を想いうかべているのだが)、たとえば「愛国者じゃない」と判断されて、たちまち「予防拘禁」されたり「逮捕」されたりするようになるんじゃないかしら。

 というのが、単なる過剰な想像というのではないと思われるほど、SNSによる「無意識の自動増幅・再生」は真に迫って、わが身に迫っていると感じられる。参ったなあ。

 町山智弘の番組では、ネットのその作用に関しては、ネット経営者も策を講じる手立てがなく、後は法的な規制を強固にやるだけなのだそうだ。もちろんまだ、その「法的規制」がどのようなものである必要があるかもわかっていない。でも、そうなると、中国のように国家機関が専制的にそれらを駆使して社会を設計して行こうとすると(いや、実はすでにそうしているのだが)、まさしく世界は陰謀論に満ち溢れる「神々」の横行する世界となる。アメリカのような「自由人権社会」が敵う相手ではない。

  もうとても、参ったなあと慨嘆しているだけじゃすまないなあ。どうしよう。

2021年4月10日土曜日

集団的無意識が「自動再生」されている

 東洋経済omlineで野村 明弘(解説部コラムニスト)がとりあげている問題が目を惹いた。4/7に「SNSがトランプ危機を引き起こしたカラクリ」、4/9「レッシグ教授が考える「AIと中国」本当の脅威」」の前後編2編。いずれも、ローレンス・レッシグ(アメリカ・ハーバード大学ロースクール教授)へのインタビュー。

 前編は、SNSの広告ビジネスモデルが、1月初めの議会襲撃事件(「トランプ危機」)を引き起こした「諸悪の根源」という指摘。後編は、その延長上に生じているAIを用いたこれからの世界がぶつかる問題を考えている。

 SNSの広告ビジネスモデルが諸悪の根源とは、どういうことか。グーグルとかファイスブックとかツウィッターという、人々が自由に投稿し、お喋りをしているSNSのプラットフォームの、収入源となる広告は、「投稿されるお喋り」が向けた関心や話題を収集し解析し、より多く人々の関心を引くための話題を提供できるように、アルゴリズムが構成されている。ここでいうアルゴリズムとは、いわば、広告収益を最大値化するように設計された「文法」のようなものだ。人々の関心が何に傾いているかを拾って、その人たちが「検索」する「言葉」に見合った「サイト」が上位にランクされる。

 ローレンス・レッシグの指摘はこうだ。ネット検索をする人たちの好みをAIが読み取り、そればかりを「検索上位」においてみせるようになるから、ますますその人たちの傾きは過激化し、「それ以外の情報」は、目に留まらなくなる。グーグルやフェイスブック、ツウィッターの経営者が意図したことではなく、ただ単に人々の関心にこたえる「検索結果」を優先する設計思想が、広告のビジネスモデルに組みこまれて、人々の情報を、あたかも操作しているかのような結果をもたらす。

 そうしたSNSがトランプの演説によって人々の関心が「選挙の不正」「Qアノン」「陰謀論」「議会へ行こう」という「話題」に集中し、するとそれを批判する「話題」はずうっと後景に追いやられ、むしろますます過激に煽る「話題」がどんどん広まり、人々の関心も過激に傾いていく。その結果が、「トランプ危機」を招いたと解説する。集団的無意識がAIの処理によって「自動増殖再生」されて、大事になっていく。「情報化社会」がそういうものだと私は考えてはいなかったなあ。

 アメリカ議会でも、SNSの経営責任者を呼んで公聴会を催し、そこで、「言論の自由」と上記のような社会的扇動につながる「責任関係」をふくめてやりとりがなされたと、これは「NHK特集」が報道していた。もちろんトランプと議会に殴り込んだ人たちの「行為責任」はあるものの、彼らの「行為」の根幹にある「情報の傾きの社会的増殖再生」をこそモンダイにしないと、ただ単にナチスが民主制の頂点で誕生したとか、嘘も百回繰り返せば本当になるという俚諺の次元にとどまって、人間の本性に踏み込まないままとなる。ここでいう「人間の本性」とは無意識のことだ。

「トランプ危機」を「我が闘争」の再来のように見立てて私もとりあげてきたが、さすがアメリカ議会。もう一歩踏み込んで事態を考察し、社会的事象として解明しようとしている。それは、ネット社会の最先端を築いて、グローバルに主導してきたアメリカ社会が抱える、やはり最先端の事象だと認識しているからであろう。台湾の「オープン・ガバメント」も、こうしたモンダイを勘案して進める櫃譽ぐああるのだろうか。

「トランプ危機」を、そこに参加した人たちの個人責任として考えてしまうと、彼らの「情報リテラシー」の能力問題に還元されてしまう。つまり、倫理的道徳的にふさわしいリテラシーを身につけようというお題目になって、とどのつまり雲散霧消してしまう。この東洋経済onlineの記事は、それをネット時代の情報システムとその設計思想と表現の自由と法的規制という社会問題として将来的な解決策を探る方向へ道を開いているところが、新鮮、かつ意味多い所だ。

 もちろん市井の私としては、わが身の「無意識」に傾く無茶ぶりと外的に影響を受けやすい点に心しなくてはならないと思っている。それには、自らの好みをふくめた「選択の傾き」の根拠が何であるか、それが及ぼす社会的な影響はどうなのか。わが言葉だけでなく、立ち居振る舞いを対象化し、つねづね「かんけい」に気を向けて、その意味するところを意識すること。つまり、言葉にして対象化することをつづけることかなあ。ただひとつ救いとなるのは、ネットのアルゴリズムに影響されるほどネット検索をして情報収集をしているわけではないこと。ただ、山の情報や旅に宿の検索などをすると、その後なぜか、そうした宿や山やキャンプに関する「広告」がネット画面にあふれ出してくる。ま、無料で使っているんだから、こんなものさと思ってきてはいた。だが、そうか、そうやってだんだん私の脳も、アウトドア脳になって行き、旅モードに傾いているのかもしれない。個人的には用心するしかない。とすると、これも、新型コロナウィルスと同じで、自己防衛して、せいぜい社会的に迷惑を掛けない程度に振る舞いなさいということか。

 いや、東洋経済の記事に触発されて書こうと思っていたことと、ズレてしまった。また機会を改めて、考えなおしてみようか。

2021年4月9日金曜日

夢枕に立つ

 今朝方見た夢のなかに、末弟と長兄が現れた。いずれも7年前に亡くなっている。その末弟の命日が今日だ、と気付いたのは目が覚めてから。おいおい、忘れるなよと呼びかけているようであった。

