今朝方見た夢のなかに、末弟と長兄が現れた。いずれも7年前に亡くなっている。その末弟の命日が今日だ、と気付いたのは目が覚めてから。おいおい、忘れるなよと呼びかけているようであった。
見た夢はたわいもないもの。末弟の出版社に知り合いの女の子を紹介するために私は、出版事務所にいる(はず)。知り合いの女の子というのが誰なのかしかとはわからないが、その「人の感触」はよくわかっている。女の子がやって来るが、出版社の人が誰もいない。彼女は、事務所のナニカが中途半端なのに気づいて、一つひとつ片付けている。そのナニカがなんであるか(私には)わからないが、いま思うと、ガス台の火がついたままであるとか、パソコンがonになったままだとか、始末がきちんとしていないというようなコトだとは(私にも)分かっている。
と、事務所の女性が入ってきて「あんた誰や、何しとんの」と(なぜか大阪弁で)声を上げる。女の子はなぜ起こられるか、どう応えていいかわからない気配で佇んでいる。と、なぜかそこに居合わせた長兄が「まあまあ、大事なことをしているんだから、叱らないでやってください」と、とりなしている。末弟は、川遊びの師匠の写真を背景において書棚のところで黙って笑っている。あ、これはこの出版社のホームページに載せた写真だ(と同時に)、これって遺影にしたんじゃなかったかと思っていて、夢だと気づいたという次第。
何ともヘンな夢だ。が、出来事の場面の「始末が中途半端」という(ユメの)由来とか、長兄のとりなし様の人柄とか、末弟の登場するホームページ兼遺影写真とかは、リアリティそのものであった。ああ、夢枕に立ったんだと思って時計を見ると、朝の4時59分。あと1分で(山に行くときには)目覚ましが鳴る時刻。そして、今日が命日ですよと、気持ちのどこかにぽかりと思いが浮かびあがってきた。
そう言えば、いつのことだったか忘れてしまったが、そんなにまえのことではない。同じ年に亡くなった末弟と老母と長兄とが3人出会って、談笑している姿を夢に見たこともある。そうか、彼岸で再開してそうしていてほしいという単純な私の願望が夢になったものかと(そのときは)思って、すぐに忘れていた。夢を解きほぐして「解釈」しても仕方がない。ただ、「私の願望」とはいうが、そういうかたちで鬼籍に入ってからもわが身に潜んでいて、ときどき(夢枕に)顔を出して想いを交わしている。そんなふうに生きつづけているのだと、別に慰みにしているわけではなく、ヒトの文化の継承の妙を対象化してみている自分を感じている。
もう7年も経つのだ。成仏しているかどうかは別として、ときどきこうやって立ち現れてくださいよ、と思う。私の書斎の祭壇にお線香をあげよう。
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