一年の第一四半期が終わった。コロナ、コロナで過ぎて行ったようだったが、それでも3月下旬は県境の越境自粛が解かれ、県外の山へも足を運んだ。
週1回の山行はしっかり行われて、県内3回、県外2回。奥日光以外は、いずれも(忘れた昔のことを除き)はじめて歩いたルート。そのうち4回は単独行となり、やさしいハイキングルートばかり。そろそろそういうコース選びに傾いているのかもしれない。
毎日の平地歩きは、相変わらず続いている。今月の歩行総距離は338km、ほぼ11km/日。1月からの歩行総距離が957kmとなった。わが家から高速道を使って走ると四国の山奥にある梼原町のカミサンの実家まで約900km。そこに到達して、さらに宇和島まで抜けてしまったことになる。東海道から中国道を抜けて西へ進むと、山口駅までが954kmであるから、そこまで行ったわけだ。コツコツ歩くマンネリというのも、たいしたものだと思う。歩行が1キロに満たない日が5日ある。家にこもって本を読んでいたか、パソコンに向かっていたか。雨がざあざあ降っていたのかもしれない。週に1日は歩かない日があったというわけだ。
秋ヶ瀬公園や見沼田んぼのお花見は存分に楽しんだ。
一昨日と昨日も、思わぬ子ども二人の来客があり、「お花見」をして歩いた。今年高校生になる一人は、1年3カ月前にあったときにはばあちゃんの背と同じくらいの高さだったのに、今年はなんと、私よりも高くなっていた。1年と3カ月で13センチも伸びたという。それだけではない。脱いだ靴を見てごらんとカミサンが言う。大きいサイズの運動靴は27センチもある。まだまだこれから伸びるぞと言っているようだった。
それで思い出したことがあった。7年前に亡くなった私の末弟は、中学3年まで背が伸びず、いつも整列すると一番前であった。それが高校時代にぐいぐいと延びて、175センチになっていた。「なっていた」というのは、当時私は遠く離れて仕事につき、わがコトに懸命であった。滅多に逢わなかったこともあるが、弟の関心を向けることがさほどなかったからだ。そう言えば、母親が「Jはご飯を食べた後に食パンを1斤もペロリよ」と笑っていた。
同行してきたもう一人、妹は、今年中学生になる。なかなか観察眼が鋭い。人への関心の向け方も面白いものを持っていて、批評的に感じられる。言葉への反応がきらりと光る。「絶滅危惧種」というのにパッと反応して、覗きこんでいる。花よりも葉の形状に関心を傾けているのも、ちょっと変わったところで、傾きの固有性を表しているように感じた。
そういう同行者がいる「お花見」も面白く、昨日はお弁当をもち、桜の下にシートを敷いてお昼を摂った。
そうやって振り返ってみると、案外コロナ禍の自粛というのも、ほぼ日常性に転化してきて、心の習慣が出来つつあるように感じる。こうやって年を取り、年に一回程度の邂逅を愉しみ、知り合いとのやりとりは手紙を介して、ゆっくりしたペースで、一度書き記したことを手直しして封入するという具合に、見返しつつ送信する。海外に暮らす友人の逝去も、遅ればせながらの便りで知らされ、涙しながら謝礼の返信を書き、半世紀近い出会いと別れを揺蕩うように思いめぐらす。友人の死というより、私自身の一部が亡くなったという感触に近い。そんな思いを持つのも、年のせいか。
こうして、わが身はwithコロナ時代へすでに突入している。となると、蔓延防止だワクチンだと騒ぐ状況に振り回されず、行きたい所へ行きたいときに行こうと心する。
時は春、日は明日。旅衣を着る頃合いになった。いざ、ゆかん。
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