 見た夢はたわいもないもの。末弟の出版社に知り合いの女の子を紹介するために私は、出版事務所にいる(はず)。知り合いの女の子というのが誰なのかしかとはわからないが、その「人の感触」はよくわかっている。女の子がやって来るが、出版社の人が誰もいない。彼女は、事務所のナニカが中途半端なのに気づいて、一つひとつ片付けている。そのナニカがなんであるか(私には)わからないが、いま思うと、ガス台の火がついたままであるとか、パソコンがonになったままだとか、始末がきちんとしていないというようなコトだとは(私にも)分かっている。

 と、事務所の女性が入ってきて「あんた誰や、何しとんの」と(なぜか大阪弁で)声を上げる。女の子はなぜ起こられるか、どう応えていいかわからない気配で佇んでいる。と、なぜかそこに居合わせた長兄が「まあまあ、大事なことをしているんだから、叱らないでやってください」と、とりなしている。末弟は、川遊びの師匠の写真を背景において書棚のところで黙って笑っている。あ、これはこの出版社のホームページに載せた写真だ(と同時に)、これって遺影にしたんじゃなかったかと思っていて、夢だと気づいたという次第。

 何ともヘンな夢だ。が、出来事の場面の「始末が中途半端」という(ユメの)由来とか、長兄のとりなし様の人柄とか、末弟の登場するホームページ兼遺影写真とかは、リアリティそのものであった。ああ、夢枕に立ったんだと思って時計を見ると、朝の4時59分。あと1分で(山に行くときには)目覚ましが鳴る時刻。そして、今日が命日ですよと、気持ちのどこかにぽかりと思いが浮かびあがってきた。

 そう言えば、いつのことだったか忘れてしまったが、そんなにまえのことではない。同じ年に亡くなった末弟と老母と長兄とが3人出会って、談笑している姿を夢に見たこともある。そうか、彼岸で再開してそうしていてほしいという単純な私の願望が夢になったものかと(そのときは)思って、すぐに忘れていた。夢を解きほぐして「解釈」しても仕方がない。ただ、「私の願望」とはいうが、そういうかたちで鬼籍に入ってからもわが身に潜んでいて、ときどき(夢枕に)顔を出して想いを交わしている。そんなふうに生きつづけているのだと、別に慰みにしているわけではなく、ヒトの文化の継承の妙を対象化してみている自分を感じている。

 もう7年も経つのだ。成仏しているかどうかは別として、ときどきこうやって立ち現れてくださいよ、と思う。私の書斎の祭壇にお線香をあげよう。

2021年4月8日木曜日

変化に富んだお花盛りのコース――秩父御岳山

 空は晴れ、気温も高くない。秩父三峰口はさわやかな空気に包まれ、ツバメが舞う。平地の浦和では終わっているシダレザクラが、今満開の気配を湛えて咲き誇る。今日歩くコースが朝日に輝いている。

 秩父御岳山1081m。参照した学習研究社発行のガイドブックでは「木曾御嶽山の弟分」と記されている。三峰口駅から歩き始める。9時10分。 140号線を少し秩父市方面へ戻り贄川宿への分岐をすすむとすぐに登山口に出会う。「かかしの里」と銘打っているせいか、あちらにもこちらにもかかしが立つ。なかの、リュックを背負った後ろ姿などは、まるで人がいるみたい。人が出ていくたびにひとつずつかかしをつくって畑や道筋においたみたい。

 登る道筋の両側に墓への分岐がいくつもある。「齢を取るとお墓参りが大変」と、今日同行してくれるysdさん。《「即道の墓」奇形の墓石》と記した卒塔婆様の立て札が添えられた墓石群がある。古い形の墓だが、河原から拾って来た甌穴のある大きな石をそのまま置いてあるのもある。なんだろう。

 白いサクラが今まさに満開の花をつけている。オオシマザクラ? ヤマザクラ? ま、いいや、名前は。おや、色鮮やかなミツバツツジが朝日を浴び、その向こうに三峰口駅を西端においた白久の集落が熊倉山などを背景に、荒川に沿って東へ広がる。

 ルートが二つに分かれている。「どちら?」とysdさん。「どちらでも」と私。ysdさんは急な上りのルートをとった。たぶん、もう一つのルートは、巻道。途中で折り返して合流するにちがいない。だが、パッと急峻な方を採ったのを私は、好ましく思っている。だがルートに落ち葉が降り積もって滑る。歩きにくい。歩き始めて35分ほどで「二番高岩」と木に吊るしてある表示。(たかや)とふりかなをつけている。地元の古名か。頭上のサクラが嬉しそうだ。

 杉林に入る。枝打ちもされず、葉が生い茂る。道は平坦となり、この山が地元林業者の杉山だと思う。樹齢は5,60年経っているだろうか。ysdさんがマムシグサを見つけた(と思った)。マムシグサの仲間のミミガタテンナンショウというのだそうだ。なるほど、花にかぶさるような覆いの曲がったところがくいっと盛り上がって耳のように見える。何株も集まっているのは、あまり見ない。

 スミレが枯れ落ちたスギの葉の間から白い花を咲かせている。フモトスミレというらしい(と後で聞いた)。ysdさんはこのルートにカタクリとエイザンスミレが咲いているはずとどこかで調べてきていた。「エイザンスミレを教わってきなさい」と私の師匠からも言われていた。ysdさんは、まず、葉を見つけた。なるほど、キクザキイチゲの葉のように、葉が細裂している。すぐ先で、中央部は赤紫がかった白い花をつけたエイザンスミレをみることとなった。見る箇所によって花の向きと開き具合が異なり、見つけるごとにカメラのシャッターを押した。黄色のミヤマキケマンが並んでいる。

 ysdさんがカタクリの葉を見つけた。花も付けて点在している。スギやホウノキや落葉広葉樹の枯れ落ち葉の間から楚々とした花をつけて下を向いている。北側に向いた急峻な斜面に、何輪ものカタクリが花を咲かせている。カタクリは花をつけるのに7年くらいかかるとどこかで聞いたことがある。アリが広げるとも耳にした。滑り落ちるように広がるのだろうか。三毳山などのように保護栽培しているのとは一味も二味も違う野性味を残した自生地だ。

「タツミチ」とガイドブックが記している地点に着く。北の「猪狩山・古池」からのルートとの合流点。歩き始めてから2時間弱。ほぼコースタイムだ。木々の間から北西方面に両神山が独特の山容をみせている。お、ルートの右上斜面にカタクリが花をつけている。撮って! と言っているようだ。なだらかにつづく細い稜線部を辿る。木の根が張り出し、岩がごつごつと剥き出しになって長年削られて残った傷跡のようにみえる。

