2021年4月5日月曜日

どう生きるかという哲学的思索

 「ハフポスト日本版 2021/04/04 」号に面白い記事を見つけた。《地方から京都大学へ。その時まで、僕は「教育の地域間格差」の本当の根深さを知らなかったのだ》という長い見出し。ライターは「編集・湊彬子」。本文記事中の「僕(28歳)」の名前は出ていない。

 青森県の「ありふれた地方都市」で生まれ育った「僕」。当地の大人たちが口を揃えるありきたりの「人生すごろく」に気がめいっていたときに「東北を出るなら東大か京大かな」「東大か京大へ行くなら、人生何をやってもいいよ」と親に言われて奮起し、京大にすすんだ。

「ここからはシナリオのない宇宙旅行だ、全部ガチャガチャにしてやろう、と僕は意気込んだ。……(が、気付いたことは)周囲との大きなギャップだった。……多くの人にとってシナリオの通過点だったこと」。

 つまり「僕」が(地方都市)青森で感じた「人生すごろく」は(都会育ちの)人たちにとってはすでに常識のように浸透していた、これじゃあどこにも「シナリオのない宇宙旅行」に出かける冒険的人生の出口がないじゃんと気付いた、というお話しか。

 というと、そうでもない。

 その前に、「僕」のみていた「人生すごろく」と、大学で見かけることになった(都会育ち)京大生たちの歩んでいる「根本的なライフコース」とは「解像度が違う」ことに目を止める。

 この「根本的なライフコース」に関する「解像度の違い」とは、視界の広さ、視程の深さ。それが学校教育によってだけでなく、身を置いて来た社会の文化的な豊潤さによって異なっていると気づき、教育格差ということを語るときに、そこまで解像度の違いを見極めているかとして、次のようにいう。


《日々生きている環境から、人は「自分の選択肢の可能性」を受け取っていく。周りの大人たちが歩んでいるライフコースやライフスタイル、耳に入ってくる周りの人の雑談、街から受け取るインスピレーション…。例えば、小学校の友人の転校先だって「選択肢を示唆するもの」になる。日常に転がる瑣末な情報の集まりが、僕らの意識や解像度を構成していく。/そして、最も重要なこととして、「自分がどんな日常から作られているか」について、客観的に省みることはとても難しい。僕たちは意識するよりも前に僕たちになってしまっている。》


 ライターの「編集・湊彬子」が、何をどこまで想定して視界に収め視程に入れようとしているかわからないが、「解像度の違い」とは生きることへの哲学的な要素を含む視線がどれほど身に備わるように継承され体現されているかということである。逆にいうと、「ライフスタイル」だけに目を止めると、哲学的な要素は抜け落ちて、ノウハウ的な伝承だけになる。だから「根本的なライススタイル」と名づけて、「どう生きるか」と思索する次元をかえていく道筋をつけているかどうか。そういう文化的な気風を社会的に醸し出す力を、私たち大人は子どもたちに受け渡してきたかと問うていると思った。

 しかも、《僕たちは意識するよりも前に僕たちになってしまっている》。

 大人が意識して「どう教育するか」という以前に、大人も子どもも共に身を置いている日常性に、どれほど「どう生きるかを思索する次元」が盛り込まれているかがモンダイと投げかけている。「教育」という意識的行為ではなく、「育つ/育てる」営み自体が自然に行われている日常の生活家庭や社会に、哲学的な視線を組み込んで行かなくてはならないのではないかと、問題提起しているように私は読み取った。

 振り返ってみれば、国会審議の埒もない空疎な「ことば」のやりとり。それを良しとする「エリートたち」の振る舞い。政治家ってしょうがねえなあと慨嘆する大人たち。腐っても鯛としがみつく役人たち。憤懣をぶちまける方途を見失ってヘイトクライムに興じる若者たち。ワシャ知らんもんねと趣味に没頭する私たち年寄り。その実態を報道する種々のメディア。それらが、何もかも、皆、若い人たちの「人生すごろく」を素っ気ないものにし、どう「すごろく」の階段を這いあがるかというノウハウばかりに満たされて、何だか面白くねえなあと、気を腐らせている。若い人の自殺が増えているというのも、じつは、ひとりひとりが哲学的に「どう生きるかを思索する」ことへ足を届かせていないことによるのではないか。

 もしそこに踏み込む伝手をもつことが出来れば、たとえ世の中に絶望するほどニヒルになっても、ひょっとすると「超人」として永遠回帰を持ち応える根柢に足場を見つけることが出来るのではないか。そんなことを思わせる「記事」であった。

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