 山頂の手前で「御嶽山登山コース」と標題した「秩父市」の地図付きの掲示がビニールに包まれて木に貼り付けてあった。それをみると「……普寛トンネルから落合登山口までは林道を歩いてください」と書いてある。今日のコースを通るなということだ。地図には落合への庵野沢沿いコースの下山口と登り口の入口付近に赤く×印がつけられ、沢の中ほどに○印をつけて、「大規模な山崩れが発生したことから落合コースは閉鎖となっています。危険ですので絶対に立ち入らないでください」と書いてある。これは、参ったなあ。林道のコースを歩くと2時間ほどかかる。今日の約4時間ほどのコースが5時間余のコースになる。ま、下山口へ行って様子をみてからにしようかと、とりあえず山頂へ向かう。このところいくつかの山で、2019年秋の台風19号による被害で崩れて通れないという「警告表示」を目にしてきた。たしかに崩れていたが、すでに2年を経過して通過する人は多く、踏み跡がついていた。慎重に通れば、通過できないワケではない。だが、立ち木も流され、つかむところがないとなると行き止まりになる。そう思ったから、少しばかりのザイルを用意してきた。近づいてから考えよう。

 山頂に着く。不動明王の祠の先に狛犬が鎮座し、その奥に「御嶽山開闢・普寛霊神」の御社が置かれている。「あら、狼じゃないんですね」とysdさん。三峰神社のコマイヌが狼なのを思い出したのだろう。「木曾御嶽山の弟分」というのが頭に浮かんだ。11時47分。出発してから2時間半。お昼にする。北西方面は両神山から左へつづく奥秩父の山並みがよく見える。右の遠方には浅間山と思しき山容が雪を部分的に残して高い。そのずうっと右の遠方には苗場や谷川連峰と思われる雪をかぶった山々が後背を埋める。ぽっかり浮かんだ雲が、春の穏やかな気候を象徴するようだ。

 12時10分、出発する。いきなり急峻な下り。ロープが張ってあり、途中からクサリに変わる。10分ほどでワラビ平。ここから急斜面を下るジグザグのルートに入る。「落合に至る→」の標識が倒れているのが、「落合コース閉鎖」を思い出させて不気味であった。急斜面の崖とミツバツツジといろいろなトーンの緑が映える下りは、なかなか味わい深かった。20分ほどで林道に出る。林道は普寛トンネルに通じている。林道に入る手前に沢の方へ下る踏み跡がしっかりとついている。「通過禁止」という「警告表示」もない。踏み跡のたしかさに導かれて、庵野沢沿いのコースをたどることにする。いざとなれば、ザイルを出してよじ登るとか降るとかすれば、何とかなるだろう。急峻なルートをさっと選び取るysdさんの力量からすれば、心配はない、と考えた。

 最初に見て驚いたのは、沢に掛けられた何本ものスチールの橋。手すりも添えて、右岸から左岸へ、左岸から右岸へと渡るように設えられている。まだ新しい。長い階段もある。これが修復後だとすると、山頂手前の「警告表示」は、もう取り払ってもいいんじゃないか。たぶん、この修復工事が終了した段階で、沢入口の「警告表示」は取り払ったが、山頂のそれまでは気が回らなかったのであろう。やはり現地まで足を運んでみるべきだ。だが、と違う考えも頭をもたげた。もしこれらの橋や階段がなかったら、このルートの下山は、いろいろと手間取ることになったかな。ラッキーであった。

 下山途中の中ほどで、登ってくる若い学生らしき単独行者に出逢った。今日初めての登山者だ。彼は「上へ抜けられるか」と訊ねる。もちろん、もちろん。気を付けてと見送る。でも、午後1時に近い。これから私たちのルートを逆にたどるとすると、5時ころ下山になる。

 ここにもエイザンスミレがあった。ニリンソウもある。ヒトリシズカが何輪も群れを成している。ヒトリシズカがニギヤカだなと思う。ギボウシの仲間らしい葉っぱが、岩から突き出ている。ysdさんがイワタバコの葉がたくさんあるを見つけた。初々しい緑色がみずみずしい。ヤマブキが岩からしだれ掛かるように花を吊り下げている。

 ロープを辿り岩を巻き右へ左へ沢を渡り、渡り返して下って行くのは、なかなか変化に富んで面白い。疲れを感じるより先に下山口に着いてしまった。13時45分。歩き始めてから4時間35分。お昼の時間を除くと4時間10分ほどの行程であった。

 下山地の普寛神社の脇に車を置いておいた。朝ここに車をおいて自転車で出発地の三峰口駅へ行った。こちらの方が標高差で30mほど高いから楽だろうと読んだ。若干の上り下りはあったが、おおむね平坦な走行の行程。トラックがやや怖かったかな。ysdさんを三峰口駅に送り、自転車を積み込んで帰宅した。ysdさんがいてくれたおかげで、上々のお花見山行になった。

2021年4月7日水曜日

再三延期ゴールに到着できるか

 昨日(4/6)、高校の同窓会の再々延期の「お知らせ」が届いた。

 当初は2020年5月に設定されていた。喜寿記念と銘打っていたが、数えで77歳ではなく、満年齢で77歳。高校3年時から60年記念。数えでいうと、卒後還暦ということになる。でもそれは、コロナウィルスの襲来であえなく半年延期。しかしそれも、あちらこちらの緊急事態発生もあって、2021年5月に再々延期となっていた。それをさらに、2022年5月に再三延期しますという「お知らせ」。

 つまり、数えで80歳の傘寿記念の「同窓会」ということになる。

 ま、延期は致し方ないし、すでに去年の開催に向けて、参加者から参加費用も集めてしまっている。しかも、60年ぶりの「同窓会」というが、正確には同窓の「同期会」であった。本当に(男のだが)平均寿命までよくぞ生き延びてきましたという記念となる。

 いやそこまで生きているかどうかわからないよ、という方はいなかったのであろうか。それとも、この年まで寿命が続いた事を考えると、そこまで生きているかどうかは、どっちでもいいよ。もし死んでいたら、皆さんにお別れのメッセージくらい読み上げてもらって、彼岸に渡ったお披露目でもしてもらえれば十分です、という気分にもなるか。

「お知らせ」には「高齢者を対象にしたワクチン接種に、開催への希望を繋げています」と書いてあった。ふむふむそうか。ワクチンがあるか、といったんは思った。

 ところが、すぐ脇のTV番組では、ワクチンの効き目はせいぜい半年とか、変異株のウィルスとなると、ワクチンが利かないかもしれないなどといっている。さらに加えて、ワクチン接種をしたら、用心しなくても感染しないわけではない。社会的免疫ができるとなると、さて、いつまでかかるかわからないとコメンテータがしゃべっている。

 おいおい、大丈夫かよ。

 でもまあ、八十まで生きることが出来たんだから、細かいことはどっちでもいい。世話役を買って出ている「事務局」の方や、「現地幹事役」を引き受けている何十名かの方々のご苦労に感謝して、ぜひとも実施しようという意気込みに敬意を表している。

 なんとかこちらも、来年までは元気でお会いできるように頑張ってみようか。そんな気分になっている。

2021年4月6日火曜日

十年目で自然に戻った山の会

 去年、こんな記事、「高齢者の山の会、8年」をアップしている。まずそれをお読みいただこう。


                                  高齢者の山の会、8年


 私の主宰する山の会が満8年を終え、9年目に突入した。新型コロナの外出禁止の呼びかけはあるが、公共交通機関を使わず登山口までのアプローチを行って、上って帰ってくるのなら構わないだろうと、3月も2回実施。4月も2回予定している。会員企画のお花見山行1回は公共交通機関を使わないわけにはいかなくて中止にしたが。元気に野外活動を行うのは、健康維持のための散歩と同じってわけだ。

 8年間を総覧してみると、勢いの盛衰がわかる。8年前までやってきたNHKカルチャーセンターの山行企画が終わるときに「何とか継続できないか」という声にこたえて発足したのが、この山の会であった。十数人という小人数限定で始めたときには最高齢者が71歳、一番若い人はまだ50代の後半であった。その後若干の入れ替わりはあったが、おおむねそのまま年を経て、皆さん8つ年を取った。今、最高齢者は80歳、一番若い人は62歳か。平均すると古稀は十分超えている。高齢者の山の会と呼んでも構わないであろう。

 勢いの動きは、齢を取ることと矛盾するように見えるかもしれない。2012年4月から2016年3月までは、年度当初に私が企画する半年分の月1回山行プランに、参加できる人は参加するというふうにして、実施してきた。ほとんどお天気にかまわず実施していたから、歩き始めから下山するまで雨が降るずぶぬれの平標登山だったこともある。私は「雨男」の異名をもらうことになったが、山ってそういうものよ、と構わず続けてきた。

 だが、実施回数は同じでも宿泊山行が入るようになり、山中日数は毎年増えていった。歩きながらもっぱら山の話をする。山への意欲はなかなかのものがあると感じた。徐々に歩行時間が長いものから、足場に注意を要するものなどを組み込んでいくようになった。冬も同じように実施するから、軽アイゼンをつかったりスノーシューを用いる雪山山行も入れて、山の面白さを味わってもらうようにしていった。

 高齢の同行者の一人は、鉄人レースなどにも参加するアスリート。若いころにはある種目でナショナルフラッグを背負って活躍した人であったから、身体の作り方については、いわば専門家であった。歩きながら、体幹の作り方やトレーニングの方法についても言葉が交わされるようになり、次第に月1の山行では鍛錬にならないと思う人も出てくるようになった。自主トレもはじまったようであった。

 他方で、私の企画する山行を厳しいと感じる人も出てくるようになって、やはり歩きながら言葉が交わされる。私は、講中が自分で企画してそこへ皆さんで行く「日和見山歩」を提案し、月ごとの担当者を決め、私の山行企画とは別に実施することにした。その結果、2016年の4月から、この山の会の山行は月2回になった。年間の山行回数も(8月は日和見山歩の計画はいれなかったから)ほぼ倍増した。

 これが良かったのは、講中の意欲にあった山行を立案できることであった。山への意欲を燃やしていた人たちにとっては、ますます行きたい山へ行けるようになる。そこまでのめり込めない方には、そこそこの山行に参加できる。私の企画する山行計画でも、苗場山、箱根外輪山縦走、鳥海山、浅草岳・守門岳など、宿泊を伴うものが増えた。岩場の編笠山や乾徳山も歩いた。

 と同時に、こんなこともあった。冬の御正体山に行ったとき、駅で脚を傷めていたRさんが(出発前の予定通りに)お昼を取った中途で下山することにしたとき、同行の二人を除いて皆さんが(寒いから)下山すると言いだし、帰途に就いた。むろん下山地点の車の中で、残りの私たちが登頂して戻ってくるまで待っていたのであるが、この時のサブリーダー役を務めていたkzさんは「隊を分散する山歩きは危険だ」と後に私を強く批判して、言葉を交わした。たしかに、そう言われても仕方のない一面はあった。だが、なにより、この山の会がそういう二層の講中によってかたちづくられていることが、このモンダイを引き起こしていると私は考えた。ただ一概にそう言えないのは、「日和見山歩」のなかにも雪の三つ峠山の企画が入るなど、結構厳しいものがあったから、くっきりと二層に分かれているわけではないのだ。

 だからそれが現実なら、二層は二層のままに山の会はやっていくしかない。そう考えた。2018年度の私の計画では、さらに宿泊を伴う山行が増えたばかりか、「日和見山歩」のなかに甲斐駒ヶ岳と仙丈岳を2泊3日でのぼる企画が入った。

 それと逆の事象も起こってきた。2017年度までに「中止」になった山行は、台風接近による1回であった。だが、2018年度の「中止」は6件。私の企画が3件だが、「雨」と「台風接近」の外に「私の体調不良」で取りやめたものがあった。また「日和見山歩」の中止にも「参加者なし」というのが、出来するようになった。古稀を過ぎて腰に不安が生じたり、お孫さんの世話が忙しなくなったり、ご家族に不都合が生じたりするようになった。これも高齢化による不都合といえるかもしれない。

 じつは2018年の秋、心臓に不具合が生じていると言われて、私は救急治療室でカテーテル検査を受けたことがあった。結果は何もなかったのだが、以来、週1回の単独山行には「十分注意してね」とカミサンのことばに送出されるようになった。76歳、ぼちぼち何があっても不思議ではない年齢になったということであろう。

 これまでいつも心強いサポート役であった鉄人・Khさんの体調に不都合が生じ、よほど用心しなければ山を歩けなくなったことは、青天の霹靂であった。冬の奥日光の雪山には毎年つきあってくれているが、講中の体調管理に関していろいろとサポートしてくれていただけに、多くの講中にとって自己管理して行かねばならない局面に立たされたと言える。逆に、長いデスクワークから解放されて山歩きに取りかかったRさんが日に日に強くなり、5年かけて身体をつくって来たことが支えになってきた。山に関してはむしろ先達である奥さまのkwmさんとともに、私の山に同行してくれる。週1回のトレーニング山行も、欠かさないようにしていた。

 そうして2019年度の山からは、私が行こうと考えているトレーニング山行のコース案をkw夫妻に提示する。彼らがその企画の中から選んで、実施時期を設定して私に送り返してくる。それに詳細のアクセスと行程を書き込んで、「山歩講1年間計画」を山の会の皆さんに提案するというようにした。あわせて、日程を緩やかにしたり、コースを変更したりして、最終の山行計画を決め、実施するようにしたから、月1回ではなく「日和見山歩」を除いて、月2回くらい。2020年度は12月までの9カ月間に24回の山行という月3回。「日和見山歩」を加えると週1回はどこかの山に入っている格好になった。

 また山行に参加を希望する人たちで(天気予報も参照しながら)相談して日程を動かすようにもした。2019年度も「中止」するより、ほかの山に登ろうと行き先を変更したこともあった。そういう自在な組み方ができるようになって、身体的な不安は、行動の仕方によってうまく調整されていくように思える。

 さあ、2020年度の山行は、はたしてどうなるか。新型コロナへの対応も加わって、「外出禁止」となるのか、野外で、かつ公共交通機関を使わないならば、健康維持のためにも推奨すべきことではないのか。感染してしまえば、重症化しても面倒は見てもらえそうにない70歳以上の高齢者のこと。放っておいて、といえばいいのかどうか。笑いながら、こうした事態に向き合っている毎日です。(2020-4-5)

                                          ***

  去年の記事を読み、そうか、十年目突入なのかと改めて思った。この一年間も、しかし、計画通りにはいかなかった。コロナウィルス禍の山歩きということで、それまでと違った山行形態をとることが多くなった。車によるアプローチとテント泊である。

 kw夫妻が車でアプローチするようになり、電車やバスの方々にも、それによるアプローチを案内して、現地で合流するようにした。当然のように、kw夫妻と私という車アプローチ組だけの山行が多くなり、それはそれでキャンプ遊びの面白さというのを味わうきっかけになった。

 テント泊は、しかし、意外な発見でもあった。山歩きのベースというよりもキャンプ遊びだけのためにやって来ている人たちが多いことが、わかった。コロナウィルスのせいで、「3密」を避ける野外活動の「ソロキャンプ」が流行していたのだ。そのような人たちは寒い時期になっても、暖房設備をテントに持ち込んでくるなどして、豪勢なテント場は、予約でいっぱいになるほどの盛況であった。テント初心組のkw夫妻は、寒くなってきた11月を最後にテント泊をやめ、日帰りだけになった。加えて、基礎体力の差なのか、長年の経験の違いなのかわからないが、私とは登るペースが異なり、疲れが抜けず徐々にたまる年齢ということもあって、私とは行を共にすることも、ほぼなくなった。あるいは(私の想定だが)、kw夫妻はもうガイド的な同行者を必要としない山歩きができる段階に入ったのかもしれない。自分たちで自分たちの思うままに山を歩くというのは、ある意味、究極の山の愉しみでもあるのだから。

 加えて、正月からコロナウィルスにともなう緊急事態宣言は発せられた。「都県外への越境自粛」の呼びかけが首都圏では出されて、登る山も限定されるようになった。冬場の山小屋が閉鎖ということもあり、日帰りの県内山行、つまり「足慣らし山行」という名のハイキングばかりに出かけた。ときどき、何人かの人たちが加わってくれたので、私の単独行というのばかりではなかったが、おおむね、私にとっては仕事を引退した後の「週1山行」に戻った。ま、自然に戻ったのだ。

 ただ、ハイキングのような、私一人で歩くことのできるコースである。いずれ、山の会の人たちにも(てんで勝手に)足を運んでもらえるように、アプローチと山行記録とを「紹介」する記事を、山の会の皆さんに送信してきている。

 私自身の裡側でちょっと違った関心が湧いていることもある。その経緯について詳しくは、また別の機会に記すこともあろう。自然に戻ったうえに「県外への越境自粛」が解かれたのなら、今のうちに歩ける山へ行っておこうかという気持ちが、むくむくと頭を持ち上げてきている。もちあがる頭に反するように、「蔓延防止措置」が5月5日まで実施される地域も指定され、そこでは「越境自粛」が呼び掛けられている。それにいずれ東京都も後を追うであろうと、もやもやとした気配が漂っている。見通しがわからない。

 いつも記すように、「山行計画」を立てるときから、すでに山には登り始めている。これまで行っていなかった山を経めぐる旅に出ようか。しかしそれも、どれほど体が持つか。連続して何日も歩くと、へばってしまうんじゃないか。そんな心配をしながら、登りたい山をピックアップして、回るコースを考えている。当然、花の季節を狙うということもある。大型連休を避けるのも必須のこと。梅雨もいただけない。となると、時期が限定される。ま、そんなことを考えながら、十年目の山の会が始まったわけだ。

2021年4月5日月曜日

どう生きるかという哲学的思索

 「ハフポスト日本版 2021/04/04 」号に面白い記事を見つけた。《地方から京都大学へ。その時まで、僕は「教育の地域間格差」の本当の根深さを知らなかったのだ》という長い見出し。ライターは「編集・湊彬子」。本文記事中の「僕(28歳)」の名前は出ていない。

 青森県の「ありふれた地方都市」で生まれ育った「僕」。当地の大人たちが口を揃えるありきたりの「人生すごろく」に気がめいっていたときに「東北を出るなら東大か京大かな」「東大か京大へ行くなら、人生何をやってもいいよ」と親に言われて奮起し、京大にすすんだ。

「ここからはシナリオのない宇宙旅行だ、全部ガチャガチャにしてやろう、と僕は意気込んだ。……(が、気付いたことは)周囲との大きなギャップだった。……多くの人にとってシナリオの通過点だったこと」。

 つまり「僕」が(地方都市)青森で感じた「人生すごろく」は(都会育ちの)人たちにとってはすでに常識のように浸透していた、これじゃあどこにも「シナリオのない宇宙旅行」に出かける冒険的人生の出口がないじゃんと気付いた、というお話しか。

 というと、そうでもない。

 その前に、「僕」のみていた「人生すごろく」と、大学で見かけることになった(都会育ち)京大生たちの歩んでいる「根本的なライフコース」とは「解像度が違う」ことに目を止める。

 この「根本的なライフコース」に関する「解像度の違い」とは、視界の広さ、視程の深さ。それが学校教育によってだけでなく、身を置いて来た社会の文化的な豊潤さによって異なっていると気づき、教育格差ということを語るときに、そこまで解像度の違いを見極めているかとして、次のようにいう。


《日々生きている環境から、人は「自分の選択肢の可能性」を受け取っていく。周りの大人たちが歩んでいるライフコースやライフスタイル、耳に入ってくる周りの人の雑談、街から受け取るインスピレーション…。例えば、小学校の友人の転校先だって「選択肢を示唆するもの」になる。日常に転がる瑣末な情報の集まりが、僕らの意識や解像度を構成していく。/そして、最も重要なこととして、「自分がどんな日常から作られているか」について、客観的に省みることはとても難しい。僕たちは意識するよりも前に僕たちになってしまっている。》


 ライターの「編集・湊彬子」が、何をどこまで想定して視界に収め視程に入れようとしているかわからないが、「解像度の違い」とは生きることへの哲学的な要素を含む視線がどれほど身に備わるように継承され体現されているかということである。逆にいうと、「ライフスタイル」だけに目を止めると、哲学的な要素は抜け落ちて、ノウハウ的な伝承だけになる。だから「根本的なライススタイル」と名づけて、「どう生きるか」と思索する次元をかえていく道筋をつけているかどうか。そういう文化的な気風を社会的に醸し出す力を、私たち大人は子どもたちに受け渡してきたかと問うていると思った。

 しかも、《僕たちは意識するよりも前に僕たちになってしまっている》。

 大人が意識して「どう教育するか」という以前に、大人も子どもも共に身を置いている日常性に、どれほど「どう生きるかを思索する次元」が盛り込まれているかがモンダイと投げかけている。「教育」という意識的行為ではなく、「育つ/育てる」営み自体が自然に行われている日常の生活家庭や社会に、哲学的な視線を組み込んで行かなくてはならないのではないかと、問題提起しているように私は読み取った。

 振り返ってみれば、国会審議の埒もない空疎な「ことば」のやりとり。それを良しとする「エリートたち」の振る舞い。政治家ってしょうがねえなあと慨嘆する大人たち。腐っても鯛としがみつく役人たち。憤懣をぶちまける方途を見失ってヘイトクライムに興じる若者たち。ワシャ知らんもんねと趣味に没頭する私たち年寄り。その実態を報道する種々のメディア。それらが、何もかも、皆、若い人たちの「人生すごろく」を素っ気ないものにし、どう「すごろく」の階段を這いあがるかというノウハウばかりに満たされて、何だか面白くねえなあと、気を腐らせている。若い人の自殺が増えているというのも、じつは、ひとりひとりが哲学的に「どう生きるかを思索する」ことへ足を届かせていないことによるのではないか。

 もしそこに踏み込む伝手をもつことが出来れば、たとえ世の中に絶望するほどニヒルになっても、ひょっとすると「超人」として永遠回帰を持ち応える根柢に足場を見つけることが出来るのではないか。そんなことを思わせる「記事」であった。

2021年4月4日日曜日

「かんけい」の気色(3)薄い文化の着物

 この話題から、しばらく離れていました。さて本題に戻しましょう。

 この3月で退職する若い方の話しで気が付いたことは、時間と空間が移動速度によって変わるのが、ヒトのモノゴトの認識に深くかかわっているということ。つまり、早く移動するときに(移動主体の認識が)捨象するというか、抽象されてしまう空間の諸々のものに、気を止めてみると、ヒトビトがそれぞれ抱懐している「空間」と「時間」との相関的総合である「せかい」認識は、ずいぶんとズレたりかけ離れたりしてしまうに違いない。ことに、近代化して「移動速度」が速くなると、人びとはそれぞれ、違った世界をみていることになります。

 とすると、それらを総合して謂うところの、「科学的」とか「客観的」という「世界」とは何であろうか。逆にいうと、そういう違いがあるにもかかわらず、その違いを意に介さずに「せかい」について語り合っている人たちの、なんと無神経なことよと、我が越し方を振り返って、臍を噛む思いをしている。しかも実は、違った「せかい」をみせているのは、移動速度だけではない。視力の違いがある。マサイ族の視力は「5・0」とどこかで聞いたことがある。私たちは「1・5」を「ふつう」として、それ以下の視力で世界をみている。だが、「5・0」となると、8倍の双眼鏡でみているようなものなのだろうか。むろん動体視力も関係するであろう。

 その、視力の極めていい人たちがとらえている「せかい」を、現代社会に置き換えて言えば、いわば、「専門家の眼力」である。「オタクの目」といってもいい。あることに集中して心を傾けていると、その世界のことが「飛び込んでくるようになる」と言われる。野草に詳しい人たちは山道を歩いていて、こともなげに野草を見つける。鳥観の達者は、生い茂る樹木の葉蔭にいる鳥を、裸眼で探し、双眼鏡で確かめる。「どこどこ?」と、達者の双眼鏡が向いている方を傍らの私などが探しても、見つからない。

「達者の人たちがみているせかい」を、私たちも見ているように思うのは、「その人たち」を介在させて「みているせかい」なのだ。そこに「その人たち」に対する「信頼」が差し挟まれている。つまり私たちはその「信頼」の根拠が奈辺にあるのか(と自分の内心に問うて、そこ)に思いを致してはじめて、自分の抱懐する「せかい」に、少しばかりの客観性を付け加えることが出来る。客観的にみているのではない。言葉を換えていえば、「ふつうのひとたちのみているせかい」を(多数派と信じて)感じているにすぎない。「すぎない」とはいうが、もちろん、それはそれで大切なことである。「すぎない」というのは、自分の目で「みているわけではない」、「眼力のある人への信頼を介在させてみている」のだということ、もっと言葉を換えていえば、自分自身の視力ではみえないと知ることである。

 トランプがアメリカの大統領として登場したとき、旧来の知的ピラミッドの上層部にいた人たちは、「予想外の結果」に驚愕した。だが、庶民からすると、ホンネ剥き出しにして商売に専心する自己中心的な世界的リーダーの登場に「不安」を感じはしたが、既存の権威の表皮をはぎ取ったことが、アメリカの大衆的支持を得たのは、旧来の知的ピラミッドがもはや人間世界の「かんけい」の気色として、「信頼」に値しないとみなされたのだと、みてとった。では、トランプの言動が、旧来の知的ピラミッドに代わる「なにか」であったかというと、とんでもない。彼のホンネではあろうが、私たちの肌合いにはざらざらした感触しか感じられない、いやな代物であった。旧来の社会的市場経済のピラミッドの、旧来的な道徳性の表皮をはぎ取ったエッセンスに過ぎなかった。だから、いわば社会的に鬱屈した不満層の感情を動員し、敵をつくり、憤懣をぶちまけ、ヘイトクライムと暴力の行使を正当化して、わがままに#ミー・ファーストを叫ぶことにしかならなかった。

 トランプ登場に感じた「不安」とは、それまで人類が築いてきた「知的な力」とは、いったい何であったのかと、疑問を感じたことであった。トランプ治世の4年間に「学んだこと」は、彼が引っ掻き回した世界をふくめて、為政者の化けの皮がはがれたことであった。自由社会であれ専制社会であれ、統治が本質的にもっている政治の原的抑圧性であり、それは同時に、社会に不可欠の秩序が必要とするものでもあるということであった。薄皮とは言え、人類史的な「道徳」の表皮がそれなりにはたしている効用であり、それすら取り払ってしまうと、何が「人類史的共有物」と呼べる文化になるのかと、未だに感じているヒトとして纏っている「文化の着物」の正体である。

 ひとつだけ、確かな実感として感じているものが、ある。「文化の着物」の正体の本体は、この身体性である、ということ。それはしかし、「本体」というより「本態」と呼ぶのがふさわしいほど、「かんけい」的であり、移り変わり、しかし、身から身を通して、それが心の習慣をまといつつ受け継がれてきているという「事実」こそ、たしかな実感である。

 いまいちど、そのたしかさの実感から考え直して、人類史的な径庭を振り返ってみてはどうだろうと、トランプ後の世界が向かう先に(はかない)「期待」を寄せながら思っている。

2021年4月3日土曜日

彼岸からの便り

 昨日(4/2)、「郵便が来てるわよ」とカミサンが2通の郵便物をもってきた。表書きを見て驚いた。

 先日(3/7)のこの欄で「いたるところに青山あり、か?」と記した、タイで逝去した私の古い友人の手になる、あて名書きだ。

(いつ投函されたのか?)と思って、日付をみると「27/03/2564 09:25:46」と、分秒まで記載されている。2564というのは、(たぶん)タイの「元号」だろう。日本の「起源2600年」というのと同じと見た。でも、彼が火葬されたと知ったのは3/7。まさしく「彼岸からの便り」。

(どうしたことだろう)と思いつつ、封を解く。記録の意味もあるから、全文を記し置く。


《突然お手紙を差し上げ、驚かれたことと存じます。

 さてこの度、私は。死亡もしくは脳関係の病気などに見舞われ、意思の疎通が不可能となりましたので、この事をご報告いたします。併せて、今迄のご厚誼を厚く感謝申し上げます。

 私の妻は外国人で日本語に疎いですし、タイに住んでおります。従いまして彼女から皆様に斯様な事をお伝えすることが出来ませんので、こういう事態の前に、私が事前に文をしたため、何かあったら郵送するように依頼しておいたものです。なお死亡せず、回復するようなことがあったら、ご連絡させて頂きます。但し、まずそういうことがないと思っておいて頂けると助かります。

 それでは皆様方の今後のご健勝を切にお祈りし、併せて繰り返しになりますが、今迄の御厚誼に深く感謝を申し上げます。

 2010/4/19              * * * 記す。

追伸 振り返って自分の人生、有りすぎる程色々な事がありましたが、「まあまあ」かと思います。そしてこれから永遠に回帰します。》


 2010/4/19 とは何か? 

 思い当たるのは、2020年の4月19日ということ。ちょうど一年前(2020年)に彼は、医者から十二指腸辺りに「異変」があると告げられている。ひとりの医者は「すぐにでも手術をしないと手遅れになる」と言い、セカンド・オピニオンを別の医者に求めたところ「急ぐことではないが、精密検査をしてみましょう」と意見が分かれ、どうしたものだろうと、私とe-mailでのやりとりがつづいていた。そして5/2に検査入院することまでは当方に伝わっていたが、その後音信が途絶え、こちらのメールに返信もなく、ナニカがあって彼は死亡したのだと私は思っていた。

 つまり、医師とのやりとりで何がしかの重篤な病に冒されていると感じた彼が、「遺書」のつもりで私宛の「手紙」をしたため、もし万一何かあったら、「投函するよう」奥さまに依頼していたのもが届けられたと思った。

「追伸」で、「まあまあ」の人生だったとみているのが、(私にとっては)天啓のように聞こえる。彼がどのような出自で、何に思い悩んでいたのかを、じつは私はほとんど知らない。家族関係に関して、ひどく重い鬱屈を抱えているとは感じていたが、踏み込んで聞いてみようと思ったことがなかったからだ。そこはかとなく知っていることと言えば、彼の仕事中のことやリタイヤしてからの、年に1,2回会うかどうかに口にした話くらい。どのようにしてタイの方と知り合い、結婚し、向こうに住むようになったかも、日本に来たときに奥さまに会って、紹介されたことがあった程度。深く踏み込んで詮索したわけではないから、「知っている」とさえ言えないように感じてはいた。薄情なのかな、私って。

 先月の24日に、この古い友人*の(兄嫁に当たるのであろう)「義姉」さんから、「*が3月3日に膵臓癌で亡くなったこと」を知らせる手紙が届いた。(遺品のなかに)私からの郵便物があり、奥さまが日本語を書くことが出来ないので、代わって知らせることとなったと断り書きがあった。すぐに私は「お悔みとお知らせを感謝する」返信を書き、昨年来の「憶測」と今年に入ってから、*と共通の友人y105とのやりとり、その後の国際郵便でのいきさつを記して送った。その義姉さんからの「お礼状」が、上記の*からの国際郵便とともに着いた、もう一通の郵便物であった。これも、*がわだかまっていたのとは異なる「家族」との関係を思わせる上質さが伺われるので、紹介しておく。


《芽吹きの季節を迎えました。この度は、心暖まるお返事を頂戴いたしまして、ありがとうございました。/*さんは日本への帰国をとても楽しみにしていましたが、素敵なお友達との再会をなさっていたのですね。/心を開いて、母国語で語り合い、飲んだ日本酒はどんなに美味しかったことでしょう。/お世話になりました。/40数年来のお友達にめぐり会えた裕さんは本当に幸せ者です。重ね重ね御礼申し上げます。/y105様にお目にかかりました際には、どうぞよろしくお伝えいただきたくお願い申し上げます。/コロナ禍にあって不安な日々が続いております。あなた様の御健康をお祈り致しております。/感謝のうちに かしこ》


 毎年帰国したときに会って話をしたとき、*は、父とも母とも「和解」することが出来たこと、お二人の葬儀に立ち会うことが出来たことを話していて、最後に話したときに(それが)「良かった」と思いを込めて漏らしたのが印象的であった。

 その「良かった」思いと、義姉さんのお便りと*自身の「遺書」にある「まあまあ」の人生という感懐とが、人の行きつく自然の到達点のように(私の胸中に)響いている。まさしく「彼岸からの便り」である。

2021年4月2日金曜日

コロナ禍2年の3月を振り返る

 一年の第一四半期が終わった。コロナ、コロナで過ぎて行ったようだったが、それでも3月下旬は県境の越境自粛が解かれ、県外の山へも足を運んだ。

 週1回の山行はしっかり行われて、県内3回、県外2回。奥日光以外は、いずれも(忘れた昔のことを除き)はじめて歩いたルート。そのうち4回は単独行となり、やさしいハイキングルートばかり。そろそろそういうコース選びに傾いているのかもしれない。

 毎日の平地歩きは、相変わらず続いている。今月の歩行総距離は338km、ほぼ11km/日。1月からの歩行総距離が957kmとなった。わが家から高速道を使って走ると四国の山奥にある梼原町のカミサンの実家まで約900km。そこに到達して、さらに宇和島まで抜けてしまったことになる。東海道から中国道を抜けて西へ進むと、山口駅までが954kmであるから、そこまで行ったわけだ。コツコツ歩くマンネリというのも、たいしたものだと思う。歩行が1キロに満たない日が5日ある。家にこもって本を読んでいたか、パソコンに向かっていたか。雨がざあざあ降っていたのかもしれない。週に1日は歩かない日があったというわけだ。

 秋ヶ瀬公園や見沼田んぼのお花見は存分に楽しんだ。

 一昨日と昨日も、思わぬ子ども二人の来客があり、「お花見」をして歩いた。今年高校生になる一人は、1年3カ月前にあったときにはばあちゃんの背と同じくらいの高さだったのに、今年はなんと、私よりも高くなっていた。1年と3カ月で13センチも伸びたという。それだけではない。脱いだ靴を見てごらんとカミサンが言う。大きいサイズの運動靴は27センチもある。まだまだこれから伸びるぞと言っているようだった。

 それで思い出したことがあった。7年前に亡くなった私の末弟は、中学3年まで背が伸びず、いつも整列すると一番前であった。それが高校時代にぐいぐいと延びて、175センチになっていた。「なっていた」というのは、当時私は遠く離れて仕事につき、わがコトに懸命であった。滅多に逢わなかったこともあるが、弟の関心を向けることがさほどなかったからだ。そう言えば、母親が「Jはご飯を食べた後に食パンを1斤もペロリよ」と笑っていた。

 同行してきたもう一人、妹は、今年中学生になる。なかなか観察眼が鋭い。人への関心の向け方も面白いものを持っていて、批評的に感じられる。言葉への反応がきらりと光る。「絶滅危惧種」というのにパッと反応して、覗きこんでいる。花よりも葉の形状に関心を傾けているのも、ちょっと変わったところで、傾きの固有性を表しているように感じた。

 そういう同行者がいる「お花見」も面白く、昨日はお弁当をもち、桜の下にシートを敷いてお昼を摂った。

 そうやって振り返ってみると、案外コロナ禍の自粛というのも、ほぼ日常性に転化してきて、心の習慣が出来つつあるように感じる。こうやって年を取り、年に一回程度の邂逅を愉しみ、知り合いとのやりとりは手紙を介して、ゆっくりしたペースで、一度書き記したことを手直しして封入するという具合に、見返しつつ送信する。海外に暮らす友人の逝去も、遅ればせながらの便りで知らされ、涙しながら謝礼の返信を書き、半世紀近い出会いと別れを揺蕩うように思いめぐらす。友人の死というより、私自身の一部が亡くなったという感触に近い。そんな思いを持つのも、年のせいか。

 こうして、わが身はwithコロナ時代へすでに突入している。となると、蔓延防止だワクチンだと騒ぐ状況に振り回されず、行きたい所へ行きたいときに行こうと心する。

 時は春、日は明日。旅衣を着る頃合いになった。いざ、ゆかん。

2021年4月1日木曜日

胸のつかえが降りた

 先日(3/29)、さいたま日赤で「追加検査」を受けた。とのとき、「気になることがありますので、CTを採りましょう」と言われ、それを受けてきた。手続きはスムーズ。指定時間の少し前に検査室窓口に行き、パジャマのような「検査着」に着替えて、CTをとる態勢に入る。

 検温、血圧の測定、造影剤注入のためのセットをして、呼吸の「練習」をする。息を吸って、止めて、はい15秒待って、ハイいいです、という手順。撮影するのはそれだけなのだが、「練習」をふくめて、30分ほどかかった。

 別に痛くもかゆくもない。ただ、「造影剤を注入します」と言われてから、腕が、胸が身体の中央部が、そして隅々がゆっくりと温まってきている感触が、伝わる。血液がだいたい1分間で体中を駆け巡っていると言われることが、文字通り時間として体で感じることができた。

 終わってから注射器を刺した所の血が止まるまで、小さな絆創膏を押さえていて、血が止まったら、着替えて、老化のソファに座って30分待つ。「副反応」と言われる、発熱や嘔吐感、蕁麻疹が出て来ないかをみているのだそうだ。時間が来ると看護士がやってきて、体温と血圧を測る。そしてご苦労さんだった。

 翌日山へ行く予定にしていたから、行っていいかと聞くと、なんの問題もないという返事だ。大袈裟に「追加検査」というからどんなことをするのかと思ったが、なんてことはない。そして順調に翌日、奥多摩の縦走に出かけたことは、ブログにでご報告の通りだ。

 そして今日(4/1)、CT検査の結果を、医師に聞きに行った。これも、前回同様自転車で行き、予約時刻の10分前には医師の診察を受け、「CTご苦労様でした。大丈夫です。心電図がちょっと、気になったので、検査をやってもらったのですが、どこも悪くありません。」と、お墨付きをもらった。「これこれこういう症状が出たら、医者に相談しろという「兆候」とはどんなことですか」と訊いたが、「そういう心配もいりません」「山歩きも大丈夫です」という返事をもらったから、万全のお墨付きだと言える。

 CT検査の日は3000円なにがしだったのが、診察は330円だった。その十倍の実経費が掛かっているわけだろうが、機器を使った検査費用が結構な額になるのだと思った。かかりつけ医への「返信」は病院からクリニックへ直接郵送するとのこと。その辺の仁義は、きちんと切る手筈がシステム化されているように感じた。

 さてそういうわけで、正月以来の「不整脈」の検査は「問題なし」の診断を得て、ひと段落。さあ、あとはコロナをどう近づけずに、山々を経めぐるか。21世紀2合目の4月へと踏み込む際の、胸のつかえが降りた。